2週間前に終わってしまいました東京国立博物館での特別展『写楽』ですが、東洲斎写楽の浮世絵のほとんど大部分を見ることができるというので、かなり盛況だったと思われます。
クマネズミも、このブログで以前写楽を取り上げたことでもあり(一昨年11月18日の「夢と追憶の江戸」展に関する記事をご覧下さい)、会期終了間際ながら見に行ってきました。
とはいえ、写楽の作品(140点、残りは5点)のみならず、参考となるものもあわせて200点以上も浮世絵ばかり見ますと、いい加減うんざりしてきます。
特に、写楽のものは、特徴のある第1期のもの(大首絵)だけで十分ではないか、と思いたくもなります。というのも、第2期以降になるとかなりの作品が全身像となって、あまり写楽の特徴が生きてこないようにも見えるからですが。
それに、どれもこれも役者絵として随分類似していて、余り変化がないのではないかと感じられます。
しかしながら、そんなことはなく変化は見られるのであり、たとえば最後の第4期の作品について、「衣装や人物の線は単調になり、背景の樹木は描写に対する意識が薄れたような簡略な描写に変化している」、「我々を魅了する写楽の個性は急速に消えていった」、「作品の中に個性豊かな生命力が消え去っていたことが感じられる」などと評する向きもあります(注1)。
(上記の評言は、上の第4期の「二代瀬川雄次郎の升屋仲居おとわ」について述べられています)
ただしかし、写楽はわずか10か月程度しか浮世絵制作に従事していませんでしたから、果たしてそんな短い期間の事柄についてそのようなことが言えるのかどうか、むしろ写楽が直後に姿を消したという事実を以て作品を見るからそう見えるだけのことではないのか、などと素人ながら疑問に思えてきます。
たまたま同じ頃、書店に置かれていた富田芳和著『プロジェクト 写楽』(武田ランダムハウスジャパン、2011.4)を、タイトルの面白さにも惹かれて読んでいました(注2)。
そうしたところ、驚いたことに同書では、第1期は、役者の顔の特徴をつかむための時期(注3)、それ以降は、その原型のできた顔を使ってブロマイド(全身像)の制作にあたった時期(注4)と分けることができる、と述べられているのです。
たとえば、
上の第1期の「藤川水右衛門」と下の第2期の「子育て観音坊」とは、同じ「三代目坂田反五郎」の役者絵なのです。
確かに、先ず第1期の大首絵を見てから、次に第2期の全身像を見れば、これは同じ役者のものだなとはスグに分かります。
なるほど、そうであれば、どの浮世絵も似たり寄ったりの絵になっているのが納得できるな、後期になると衰退が見られるなどといった解説は眉唾なのかもしれないな(注5)、写楽の浮世絵を西洋の近代絵画と同じような視点から見るのは元々無理があるのだな、などと思いました(注6)。
(注1)展覧会カタログP.212。
この部分は、東京国立博物館の絵画・彫刻室長田沢裕賀氏が執筆。
(注2)NHKの番組名のようでしたので。
なお、NHKといえば、5月8日の「NHKスペシャル」で、写楽の正体を追いかける番組が放映されました(「浮世絵ミステリー 写楽~天才絵師の正体を追う~」)。
その番組の結論としては、本文冒頭で触れた記事で取り上げた中野三敏氏の「斎藤十郎兵衛」説ですが、なかなか興味深い内容でした(この番組については、例えば、「観たい・聴きたい・読みたい」というブログの記事を参照して下さい)。
(注3)同書では、第1期で写楽によって描かれた役者絵について守られた原則は、次の2点だとされています。
「1.異なった役者は、特徴を明確化してはっきりと描き分ける。
2. 同一の役者絵は、一目瞭然にわかるように、まったく同じかたちに描く」(P.83)。
要すれば、「コピーのための原型をつくった」わけです(P.106)。
(注4)同書では、「第2期以降(第1期の1部も含む)は基本的に、原型のコピー・アンド・ペーストによる制作に入る」とされています。
そして、「日本の写楽論者はしばしば、第1期に写楽の“芸術表現”を開花させ、第2期以降、とりわけ第3期に、短期間に大量の作品を描くことに疲れ切り創造性を失っていった、というような解釈を与えてきた」が、そんな解釈は「まったく不合理である」とも述べられています(P.201)。
なお、写楽が第2期以降「役者絵としての職人的な技術を向上させ」たのは、同書によれば、「写楽の第2期以降の商品化のために、役者絵のプロ絵師が助っ人をした」ことが反映している、とされています(P.202)。
そして、同書では、こうした事業の全体(「約10ヶ月で約150点の役者絵を制作して販売展開する」)をプロデュースしたのが版元の蔦屋重三郎だというのです(P.144)。
(注5)同書では、「写楽は、第3期、第4期になると、役者と舞台が厳密に照合出来ないものが現れてくる。これは、写楽が衰退期に入り、作画に集中力を欠くようになったからだ」などといった説明がなされてきたが、「写楽の絵はあとの時期になるにしたがい、厳密にどの舞台かという情報を盛り込むことが、だんだんと重視されなくなっていく」だけのことだ、と述べられています(P.225)。
(注6)ただ、同書は、従来からの時期の分類(第1期~第4期)によって記述されているところ、第2期以降の期に関しては、それぞれの説明が与えられていないように思われます。だったら、前期(従来の第1期)と後期(第2期~第4期)の分類で十分なのではないでしょうか?
クマネズミも、このブログで以前写楽を取り上げたことでもあり(一昨年11月18日の「夢と追憶の江戸」展に関する記事をご覧下さい)、会期終了間際ながら見に行ってきました。
とはいえ、写楽の作品(140点、残りは5点)のみならず、参考となるものもあわせて200点以上も浮世絵ばかり見ますと、いい加減うんざりしてきます。
特に、写楽のものは、特徴のある第1期のもの(大首絵)だけで十分ではないか、と思いたくもなります。というのも、第2期以降になるとかなりの作品が全身像となって、あまり写楽の特徴が生きてこないようにも見えるからですが。
それに、どれもこれも役者絵として随分類似していて、余り変化がないのではないかと感じられます。
しかしながら、そんなことはなく変化は見られるのであり、たとえば最後の第4期の作品について、「衣装や人物の線は単調になり、背景の樹木は描写に対する意識が薄れたような簡略な描写に変化している」、「我々を魅了する写楽の個性は急速に消えていった」、「作品の中に個性豊かな生命力が消え去っていたことが感じられる」などと評する向きもあります(注1)。
(上記の評言は、上の第4期の「二代瀬川雄次郎の升屋仲居おとわ」について述べられています)
ただしかし、写楽はわずか10か月程度しか浮世絵制作に従事していませんでしたから、果たしてそんな短い期間の事柄についてそのようなことが言えるのかどうか、むしろ写楽が直後に姿を消したという事実を以て作品を見るからそう見えるだけのことではないのか、などと素人ながら疑問に思えてきます。
たまたま同じ頃、書店に置かれていた富田芳和著『プロジェクト 写楽』(武田ランダムハウスジャパン、2011.4)を、タイトルの面白さにも惹かれて読んでいました(注2)。
そうしたところ、驚いたことに同書では、第1期は、役者の顔の特徴をつかむための時期(注3)、それ以降は、その原型のできた顔を使ってブロマイド(全身像)の制作にあたった時期(注4)と分けることができる、と述べられているのです。
たとえば、
上の第1期の「藤川水右衛門」と下の第2期の「子育て観音坊」とは、同じ「三代目坂田反五郎」の役者絵なのです。
確かに、先ず第1期の大首絵を見てから、次に第2期の全身像を見れば、これは同じ役者のものだなとはスグに分かります。
なるほど、そうであれば、どの浮世絵も似たり寄ったりの絵になっているのが納得できるな、後期になると衰退が見られるなどといった解説は眉唾なのかもしれないな(注5)、写楽の浮世絵を西洋の近代絵画と同じような視点から見るのは元々無理があるのだな、などと思いました(注6)。
(注1)展覧会カタログP.212。
この部分は、東京国立博物館の絵画・彫刻室長田沢裕賀氏が執筆。
(注2)NHKの番組名のようでしたので。
なお、NHKといえば、5月8日の「NHKスペシャル」で、写楽の正体を追いかける番組が放映されました(「浮世絵ミステリー 写楽~天才絵師の正体を追う~」)。
その番組の結論としては、本文冒頭で触れた記事で取り上げた中野三敏氏の「斎藤十郎兵衛」説ですが、なかなか興味深い内容でした(この番組については、例えば、「観たい・聴きたい・読みたい」というブログの記事を参照して下さい)。
(注3)同書では、第1期で写楽によって描かれた役者絵について守られた原則は、次の2点だとされています。
「1.異なった役者は、特徴を明確化してはっきりと描き分ける。
2. 同一の役者絵は、一目瞭然にわかるように、まったく同じかたちに描く」(P.83)。
要すれば、「コピーのための原型をつくった」わけです(P.106)。
(注4)同書では、「第2期以降(第1期の1部も含む)は基本的に、原型のコピー・アンド・ペーストによる制作に入る」とされています。
そして、「日本の写楽論者はしばしば、第1期に写楽の“芸術表現”を開花させ、第2期以降、とりわけ第3期に、短期間に大量の作品を描くことに疲れ切り創造性を失っていった、というような解釈を与えてきた」が、そんな解釈は「まったく不合理である」とも述べられています(P.201)。
なお、写楽が第2期以降「役者絵としての職人的な技術を向上させ」たのは、同書によれば、「写楽の第2期以降の商品化のために、役者絵のプロ絵師が助っ人をした」ことが反映している、とされています(P.202)。
そして、同書では、こうした事業の全体(「約10ヶ月で約150点の役者絵を制作して販売展開する」)をプロデュースしたのが版元の蔦屋重三郎だというのです(P.144)。
(注5)同書では、「写楽は、第3期、第4期になると、役者と舞台が厳密に照合出来ないものが現れてくる。これは、写楽が衰退期に入り、作画に集中力を欠くようになったからだ」などといった説明がなされてきたが、「写楽の絵はあとの時期になるにしたがい、厳密にどの舞台かという情報を盛り込むことが、だんだんと重視されなくなっていく」だけのことだ、と述べられています(P.225)。
(注6)ただ、同書は、従来からの時期の分類(第1期~第4期)によって記述されているところ、第2期以降の期に関しては、それぞれの説明が与えられていないように思われます。だったら、前期(従来の第1期)と後期(第2期~第4期)の分類で十分なのではないでしょうか?