映画的・絵画的・音楽的

映画を見た後にネタバレOKで映画を、展覧会を見たら絵画を、など様々のことについて気楽に話しましょう。

軽蔑

2011年06月26日 | 邦画(11年)
 『軽蔑』を角川シネマ有楽町で見てきました。

(1)細かなところはほとんど忘れてしまいましたが、かなり昔、中上健次の原作(1992年)を読んだこともあって、映画館に出向きました。

 映画のストリーは大体次のようです。
 新宿歌舞伎町のトップレスバーでポールダンスを踊っている真知子鈴木杏)に入れ込んでいるカズ高良健吾)は、ある事件を引き起こしたことから、真知子を連れて自分の田舎に引きこもります。真知子は、「五分と五分」でなら一緒に生活してもいいと言いますが、カズの田舎に行くと、土地持ちで立派な邸宅に住んでいる両親は、ダンサーとの結婚に反対しますし、カズの遊び仲間も自分を蔑んでいる感じで、居心地の悪さを感じてしまい、東京での前の生活に戻ります。



 その間、カズは、一方で賭博によって多額の借金を負い、他方で再度歌舞伎町に行き真知子を連れ戻してきます。二人は、田舎で正式に結婚をするものの、カズの幼馴染の金貸し・山畑大森南朋)から借金の返済を迫られます。



 これまでのように父親(小林薫)に頼ろうとしたところ、冷たくあしらわれ、また真知子が歌舞伎町で貯めたものを、さらにはカズの祖父のかっての愛人(緑摩子)が自分の持つ店を差し出しても、到底足りるような金額ではないのです。
 切羽詰まったカズは、仲間とともに山畑の事務所を襲いますが、逆にそのことが大変な結果をもたらし、そして、……。

 映画は、現在最も売れている俳優の一人、高良健吾と、クマネズミにはあまり馴染みのない鈴木杏との異色の組合わせがメインとなって展開します。
 高良健吾は、『蛇にピアス』(注1)、『ケンタとジュンとカヨちゃんの国』、『白夜行』などどれをとっても大層印象的な演技を披露しているところ、本作においても、地方の資産家のボンボンで、親から「神の子」(神に祈願してようやく授かった子供)だと言われて育ったカズにピッタリはまっています。



 また鈴木杏も、自分とは合わないと思いつつも男に惹かれてしまうという役を体当たりで演じていて実に魅力的です。



 前半のカズと真知子とがカズの田舎に高飛びするまでは、専ら二人だけの愛の逃避行といった感じですが、それが後半になると、厳しい現実と衝突して最後には悲劇を迎えてしまうわけで、よくある話と言ってしまえばそれまでながら、全体としてマズマズの出来栄えの作品ではと思いました。

 ただ、問題点もないわけではないでしょう。
 物語では、大都市の歓楽街と地方都市との対比が重要な要素と思えるところ、前者はすぐに新宿歌舞伎町と特定できるのに対し、後者は、その地を知らないものにはどこの地方都市なのか全く分からないように制作されています。
 むろん、中上文学を知る者には、和歌山の新宮あたりなのではと推測はつきますが、どうしてそれをすんなり明らかにしないような映像の作りになっているのか、理解しがたい感じもします(注2)。


(熊野川河口付近)

 というのも、このお話が作られた20年ほどの昔にあっては、東京近郊の地方都市ではなく、紀伊半島の奥にある新宮あたりとなると、なかなか簡単には東京から行けそうもなく、そのために地方独特の雰囲気が依然として残っていたのでは、と思えるからなのですが。

 その点は、カズが「神の子」とされ、彼を取り巻く皆が彼をサポートしてしまうところにも、背景として効いてくるのではないでしょうか?関東の地方都市あたりではみかけないような一族に生まれた子供だからこそ、「神の子」と言われても変な感じがせず、一方で儚げですぐにもどこかへ行ってしまいそうな感じながら、他方で周りの者の注目をいつでも浴びてしまうような存在になっているのでは、とも思えます(これには、新宮市の背景に熊野三山が控えていることも、大きく与っているのではないでしょうか)。

 なお、ラスト近くでカズは、真知子の腕の中に傷ついた体を横たえますが、場所は新宮駅前の商店街のようです。



 こうした地方都市の駅前商店街は、今はどこでも同じような作りになっている上に、昼間でも大変閑散としているのではないでしょうか(これは、『書道ガールズ』の舞台となった「四国中央市」でも同様でした)。

(2)中上健次の原作との違いをあげつらうことは何の意味もないとはいえ、違いから映画の持つ意味合いを何か探ることもできるのでは、とも思われます。

イ)原作は、終始真知子の視点に立って書かれているところ、映画は客観的な第3者の立場に立って描かれるのが普通ですから、そうもいきません。
 この映画では、たとえば、カズが元恋人と車の中で関係してしまうシーンには、むろん真知子はいないわけですから、カズの視点というわけでしょうし、父親に向かって土下座して金の融通を頼みこんでいるシーンもそうでしょう。
 他方、真知子が金貸しの山畑にイタリアンレストランで会うシーンとか、土地の銀行員とバス停で会ったりするシーンなどは、真知子の視点と言っていいでしょう。
 これらは、物語の進行上、登場人物の語りで対処することもできるとはいえ、このように描き分けた方が物語が生きてくるものと思われます。

 そして、映画全体としては、カズの方に比重が置かれているように思われます。
 ただ、ラスト近く、一緒に列車に乗って東京に高跳びしようと言いながら、カズは、発車間際になって列車から降りて真知子だけを東京に向かわせます。
 この場合、まずはカズの視点というわけでしょう、走り去る列車の窓を激しく叩く真知子を黙って見送るカズが描かれます。
 その後、カズが傷ついて商店街をふらつきながら歩いていると、戻ってきた真知子がカズを抱きとめます。その際に、もう一度さっきの新宮駅での別れの場面が、真知子の視点に立って描かれる映像―駅に佇むカズを列車内から捉えている映像と、そのカズを見ている真知子の映像―が差し挟まれます。

 これはいったいどういうような意味合いを持つのでしょうか?
 この映画ではここまで、同じ場面を別の視点からとらえ直すことはされていないように思われますから、突然こうした映像が差し挟まれると、観客としては随分と違和感を持ってしまいます。
 それもごく短いカットですから、何のためにこうした映像が必要なのかな、と訝しく思うところです。

ロ)あるいは、突然、傷ついたカズのところに真知子が現れると、それもまた唐突過ぎると観客に思われかねないところから、真知子の映像を差し挟んだのかもしれません。
 こうしたところは、原作とはかなり違った物語の終わり方を映画が行っているために起きたことでしょう。
 原作においては、金貸しの山畑はカズによって殺されはしませんし、カズは自殺したようにも描かれており(毒を盛られたという仲間もいますが)、さらに真知子が以前のように歌舞伎町に戻ってポールダンスをしているところで終わっています。

 一方、映画では、原作と違って随分と陰惨な暴力沙汰が描かれ、結局カズの死に至ってしまい、そこでジ・エンドとなります(注3)。
 こうなるのも、原作が、真知子の視点に立ち、カズと「五分と五分」で生活しようと懸命に生きようとする真知子の姿が主に描かれているのに対して、映画では、カズをむしろ前面に出し、カズと真知子のラブストーリーという面を強調しようとしているからでしょう。

 これでは、中上健次の原作の持つ意味合いが薄れてしまっているのではないかと評する向きもあるでしょう。とはいえ、映画が原作と違ってしまうのは当然であり、むしろエンターテインメントとしての映画という点からは、十分納得できることではないかと思います。

(3)渡まち子氏は、「作品の手触りがあまりに古臭」く、「本作の高良健吾と鈴木杏は大胆なベッドシーンも含めて熱演なのだが、どこか冷めて線が細い現代の若者というムードが漂う。そんな“今”の俳優と、中上作品の世界の情念そのものが、すでにフィットしなくなっているのかもしれない。廣木作品の特徴である、疾走する場面は、破滅へ向かう物語の中、行き場のない純愛に殉じるようで美しく、記憶に残るシーンだった」として50点をつけています。
 また、前田有一氏は、「男と女は対等な関係を保ったまま愛し合えるのか。できる、と信ずる女の純愛を描いた『軽蔑』は、ヒロインを演じる鈴木杏の、初めてのヌードを含めた熱演が見もののドラマである」として55点をつけています。
 これに対して、福本次郎氏は、「刹那的な物語やカメラワーク、音楽の使い方など、映画は70年代を思わせる雰囲気をまとっている。だが、社会に対する問題提起ではなく、カズの資質に収れんさせているところが潔い。結局、カズの生き様は何の教訓も残さない、その純文学的な非生産性が非常に魅力的に映る作品だった」として70点をつけています。


(注1)『蛇にピアス』については、『婚前特急』を取り上げた記事の(2)において触れています。

(注2)原作でも、カズは「田舎に行こう」と言うだけであり、舞台となる都市の特定はされていないので、あるいは映画もそれを尊重したのかもしれません。
 ただ、逆に、劇場用パンフレットのProduction Noteでは、新宮でロケが行われたことが明示されていますし、カズが働く酒屋のライトバンのドアには「熊野酒蔵」のネームが入っていたり、また真知子と土地の銀行員とが会う場所も「浮島」とはっきり書かれた停留所のベンチですから、分かる人には分かるように作られているのでしょう。

(注3)「文藝別冊 中上健次〈増補新版〉路地はどこにでもある」(河出書房新社、2011.5)に掲載されている「廣木隆一監督インタビュー/映画『軽蔑』を語る」の末尾には、監督の談として、「ぼくの中では、ラストシーンはタイトル通りのことなんですけど。世の中の全部、世の中のものごとすべてを軽蔑しようという、真知子の視線で終わりたいという、というのがありました」と記載されているところ、ここまでカズの視点の割合が高いものですから、そんなことをいわれても、という感じです。





★★★☆☆




象のロケット:軽蔑