映画的・絵画的・音楽的

映画を見た後にネタバレOKで映画を、展覧会を見たら絵画を、など様々のことについて気楽に話しましょう。

地獄でなぜ悪い

2013年10月21日 | 邦画(13年)
 『地獄でなぜ悪い』を渋谷Humaxシネマで見ました。

(1)最近では『ヒミズ』とか『希望の国』を見ている園子音監督の作品だというので、映画館に行ってみました。

 本作は、一方に、なんとか素晴らしい映画を撮りたいものだと日夜努力を続けている高校生グループのファック・ボンバーズがあり、他方で、敵対し抗争にあけくれている暴力団が2つ(武藤組と池上組)あって、それらは10歳の女の子・武藤ミツコ(武藤組の組長の娘)でつながっていたことが、その10年後にわかります。
 すなわち、武藤組長(國村隼)は、その妻(友近)の出所祝のため、娘のミツコ二階堂ふみ)が主演する映画を組として制作しようとし、その監督に、ミツコと一緒にいた公次星野源)を使うこととするのですが、彼は、昔10歳のミツコが出演していたCM(注1)を見て以来の熱烈ファンだったのです。

 ただ、映画には素人だったため、公次は、不遇を囲っていたファック・ボンバーズ〔リーダーが平田長谷川博己)〕を映画制作に引っ張り出すことになります。



 その映画は武藤組が池上組に実際に殴りこみをかけるところをメインにするのですが、池上組の組長(堤真一)もまた、昔武藤組の組長宅に殴り込みをかけた時に10歳のミツコに出会ってから、彼女の虜になっています。



 さあ、この映画制作はどんなことになるのでしょうか、………?

 本作は、これまで見た園子音監督の作品の傾向とは大きく違って、全く破天荒なストーリーの映画で、あんぐりと口を開けて見守る他はありません。でも、破天荒だからこそ無類に面白く、さらには映画制作にかける園監督の情熱がどの画面にもほとばしっていて(注2)、すごい映画を作ったものだな、どうせやるなら中途半端なところで止まらないでここまでやらないとダメなのでは、という思いに囚われました(注3)。

(2)本作については、長く静止しているものを映し出している映像が少なく、絶えず何かが大きく動いているシーンばかりという印象を受けます。
 本作のクライマックスである武藤組と池上組の出入りの場面は言わずもがな、冒頭のミツコのCMの映像から、ラストの平田が走るシーンまで、ある意味では随分と忙しない映画なのです。

 最初の方をもう少し見てみると、ファック・ボンバーズが映画撮影のために生卵の投げ合いをしています。ですが、そばで学生同士の喧嘩が始まり、「こっちのほうが面白い」として撮る対象を変えたところ、看板を積んだ軽トラックが、運転手(板尾創路)の「どけーっ!」との声とともに突っ込んで来ます。
 その看板は、武藤組の事務所のあるビルにかけられるもので、ビル内にあるバーのママが交代するのに応じて、看板を「まちこ」から「じゅんこ」に付け替えるわけです。
 ビルの中では、武藤組の武藤組長が、これまでの愛人のまちこに引導を渡し、まちこが出て行くと、新しい愛人のじゅんこ(神楽坂恵)と抱き合います。
 武藤組長がこんなことをしている一方、武藤の家には娘のミツコが学校から帰ってきます。ドアを開けると、そこは文字通り血の海!その血の海のど真ん中をミツコが滑っていきます。たどり着いた先に、池上組の池上組長が流しのところにもたれて座り込んでいますが、………。

 という具合に、大層動きのあるそれぞれの場面が、引き続いて目まぐるしく変化していくのです。

 通常ならば、映画撮影を志すファック・ボンバーズが、狂言回し的に「静」の位置付けとなるのでしょうが、本作にあっては、そのリーダーの平田自身が実に激しく動きまわるのです。
 なにしろ、喫茶店で出会った女(成海璃子)を口説くときでさえ、いっときもじっとしていませんし、またファック・ボンバーズの仲間に向かって自分の夢を語るときも、あちこち動き回りながら饒舌にしゃべるのです(注4)。

 その平田ですが、一世一代の映画を撮れば死んでもいいと常日頃考えていたわけながら(「俺は、将来、永遠に刻まれる一本を撮る。それを撮れたら死んでもいい!」)、事前の念入りなシナリオ作りなどといった通常の手順など飛び越して(平田としては、それを海岸でやりたかったようですが)、結局は、ヤクザの出入りをドキュメンタリー的に撮影するハメになってしまいます。それでも、平田は嬉々としてカメラからフィルムを回収して、走って現場から引き上げ、最後に「カット」という声がかかって、この映画自体が終わってしまいます。
 『蒲田行進曲』的なカッコ良い終わり方も平田の頭のなかでは考えられているものの、そうはならずに、いつもの様にごく簡単な掛け声だけで。

 こうしたズレは、平田以外にもあちこちで見られます。
 例えば、公次は、ひょんなことからミツコの愛人とされ、挙句は、武藤組長に無理やり監督にさせられるものの、なんの経験もありませんから、実際の撮影現場においてはオロオロするばかりです。



 また、そのミツコも、ちゃんとした主演映画を望んていたにもかかわらず、実際に撮られる映画はヤクザ物ということで、大勢のヤクザの中の一員になってしまいます(注5)。



 もしかしたら、様々のズレが本作の画面を大層動きのあるものとしているのかもしれません。

(3)渡まち子氏は、「もとより、園作品は誰にでもすすめられる口当たりのいいものではないのだが、本作は娯楽作といいながら、しっかりマニアックな作りなのが素晴らしい。荒唐 無稽と言ってしまえばそれまでなのだが、誰よりも濃い映画愛と、最後の最後で虚実をミックスするオチにはガツンとやられてしまった」として65点をつけています。
 また、前田有一氏は、「意外なエロボディと極道キャラのギャップ、いつも何か叫んでいる必死感。園子温がこれまでちらほらと繰り返してきた理想の女像。それに対する己の欲求をついに大爆発させた、まさに監督の私的なエンターテイメントと私は受け止めた。彼のファンにとっては、きっと記念碑的作品となるだろう」として60点をつけています。
 さらに、相木悟氏は、「現在、日本映画界で気を吐く園子温監督のほとばしる映画愛とロックな哲学が詰め込まれた怪作の登場である」云々と述べています。



(注1)CMで10歳のミツコが歌う「全力歯ぎしりLet’s GO」は、『謝罪の王様』で3歳の倉持がしつこく繰り返す「腋毛ぼうぼう、自由の女神!」という文句に相当しているのでは、と思いました。

(注2)本作の中で描き出される個々のエピソードは、園子温監督の経験を踏まえてもいるようですが(例えば、武藤組の組長の娘ミツコと公次との関係は、園監督が著した『けもの道を笑って歩け』において、園監督が実際に経験したものとされています)。

(注3)國村隼については『許されざる者』で見たばかりであり、また長谷川博己は『鈴木先生』、星野源は『箱入り息子の恋』、二階堂ふみは『脳男』、堤真一は『俺はまだ本気出してないだけ』で、それぞれ見ました。

(注4)加えて、そのフック・ボンバーズには、アクション俳優を目指す佐々木坂口拓)がいて、“未来のブルース・リーだ”と持ち上げられ、黄色いジャージ(トラックスーツ)姿でヌンチャクを振り回すのです!

(注5)もっと言えば、武藤組長は、腕っ節の強いヤクザの親分にしては随分の親馬鹿であり、恐妻家でもあったりしますし、池上組長も、マッチョのはずがロリコンです。



★★★★☆



象のロケット:地獄でなぜ悪い

謝罪の王様

2013年10月14日 | 邦画(13年)
 『謝罪の王様』をTOHOシネマズ渋谷で見てきました。

(1)宮藤官九郎の監督・脚本作品として5月に『中学生円山』を見たこともあり、映画館に行ってきました。

 本作では、謝罪師である東京謝罪センター所長・黒島譲阿部サダヲ)の奮闘ぶりが、6つのエピソードで綴られますが、それらのエピソードはバラバラに描かれるわけではなく、相互につながりを持っています。
 例えば、「case1」では、帰国子女の倉持井上真央)が運転する車がヤクザの車に追突してしまった件が取り扱われるところ、倉持はその件が解決すると東京謝罪センターに居着いてしまい、あとのエピソードにも顔を出します(注1)。



 さらに、取り上げられるエピソードは、以前自分の娘にした仕打ちを謝るというプライベートで他愛のないもの(「case4」)から(注2)、外国の国王に日本の総理大臣が謝りに行くという大掛かりなもの(「case5」)まで幅が広く、なおかつ愉快な内容ですから、見ているものを飽きさせません。

 ただ、それらのエピソードは、テーマの「謝罪」という観点から見るとどうかなと思えるものもあり、それほど笑えるものでもないように思われます。
 例えば、「case1」では、黒島の奮闘でヤクザの親分(中野英雄)の許しを得るものの、肝心の倉持は、実際のところほとんど謝罪していないようなのです。
 また「case2」でも、会社員の沼田岡田将生)が共同プロジェクトの担当者の宇部尾野真千子)にセクハラをしてしまった件が描かれるところ、宇部が和解するのは黒島の意表をつくパフォーマンスによるもので、ここでも沼田はきちんと宇部に対して謝罪をしていません。



 興味深いエピソードは、大物俳優(高橋克実)と元妻の女優(松雪泰子)が、息子の引き起こした事件についてする謝罪会見を取り扱う「case3」でしょう。



 毎日のようにTVニュースで謝罪会見が流される今の風潮(例えば、東電の謝罪会見!)を風刺していて、それに着眼したことはとても面白いと思います。
 ただ、ここでもそれほど笑わせてはもらえませんでした。

 あるいは、現実の方が先を行っているような感じで、このくらいのデフォルメでは鋭い風刺にならないのかもしれません。
 例えば、10月8日に行われたみずほ銀行の佐藤頭取の謝罪会見では、頭取が「深々と頭を下げ続けた。その時間、およそ20秒」とニュースで書かれているのです!
 本作でも、「とりあえず20秒間謝ろう」というレクチャーが依頼人に対し授けられます。

 また、ちょうど同日の夜に放映されたNHKクローズアップ現代「氾濫する“土下座”」では、謝罪会見の練習を行う危機管理コンサルタント会社が実際に登場しています(注3)。
 本作では架空とされる「謝罪師」なるものが、どうやらすでに実在しているようなのです!

 こうなると、例えば、阿部サダヲ扮する謝罪師・黒島譲(注4)の仕事に大きな誤りが見つかり、自分自身が謝罪会見するハメになるとか、そんな謝罪会見などは元々無意味だったとかするくらい(あるいは、それ以上)でなければ、現実の事態はすでにどうしようもないことになっているのではないでしょうか(注5)?

 それでも、本作の主演・阿部サダヲの活躍ぶりは眼を見張るものがあり、更には、最後のエンドクレジットで映しだされるEXILEなどによるダンスシーンには圧倒されました。こうしたシーンを映画の中ほどに持ってくれば、インド映画のようにもっと楽しい映画になったのかもしれないと思ったところです。

(2)渡まち子氏は、「バカバカしい謝罪もあれば、本当に人の心をくんで頭を下げるケースも。主人公の黒島がなぜ謝罪師になったのかというエピソードにこそ、その謝罪のエッセンスが詰まっていた。ラストの謝罪ダンス・パフォーマンスまで、たっぷりと楽しもう」として60点をつけています。
 前田有一氏は、「おじぎ文化を持つ日本において「謝罪専門業」という題材は、もっと人々をハッとさせる風刺にもなれたはずで、この程度で収束させてしまった点については不満を感じる」としつつも60点をつけています。



(注1)特に、「case4」で黒島のところに相談にやってくる超一流国際弁護士の箕輪竹野内豊)は、倉持の大学時代の講師なのです

(注2)上記「注1」の箕輪が、アメリカ留学中、大事な試験前だったにもかかわらず3歳の娘がしつこくフザケたので(「腋毛ぼうぼう、自由の女神!」という文句を繰り返しました)、手を挙げてしまったことを酷く悔やんでいます(実はこの娘が、………)。



(注3)同番組では「土下座」の流行について、さらに、映画監督の森達也氏が、「謝罪よりも、恐らく懲罰化しているんでしょうね」、「基本的には、ほとんどの人が土下座をしながらも、本気で謝罪はしてないでしょうし、また僕らも、それをなんとなく感じてるからこそ、見てて、あまりいい感じがしない。つまり屈服ですよね、謝罪ではなくて。全面的な屈服、降伏、そういったものを強要する」などと、また歴史家の山本博文氏も、「日本人は非常に名誉心が強い、その名誉心が強い人を、全面的に屈服させる形にするっていうことが、今の土下座の本質なわけですから、これはかなりなんて言いますかね、社会的には、相手に対する制裁のようなものがあるんですね」などと分析しています。

(注4)黒島は、ガードマンをやっていた時に入ったラーメン屋で、店員(松本利夫)のやったこと(湯切りの作業中に汁を飛ばし、黒島の顔面に当たったこと)を店員自身に謝罪して貰いたかったにもかかわらず、その気持がなかなか相手側に伝わらなかったところから、謝罪師になったとされています(「case6」の中で描かれます)。

(注5)話は飛躍しますが、最近もまた(10月11日)、人権問題について話し合う国連総会の委員会で、韓国の女性家族相が従軍慰安婦問題で日本を念頭に謝罪を要求し、日韓が反論を繰り返す展開となったそうですが、すでに村山談話や河野談話などが出され、アジア女性基金が設けられている現在、いったいどんな解決策がこの問題に見いだせるというのでしょうか〔「case5」のマンタン王国のエピソード(良かれと思ってした“土下座”が、マンタン王国では、相手を侮辱する仕草だったとは!)のように、まともな話が韓国との間では何も通じなくなってしまったような危機的な感じがします〕?



★★★☆☆



象のロケット:謝罪の王様

そして父になる

2013年10月10日 | 邦画(13年)
 『そして父になる』をTOHOシネマズ渋谷で見ました。

(1)あちこちで流される予告編で本編を見た気になってしまい、わざわざ行くまでもないのではと思い始めたものの、これほど評判の作品ならばやはり見ておかなければと考え直し、映画館に行ってきました。

 映画の始めの方では、6歳の野々宮慶多のお受験風景が描かれ、父親・良多福山雅治)と母親・みどり尾野真千子)との一緒の面接で、慶多は「お父さんとキャンプに行って、タコ揚げをした」と答えますが、終わったあとで、良多が「パパとキャンプに行ったりしなかったよな?」と尋ねると、慶多は「塾の先生がそう言えって」と言います。
 家に戻るとみどりは、母親(樹木希林)に、「あとになって公立で苦労するよりも、今頑張っていた方がって良多さんが言うの」などと電話で話しています。
 夜になって職場から帰ってきた良多に対して、みどりは「もっと遅くなると思ってた」と急遽うどんを用意する一方、慶多も習っているピアノを披露します(どうもうまくありません)。
 そのあと自分の部屋で仕事をしている良多に対し、みどりは「今日は忙しいところをありがとう」と言うと、良多は「このプロジェクトが終わるとゆっくりできる」と答えますが、みどりは「6年間ずっとそう言っていた」と応じます。

 こんな細かい場面の積み重ねで、野宮家の中の様子が随分とわかってきます。
 大手建設会社に勤める良多は、仕事中心人間であり、自信に溢れていて、全てを自分の判断で処理しようとします。みどりは、そんな夫に甲斐甲斐しくついてきましたが、その母親同様、内心不満がたまっている感じです。また、子供の慶多も、おとなしい性格で自分の気持ちを内に抑えこんでしまうようです。

 そんな野々宮家に、慶多が生まれた前橋の総合病院から電話がかかってきて、物語が動き出します。
 信じ難いことに、病院で赤ん坊の取り違えがあり、慶多は実の子供ではなく、みどりが生んだ子供・琉清は前橋の斎木家〔父親・雄大リリー・フランキー)と母親・ゆかり真木よう子)〕で育てられていることが判明します。



 さあ、良多やみどりはどうするのでしょうか、………?

 ストーリー自体は予告編から想像されるものと殆ど変わりはなく単純そのものながら、実際に映画を見てみると、子供を交換するまでのそれぞれの家庭の様子、交換の手続き、そして交換したあとのことが、それぞれかなり繊細なタッチで入念に描かれていて(注1)、見る者を感動させ、そして、こうした厳しい場面に追い込まれたら自分の場合どんな風に判断すべきか考えさせられます(注2)。

 今が旬といった福山雅治は、『真夏の方程式』で見たばかりとはいえ、こうした地味な役も大層うまくこなしていて演技の幅の広さを感じます(注3)。



 尾野真千子も随分と売れっ子になりあちこちで元気な姿を見かけますが(最近では、『探偵はBARにいる2』で見ました)、本作の抑えた演技も印象的です。
 リリー・フランキーは、『凶悪』での悪役ぶりを見たばかりなのでいささか戸惑ってしまいますが、実に味のある演技をしています。
 真木よう子も、『さよなら渓谷』での渋い演技から本作での肝っ玉母さん的な演技まで抽斗の多い女優であることがわかります。

(2)とはいえ、違和感も覚えました。
 最初は、なんで父親が問題なのだ、子供の取り違えで一番傷つくのは母親ではないか(自分のお腹を痛めた子供と思っていたら、それが違っていたというわけですから:注4)、まずは「そして母になる」ではないのか、などと思ったりしましたが、本作は父親に焦点をあてているのだから(子供の取り違えを契機としながら父親のあり方を問うている作品ではないでしょうか)、これはこれで構わないのかもしれないと思い直しました。

 ただ、一方の当事者の良多が大手建設会社勤務のエリート社員で、都心の高級マンションの上層階で贅沢に暮らしているのに対して、もう一方の当事者の雄大は、前橋でしがない電気店(古びた平屋建ての店構え)を営んでいるという対立的な状況設定にすると、常識からすれば、人間的なのは後者だということになり、“そして父になる”のは良多の方だということに自ずとなってしまいます(注5)。
 これは現今のごく一般的な見方でしょうが(最近見た『エリジウム』や『アップサイドダウン』でも、「」の方で暮らす人たちは富裕で、かつ非人間的とされていて、対する「」で暮らす人間は、人間的ながらも、「上」の人間に搾取されているとされます!)、仕事に邁進する良多の生き方だって十分評価できるのではと思われ(注6)、何も雄大のようにいつも家にいて、子どもとタコ揚げをしたり、一緒に風呂に入ったり、おもちゃをハンダゴテで直したりするばかりが良い父親の条件ではないのではと思ってしまいました(注7)。



 それになんだか、一方の雄大は重厚長大時代を引き摺っている人、他方の良多はその後の軽薄短小時代の人のように見え、第二次産業から第三次産業へウエイトが移ってきている今に適合しているのは、雄大ではなく良多であり、彼が頑張って仕事一筋というのも当然ではないのか、少なくとも父親としては同レベルと見るべきではないのか、と考えるのですが(注8)。

(3)渡まち子氏は、「私生活でも俳優業でも父親の経験がない福山雅治だが、繊細で見事な演技を披露している。他のキャストも絶妙。子供たちの自然な演技もまた素晴らしい。複雑で深いストーリー、脇役に至るまで丁寧な人間描写、俳優の良質な演技を引き出す是枝監督の演出の上手さが光る、年間屈指の秀作だ」として90点もの高得点をつけています。
 また、前田有一氏は、「「6年間育てた息子を交換できるか」この一点シミュレーションで見せる「そして父になる」は、人間ドラマとしてもエンターテイメントとしても優秀で、この月に一本選ぶならコレ、レベルの出来のよさ。アイデアもいいし、イクメン時代の男性たちの共感を得られる題材だし、映画作りもうまい。見ていて単純に面白し感動もある。適齢期以降の男女、とくにカップルで見られる真面目な映画として貴重である」などとして75点をつけています。
 さらに、相木悟氏は、「共に暮らした慶多と新たな愛情が芽生える琉晴への想いに葛藤する良多とみどりの感情を、ドロドロとした展開なしに繊細かつ丁寧にすくい取り、子供をお涙頂戴のダシにせず、リアルな空気感を醸成する監督の演出力はさすがという他ない」等と述べています。




(注1)本作を制作した是枝裕和監督の作品としては、最近では、主演のペ・ドゥナが印象的な『空気人形』や、本作同様に子役が活躍する『奇跡』を見ています。

(注2)この映画に登場する病院側(小倉一郎:事務長でしょうか)は、できるだけ早く交換した方がいい、これまでの他の例でもそうだ、などと述べますが、それは事態の早期収拾を図りたい病院側の思惑が混じっているように思われます。
 良多の継母(風吹ジュン)が、「血なんて繋がらなくても情は湧くし、親子なんてそんなもの、私はそういうつもりであなた達を育てたんだけどな―、」と良多と彼の兄に対して言いますが、
 やはり6年間一緒に暮らしてきたことは重要な点ではないかな、と思います。
 とはいえ、良多は生みの母に会うために小さい頃家を飛び出したこともあるようで、またみどりも琉清と暮らし始めると、「琉清が可愛くなってきた、慶多に申し訳なくて、あの子を嫌っているようで」と言い出したりして、血の要素も見過ごしには出来ない感じです〔良多の父(夏八木勲)も、「親子ってのは血だ、人も馬と同じで血が大事なんだ」と言います〕。
 多分この映画の行き着くところもそうなるのではと想像するのですが、これまで通り野々宮家は慶多を、斎木家は琉清を育てることとし、ただ両家の交流は密にして、子供たちの理解を待つということではないのかな、と思うところです。

(注3)この映画を見る前に、『徹子の部屋』に出演した福山雅治を見たのですが、TVカメラが入り込んだ録音中のスタジオに置いてあったギターが、良多の部屋にも置かれていたのではと思われ、またその番組でカメラ好きであることを話していたところ、本作でも良多のデジカメが重要な働きをします。それに、良多が、自分の子供の頃の写真と琉清の写真を見比べるシーンがあるところ、その際に使われた写真は、同番組で映し出された福山の子供の頃の写真です。

(注4)劇場用パンフレット掲載の真木よう子のインタビュー記事の中に、「本編ではカットされてしまった台詞の中に、「男はどうせわからない。だって私たちはお腹を痛めて産んだんだから」というものがあ」った、とあります。

(注5)ラストの方でも、慶多に良多は「出来損ないだけど、パパだったんだよ!」と謝りますし、ラストでは雄大の電気店に皆が集まって家の中に入っていきます。
 全体として本作は、良多が雄大の子供の育て方をあるべきものとして評価する方向に向かっているように思えます。

(注6)忙しい仕事の合間を縫って、子供の入学試験に付き合ったり、父兄参観日にもでかけ、家では慶多のピアノ練習を聴いたりもしているのですから。

(注7)この点は、本文の(3)で触れる前田有一氏も触れているところです。 すなわち、同氏は、「福山雅治演じる野々宮は、私に言わせれば最初から十二分に良い父親である。物語的におさまりがいいとはいえ、わざわざ映画の中で「成長」する必要は感じない。そうした展開は下手をすると偽善的に見えてしまう。およそ親子愛というものは、多少のグダグダや親の至らなさを吹き飛ばす無条件の絆である。理想主義的かもしれないが私はそう思うし、わざわざ「立派な父親」にならずとも、必死にわが子を育てているありのままを肯定するメッセージのほうがより現代的で力強い」と述べています。
 ただ、こうした言い方では、リリー・フランキー演じる雄大の方が、「立派な父親」でありレベルが上であることを認めてしまうことにもなるのではないでしょうか?
 前田氏が言っていることは、今の良多で十分であり、何も雄大に「成長」することはないということでしょうが、でも、そうではなく、良多と雄大とは、父親という点から見ると、同じレベルなのだと考えられもするのではないでしょうか?

(注8)と言って、自分たちの世界は自分たちだけで動かしていけるといったような良多のこれまでの考え方を肯定するわけではありません。
 映画『エリジウム』や『アップサイドダウン』では、富裕層が壁を作って自分たちだけの世界を築きあげているように描かれていますが、それは難しいことではないでしょうか?
 良多は、宇都宮の研究所に行って自然界の奥深さにも気づきますが(セミが羽化するまでに10年以上かかることを知らないなんて!)、自分やその同類以外の者について、もっと大きく視野を広げて認識・評価していく必要があるのではと思います。



★★★★☆



象のロケット:そして父になる

凶悪

2013年10月03日 | 邦画(13年)
 『凶悪』を新宿ピカデリーで見ました。

(1)本作は、実話(注1)に基づいたフィクション。

 主人公の藤井山田孝之)は、大手出版社が刊行している雑誌の記者です。



 あるとき、会社に死刑囚から手紙が届き、雑誌の編集長から調査するように言われます。
 そこで藤井が、ある事件で死刑の判決(最高裁へ上告中)を受けている須藤ピエール瀧)に面会すると、須藤は、「誰にも話していないが、自分には余罪が3つある。こんなことを言うのは、その3つの事件の首謀者である木村リリー・フランキー)が娑婆でのさばっているからで、彼に復讐したいのだ」と告白するのです。

  

 藤井から話を聞いた編集長は、記事にならないと取材の中止を彼に言い渡します。
 ですが、藤井は須藤の熱意にほだされたのでしょう、調査を始めます。
 ただ、須藤が話した事件は茫漠としていて輪郭をつかむのが難しそうです。さらに、彼の家庭では認知症の母親(吉村実子)を抱え、妻・洋子池脇千鶴)との関係がうまくいっておらず、取材を続けるには最悪の状況にあるといえます。
 さあ、藤井は、このさきうまく取材を続けていくことができるでしょうか、………?

 本作は、「埼玉愛犬家連続殺人事件」(園子音監督の『冷たい熱帯魚』で描かれました)にも似たグロテスクな実話に基づいた作品ですから、目を背けたくなるような殺人シーンが何度も描き出されますが、不思議な事にとても面白くこの映画を見ることが出来ました。脚本や映画の撮り方とか、出演した俳優陣の熱演によるものと思われます(注2)。

(2)『冷たい熱帯魚』に関する拙エントリで書きましたが、その映画で「主に描かれているのは、崩壊しかかっている家族」ではないかと思いました。
 すなわち、主人公の社本吹越満)の「現在の妻は後妻で、娘はこの継母を酷く嫌っているばかりか、母親の死後すぐにそんな女と結婚した父親をも大層憎んで」おり、また後妻も、夫が「営む熱帯魚店が酷くシャビイなこともあり、結婚したことをいたく後悔してい」るのです。
 こうしたことに、本作の主人公・藤井の家庭がかなり類似しているようにみえます。
 どちらの家庭も崩壊しかかっているのです(注3)。

 その上、一方の社本は、殺人鬼・村田でんでん)の人殺しを見ると、警察に通報すべきにも関わらず、次第に共犯者的な関係に陥りますが、他方の藤井も、殺人鬼・須藤の告白を聞くと、編集長の消極的な姿勢にもかかわらず、余罪の3件の殺人事件の解明にのめり込んでしまうのです。

 ただ、『冷たい熱帯魚』の主人公は、自分の家庭をなんとか立て直そうとして、結局は死ぬハメになるものの、「ある意味で社本は、最後に自分の思いを成し遂げて死んだのではない」かと思われるところ、本作の藤井の場合、その家族は元に戻ることはないのではないかと思われます(注4)。

(3)同じように“悪”という言葉がタイトルに使われていることもあり、最近そのDVDが出された『悪の経典』(三池崇史監督、2012年)を、TSUTAYAで借りてきて見てみました。

 この映画の物語は、生徒の間で絶大な人気のある高校教師の蓮実伊藤英明)が、実はサイコパス(反社会性人格障害)であって、自分にとって目障りとなる人間を次々に殺してしまうという、これまた実に陰惨なものです。
 とはいえ、それだけのことですから、悪とは何か家族とは何かといった問題を考えさせることもなく、ラストの蓮実による大量殺人のシーンに流れ込んでしまいます〔まるで、同じ監督の『十三人の刺客』のように、スポーツショーを見ているかのごとくです。同作では、ショーの最初に、主人公の島田新左衛門(役所広司)が、「斬って斬って斬りまくれ!」と仲間に向かって叫びます(注5)〕。

 ですが、例えば、吹越満が扮する釣井先生(蓮実の怪しい過去を調べて真相に接近)は、電車の中で蓮実によってブラックジャックで頭を打たれ、気絶したところを自殺したように偽装されてしまいます。
 また、釣井先生から話を聞いた生徒の早水圭介染谷将太)も、蓮実によってガムテープでぐるぐる巻きにされたあと、理科室でハンダゴテで殺されてしまいます。
 こんなところを描くシーンからは、本作において須藤が殺人を犯すシーンと通じるものを感じます。

 ただ、蓮実が、仮に「サイコパス」ということで死刑を免れることになるとしたら(注6)、本作の須藤にしても、人を殺す際のあの恐ろしい顔つきなどから、同じように「サイコパス」とみなされる可能性はなかったのでしょうか(どうやら、須藤はとんでもない数の人を殺しているのではないかと疑われるのですが)?

(4)渡まち子氏は、「死刑囚の告発で明かされる、おぞましい人間の本質を描く衝撃的な社会派サスペンス「凶悪」。出演俳優たちの張りつめた演技合戦が見所」として70点をつけています。
 相木悟氏は、「海外作品のように実名バリバリとまではいかないものの、昔から実録犯罪路線は我が国でも盛んに造られ、ご存じのように数々の名作を生み出してきた。それが今回、若松孝二監督の弟子筋の白石和彌監督が手掛けるというのだから、否が上でも期待は高まったのだが…。これが予想を上回る、ハイ・クオリティな一作であった」と述べています。
 さらに、柳下毅一郎氏は、「死刑囚と記者、二人の運命を狂わせる「先生」は、いわばフィルム・ノワールのファム・ファタールのような存在だ。暴力性をひたかくし、巧みな口説で相手をあやつる「先生」はどこか女性的にも見える。これは魔性の存在にとらわれた男たちの恋愛ドラマなのである」と述べています。




(注1)本作の原作は、『凶悪―ある死刑囚の告発』(「新潮45」編集部、新潮文庫)。同書で取り上げられている「上申書殺人事件」については、ネットでは例えば、このサイトの記事を。

(注2)主演の山田孝之は、最近では、『ミクローゼ』や『その夜の侍』などで見ていますし、またピエール瀧は『俺達急行』で、リリー・フランキーは『きいろいゾウ』や『モテキ』で見ています。
 特に、山田孝之が、面会室でピエール瀧の須藤と話をするごとに変化していく藤井の様をうまく演じているのには感服しました。

(注3)さらにいえば、木村が逮捕され起訴されることになる殺人事件の被害者の家庭も崩壊しています。
 なにしろ、電気店を営む被害者の妻(白川和子)は、保険金で多額の借金の弁済ができるとの木村の話に飛びついて、夫の殺害に同意してしまうのですから(加えて、実の娘もその夫も同意するのです)。

 なお、木村の裁判には須藤が証人として出廷するところ、須藤は木村に対して、「ねえ、先生、地の底まで一緒に行きましょう」と言い放ちますが、こんなところは、『許されざる者』のオリジナル版で、シェリフのダゲットがマニーに対して「地獄で待っているぜ」と言うところを連想させます〔同作のリメイク版に関する拙エントリの(2)をご覧ください〕。

(注4)ラストの方で、藤井と洋子とが一緒になって、藤井の母親を老人ホームに入所させるシーンが映しだされますが、だからといって藤井と洋子との関係が元に戻ることはないように思われます。たとえ洋子が差し出した離婚届に藤井がまだ印を押していないとしても、藤井は、この先も須藤や木村の犯した犯罪を追求していこうという強い意気込みを持っているのですから。
 なお、このシーンは、車椅子に乗った老人たちが向かう先に老人ホームがあって、その前で木村が須藤に、「どうしようもない老人が次から次に現れる。まるで油田だ。そいつらを殺すだけで、金が溢れてくる」と語るシーンにダブってきます。

 こんなところを見ると、随分練り上げられた脚本だなと思いました。

(注5)三池監督の『十三人の刺客』では、敵方300人に対して刺客13人が挑むわけで、一人あたり25人弱と蓮実先生(ラストで散弾銃で殺したのはおよそ40人)よりも少ないですが、まあ似たり寄ったりでしょう。

(注6)映画『悪の教典』の最後には「to be continued」という字幕が表れ、蓮実がこの先まだ生き延びることを示唆しています。




★★★★☆




象のロケット:凶悪

許されざる者

2013年09月27日 | 邦画(13年)
 『許されざる者』をTOHOシネマズ渋谷で見ました。

(1)本作は、イーストウッド監督が制作し、アカデミー賞作品賞等を受賞した同タイトルの作品を、すべて日本に置き換えてリメイクしたものです。

 元の作品では、マニークリント・イーストウッド)、昔の相棒・ローガンモーガン・フリーマン)と若者のキッドジェームス・ウールヴェット)の3人組が、街の娼婦たちが出した賞金をせしめようと2人の男を狙い、結局はシェリフのダゲット(ジーン・ハックマン)とマニーとの対決になるのですが、本作においても、十兵衛渡辺謙)、金吾柄本明)と沢田柳楽優弥)の3人組が、お梶小池栄子)らの女郎たちが出した賞金目当てに2人の男を殺そうとし、十兵衛と村の警察署長・一蔵佐藤浩市)との対決となります。



 さあどうなるのでしょう、………?

 主演の渡辺謙は、トップと最下層兵士という違いはあるものの、『ラストサムライ』における勝元役と同じように(注1)、反明治政府という立場の日本人を演じているところ、さすが見応えのある演技で惹きつけます。



 また、相手役の一蔵を演じる佐藤浩市は、半年ほど前に『草原の椅子』で見ましたが、相変わらず達者な演技を披露します。



(2)本作では、描かれる時代は元の作品と同一としながら(1880年)、元の作品の舞台である西部ワイオミング州を北海道に引き移し、さらに、アイヌ人差別問題を取り込んだりしています。
 いったいそれで映画が成立するのかといわれれば、ありえない設定が多いのかもしれません(例えば、女郎たちが、賞金稼ぎが群がってくるほどの大金を持っていたのだろうか、そんな金があるのなら女郎から足を洗っていたのでは、などなど)。
 でも、これはあくまでも映画のお話ですから、そんなことの一々を問い詰めても仕方がないように思われます。

 ただよくわからなかったのは、ラスト近くで「地獄で待ってろ」と十兵衛が言いますが、一体誰に対して言ったのかという点です。
 元の作品では、マニーに撃たれたダゲットが、最後にマニーに向かって「地獄で待ってるぞ」と言います(注2)。
 ですが、本作品では、十兵衛が「地獄で待ってろ」と口にするのです。それも、拷問で殺された金吾の遺体を取り囲む女郎たちに向かって(注3)。

 元の作品では、ローガンを殺したりして自分は悪いかもしれないが、お前だってたくさんの人殺しをした悪党ではないか、というような意味を込めて、シェリフのダゲットが「地獄で待っているぞ」とマニーに向かって言うと、マニーもそれを認めて「Yeah」(地獄で会おう!)と応じるのではないか、と思います。
 クマネズミは当初、それと似たような感じで、旧幕府軍の兵隊として一緒に戦ってきた金吾の遺体に向かって、お前が先に行った地獄に自分もすぐに後を追って行くからなという意味を込めて、十兵衛は「地獄で待ってろ」と金吾に向かって叫んだのではと思いました。

 ただ、それが女郎たちに向けられたとなると、どういうことなのでしょう?
 本作に登場する女郎たちは、いったいどんな罪深いことをしたというのでしょう?
 あるいは、女郎たちが多額の賞金を懸けて殺人を依頼したがために大勢の人が殺されるハメになったから、女郎たちも悪いと十兵衛は言うのでしょうか?
 でも、彼女たちが懸けた賞金欲しさに十兵衛たちは村にやってきたのですし、それに彼女たちは元気なわけで、まだ当分死ぬ気配はありません(既に死んでしまった金吾や、死につつあるダゲットと違って)。そんな彼女らに向かって、十兵衛自身が「地獄で待ってろ」とまで言うでしょうか?
 さらにそもそも、直前の江戸時代には、「格の低い売春婦」は「地獄」といわれていたのです(注4)。すでに「地獄」にいる彼女たちに向かって、「地獄で待ってろ」と十兵衛が言ってみても始まらないようにも思われます(注5)。

(3)ここからは、本作のタイトルである“許されざる者”とは一体誰なのか、というところにまで話を拡大できそうですが、既に、劇場用パンフレットに掲載のエッセイで中条省平氏が議論を展開しています。
 中条省平氏は、「十兵衛という人間は、誰よりも彼自身にとって「許されざる者」なのです」とか、警察署長・一蔵の「根底にあるのは唯我独尊のエゴイズムであり、それを明治新政府の秩序維持という大義でどう取り繕うとも、一蔵は「許されざる者」です」、剣豪・北大路正春國村隼)につき「近代国家において、あからさまに個人の武力を威嚇の道具に使う正春は、やはり「許されざる者」です」、沢田についても「均質な民族国家を目指す明治新政府にとって、日本民族の和に亀裂を入れるマイノリティであり、それゆえ「許されざる者」なのです」と述べています。

 ですが、これでは、十兵衛については、その内心の「罪悪感」というところから見ながらも、例えば北大路正春や沢田については社会的な視点から見ていて、その見る立場に統一性がないように思えてしまいます。

 要すれば、本作に関しては、誰が誰をどうして許さないのか、ということがよくわからない感じがつきまといます。
 近代国家建設という視点からすれば、一蔵の行動はあるいは“許される”のかもしれませんし、他方、個人の内面という点から見れば、心に闇を抱えているのは十兵衛位なものといえるでしょう。

 この点に関しては、元の作品が、ある意味で比較的わかりやすく出来上がっているのに対し(注6)、本作は、なかなか理解するのが難しいものを抱え込んでいるのではと思いました。

(4)渡まち子氏は、「偉大な傑作の名を汚すことなく、骨太な日本映画の秀作に仕上がっている」として80点の高得点をつけています。
 他方、前田有一氏は、「リメイクはオリジナルをリスペクトしすぎると失敗しやすいというのが私の持論だが、日本版「許されざる者」にもそんな傾向が感じられる」云々として40点しかつけていません。




(注1)『ラストサムライ』においてトム・クルーズ扮するオールグレンのモデルは、この記事によれば、榎本武揚率いる旧幕府軍に参加して箱館戦争(戊辰戦争)を戦ったジュール・ブリュネとされているところ、本作の主人公・釜田十兵衛は「人斬り十兵衛」と言われたとされていますから、手塚治虫の漫画『シュマリ』を経由すると、同戦争で旧幕府軍に参加した土方歳三とのつながりが見えてきて、興味が惹かれます。

(注2)IMDbによれば、撃たれて床に倒れているダゲットが“I’ll see you in hell, William Munny”と言うと、マニーは“Yeah”と応じた上で止めの一発を放ちます。

 なお、その前に、ダゲットは、“I don't deserve this... to die like this. I was building a house”と言うのですが、これに対してマニーは、“Deserve's got nothin' to do with it”と答えます。
 ここの部分は訳が難しいのかもしれません。
 DVDの場合、吹替え音声では、ダゲットが「なぜこんな死に方を、なんの報いなんだ、家を新築していた」と言うと、マニーが「お前は生きるに値しないのさ」と答えますが、字幕では、ダゲットが「なぜおれが」「こんな最後を」「新築していた」と言うと、マニーが「貴様こそ本当の悪党だ」と答えます。
 マニーの答えは、実際には、「こうして殺されることと家の新築とはなんの関係もない」というような意味合いではないかと思われ、DVDの訳ではそれを重く受け止めすぎているような気がします。

(注3)劇場用パンフレットに掲載の橋爪謙始氏による「画コンテ」には、「女郎たちが金吾の遺体を入り口から降ろすシーン。女郎たちに気づいた十兵衛とお梶の目があう。「地獄で待ってろ」。そう言い残し、十兵衛は馬に乗る」とあります。
 画像まで掲載されていますから、ここには制作者側の姿勢が表れているものと思います。

(注4)Wikipediaによります。さらには、「地獄宿」という言い方もあるようです(このサイトの記事によります)。

(注5)本文の(3)でも触れているエッセイにおいて、中条省平氏は、「女郎たちの復讐を求める感情は正当なものです」としながらも、「しかし、殺人は負の感情の連鎖を引き起こすだけで、決して正義の回復には到達しないのです。そのことを聖書では、「復讐するは我にあり」という神の言葉で表現しました。つまり、罪悪への復讐は神の手に委ねるべきであって、人間がそれを行えば、それは正義ではなく、私怨と罪悪の連鎖を生み出すことにしかなりません」とし、「一見正当に見える義侠心を発揮した女郎たちこそ、最初の悲劇の火種を撒いた人間であり、まさに「許されざる者」なのです」と述べています。
 ですが、仮にそういう意味合いで十兵衛が女郎たちに「地獄で待ってろ」と言ったのだとしたら、極端な言い方をすれば、十兵衛はキリスト教徒だということになってしまうのではないでしょうか?

(注6)元の作品では、シェリフのだゲットが“許されざる者”であり、また彼を殺したマニーもやはり“許されざる者”なのでしょう(ここで、神の下では人間は皆罪人であり、だから皆が“許されざる者”なのだという視点を持ち込むと、話が拡散してしまうのではないでしょうか)。




★★★☆☆




象のロケット:許されざる者

共喰い

2013年09月19日 | 邦画(13年)
 『共喰い』を新宿ピカデリーで見ました。

(1)本作は、田中慎弥氏の芥川賞受賞作の映画化であり、それも『東京公園』などの青山真治監督が手がけた作品だというので、映画館に行ってみました。

 舞台は、山口県下関市の川辺という地域。
 映画の冒頭で、下関行きのバスから高校生が降りてきて港を歩いていきますが、「俺が17歳の時、おやじが死んだ。昭和63年だった」というナレーションが流れます(注1)。
 これで、この高校生・遠馬菅田将暉)が主人公であることや時代設定がわかります。



 さて遠馬は、別に住む母親・仁子田中裕子)が営む魚屋に入っていきます。



 彼女は、空襲により右腕の先がなく、特別の器具をつけて魚を捌いています。
 さらに彼女は、空襲で両親をなくし、魚屋に住み込みで働いていた時に、元夫の光石研)と知り合い結婚します。



 ところが、結婚した後に、円がセックスの時に殴りつけることや他に女がいることを知ります。遠間がお腹にいる時は殴りませんでしたが、暫くするとまた殴り始めたため、仁子は夫と別れ、一人で魚屋を営むことにしたとのこと。
 物語は、遠馬と仁子、それに遠間の父親の円とその現在の女・琴子篠原友希子)、さらには遠馬が付き合っている女高生・千種木下美咲)の間で展開していきます(注2)。
 中心となるのはどうやら横暴な父親・円のようですが、さて一体どうなることでしょう………?

 本作はなかなかの出来栄えだと思います。父親から息子への性的嗜好の継承といった特異な観点から男女の性的関係が濃密、かつ巧みに描かれているだけでなく、舞台となる地域の淀んだような雰囲気、特に真ん中を流れる川の汚れきった様とか、そこで採れるうなぎの映像などによって、原作の雰囲気が一層強く醸しだされている感じがしますし、また、光石研や田中裕子などの俳優陣も大層頑張っていると思います(注3)。
 さらには、ラストで流れるギターによる「帰れソレントへ」は、その力強い響きで観客に強く訴えかけます(注4)。

(2)とはいえ、クマネズミは、脚本家・荒井晴彦氏が書いたシナリオに問題があるのではと思いました(注5)。
 2点あると思います(注6)。
イ)同タイトルの原作(集英社文庫)には書き込まれていない昭和天皇の戦争責任という問題を、無理やり付け加えているように思います(注7)。
 勿論、原作の年代設定が昭和63年とされており、また仁子の右腕の先が空襲によって失われたことは原作に書かれています。
 でも、映画のラストの方で、昭和天皇の容態が悪化したのを知った仁子(注8)に、「せめて判決が降りるまで生きていてほしい。そうすれば恩赦があるだろうから。あの人が始めた戦争でこうなったのだから、せめてそのくらいしてほしい」などと言わせたり、翌年1月に昭和天皇が崩御されたことを最後に字幕で出したりまでする必要性があるのかと思いました。

 これは同じく荒井氏がシナリオを書いた『戦争と一人の女』でも言えることです(注9)。その作品においては、坂口安吾の小説に、当時起きた「小平事件」を挟み込む形(それも、日中戦争で日本兵が犯したとされる暴虐と重ねあわせる形)でシナリオが書き上げられていますが、酷くとって付けられた感じがするところです(注10)。
 こういうことで映画にリアリティーを持ち込むことができると脚本家が考えているとしたら、それは違うのではないかな、それは余計なことではないかなと思いました(注11)。

ロ)これも原作では書かれていませんが、映画では、仁子や琴子、それに千種のその後まで描き出されます。
 小説では、養護施設に入った遠馬(「家庭環境不良」の17歳ということで入所できるようです)が拘置所に入った母親・仁子のことを思いやるところで終わっていますが、映画では、3人の女のその後のことが描き出されます(注12)。でも、そんなことは、観客がそれぞれ勝手に思いやればいいのであって、わざわざ映画で描いて貰う必要のないものではないでしょうか?

(3)渡まち子氏は、「監督はこの映画を70年代のプログラム・ピクチャーのロマンポルノを意識して作ったというが、21世紀の今はその意図がわかり難いのが惜しい。主人公は少年だが、物語は女性の底知れぬ闇と力強さを感じさせる作品だ」として60点をつけています。
 また、早稲田大学の藤井仁子・准教授は、「ここで青山は、「日本映画」の伝統をたんなる反復ではないかたちで転生させることに成功していると思う。その典型的なあらわれがクライマックスで降る凄まじい雨だ」云々と述べています。
 さらに、相木悟氏は、「特筆すべきは、映画独自のシーンを追加したラスト・シークエンス。女性映画にせんとする青山監督の意図と合致した、ひとつの時代の終りと、やがて訪れる女性が担う新時代の到来はことさら衝撃であった」云々と述べています。




(注1)ナレーション自体は、遠馬役の菅田将暉ではなく、父親・円役の光石研が行っています。

(注2)もう一人、遠馬の父・円が時々通う、アパートに住む女(宍倉暁子)がいます。

(注3)主役の遠馬を演じる菅田将暉や、ヒロインの千種役の木下美咲もなかなか頑張っているところ、まだまだ若く(菅田は20歳)、出演本数が増えればこれから大いに伸びるものと思います。



 光石研は最近も、人のいい旅館の主人の役(『はじまりのみち』)から、寂れたサロンのオーナー役(『東京プレイボーイクラブ』)まで、相変わらず幅広い役柄をこなしているところ、本作でも、また目を見晴らせる演技で円の役を巧みにこなしています。
 田中裕子は、『はじまりのみち』で主人公の母親役を演じ、実に存在感のある優れた演技を披露していましたが、本作の仁子も彼女以外には考えられないところです。

(注4)なお、映画の表現で問題があるのではと思うのは、遠馬が高校生だとして、そのことが画面からはほとんど感じ取れない点でしょうか。勉強している画面がないのはかまわないにせよ、彼を囃し立てる子供たちは登場するものの、級友などが一人も顔を出さないのはどうしたことでしょうか(尤も、小説でも書き込まれておりませんが)?

(注5)本作のシナリオは、月刊誌『シナリオ』10月号に掲載されています。
 なお、実際に公開される映画とシナリオとの間には、日本の場合相違することがが多く、本作に関しても、例えばアパートの女の部屋で遠馬が性行為をするシーンが随分と簡略になっていたりします。
 ですが、以下で問題にする場面に関しては、シナリオの段階から書き込まれているものです。
 さらに、同誌に掲載されている荒井晴彦氏と山根貞男氏との対談において、山根氏の「荒井さんはシナリオを書くとき、監督である青山さんと、どういう方向でシナリオを書こうかという話はしたんですか」との質問に対し、荒井氏は「全然しませんでしたね」と答えていますから(P.9)、それらの場面は荒井氏の考えに従って書かれているものと考えます。

(注6)いずれも、原作と相違する事柄ですが、クマネズミは、原作を映画化する場合に、原作に忠実でなければならないと考えているわけではありません。問題は、どのように原作を改変するかという点だと思います。

(注7)季刊誌『映画芸術』本年夏号に掲載の原作者・田中慎弥氏と脚本家・荒井晴彦氏との対談において、荒井氏は、「田中さんは、自分が考えていたことの延長というか、木に竹を接ぐようなことはしていないと理解してくれたんで、助かったけど」と述べていますが(P.8)、クマネズミはまさに“木に竹を接ぐ”ような格好になってしまっていると思いました。

(注8)仁子は、最後に円を殺してしまい拘置所にいるのです(小説も同様です)。

(注9)『戦争と一人の女』についての拙エントリの「注1」に書きましたように、同作のシナリオ制作には荒井氏だけでなく中野太氏も加わっておりますが、そして「注8」で述べたように、監督の井上淳一氏の類似の意向もあったようですが、さらには荒井氏は井上監督の撮り方にかなりの不満を持っているようですが(季刊誌『映画芸術』本年春号掲載の座談会「戦争の時代の本当の声を映画はいかに聞いたのか」)、「注9」等からすれば、同作のプロットの大部分は荒井晴彦氏によるものだと考えられるところです(なお、シナリオは、同作の劇場用パンフレットに掲載されています)。

(注10)他にも、『戦争と一人の女』と本作には共通点があるように思います。
 まず、同作では「空襲」が大きく取り上げられていましたが、本作においては、ラストで仁子が言及しなければそれほど注目されなかったと思われます。
 また、異常な性行為が映し出されている点が共通しています。本作では、性行為の際に円が相手の女を殴りつけたりしますが(遠馬も一度、千種の首を絞めてしまいます)、同作でも傷病兵・大平が、米を求める女たちを騙して山林に連れ込み、強姦して絞殺してしまうのです。
 さらに、荒井晴彦氏は、劇場用パンフレットに掲載された青山真治監督との対談において、「ただ、脚本にしようとすると、原作を全部映しても尺的に短い。じゃあ、これはサイズ的にも内容的にもロマンポルノだと。ロマンポルノ乗りで行こうと思ったんです」と述べているところ(本作は「R15+」の指定)、『戦争と一人の女』はピンク映画(R-18指定)なのです。
 荒井晴彦氏は、どんな原作を見ても、自分の趣向に従って同じように料理してしまう傾向があるのではないでしょうか?

(注11)本文の(3)で触れた相木悟氏は、「仁子さんの“大きな父さん”と“小さな父さん”に対するけじめの怨嗟は、日本戦後史への批評としても多くの人の胸を打とう」と述べ、また、映画評論家の村山匡一郎氏も、「原作にない仁子の怨嗟の言葉は、原作を超えて映画を一気に現代史に広げていく」云々と述べて、★5つ(「今年有数の傑作」)を与えているところ、そんな目印になるようなものを事々しく画面に描きこまなくては現代と繋がらないような映画は、逆に不出来の作品とも言えるのではないでしょうか?

(注12)仁子は、拘置所で面会に来た遠馬と会って、右腕のことを話します。また千種は、仁子が営んでいた魚屋で働いています。さらに琴子は、殺される前に父親・円と別れ、再び飲み屋で働いていたところで遠馬と会います。
 あるいは、粗暴な円の軛を逃れて、3人の女が自立の道を歩み始めたことを示したかったのかも知れません。でも、それは、余計なことではないでしょうか?
 仁子は、千種が円に暴行されたと聞いて円を殺してしまいますが、そしてそれは復讐しようとする遠馬に成り代わって殺したとされていますが、あるいはむしろ円を自分の腕の中に取り戻したくてそうしたとも解釈できるのではないか、少なくともそう解釈出来る余地を残しておく必要があるのではないか、と思いました(結局のところ、小説が描く3人の女は、「円-遠馬」が作る円環の外に出ていったように見えても、実際には出ていけないように思われるところです)。




★★★☆☆




日本の悲劇

2013年09月18日 | 邦画(13年)
 『日本の悲劇』を渋谷のユーロスペースで見ました。

(1)80歳を超える仲代達矢の主演映画だというので映画館に出向きました。

 映画は、病院を退院して家に戻ってきた父親・不二男仲代達矢)とそれに同行した息子・義男北村一輝)が、ダイニングキッチンに置かれている椅子に座る場面から始まります。
 まず、どこに不二男が座るのかで揉めて、その後義男が彼の衣類を洗濯機にかけようとすると、「下着以外は必要ない」と不二男は言い出し、さらに義男が居間で布団を敷き出すと、彼は「俺は寝ないから、そんなことをする必要はない」と強く言い張ります。
 義男はそう言う父親に怪訝な思いをしながらも、それを無視して作業を続けます。
 その後、義男の話からすると、不二男は肺がんであるにもかかわらず、治療を断って勝手に退院してきたとのこと。不二男は自分で、「このままだと、もってみつき(三月)」、さらには、「1週間か10日、長くてもひとつき(一月)、それ以上はもういい」などとも言います。
 さらに不二男が、せっかく注文した寿司を食べないので、とうとう義男はキレてしまいます。
 「俺はあんたの年金で食っている身、こんな寿司など食えた身分じゃない。けど、切り詰めて1日1,500円、ひとつき6万で暮らしている。けれど今日は母さんの命日だから、寿司をとったんだ」などとしゃべります。
 こうして映画は進んでいきますが、父親の不二男はいったい何を企んでいるのでしょうか、それに対して息子の義男はどのように対処するのでしょうか、………?

 画面に登場するのは、もっぱら父親とその息子の2人だけ〔回想シーンで、妻(大森暁美)や息子の嫁(寺島しのぶ)が登場しますが、それでも4人です〕。また舞台も、小さな家の居間とダイニングキッチン、それにそれらの間の廊下だけというシンプルさです(息子が何度か家の外に出ますが、それはすべて音で表現されます:なお、音楽は使われておりません)。
 さらに、仲代達矢は新劇の重鎮ですから、全体としてコテコテの新劇調になりかねないところ、本作は取り扱っている問題の大きさによるのでしょうか、新劇臭さはあまり感じられませんでした。
 なにしろ、この息子は、勤務していた会社でリストラに遭い、精神的に落ち込んで精神病院に入り(その間に、妻子は気仙沼の実家に帰ってしまいます)、退院して父母のいる家に戻ったと思ったら、母親が倒れてその面倒を4年間見て、その挙句東日本大震災で気仙沼にいた妻子を失い(捜索したものの見つかりませんでした)、さらには父親の肺がんという具合です。

 ひどく重苦しいテーマを扱っており、またそれがモノクロの画面で強調されるのですが(一部はカラー)、小林政広監督の演出が巧みなためでしょうか、俳優陣の演技の凄さによるのでしょうか、こうした作品にありがちな嫌味を感じずに見ることが出来ました。

 主演の仲代達矢は、『春との旅』にもまして圧倒的な存在感を示していて感動します。特に、彼の顔が画面いっぱいに大写しになることが多いのですが、そんな大写しに耐えることができる顔の持ち主は、今の日本にはそんなに多くはないのではないでしょうか?



 また、共演の北村一輝は、最近では『真夏の方程式』に出演しているのを見ましたが、それほど出番がなかったために印象が薄かったところ、この映画ではなかなかの演技力の持ち主であることがわかりました(注1)。



(2)本作の物語は、2010年7月に足立区で実際に起きた事件(概要はWikipediaに掲載)によっているようですから(注2)、現実にありうることなのでしょうが、不二男のように一つの部屋の中に釘を打ち付けて完全に閉じこもってしまった場合、例えばトイレの問題をどうするのかなどを考えると、そんなに簡単にいかないのではと思われます(注3)。
 また、義男は、部屋に閉じこもってしまった父親に対し、戸を開けるように何度も懇願しますが、本当にそう思っているなら、警察などの手を借りて戸をこじ開けることもできるのではないでしょうか(注4)?
 さらに、義男は、父親が勝手に病院を退院してしまったと言っていますが、仮に「余命3カ月」(本人の言。義男は「半年ももたない」と言っています)で手の施しようがなければ、大概の病院では医師から退院を勧告されるのではないでしょうか?
 それに、義男は、リストラされたあと自傷行為をするなど精神的に落ち込んでしまい、妻に内緒で「長野の方の精神科の病院に入った」と言っていますが、患者が自ら進んで精神病院に入院するなどといったことは、あまり考えられないことではないでしょうか?

 このように、この家族に襲いかかる様々な事件について、そのリアルさという点では難があるものの(注5)、本作が中心的に描き出そうとしている父親と息子との関係からすれば、それらは背景的なものといえ、そんなことにこだわっても余り意味がないように思われます。
 そして、息子が様々の出来事に遭遇していて大変であることはよくわかっていながらも、しかしそんな中でも頑張って生き抜いてもらいたいと願う父親の気持ちの切実さは、大変リアルなものがあると感じられました。
 やっぱり父親は、息子が一人前になること、独り立ちすることを待ち望んでいるのであり、それには息子自身が積極的に難事に立ち向かっていかなくてはならないと、それまでの経験からわかっているのです。でも、すぐにそれができるわけでもなく、時間がかかるというのであれば、それまでは出来るだけのことをしようと考えるのではないでしょうか?それで、「俺の返事がなくなっても、戸を破って入るんじゃない。その日から数えて、半年。いや1年でもいい。お前の仕事が見つかるまで、ここは閉めきったままにしておけ」と不二男は義男に言うのだと思います。
 先の短いことを自覚している父親の切羽詰まった気持ちが巧みに描かれている作品だと思ったところです。

(3)佐藤忠男氏は、「ここで不幸の条件とされていることは、今の日本では大いにありうることばかりである。小さな一家族の中の出来事だが、これを「日本の悲劇」と呼ぶのは決して大げさではない、と、見ていて思えてくる」などと述べています。




(注1)説明的な台詞が多く、かなり新劇調になってしまうのは、義男に狂言回し的な役割が与えられているために仕方がないと思います。

(注2)劇場用パンフレットの「かいせつ」に「東京都荒川区で起こった事件」とあるのは、「足立区」の誤りでしょう。

(注3)即身仏は、様々な修行を積んだ上のこととされており、強制的に閉じ込められてしまったのなら別ですが、一般人が自ら進んで、食事を取らずに餓死してミイラになるというのは、非常に困難なことではないかと思われるところです。
 不二男の場合、余命3カ月ということで寝たきり状態ということであれば、それもあるいは可能なのかもしれません。でも、画面から見る限り、外見上は健常者然としています。

(注4)実際には、6万円の年金を受け取るよりも生活保護を受ける方が多くの金額を手にすることができるでしょう(ただ、生活保護を受けるのを潔しとしない人も大勢いますし、いろいろ面倒なことも多く、また簡単には認められないようです。それに、義男は、これまでも父親の年金で暮らしてきましたから、それで生活することに慣れてしまっているのかもしれません)。
 あるいは、父親の死後、今生活している持ち家を売却することによって(6万円の生活費の中には家賃は入っていませんでした!)、まとまったお金を手にすることはできるのではないでしょうか?

(注5)不二男は、戸をこじ開けるようなことをすれば手元にあるノミで喉を突くと脅かします。彼は大工職人で一本気なのでしょう、あるいは本当に自殺するかもしれません。でも、そんなことをしたら、彼の企みは潰えてしまいます(その時点で年金は支給停止になるでしょうから)。ここは、それは脅かしにすぎないとも考えられるのではないでしょうか?



★★★☆☆



象のロケット:日本の悲劇

夏の終り

2013年09月10日 | 邦画(13年)
 『夏の終り』をヒューマントラストシネマ渋谷で見てきました。

(1)本作は、瀬戸内寂聴の原作(新潮文庫)を映画化したもので(注1)、満島ひかりが出演するというので関心を持ちました。

 物語の舞台は昭和30年代の東京。
 映画の冒頭では、木造の小さな家が立ち並ぶ路地を、オーバーを着た一人の若い男が家を探して歩き回っています。一軒の家の表札を確認すると、その男が門の中に入っていきます。
 すると場面は変わり、縁側で猫に餌をやる男。「ごめんください」との声を受けて、彼は玄関に出ていきます。
 続いて女が外から戻ってきます(注2)。
 家の中の男が「早かったね」と言うと、女は「食べる?コロッケ」と言いながら、それをお皿にあけ、自分で一つ頬張ります。
 男が、「今日、木下君が来たよ、土産を持ってきたんだけれど、よっぽど僕が信用されなかったのだろう、すぐに帰ったよ」と言ったところで、クレジットが入ります。
 女は相澤知子満島ひかり)、木下を出迎えた男は、知子の家で一緒に暮らす小杉慎吾小林薫:実は鎌倉に本宅があり、そこに妻や娘がおります)、木下涼太綾野剛)は知子が以前別れた愛人です(注3)。

 慎吾は、知子の存在を妻に告げてはいるものの、離婚する気はありません。知子は、はっきりしてと迫りますが、なんだかんだと逃げています。他方、涼太は、知子と別れたあとも未練が残り、関係の修復を図ろうとします。知子は、慎吾の態度が優柔不断なせいもあって、涼太と再度関係を持ってしまいますが、こうなると今度は、涼太が、知子に対して慎吾との関係をはっきりしてくれと迫ります。
 さあ、この3人の関係は過去どのようなものであり、これからどうなるのでしょう、……?

 本作は、主人公の知子を中心にした四角関係とでもいうべきぐちゃぐちゃした関係が出来上がった経緯やその後の進展ぶりが、昭和30年代の濃密な雰囲気の中、主人公を演じる満島ひかりの熱演もあって、大変巧みに描き出されている文芸物だなと思いました。

 満島ひかりは、最近では『スマグラー』で見ただけながら、さすがの演技を披露しています(注4)。



 小林薫は、『舟を編む』で見ましたが、この俳優が出てくると画面に奥行きが出てくる感じがします。



 綾野剛は『シャニダールの花』で見たばかりですが、今が旬なのでしょう、どんな役をやっても様になっているのは凄いと思いました。



(2)こうした関係は、まさに昭和30年代だからこそありえたのではという印象を受けます。
 男が、本宅と別宅とで半分ずつ暮らすというのは、成金が身請けした芸者を妾として別宅に住まわすという昔の風潮の名残のようにも見え、あるいは当時文壇の主流を占めていた自然主義作家の一つの生き方のようにも思えます。
 でも、そうした時代的な重しを取り去って(あるいは、意識しないようにむしろその中に入り込んでしまって)、男女の濃密な関係が描かれている作品として本作を見れば、それなりに興味を覚えます。

 一つ挙げるとしたら、画面には一切登場しないものの、本作を大きく支配する人物として慎吾の妻が描かれている点でしょう。
 知子は、時々通ってくる女学生のまり(注5)が見つけ出して机の上に置いてあった彼女から慎吾に当てた手紙を読んだり、彼女からの電話を直接受けたりして、強いショックを受けます。そればかりか、自分が風邪で臥せっている時も、慎吾はきちんと妻のもとに帰っていくのです。それで、こうした関係に決着をつけようと、知子は慎吾の本宅に出向くものの、不在で会うことが出来ません(逆に、不在だからこそ、知子は、慎吾の家に妻の存在を生々しく感じてしまいます)。
 知子が涼太都の関係を復活させたのも、慎吾の妻がもたらす不安定さ(相手が見えないからこそかえって募るようです)を解消しょうとしてのことだと思われるところです。
 ただ、それは、さらに涼太に不安定さをもたらしてしまい、慎吾と知子の関係について、涼太は「無神経なんだよ、ふしだらで、淫らでだらしないよ、なぜ別れないんだよ」などと言い募るようになります。
 本作は、この見えない登場人物に3人が翻弄されている作品と言えないこともないのではないでしょうか?

(3)言うまでもないことながら、本作と原作とは感じが違う点が色々と見つかります(一般に、映画が原作と違うのは当然ですから、それ自体に問題はないでしょう)。
 例えば、本作では、四画関係とでもいうべきひどくもつれた関係が描かれているにもかかわらず、知子の性的な行為は直接的には殆ど描かれません(事後的にそれとわかる場面はありますが)。
 とはいえ慎吾については、原作でも、「いつからか慎吾は知子をいたわって二人の間で性の匂いが薄れていた」とか、「涼太との秘密を持ってしまってからは、いっそう知子には慎吾とのプラトニックな愛が稀有なもののように大切に思われてきた」とあるので(注6)、おそらく映画でもそれを踏まえているのでしょう。
 ただ、涼太については、原作では、「涼太は知子の姓名を吸い尽くそうとでもするように、貪婪に知子をむさぼった。その度涼太の体は瑞々しさをとりもどし、活力がどこからかよみがえってきた」などとかなり直接的に描かれています(注7)。
 尤も、今出回っている小説などで見られる露骨な表現からすれば、霞がかかりすぎているといえるかもしれませんが。

 他方、つまらないことですが、原作では明示されていない地名が、本作にあっては、はっきりと映し出されています。
 例えば、知子の家の表札には、「相澤 大和町」とありますし(注8)、知子が慎吾の使う机の下から見つけ出した彼の妻からの手紙には、送り主の住所が「鎌倉」と記載されています。
 これらは原作では、「知子の下宿」(注9)とか「海辺の妻の家」と書かれていて(注10)、ひどく曖昧にされています(注11)。

 ところが、本作のラスト近くでは、知子が新しい生活をすべく引っ越しをするのですが、原作ほど引越し先がはっきりしません(むしろ、元の家を大掃除しているような感じを持ちました)。
 逆に原作には、「練馬区といっても、埼玉県の県境に近い所」にある「畠の中の建売住宅」(「和六、六、四半、台所、風呂美築月賦可」)とされています(注12)。
 この他、原作(短編「花冷え」)では、ラストで知子が待ち合わせをしている駅が、本作と同じように「小田原」と明記もされているのです(注13)。
 これは、慎吾と手を切って新しい生活をスッキリと始めたいとする知子の揺るぎない決意が原作(短編「花冷え」)には込められているために、物事がはっきりと書かれているのではないでしょうか?
 対して、それまでの短編では、知子を巡るどっちつかずの四角関係を描くために、地名などの具体的なものは曖昧にされているのではとも考えられるところです(注14)。

 翻って本作を思い返してみると、原作に比べてかなり曖昧に描かれている事柄もあります。
 例えば、本作で横浜港の場面が描かれますが、知子がどこに旅行してきたのかははっきりとしません。ですが、原作(短編「夏の終り」)の冒頭には、「一カ月のソビエトの観光旅行から帰ってきた知子」と明示されているのです。
 さらには、描かれる時代が昭和30年代であるとか、慎吾と知子の関係が8年間続いていることや、涼太とは12年前に別れたことなども、原作に比べるとそんなにはっきりとは示されていないように思います(注15)。

 他方で、本作では、知子が行う染色の作業がかなりクローズアップされている印象を受けました(注16)。そして、ラスト近くで知子は、型紙を作るために刀で専用の紙を彫っていますが(型彫り)、くり抜かれて出来た型紙は、実にくっきりとしたラインで葉を描き出しています。まるで、これからの知子の生活ぶりを暗示しているかのように思いました。

(4)渡まち子氏は、「2人の男の間で揺れ動き、嫉妬や情念の末に、いちから人生をやり直す決心をするヒロインの決断は、昭和30年代当時としては画期的な女の自立だったのだろう。今見るとさしたる驚きもないが、満島ひかりのどこかふっきれたような横顔はさわやかな力強さを感じさせた」として55点をつけています。
 また、相木悟氏は、「TV屋のつくった媚びた映画と違い、どっぷりとスクリーンに浸って人間の内面を窺う、邦画界久しぶりの映画らしい映画の登場である」と述べています。




(注1)新潮文庫版には、「夏の終り」のみならず、他に4編の短編が入っていますが、「雉子」を除くと、どの短編(「あふれるもの」「みれん」「花冷え」)にも「夏の終り」と同様に知子と慎吾が登場します。これら4編の小説で、知子と慎吾(それに涼太)を巡る関係が描かれているわけで、本作も、4つの短編からエピソードをピックアップして構成されています(以下で「原作」という場合は、4編全体を指すものといたします)。

(注2)前の場面とこの場面の間には時間的な経過がありますが、本作では切れ目ない感じで描かれます。

(注3)以前、知子の夫が東京の世田谷に住まいを移そうとした時、知子は付き合っている男がいて別れたくないからと言って、ついて行きませんでした(映画では、田舎道を小さな娘の手を引いて歩き去る夫の後ろ姿に向かって、知子は「だって、好きなのよ!」と大声で叫びます)。その時の愛人が涼太ですが、実のところはすぐに別れていたのです。

(注4)満島ひかりが若すぎて、本作の主人公にそぐわないのではという声があるようです。確かに、原作では、知子は「四〇近く」という年齢設定のようながら(短編「花冷え」P.186)、でも映画において同じ設定だと考えなくても構わないのではと思います。

(注5)原作には見当たらない登場人物のようで、わざわざ本作に登場させる意味はよくわかりません(知子や慎吾に娘がいることの象徴でしょうか?)。

(注6)短編「夏の終り」のP.65とP.67。

(注7)短編「あふれるもの」P.41。

(注8)中野区大和町を指すのでしょう(このサイトの記事によります)。
 また、このサイトの記事が参考になるかもしれません。

(注9)例えば、短編「あふれるもの」P.8。
 なお、短編「花冷え」では、もう少し具体的に、「ひょろ高い二階家は、母屋のすぐ裏に、全くの別棟になっていて、木口もしっかりしていた」、「旧都心にありながら、その家の崖の下は、二千坪ほどの畑地が残っていて、奇蹟的な閑静さに恵まれている」と書かれています(P.157)。

(注10)「避暑地の入り口として有名な」駅から「意外な近さ」のところにある家だともされています(短編「夏の終り」のP.101)。

(注11)この他にも、慎吾の妻は、電話で、入院した国元の姪にお見舞いを送ってくれるよう知子に依頼しますが、その宛先として、本作では極めて具体的に「山形市末広町二四番地結城病院内」と伝えられるところ、短編「みれん」では、「東北の盆地の町の住所」とされるばかりです(P.125)。
 こんなところは、原作者の瀬戸内寂聴が同棲していた相手の小田仁ニ郎の出身地が、山形県南陽市であることによっているのではと思われるところです。
 なお、このサイトの記事によれば、「小田仁二郎は「週間新潮」に時代小説「流 戒十郎」を連載している。それは柴田錬三郎の人気小説「眠 狂四郎」の後釜であった」とのことで、本作において、慎吾が眠狂四郎の円月殺法の真似をするのも、そのことを踏まえているのでしょう。

(注12)短編「花冷え」のP.169(このサイトの記事によれば、より具体的には「練馬区高松町(現・土支田一丁目)」のようです)。

(注13)短編「花冷え」では、待ち合わせをしている相手は慎吾ですが、本作では、それは明かされません(劇場用パンフレットに掲載の満島ひかりのインタビューでは、彼女は、「実は続きを撮っています。ある人と知子は会っているのです。そこは観た方の想像に委ねたいので、誰だったかは教えません(笑い)」と述べています)。

(注14)本作において、ことさら地名が明示的になっているのは、設定が東京とされているにもかかわらず、兵庫県の洲本市など関西方面でロケをしたことも与っているのかもしれません。

(注15)ダンスホールで会って話している際に、知子が涼太に「8年よ」と言っているくらいではなかったかと思います。

(注16)原作では、せいぜい「図案を画きながら、染料をときながら、型紙にのみをあてながら」とあるくらいです(短編「花冷え」P.180)。



★★★★☆



象のロケット:夏の終り

RETURN(ハードバージョン)

2013年09月04日 | 邦画(13年)
 『RETURN(ハードバージョン)』を、ヒューマントラストシネマ渋谷で見ました。

(1)これは、『謎解きはディナーのあとで』に出演している椎名桔平の主演のアクション映画であり、評判の良かった『わが母の記』の原田眞人監督が制作するアクション映画でもあるということで興味を持ち、映画館に出かけてみました。

 物語の始まりは2002年のこと。
 普通の会社員だった古葉椎名桔平)が、ギャンブルにはまりこんだ挙句ヤミ金にまで手を伸ばしたところ、あまりにヤミ金の取り立てが凄まじいために反撃し、ヤミ金の社長(高嶋政宏:実は暴力団・御殿川組の会長の息子)をゴルフクラブで殴って殺してしまいます。
 それでホトボリが覚めるまで南米ペルーに行っていたところ、そこでの雇い主から、日本に戻ってある人物を殺してこいと命じられます。

 古葉は北原と名を変えて10年ぶりに日本に帰ってきたものの、3.11後のため彼の知る日本とはかなり様変わりしています。
 そんな中で、北原は目的の人物を、その人物の愛人である伽羅水川あさみ)や運転手のウノ山本裕典)と一緒になって探しまわります。
 他方で、北原の帰還を知った御殿川組の方では、殺された若社長と兄妹の三姉妹(キムラ緑子赤間麻里子土屋アンナ)が復讐しようと付け狙い出します。
 さあ北原の運命やいかに、……?

 ただ、粗筋をたどってくると正統的なアクション物と思えるものの、実のところはコメディ物と見紛うような作品です。
 何と言っても御殿川組の三姉妹がハデハデしく、例えば、
・刑務所に入っている長女・亜芽キムラ緑子)の出所を早めるべく、次女・仁子赤間麻里子)と三女・土屋アンナ)が警察の署長(でんでん)に掛け合いに出向くのですが、奇抜な髪型の仁子の出立は和服に日傘ですし、丸の騒々しさは半端ではなく、仁子が「うるせーってんだよ、この野郎」とか「バカは黙って仕事をしろ」と言うくらいのハイレベル(注1)。

 また、
・刑務所に半年ばかり入っていた長女・亜芽が、出所すると唐突に、「この国の放射能汚染は、政府が言うほどやわじゃない、組ごとブラジルに移住する」と宣言し、組員たちを唖然とさせます(注2)。
・次女・仁子は、それを聞いて、「ブラジルは何語でしゃべるんだ?」と組の幹部に尋ね、彼が「スペイン語じゃないですか」と答えると、「イタリア語だろ、バカヤロウ」、「いやフランス語かな」と応じたりします。
・三女・丸も、「俺は絶対行かない。ブラジルなんて地球の裏側。裏街道歩いている人間が、地球の裏側に行ったりしたら、裏と裏とで表になってしまうから」と言う始末。

 さらには、椎名桔平が扮する北原も、もとはカタギだったからでしょう、「です・ます」調で物静かに話したり、温泉旅館の宴会場で伽羅とウノの3人でゲーム(負けると“チャップリン歩き”をする)に興じたりする一方で、敵の5人をブラジルカポエイラの技と銃剣一本で次々と殺ってしまうのです。



 まあ、おそらく演じている俳優たちはかなり面白かったのではと推測しますが、果たしてそれを見る観客が面白いと思うでしょうか、でも観客が極端に少ないところを見ると、そうもいかないものと思います。

(2)本作に関しては、監督の原田眞人氏のインタビュー記事が、雑誌『シナリオ』9月号に掲載されています。
 そこでは、例えば次のように述べられています。
・「『わが母の記』で原作から離れてクリエイトした子供たち、あの三姉妹を今度は武闘派三姉妹としてよみがえらせよう」とした(注3)。
・次女・仁子役の赤間麻里子は、『わが母の記』で主人公の妻の役を演じているが、「あっちではあんまり目立たない、大人しい役だったけど、今回はとにかくビックリさせたいな」と考えた。
・第1作の『KAMIKAZE TAXI』(1995年)にあった、「例えばタキシードを着たタクシーの乗客とか、それから温泉でのゲームとか」をよみがえらせようとした。

 こんなところを読むと、どうやら本作は、原田眞人監督が手がけた『わが母の記』や、特に『KAMIKAZE TAXI』をよく記憶するファンにとって、すこぶる面白いのかもしれません。
 でもそれって、作者の身辺をよく知る者が読むと面白い「私小説」と同じこと(ごく狭いサークルのメンバー向けの作品)ではないでしょうか?

(3)とはいえ、「私小説」といえども、よく出来た作品の場合、作者につき細々としたことに通じてなくともしみじみとした味わいを感じるのと同様に、ここまで突出すると、本作だけを見てもまずまず面白さを感じるところです。
 ですが、本作のラストがいけません!
 原田監督が、ブックエンド方式(「始まったところに最後は戻る」)としてラストを重視しているにもかかわらず(注4)、なんと北原が、「御殿川組シスターズ」に対して、「(移住先は)アルゼンチンじゃいけませんか?」と言い出し、三女・丸が「俺、アルゼンチンだったら行ってもいい」と応ずるのです(注5)。
 せっかく、黒澤明監督の『生きものの記録』(1955年)を踏まえてブラジル移住とされているものが(注6)、どうして突然アルゼンチンに変更されてしまうのでしょうか?
 ブラジルで3年間生活してブラジルファンとなっているクマネズミにとっては、許されないものを感じてしまいました!?

(4)映画ライターの外山真也氏は、「紛れもない傑作だった前作(『KAMIKAZE TAXI』)よりも、少々いびつな今回の方が、原田真人好きのツボにハマるのではないだろうか」として★5つをつけています。
 また、映画評論家の相木悟氏も、「(前作の『KAMIKAZE TAXI』に)対して、本作は逆に若者世代への決起を即しているように思う。混迷の時代、立ち上がるのは今だ、と。まさに今観るべき映画といえよう」などと絶賛しています。



(注1)他のシーンでは、三女・丸は、警察官を刀とピストルを持って追いかけ、彼らが逃げ込んだ警察署でピストルをぶっ放し、その上で意気揚々と引き上げてきます。

(注2)この他にも本作では、2002年に起きた「東京電力原発トラブル隠し事件」のことを伝えるラジオニュースが流れたり、北原が乗るタクシーの運転手が線量計を手にしていたり、北原が入り込んだ畜産農場の柱に「原発マフィア生き延び日本滅ぶ」という文字が刻まれていたり、福島第1原発事故絡みの描写があります。ただ、本作全体の中に置かれると、これらもギャグめいた感じになってしまいますが。

(注3)『わが母の記』では、ミムラ、菊池亜希子と宮崎あおいによる三姉妹。

(注4)雑誌『シナリオ』9月号掲載のインタビュー記事の最後のところ。
 なお、本作の始まりは、椎名桔平が勤務する旅行代理店のシーンで、「パラダイス・ロスト?」とキャッチフレーズが入り南国の海辺が描かれているポスターが貼りだされています。

(注5)映画はこれで終わらずに、ラストのラストでは、なんと皆がバーベキューパーティーで和気あいあいと談笑に耽るのです。あれだけのバイオレンス・アクションを披露したあとのバーベキューパーティーというのも、ひどく意表をつく終わり方だなと感心しました。

(注6)劇場用パンフレット掲載の「原田眞人監督インタビュー」によります。
 なお、『生きものの記録』は、ビキニ環礁で行われた核実験によって第5福竜丸事件が起きたことから作られたとされているところ(例えば、このサイトの記事)、このサイトの記事によれば、「船員を診察した医師の報告では、船員の死因は放射線障害とはされていない」とのこと。仮にそうであれば、『生きものの記録』の主人公の行動は、やはり妄想に基づくものとなり、またそれをベースにしている本作の長女・亜芽の唐突なブラジル移住宣言も、その意味合いが疑問視されるのかもしれません。



★★★☆☆




シャニダールの花

2013年08月16日 | 邦画(13年)
 『シャニダールの花』を吉祥寺バウスシアターで見ました。

(1)この映画を制作した石井岳龍監督の前作『生きてるものはいないのか』を見たこともあり、映画館に行ってみました。でも、興行的には不振のようで、休日にもかかわらず6人ほどの観客でした。

 映画の最初に、「恐竜に食い荒らされた植物が、絶滅から免れるために花を生んだ。植物が花と種に小型化したために、餌が激減してしまい恐竜は絶滅した」というナレーションが入ります。
 次いで、製薬会社の研究所で働く研究者・大瀧綾野剛)が、新任のセラピスト・響子黒木華)を連れて研究所内を案内します。

 研究室では研究員が研究に勤しんでいますし、ゲストハウスには何人もの若い女性が暮らしています。女性たちは、胸に植物の芽が生えてきたことから、1億円の契約金と引き替えに、この施設で花が咲くまで生活します。
 他方で、研究所の所長(古舘寛治)は、胸から花を切り離す手術に立ち会います。切り離した花は特別な容器に入れられます。ただ、その手術を受けた患者は酷く苦しみだし、モニターの心電図が平坦になってしまい、電気ショックが与えられます。
 一体この研究所では何が行われているのでしょう、大瀧と響子はこれからどうなるのでしょうか、……?

 若い女性の胸に植物が芽生え、ついには花を咲かせてしまうという着想は凄く面白く、またその花を中心にして描かれる大瀧と響子のラブストーリーも興味深く、総じて、原因不明の大量死が次々に描かれる『生きてるものはいないのか』より本作の方が、ズッと滑らかに物語が展開しているという印象を持ちました。

 主演の綾野剛は、『横道世之介』とか『その夜の侍』などで見ているものの、主演作を見たのはクマネズミにとってこれが初めて。持てる魅力が上手く発揮されている感じで、これからも大いに活躍するものと思います。



 また、ヒロインの黒木華は、『舟を編む』(あとから辞書編集部に参加)や『草原の椅子』(主人公の娘)で見ましたが、本作も含めて、至極真面目で芯のある女性の役にはうってつけではないかと思いました。



(2)本作を見て当然に起こるのは、「シャニダールの花」とは本作において何を意味しているのかということでしょう(注1)。
 映画の中では、「ネアンデルタール人の墓にあった花」と説明されています(注2)。でもそれは、付けられた名前の由来であって、この花の持つ意味合いではありません。
 石井岳龍監督自身は、「花はエロスと死の象徴であり、それに侵される男女を見つめ直すことは、生命力の在り方をとらえ直すこと」と語っています(注3)。ただ、それではなんだかありきたりで(注4)、全般的・抽象的なのではと思えます(注5)。

 そこでまず、本作でおける「シャニダールの花」の特徴を見てみると、例えば次のようなものが挙げられるでしょう。
・若い女性の胸に、突然芽が出てきて花が咲く。
・ただ、女性なら全てこの花を咲かせられるというものでなく、どうやらかなり限られた女性だけに起こる現象のようです。
・芽が出てきたら全て花が咲くわけではなく、枯れてしまう場合もあります(その場合には、施設から退去させられます)。
・切り取られた花からは、画期的な新薬を作り出すことが出来るとされています(それで、製薬会社は、大金をかけて芽を持った女性を集めています)。
・花は咲かせたままにしておくと女性の命に問題があるとされ、適当な時期に切り離されますが、花を胸から切り離す手術を施すと、その女性が死に至る場合もあります。

 本作において、この「シャニダールの花」は何かを象徴しているのではと考えられるところ、こう様々の特徴を持っているとなると、ドンピシャで当てはまるものはなさそうながら、クマネズミは、とりあえずは「女性の女性たるところ」あるいは「純粋な愛の心」といったものではないかと考えてみました。
 映画の中のより具体的なケース(注6)を踏まえながらもう少し言えば、若い女性の場合、純粋に愛の心を育んでいればこの花を大きく咲かせることが出来ますが、嫉妬や憾みでその心が歪むと育ちが悪くなり、また愛の心がなくなってしまうとたちまち枯れてしまう、というように考えてみたらどうなのか、と思いました。

 とはいえ、ラストの光景を見ると(注7)、こんな解釈ではどうも狭すぎるようです。なにしろ、辺り一面に「シャニダールの花」が咲き乱れる光景が出てくるのですから。そうであれば、やはり、「花はエロスと死の象徴」とするありきたりな解釈でとどめておいた方が無難なのかもしれません(あるいは「解釈X」とでもしておいて、この先も何がXとして代入できるか考え続けるべきなのでしょう )。

(3)もう一つ、この映画を見て興味深いなと思ったことは、大瀧のアシスタントのはずの響子が中心的に能動的に動いていて、主役の大瀧は、むしろ響子にいいように動かされている感じがする点で(注8)、なんだか最近見た『さよなら渓谷』が思い起こされました。

(4)渡まち子氏は、「人の胸に寄生する不思議な花をめぐるミステリアスなファンタジー「シャニダールの花」。終末論的な物語が展開するが、基本はメロドラマ」として60点を付けています。




(注1)響子は大瀧に対し、「この花は何?それが一番大切じゃないの?何より花のことを知らなくては」と言います(大瀧は、それに対し、「我々の仕事は、花を育て摘み取ることだけだ」と言うのですが)。

(注2)響子がハルカ刈谷友衣子)に、「「シャニダールの花」は、ネアンデルタール人の墓にあった花で、心が発生した瞬間だという説がある」と言い、「胸に生える花は、人が初めて生んだ花だから「シャニダールの花」と名づけられた」と説明します。
 ただ、ラストの方で、研究所(そのときは既に閉鎖されていますが)の所長が、「その話は大嘘。ネアンデルタール人は、残忍で肉食。あいつらは、花に寄生されて滅んだんだ。あの花はマグマの力を持っている。兵器になる可能性があり、各国のスパイが狙っている」などと大瀧に話します。



 とはいえ、所長の話自体も大嘘のようにも思えます。
 Wikipediaの「ネアンデルタール人」の項の「埋葬」には、「R・ソレッキーらはイラク北部のシャニダール洞窟で調査をしたが、ネアンデルタール人の化石とともに数種類の花粉が発見された。発見された花粉が現代当地において薬草として扱われていることから、「ネアンデルタール人には死者を悼む心があり、副葬品として花を添える習慣があった」と考える立場もある」と記載されています。
 なお、R・ソレッキーから送られてきた試料を分析したフランスの古植物学者のルロワ=グーランが書いた論文の翻訳を、このサイトで読むことが出来ます。

(注3)公式サイトの「Introduction」。

(注4)「花はエロスと死の象徴」と言われると、クマネズミはアラーキーの「花」の写真を思い出してしまいます。



 例えば、写真展「花緊縛」(2008年5月)に関する紹介文では、「「エロス(性/生)とタナトス(死)についていつも考えている」と荒木は言います。常にエロスとタナトスを表裏一体のものとして作品に抱え込む荒木は、本展にて、エロスとして“緊縛”を、タナトスとして“花”を用い、それらをひとつの作品のなかに共存させ、これまでに無いかたちで昇華させています」と述べられています。

(注5)なお、映画の中で響子は大瀧に対して、「みんな心に大きな穴を持っていて、大切なものを探して揺れている。花は心の絵なの」と言いますが、大瀧は「それは君の感傷的な解釈に過ぎない」と切り捨てます。

(注6)研究所のゲストハウスにいる女性について、簡単に見てみましょう。
ユリエ伊藤歩)の場合は、心を寄せていた大瀧が響子に関心が深いのを知ると、「何で先生は、私じゃなくて花にしか興味がないの!」と酷く暴れますが、結局は手術で花を切り離してもらうことになります。ところが、花が摘み取られた後、心臓が停止して死んでしまいます。
ミク山下リオ)の場合は、途中で芽が枯れてしまい錯乱して、他の女性の胸から咲きかかっている花をむしり取ってしまいます。
ハルカの場合は、研究所の施設に入りたくないと言っていたところ、響子の説得で翻意しそこで暮らすことになり、大きな花を咲かせます(ただし、その花を摘み取ってミクに手渡して倒れてしまいますが)。

(注7)「この花は、人を滅ぼす悪魔なのか、それとも人をどこかに導く天使なのか」と思い迷う大瀧の背後から響子が現れ(夢の中のようです)、「目が覚めたのか?」と問う大瀧に対して、「あなたが、今日、目が覚めたの」と言い、地面に咲く2つの花を指して「これが私、これはあなた」と言います。と周りを見ると、当たり一面に「シャニダールの花」が咲いており、大瀧は「僕たちはみんな花に戻る」とつぶやくのです。

(注8)響子は、密かに一人で研究室に潜り込んで「シャニダールの花」について調べるなど、自分でどんどん行動していくタイプのようです。
 響子が研究所に勤めてから暫くすると、彼女の胸にも芽が生えてきます。響子は、この芽を大事に育てて花を咲かせ、摘まないで種を得たらどうなるか見てみたいと強く望みますが、大瀧は、花は毒を盛っているから危険だとして、響子が寝ている隙に芽をナイフで切り取ってしまいます。すると、響子は大瀧に対して、「あなたは、自分が考えられることしか受け入れられない人だ。さよなら」と言って立ち去ってしまいます。



★★★★☆



象のロケット:シャニダールの花