映画的・絵画的・音楽的

映画を見た後にネタバレOKで映画を、展覧会を見たら絵画を、など様々のことについて気楽に話しましょう。

さや侍

2011年06月22日 | 邦画(11年)
 『さや侍』を新宿ピカデリーで見てきました。

(1)これまで松本人志の監督作品は肌が合わないのではと思って敬遠してきたものの、今回の作品は、従来のものとはだいぶ趣が違っているとのことなので、それならと映画館に出かけてきました。
 実際見てみると、わけのわからなさはほとんど見当たらず、落ち着いて鑑賞することができ、ほっとしたところです。

 お話は、脱藩者として捕えられた野見勘十郎(野見隆明)は、30日以内に、同藩の藩主(國村隼)の若君を笑わせないと切腹しなくてはならないことになり、毎日一つずつ技を披露していきますが、若君は全然笑顔を見せず、とうとう30日目になって、……。

 いろいろ興味をひかれる点があると思います。たとえば、
イ)主人公・野見が披露する芸は、最初のうちは、腹踊りとか、どじょうすくいなどレベルが酷く低いものの、途中からは相当大規模な仕掛けを施した芸となります。大部分は、笑いを取る芸というよりも、真面目な芸そのものであり、ですが、それを余りに真剣にやるとなんだかわずかながらもおかしさが伴ってくるといった感じです。
 たとえば、「土とん」は、息継ぎ用の竹だけが地表に見えて野見自身は地面に埋められるところ、その息の継ぎ方(取り付けられている紙の動きでわかります)でおかしみを誘うといったものです。

ロ)最初のうちは、野見と一緒に牢の中に入っている娘のたえ熊田聖亜)に、こんな屈辱を受けるくらいなら自害すべきだと責められます。ですが、途中から、逆にたえの方が、野見の一徹さに打たれて、父親に協力するようになります。たえ役の熊田聖亜の凄さは、そんな切り替えを実にうまく演じてしまっているところにも表れていると思います。



ハ)野見とたえという父娘の関係は、最近見た米国映画、『Somewhere』とか『ソリタリー・マン』でも描かれていて、日米で同じようなテーマを扱っているのだな、と興味をひかれました(『プリンセス トヨトミ』でも父子の関係を取り上げています)。

ニ)主役の野見隆明は、毎日一つずつ芸を披露することをやっていくうちに、演者自身もかなり真剣ないい顔つきになってきているのが不思議です。これは、主人公が、次第に真剣に芸に取り組みだすと、自分に対しても真剣に向かい合わなくてはならなくなる、そしてついに自分は武士なんだということを見出すに至る、という物語の展開からすると、随分と観客を納得させるものであり、ラストのシーンも生きてくると思いました。

ホ)毎日一つずつ見せる芸の一つに人間大筒があるところ、これは、DVDで見たフランス映画『ミックマック』に登場する人間大砲を思い出させます(注)。





ヘ)ラストでは、途中で出会った僧(竹原ピストル)が、野見から託された手紙をたえに読んで聞かせますが、次第にメロディーに乗ってきて、「あなたが父の子に生まれたように/めぐり、めぐり、めぐりめぐって、/いつか父があなたの子に生まれでるでしょう」などと歌うと、実に感動的です。

ト)そのままで終わってしまっては自分らしくないと思ったのでしょうか、松本監督は、ラストの後では、野原に建てられた父親の墓石の前で祈るたえの前に、若君と父親とが現れ3人で踊り出すシーンを映し出します。ここには監督の余裕さえうかがわれるところです(ダメ押しとして、現在のその墓石のところを監督が自転車に乗って通りかかるシーンが挿入されます!)。

 話としては、なんだか『最後の忠臣蔵』のような感じもします。
 そこでは、主君が遊女に産ませた可音が嫁ぐと、主命を果たしたとばかり切腹をして武士であることを天下に示します。他方この映画でも、主人公は、さや侍ながらも最後は武士であることを示します。

 主役の野見隆明に関しては、最初のうちは何か固さが感じられたものの、たとえば「襖破り」の際は圧倒的な気迫を受け取りました(尤も、そうでなければ、あれだけたくさんの襖を次々に打ち破ることなど出来ないでしょうが!)。
 また、その娘たえ役の熊田聖亜の実に落ち着き払った演技も、特筆に値するでしょう。


(注)『さや侍』では、大砲が発射されると、砲弾となった野見は、ほんの僅かの距離しか飛ばず、スグに海の中に落ちてしまいます。
 他方、『ミックマック』の場合、川向こうにある復讐相手の兵器会社に乗り込むために、こちらの河岸から人間大砲を発射しようというわけですが(距離140m)、1回目はトラブルのため真上に打ち上げられ、砲弾となった仲間は川に落ちてしまうものの、2回目は主人公バジルが砲弾となって、見事に成功します。


(2)そこで松本監督の長編第1作『大日本人』(2007年)です。『さや侍』の印象がよかったからなのでしょう、このDVDも面白く見ることができました。



 『さや侍』とは違う点はいろいろあるでしょう。たとえば『大日本人』では、
イ)主人公は、「電変場」で電気を与えられると大男に変身できて、怪獣と戦うことのできる男・大佐藤(松本人志)ですが、映画はその男に対するインタビューを収録しているドキュメンタリー作品、という格好をとっています。

ロ)時代設定は現代であり、また舞台も東京と名古屋です。

ハ)大佐藤には、別居中の妻と8歳になる娘がいて、時々会ったりするところ、画面では娘の顔にはモザイクがかけられており、『さや侍』の“たえ”のような重要性は映画の中では与えられていません(あるいは、“たえ”に相当するのは、大佐藤を操縦する女性マネージャーでしょうか)。

ニ)松本人志が演じる大佐藤は6代目であり、祖父に当たる4代目は養護施設に入っています。おそらく、4代目は戦前派、既に死んでしまった父の5代目は団塊の世代、そして6代目が今の世代というように、現在の日本社会を構成する主な世代をそれぞれで象徴させているのでしょう。
 加えて、最後に登場する赤い怪獣(北朝鮮を象徴?)に対しては、大佐藤は戦わないで逃げ出してしまうのですが、4代目は憤然として戦おうとして簡単にやられてしまうところ、それを救ったのがアメリカからやってきたスーパー・ジャスティス一家なのです。
 こうしてみると、全体として、現代の社会・政治状況をわかりやすく反映させている映画の作りになっていると言えるのでしょう。

 これらの点は『さや侍』では見出し難いものの、とはいえ、『大日本人』では、「締ルノ獣」、「跳ルノ獣」、「匂ウノ獣」、「睨ムノ獣」、「童ノ獣」といった怪獣が次々と登場して大佐藤と戦います。これは、若君を笑わせようとして次々に披露される20以上もの芸と通じるところ(同じ範疇に属するパターンをいくつも映し出す点)があるのでは、と思いました。
 さらにいえば、『大日本人』では、主人公は日本人であることを自覚するに至るところ、『さや侍』でも、武士であることを主人公が自覚しますから、そうしたところを見れば、共通すると言えるかもしれません。

(3)渡まち子氏は、「随所にトンデモない設定が仕込まれてはいるが、よくよく考えれば、起承転結に添ったこの映画、映画の常識を打ち破ることからスタートしたはずの松本監督は、3作目で“基本”の重要性に気付いたのかもしれない」。「「大日本人」「しんぼる」と不条理劇を作ってきた松本監督は、今回は、演出法でそれまでの映画のセオリーを“ぶっ壊す”。映画の真ん中に野見隆明を放り込んで放し飼いにしたところに、本作最大の“個性”があった」として60点をつけています。
 また、福本次郎氏は、「主人公が生みだす凍りついた場の空気はそのまま現代の芸人たちが無名時代にライブで体験してきた試練。彼と協力者がネタを思いつき芸に昇華させる過程で、松本人志は“笑い”の本質に迫っていく」などとして50点をつけています。



★★★☆☆



象のロケット:さや侍