映画的・絵画的・音楽的

映画を見た後にネタバレOKで映画を、展覧会を見たら絵画を、など様々のことについて気楽に話しましょう。

アジャストメント

2011年06月11日 | 洋画(11年)
 『アジャストメント』をTOHOシネマズ六本木ヒルズで見ました。

(1)映画の原題は「Adjustment Bureau」ですから(原作のタイトルも「Adjustment Team」)、専ら運命の調整を業務とする人たちを描いている作品ではないか、と思われるかもしれません。
 ですが、「運命調整局」に勤める職員をメインとするには、ずいぶんとちゃちな仕事ぶりですし、なにより映画の内容にも余り沿いませんから、邦題を「アジャストメント」にしたのではと思われます。ただそうなると、邦題が何を意味しているのか映画を見ないことにはわからない、という仕儀になってしまいますが。

 実際のところは、「運命調整局」のことはサブとして、マット・デイモンとエミリー・ブラントとのラブ・ストーリーをメインと考えた方がわかりやすく、またそうだとすればまずまずの出来栄えなのかなと思いました。

 マット・デイモンは、このところ、『ヒア アフター』とか『トゥルー・グリット』などでよく見かけ、その生真面目な風貌から好感を持っているのですが、この映画でもその良さがいかんなく発揮されていると思いました。彼が演ずるデヴィット・ノリスは、最年少で下院議員に当選し、今度は上院議員にというところで過去の詰らないことが暴露されて、その快進撃も頓挫してしまいます。



 まさにそういうところに現れたエミリー・ブラントなのですから、マット・デイモンが、『ヒアアフター』の料理教室で出会った女性の場合とは違って(女性が自分の前から消えてしまうと、やはり自分はダメなのだと諦めてしまいます)、「運命調整局」の業務を出し抜いてなんとか彼女と一緒になろうとするのもよくわかります。
 他方、エミリー・ブラントは、『サンシャイン・クリーニング』では大きな失敗をしてしまう妹を演じていましたが、この映画では将来性あるダンサーのエリースを随分と魅力的に演じています(前衛的なモダンダンスをするには今少しという感じが否めないものの)。




 こうした2人の前に立ちはだかるのが「運命調整局」の職員というわけです。



 彼らは、自分たちのトップ“チェアマン”の壮大な意向を実現させるために、彼らが前もって定められているはずの定められた道からそれてしまうと、様々な手段を使って元の道に軌道修正しようとするのです。
 ですが、よく考えてみると、これでは大変おかしなことになってしまうのではないでしょうか?
 というのも、前もって定められていることをもって「運命」というわけですから、映画のように、ちょっと「運命調整局」の職員が居眠りをしてしまうくらいで「運命」が狂ってしまうのでは、とても受け入れ難い感じがしてしまいます。
 それも、マット・デイモンが出向く会社で「運命調整」をせざるを得ず、その時間に彼が会社に到着しないようにする必要があったから、というのですが、こうも「運命」が簡単に狂うようでは、調整しなくてはならない人が大勢出現して、とても調整局の職員ごときの手には負えない事態に陥ってしまうのではないでしょうか?
 というのも、現実の人々は、それぞれが孤立無援状態で独立して動いているわけではなく、相互に何重にも緊密につながりを持っているのであり、一つを調整したら、その歪みは他の人にも必ず及んでしまい、実際にはとても収拾がつかなくなってしまうのでは、と考えられるからです(定まった道からそれた人の軌道を修正するだけで済むはずがありませんから!)。

 ですから、こうした「運命調整局」の話は、彼ら2人のラブスト―リーを盛り上げるための単なる背景であって、それをも組み込んだ全体はよくあるお伽噺(たとえば、美女をわがものにするために様々な試練を克服する王子様のお話―ブリュンヒルデを見出すジークフリートなど)といってみたらどうでしょうか?

(2)この映画の原作は、文庫本(「ハヤカワ文庫SF」)で47ページほどの短い短編であり、かつ雰囲気もまるで違っています。文庫本の短編集を編集した大森望氏は、「小説版にはラブストーリー要素アクション要素も(ついでに“どこでもドア”要素も)皆無なのだ。本篇を読んでから映画を見た人は唖然とするのでは」と書いているほどです(P.456)!

 ちらっとその短編(浅倉久志訳)を覗いてみると、マット・デイモンに相当するのは不動産会社に勤務するエド。すでにルース(エミリー・ブラントに相当?)と結婚しています。エドは、運命調整局の書記の失敗によって、脱力化された区域に入ってしまい調整中の作業を目にしてしまいます。運命調整局の御大は、エドの釈明を聞きいれ、脱力化されるのは免れて帰宅しますが、……。

 この短編を読んでみてちょっと不思議に思うのは、運命調整局の話は、すべてエドが物語っているだけという点です。そして、エドの行動に疑問を持った妻のルースに、「あのいまいましい事件ぜんたいがぼくの心の産物」とまで言うのです。これは、自分たちのことをしゃべったら脱力化するぞと運命調整局の御大から脅かしを受けて、エドが必至になって考えついた言い訳なのかもしれませんが、他方で、もしかしたらエドが語る運命調整局の話は、すべてがエドの妄想と言えるのでは、とも思えてきます(注)。

 となると、この映画においても、少なくとも運命調整局の職員が登場する場面は、未来の出来事ではなくて(未来の出来事にしては、持ち物や服装などが酷く古臭い感じがします)、すべて上院選落選で酷く落込んでしまったマット・デイモンの妄想だった、と考えてみたらどうなるでしょうか?
 さらには、エミリー・ブラントも、彼の妄想の中の人物にすぎない、としてみたらどうでしょうか?なにしろ、マット・デイモンが奈落の底にあるというお誂えの時に、彼女はこともあろうに男子トイレの中から忽然と現れるのですから!
 あるいは、皆同じ格好をしている運命調整局の職員というのは、どこかの精神病院の職員であり、妄想を抱きがちなマット・デイモンの行動をずっと監視している人たちだ、と考えてみたら?

 この映画は、観客の方であまり詰らない“妄想”に耽らずに、そのままロマンティックなラブ・ストーリーとして楽しむべきなのでしょうが、こんな事を考えながら見てみるのも、あるいは面白いかもしれませんよ!


(注)ここらあたりは、粉川哲夫氏の「シネマノート」4月15日掲載のレビューにある「原作では主人公のパラノイアとして描かれる」をヒントにしています。
 なお、当該短編において、運命調整局の御大は、エドを解放する際、ルースにこの一件を「たんなる一過性の心理的発作―現実逃避だと思わせなければいかん」と述べていますから、エドの「ぼくの心の産物」という言い訳は、その御大の言葉に沿ったものと一応は考えられます。
 とはいえ、だからこの言い訳が実際を表してはいない、ということにもならないでしょう。




(3)渡まち子氏は、「物語は「ボーン」シリーズのようなキレのいいアクションとはほど遠いものだ。誰からも支配されない自分自身の“運命”を取り戻す目的も、世界や人類を救うのではなく、あくまでも愛のため。このこじんまりとした物語は、紛れもなく恋愛映画」であり、「映画は最終的に、あきらめずに闘えば道は開けるというまっとうなメッセージへと辿り着く。意外なほど健全で前向きな作品なのだ」として60点を付けています。
 また、福本次郎氏は、「これはコンピューターに頼る現代社会のメタファー」であり、「作品はデヴィッドとエリースの逃避行を擬して、戦わなければ人生すら権力に操作されれかねない恐怖を描き切っていた」として60点を付けています。
 他方、前田有一氏は、「サスペンスとして本作が致命的なミスをしているとすれば」、それは「「調整局」の正体を、登場直後に明かしてしまっている点であ」り、「この瞬間、「人知を超えた能力を持つ組織」から逃げ切って愛を成就させられるか、との重要な(かつ唯一の)スリルが失われた」などとして40点しか付けていません。



★★★☆☆




象のロケット:アジャストメント

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7 コメント

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調整可能? (KGR)
2011-06-11 11:19:08
>それぞれが孤立無援状態で独立して動いているわけではなく(略)収拾がつかなくなってしまう

まさにその通り。
それぞ、バタフライ・エフェクトです。
「フォーガットン」でも設定に無理があると思ったのはそこで、
この映画もそんなに「調整局」の都合のいいように行くかって感はありました。

起こさなくていい事故を起こしけが人も出て、彼らの運命も狂っちゃってますしね。
それ以前に (milou)
2011-06-11 12:21:43
この手の話は好きなので一応楽しく見ました。
もちろんSFがメインではないし、その点でのツッコミを
したいわけではないが一般論として。

この映画の場合、将来大統領になる世界と、ならない世界の
(単純化して言えば2つだけの)パラレル・ワールドがあるわけです。
だから“未来は今”じゃないが時間的には未だ存在しない未来が
空間的には“すでに”存在しているわけです。当然その先も永遠に…

つまり(あるとして)“時間”あるいは“空間”の始まりから終わりまで
すべて創造され存在してしまった時空間の1点が“現在”ということになり、
まさに“神の意志”という宗教的な次元以外では、とうてい容認できませんね。

だから脱線するが理論的・技術的に時間旅行が可能だとしても、
タイム・パラドクス問題以前に、すでに存在した自分の過去へは行けても
“未来”へは行けない。なぜなら未来へ行くという事件も織り込み済みの
未来が、すでに存在するからこそ“Back”to the“Future”は偉大(?)な
わけで、まさに収拾がつかない。

『サマータイムマシン・ブルース』や『ビルとテッドの大冒険』では
楽しくも昨日という近過去に戻り自分が2人存在しますが、当然
明日・明後日…と無限の毎日から昨日(?)の特定の時空間に戻れば
自分が無限数に同時存在するという面白い事態に。
つまり実は過去にも行けないというわけですね。
Unknown (inuneko)
2011-06-11 16:03:21
興味深く、恐ろしい推察です!だがおもしろい!
バランスとかいろいろダメな出来なのに、後からこれほどアレコレ考えさせてくれるって意味では、劇場出た途端スッキリ忘れる平均点の作品より記憶に残っていくのかも^^;
アレコレ考えましょう! (クマネズミ)
2011-06-12 22:44:59
KGRさん、inunekoさん、コメントをありがとうございます。
KGRさんは、「そんなに「調整局」の都合のいいように行くかって感」があり、「起こさなくていい事故を起こしけが人も出て、彼らの運命も狂っ」てしまう、とおっしゃっているところ、彼らの行動が、人の運命を動かす仕事をする割には杜撰すぎるということから、あるいは全部がマット・デイモンの妄想とも考えられるのでは、と思ってみたところです。
その考え方にも問題はあると思いますが、inunekoさんがおっしゃるように、この映画は、何か簡単に割り切れないものがいつまでも残って、「平均点の作品より記憶に残っていくのかも」しれません!
パラレルワールド (クマネズミ)
2011-06-13 06:06:44
milouさん、またまた興味深いお話をありがとうございます。
ただ、クマネズミにはなかなか理解が難しいのですが、milouさんがおっしゃっていることは、この映画のように、「運命」が予め「チェアマン」によって定められていて、それからの逸脱があると「調整局」の職員の手で調整されるという状況設定においては、たとえば、「将来大統領になる世界と、ならない世界のパラレル・ワールド」があることになる、その時空間では、「“時間”あるいは“空間”の始まりから終わりまですべて創造され存在してしま」っている、従って、未来へ向かっての時間旅行はありえない、ということなのでしょうか?

なお、「パラレルワールド」の話は、『ミスターー・ノーバディ』を巡りナドレックさんと議論した際に若干調べたことがありますが、量子力学における波動関数の解についてのある解釈―「コペンハーゲン解釈」と対立する「多世界解釈」―から登場してきたようです。ただ、クマネズミのいい加減な理解では、ある世界に存在する人間が、別のパラレルワールドが同時にいくつも(無限に)存在することもわかって、その中の一つに何らかの装置を使って飛び移れるといったものではなく、あくまでも自分がいるその世界のことしか分からない、ということのようです(ですから、「シュレーディンガーの猫」の問題も解消してしまうようです)。
女は悪魔 (milou)
2011-06-13 15:07:48
『アジャストメント』は一言で要約すれば、出世(得?)を取るか女(損?)を取るか、という
無数にある通俗的なテーマの映画で、当然“真実の愛”を選ぶという恐らく実世界では
決して多くはないであろう“理想的”な恋愛を描く映画です。
原作がどうであれSF的な話は“画面”として楽しむための味付けでしかないでしょう。
だから“収拾がつかない”とか“設定に無理がある”のは当然だがSF的な面でのツッコミを
しても大した意味がないのは十分承知です。

しかし映画から離れての“一般的”な話としてタイムトラベルやタイムスリップの話は好きなので
口を出したわけです。といっても事前どころか事後情報さえも集めず、ただ見るだけの僕に難しい
“学問的”な知識は皆無でコペンハーゲン解釈とかシュレーディンガーの猫とかの言葉も初めて
知りましたが読んでみたいとは思いません(猫は大好きですが)。

でまあ、この映画のSF的な面での雑談に戻れば、なぜか調整局のエージェントたちは“人類”を
理想的な社会に導く、つまり無数にある分岐点で歴史が間違った方向に進めば“調整”してくれる
(いい加減だが)まさに神のような万能の存在であるわけです。確か最後に介入したのは1910年で
その後の歴史が間違った方向に進んでいるのでノリスが大統領になる“正しい”歴史に導くため
再び介入したという100年に1回程度の調整しかしないようですが。

当然“自分がいるその世界のことしか分からない”個人にとってパラレルワールドが無数にあって
も結果的に選択出来るのは1つだけなので歴史(タイムライン)も1つしか存在しないわけです。
だから僕は用意周到に、すでに存在した“自分の過去”と書きました。

さて話を広げますが、H・G・ウェルズの「タイムマシン」が出版されたのは1895年で、
特殊相対性理論より10年も前のことです。だから気づいていたとしてもパラドクスの話には
触れられず、というより社会主義者でもあったウェルズは社会矛盾が解消されている
べき“明るい未来”の80万年後を見たいとタイムマシンで未来に行くわけで“過去”には
行かないし、もちろん不可逆で前にしか進まない1本の“時の矢”を想定しています。

同様に多くのタイムトラベル(スリップ)ものもタイムラインは1つという前提でトラベラーは
決して歴史(未来)を変えてはならないという原則を死守するために悪人と戦うわけです。
“自分が生まれる前の母親を殺せば自分の誕生もなく母親を殺せない”というパラドクスを解決するためにはパラレルワールドを想定するしかなく、未知の侵入者が母親を殺した時間軸と殺さなかった時間軸に分岐するわけですが、本当は自分のタイムラインは1本だけなので、実は自分の誕生より過去には
戻れないのですが。『イエロー・サブマリン』のWhen I'm Sixty four では正しくも時計が逆転
すれば赤ちゃんに戻っていきます。

実証的なことは分からないが僕が見た映画ではBTTF1(バック・トゥー・ザ・ヒューチャー)で
初めてパラレルワールドが映像化されます。ドクがテロリストに殺される10分前に戻ったとき
マーティは逃げる“自分”を見ます。つまり自分が2人いるわけです。そしてラストで“無事に”
元の“時間”に戻るのですが、父親は本を出版しビフが父の車を磨いているという、明らかに
別の時間軸(パラレルワールド)に戻っていたわけです。多分この映画が公開されたとき、パラレルワールドの存在について論じた人はいないと思うが、僕には衝撃的でした。
BTTF2以降では、まさにパラレルワールドが話の中心で“難解”になり面白さも減少しましたが…

ちなみにタイム“マシン”を映像化するのが困難だからか、映像としてタイムマシンが登場する
映画は意外に少なく、宇宙大作戦の転送装置とか、どちらかといえばタイムスリップ中心です。
時間“旅行”を描けば例の旅行中の時間という浦島太郎的問題が発生するので瞬時に移動しないとまずいからでしょうか…

いずれにしろ、恐らくは正しい僕の考えでは過去でも未来でも異次元でも“すでに存在する”世界にしか行けないのだから、あらかじめ世界が存在したことを認めない限り話は始まらないのですが。
ちなみに再び『イエロ・サブマリン』では壁紙のような“世界”をすべて食べてしまう怪獣(?)が登場します。もちろん自分までも。
簡単なたとえ (mlou)
2011-06-13 19:43:05
新大陸が発見されるまでは地図上にも(先住民以外?)世界の誰にとって新大陸は“存在しない”のが正解だが、もちろん存在しなければ発見できない。
しかし“時間”に関しては現実には過去も未来も“存在しない”ので
話としては成り立つが現実には絶対に到達できないという話。

だからといって言うまでもなく、その手の映画を否定しないどころか好きなんです。

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