『地獄でなぜ悪い』を渋谷Humaxシネマで見ました。
(1)最近では『ヒミズ』とか『希望の国』を見ている園子音監督の作品だというので、映画館に行ってみました。
本作は、一方に、なんとか素晴らしい映画を撮りたいものだと日夜努力を続けている高校生グループのファック・ボンバーズがあり、他方で、敵対し抗争にあけくれている暴力団が2つ(武藤組と池上組)あって、それらは10歳の女の子・武藤ミツコ(武藤組の組長の娘)でつながっていたことが、その10年後にわかります。
すなわち、武藤組長(國村隼)は、その妻(友近)の出所祝のため、娘のミツコ(二階堂ふみ)が主演する映画を組として制作しようとし、その監督に、ミツコと一緒にいた公次(星野源)を使うこととするのですが、彼は、昔10歳のミツコが出演していたCM(注1)を見て以来の熱烈ファンだったのです。
ただ、映画には素人だったため、公次は、不遇を囲っていたファック・ボンバーズ〔リーダーが平田(長谷川博己)〕を映画制作に引っ張り出すことになります。
その映画は武藤組が池上組に実際に殴りこみをかけるところをメインにするのですが、池上組の組長(堤真一)もまた、昔武藤組の組長宅に殴り込みをかけた時に10歳のミツコに出会ってから、彼女の虜になっています。
さあ、この映画制作はどんなことになるのでしょうか、………?
本作は、これまで見た園子音監督の作品の傾向とは大きく違って、全く破天荒なストーリーの映画で、あんぐりと口を開けて見守る他はありません。でも、破天荒だからこそ無類に面白く、さらには映画制作にかける園監督の情熱がどの画面にもほとばしっていて(注2)、すごい映画を作ったものだな、どうせやるなら中途半端なところで止まらないでここまでやらないとダメなのでは、という思いに囚われました(注3)。
(2)本作については、長く静止しているものを映し出している映像が少なく、絶えず何かが大きく動いているシーンばかりという印象を受けます。
本作のクライマックスである武藤組と池上組の出入りの場面は言わずもがな、冒頭のミツコのCMの映像から、ラストの平田が走るシーンまで、ある意味では随分と忙しない映画なのです。
最初の方をもう少し見てみると、ファック・ボンバーズが映画撮影のために生卵の投げ合いをしています。ですが、そばで学生同士の喧嘩が始まり、「こっちのほうが面白い」として撮る対象を変えたところ、看板を積んだ軽トラックが、運転手(板尾創路)の「どけーっ!」との声とともに突っ込んで来ます。
その看板は、武藤組の事務所のあるビルにかけられるもので、ビル内にあるバーのママが交代するのに応じて、看板を「まちこ」から「じゅんこ」に付け替えるわけです。
ビルの中では、武藤組の武藤組長が、これまでの愛人のまちこに引導を渡し、まちこが出て行くと、新しい愛人のじゅんこ(神楽坂恵)と抱き合います。
武藤組長がこんなことをしている一方、武藤の家には娘のミツコが学校から帰ってきます。ドアを開けると、そこは文字通り血の海!その血の海のど真ん中をミツコが滑っていきます。たどり着いた先に、池上組の池上組長が流しのところにもたれて座り込んでいますが、………。
という具合に、大層動きのあるそれぞれの場面が、引き続いて目まぐるしく変化していくのです。
通常ならば、映画撮影を志すファック・ボンバーズが、狂言回し的に「静」の位置付けとなるのでしょうが、本作にあっては、そのリーダーの平田自身が実に激しく動きまわるのです。
なにしろ、喫茶店で出会った女(成海璃子)を口説くときでさえ、いっときもじっとしていませんし、またファック・ボンバーズの仲間に向かって自分の夢を語るときも、あちこち動き回りながら饒舌にしゃべるのです(注4)。
その平田ですが、一世一代の映画を撮れば死んでもいいと常日頃考えていたわけながら(「俺は、将来、永遠に刻まれる一本を撮る。それを撮れたら死んでもいい!」)、事前の念入りなシナリオ作りなどといった通常の手順など飛び越して(平田としては、それを海岸でやりたかったようですが)、結局は、ヤクザの出入りをドキュメンタリー的に撮影するハメになってしまいます。それでも、平田は嬉々としてカメラからフィルムを回収して、走って現場から引き上げ、最後に「カット」という声がかかって、この映画自体が終わってしまいます。
『蒲田行進曲』的なカッコ良い終わり方も平田の頭のなかでは考えられているものの、そうはならずに、いつもの様にごく簡単な掛け声だけで。
こうしたズレは、平田以外にもあちこちで見られます。
例えば、公次は、ひょんなことからミツコの愛人とされ、挙句は、武藤組長に無理やり監督にさせられるものの、なんの経験もありませんから、実際の撮影現場においてはオロオロするばかりです。
また、そのミツコも、ちゃんとした主演映画を望んていたにもかかわらず、実際に撮られる映画はヤクザ物ということで、大勢のヤクザの中の一員になってしまいます(注5)。
もしかしたら、様々のズレが本作の画面を大層動きのあるものとしているのかもしれません。
(3)渡まち子氏は、「もとより、園作品は誰にでもすすめられる口当たりのいいものではないのだが、本作は娯楽作といいながら、しっかりマニアックな作りなのが素晴らしい。荒唐 無稽と言ってしまえばそれまでなのだが、誰よりも濃い映画愛と、最後の最後で虚実をミックスするオチにはガツンとやられてしまった」として65点をつけています。
また、前田有一氏は、「意外なエロボディと極道キャラのギャップ、いつも何か叫んでいる必死感。園子温がこれまでちらほらと繰り返してきた理想の女像。それに対する己の欲求をついに大爆発させた、まさに監督の私的なエンターテイメントと私は受け止めた。彼のファンにとっては、きっと記念碑的作品となるだろう」として60点をつけています。
さらに、相木悟氏は、「現在、日本映画界で気を吐く園子温監督のほとばしる映画愛とロックな哲学が詰め込まれた怪作の登場である」云々と述べています。
(注1)CMで10歳のミツコが歌う「全力歯ぎしりLet’s GO」は、『謝罪の王様』で3歳の倉持がしつこく繰り返す「腋毛ぼうぼう、自由の女神!」という文句に相当しているのでは、と思いました。
(注2)本作の中で描き出される個々のエピソードは、園子温監督の経験を踏まえてもいるようですが(例えば、武藤組の組長の娘ミツコと公次との関係は、園監督が著した『けもの道を笑って歩け』において、園監督が実際に経験したものとされています)。
(注3)國村隼については『許されざる者』で見たばかりであり、また長谷川博己は『鈴木先生』、星野源は『箱入り息子の恋』、二階堂ふみは『脳男』、堤真一は『俺はまだ本気出してないだけ』で、それぞれ見ました。
(注4)加えて、そのフック・ボンバーズには、アクション俳優を目指す佐々木(坂口拓)がいて、“未来のブルース・リーだ”と持ち上げられ、黄色いジャージ(トラックスーツ)姿でヌンチャクを振り回すのです!
(注5)もっと言えば、武藤組長は、腕っ節の強いヤクザの親分にしては随分の親馬鹿であり、恐妻家でもあったりしますし、池上組長も、マッチョのはずがロリコンです。
★★★★☆
象のロケット:地獄でなぜ悪い
(1)最近では『ヒミズ』とか『希望の国』を見ている園子音監督の作品だというので、映画館に行ってみました。
本作は、一方に、なんとか素晴らしい映画を撮りたいものだと日夜努力を続けている高校生グループのファック・ボンバーズがあり、他方で、敵対し抗争にあけくれている暴力団が2つ(武藤組と池上組)あって、それらは10歳の女の子・武藤ミツコ(武藤組の組長の娘)でつながっていたことが、その10年後にわかります。
すなわち、武藤組長(國村隼)は、その妻(友近)の出所祝のため、娘のミツコ(二階堂ふみ)が主演する映画を組として制作しようとし、その監督に、ミツコと一緒にいた公次(星野源)を使うこととするのですが、彼は、昔10歳のミツコが出演していたCM(注1)を見て以来の熱烈ファンだったのです。
ただ、映画には素人だったため、公次は、不遇を囲っていたファック・ボンバーズ〔リーダーが平田(長谷川博己)〕を映画制作に引っ張り出すことになります。
その映画は武藤組が池上組に実際に殴りこみをかけるところをメインにするのですが、池上組の組長(堤真一)もまた、昔武藤組の組長宅に殴り込みをかけた時に10歳のミツコに出会ってから、彼女の虜になっています。
さあ、この映画制作はどんなことになるのでしょうか、………?
本作は、これまで見た園子音監督の作品の傾向とは大きく違って、全く破天荒なストーリーの映画で、あんぐりと口を開けて見守る他はありません。でも、破天荒だからこそ無類に面白く、さらには映画制作にかける園監督の情熱がどの画面にもほとばしっていて(注2)、すごい映画を作ったものだな、どうせやるなら中途半端なところで止まらないでここまでやらないとダメなのでは、という思いに囚われました(注3)。
(2)本作については、長く静止しているものを映し出している映像が少なく、絶えず何かが大きく動いているシーンばかりという印象を受けます。
本作のクライマックスである武藤組と池上組の出入りの場面は言わずもがな、冒頭のミツコのCMの映像から、ラストの平田が走るシーンまで、ある意味では随分と忙しない映画なのです。
最初の方をもう少し見てみると、ファック・ボンバーズが映画撮影のために生卵の投げ合いをしています。ですが、そばで学生同士の喧嘩が始まり、「こっちのほうが面白い」として撮る対象を変えたところ、看板を積んだ軽トラックが、運転手(板尾創路)の「どけーっ!」との声とともに突っ込んで来ます。
その看板は、武藤組の事務所のあるビルにかけられるもので、ビル内にあるバーのママが交代するのに応じて、看板を「まちこ」から「じゅんこ」に付け替えるわけです。
ビルの中では、武藤組の武藤組長が、これまでの愛人のまちこに引導を渡し、まちこが出て行くと、新しい愛人のじゅんこ(神楽坂恵)と抱き合います。
武藤組長がこんなことをしている一方、武藤の家には娘のミツコが学校から帰ってきます。ドアを開けると、そこは文字通り血の海!その血の海のど真ん中をミツコが滑っていきます。たどり着いた先に、池上組の池上組長が流しのところにもたれて座り込んでいますが、………。
という具合に、大層動きのあるそれぞれの場面が、引き続いて目まぐるしく変化していくのです。
通常ならば、映画撮影を志すファック・ボンバーズが、狂言回し的に「静」の位置付けとなるのでしょうが、本作にあっては、そのリーダーの平田自身が実に激しく動きまわるのです。
なにしろ、喫茶店で出会った女(成海璃子)を口説くときでさえ、いっときもじっとしていませんし、またファック・ボンバーズの仲間に向かって自分の夢を語るときも、あちこち動き回りながら饒舌にしゃべるのです(注4)。
その平田ですが、一世一代の映画を撮れば死んでもいいと常日頃考えていたわけながら(「俺は、将来、永遠に刻まれる一本を撮る。それを撮れたら死んでもいい!」)、事前の念入りなシナリオ作りなどといった通常の手順など飛び越して(平田としては、それを海岸でやりたかったようですが)、結局は、ヤクザの出入りをドキュメンタリー的に撮影するハメになってしまいます。それでも、平田は嬉々としてカメラからフィルムを回収して、走って現場から引き上げ、最後に「カット」という声がかかって、この映画自体が終わってしまいます。
『蒲田行進曲』的なカッコ良い終わり方も平田の頭のなかでは考えられているものの、そうはならずに、いつもの様にごく簡単な掛け声だけで。
こうしたズレは、平田以外にもあちこちで見られます。
例えば、公次は、ひょんなことからミツコの愛人とされ、挙句は、武藤組長に無理やり監督にさせられるものの、なんの経験もありませんから、実際の撮影現場においてはオロオロするばかりです。
また、そのミツコも、ちゃんとした主演映画を望んていたにもかかわらず、実際に撮られる映画はヤクザ物ということで、大勢のヤクザの中の一員になってしまいます(注5)。
もしかしたら、様々のズレが本作の画面を大層動きのあるものとしているのかもしれません。
(3)渡まち子氏は、「もとより、園作品は誰にでもすすめられる口当たりのいいものではないのだが、本作は娯楽作といいながら、しっかりマニアックな作りなのが素晴らしい。荒唐 無稽と言ってしまえばそれまでなのだが、誰よりも濃い映画愛と、最後の最後で虚実をミックスするオチにはガツンとやられてしまった」として65点をつけています。
また、前田有一氏は、「意外なエロボディと極道キャラのギャップ、いつも何か叫んでいる必死感。園子温がこれまでちらほらと繰り返してきた理想の女像。それに対する己の欲求をついに大爆発させた、まさに監督の私的なエンターテイメントと私は受け止めた。彼のファンにとっては、きっと記念碑的作品となるだろう」として60点をつけています。
さらに、相木悟氏は、「現在、日本映画界で気を吐く園子温監督のほとばしる映画愛とロックな哲学が詰め込まれた怪作の登場である」云々と述べています。
(注1)CMで10歳のミツコが歌う「全力歯ぎしりLet’s GO」は、『謝罪の王様』で3歳の倉持がしつこく繰り返す「腋毛ぼうぼう、自由の女神!」という文句に相当しているのでは、と思いました。
(注2)本作の中で描き出される個々のエピソードは、園子温監督の経験を踏まえてもいるようですが(例えば、武藤組の組長の娘ミツコと公次との関係は、園監督が著した『けもの道を笑って歩け』において、園監督が実際に経験したものとされています)。
(注3)國村隼については『許されざる者』で見たばかりであり、また長谷川博己は『鈴木先生』、星野源は『箱入り息子の恋』、二階堂ふみは『脳男』、堤真一は『俺はまだ本気出してないだけ』で、それぞれ見ました。
(注4)加えて、そのフック・ボンバーズには、アクション俳優を目指す佐々木(坂口拓)がいて、“未来のブルース・リーだ”と持ち上げられ、黄色いジャージ(トラックスーツ)姿でヌンチャクを振り回すのです!
(注5)もっと言えば、武藤組長は、腕っ節の強いヤクザの親分にしては随分の親馬鹿であり、恐妻家でもあったりしますし、池上組長も、マッチョのはずがロリコンです。
★★★★☆
象のロケット:地獄でなぜ悪い