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映画的・絵画的・音楽的

映画を見た後にネタバレOKで映画を、展覧会を見たら絵画を、など様々のことについて気楽に話しましょう。

アントマン

2015年10月27日 | 洋画(15年)
 『アントマン』を新宿ピカデリーで見ました。

(1)風邪による体調不良で一週間近く映画館に行けませんでしたが、このほどようやく回復し、それなら気軽に見ることができるものをと思って映画館に行ってきました。
 ただ、病み上がりでボーッと見ていたこともあって、今回のエントリは簡単に記すにとどめます。

 本作(注1)は、特殊なスーツを着た主人公・スコットポール・ラッド)がアリと同じサイズのアントマンに変身して、この縮小技術を軍需産業に売り込もうとするピム・テック(注2)の社長ダレンコリー・ストール)を打ち倒すというものです。



 最後には、軍事目的で作られたイエロージャケットを着たダレンとアントマンとの対決となり、なんだか、スグ前に見た『進撃の巨人』とはベクトルが逆向き、そちらでは巨人同士の闘いとなるところ、こちらでは小人同士の闘いであり、言ってみればサイズが大きいか小さいかの違いだけ、やっていることは同じではと思ったりしました(注3)。

 そんなふうな印象しか持てなかったのは、クマネズミがマーベル・スタジオの制作する映画をこれまでほとんど見ていないために(注4)、その面白さに上手く乗りきれないことによるものではないか、と思ったところです(注5)。

 それでも、話の中で、スコットの娘・キャシーとか、ピム粒子(物を拡大・縮小できる化学物質)の発見者のハンク・ピム博士(マイケル・ダグラス)やその娘のホープエヴァンジェリン・リリー)、刑務所でスコットと同じ房にいたルイスマイケル・ペーニャ)などがいろいろ絡んできて、なかなかの面白さを感じます(注6)。
 特に、前科者のスコットの別れた妻が婚約している相手が警官(ボビー・カナヴェイル)という設定は秀逸ですし、なによりスコットがキャシーに会いたいがためにハンク・ピム博士の要請に従ってアントマンになるという展開は斬新だなと思いました(注7)。



 また、最近の一つの傾向なのでしょうか、以前だったら国家が前面に登場してくる話なのではと思えるところ、『キングスマン』にしても本作にしても、民間機関止まりでストーリーが展開されているのは興味深いことだなとも思いました(注8)。

(2)渡まち子氏は、「ちっともカッコよくないポール・ラッドがアントマンとして奮闘する姿は親近感を覚えるが、スコットの仲間を演じるマイケル・ペーニャが実にいい味を出している。こんなにも個性的なヒーロー映画で勝負するマーベルとハリウッド映画のセンスに脱帽だ」として70点をつけています。
 前田有一氏は、「「アントマン」のいいところは笑いがたくさんあり、人間が描けていること。逆にいまいちな部分はあちらへ行ってしまう終盤の展開が伏線&説明不足で無理を感じさせる点。そして、小さすぎて近接戦闘に面白みがない点だ」として75点をつけています。



(注1)監督はベイトン・リード
 原作はこちらではないかと思いますが、よくわかりません。

(注2)実は、ハンク・ピム博士が設立した会社。ダレンによって乗っ取られます。

(注3)尤も、『進撃の巨人』に登場する超大型巨人は、國村隼が扮するクバルに縮小するわけであり、また本作のアントマンも普通人のスコットのサイズに巨大化するわけですから、とどのつまりは両作とも同じ事柄を描いているといえるかもしれません。

(注4)Wikipediaのこの記事において提示されている作品の内、見たのは『X-MEN:ファースト・ジェネレーション』に過ぎません。

(注5)例えば、劇場用パンフレット掲載のエッセイ「普通の男がスーツを着たアントマンは観客の気持ちに一番近いヒーローだ!!!」の中で、筆者の杉山すぴ豊氏は、「実は『アントマン』は、マーベル・シネマティック・ユニバース=マーベルの映画戦略の第2ステージ(フェーズ2)のトリを飾る作品」だと述べています。
 また、このサイトの記事においては、「全てのマーベル映画は同じ時系列に沿って、同じ世界の中で進んでいる」などと述べられています。

(注6)出演者の内、マイケル・ダグラスは『ソリタリー・マン』、マイケル・ペーニャは『フューリー』で、それぞれ見ました。

(注7)スコットとキャシーとの関係には、さらに、ハンク・ピム博士とその娘ホープとの確執が重なります。



 なお、上記「注5」で触れたこのサイトの記事によれば、ハンク・ピム博士は、娘のホープがアントマンのスーツを着ることには強く反対したものの、本作のエンドロールの時点で、ホープがワスプとなること(母親の後を継ぐこと)を認めたとのことです(クマネズミは、エンドロールの後の映像を見ませんでした)。

(注8)『キングスマン』はスパイ映画ながら、ロンドンにある国際的な諜報組織キングスマンは国家組織ではなく、そのボスのアーサー(マイケル・ケイン)らも国家公務員ではありません。
 他方、本作におけるハンク・ピム博士が関係するS.H.I.E.L.D.は、資産家ハワード・スタークらによって設けられた平和維持組織であり、合衆国との関係がいまいちはっきりしませんが、少なくともスコットは国家公務員ではないでしょう。



★★★☆☆☆



象のロケット:アントマン

ベル&セバスチャン

2015年10月09日 | 洋画(15年)
 『ベル&セバスチャン』を新宿武蔵野館で見ました。

(1)良作との情報を得て映画館に行ってきました。

 本作(注1)の冒頭では、鷹が悠然と空を飛んでいます。
 次いでカメラは、老人のセザールチェッキー・カリョ)と少年のセバスチャンフェリックス・ボシュエ)とが、猟銃を肩にして山の尾根を連れ立って歩いている姿を捉えます。
 遠くにカモシカもいます。

 セザールが地面を見ながら、「この足跡は狼じゃない。“野獣”だ。尾根から降りてきた。今週は、羊を3頭もやられた」と言います。



 その時、遠くで銃声が。
 撃たれたカモシカが山の斜面から落下します。
 セザールは「なんてことを!子育て中の雌を撃つなんて」と叫び、セバスチャンに「あの子を助けるぞ」と言い、現場の方に向かいます。
 セバスチャンは、セザールが支えるロープを伝って下の岩場に降りて行き、子供のカモシカを背中のリュックサックに入れて上がってきます。
 セザールはセバスチャンに「とんだ獲物を拾ったな」と言い、飼育している羊の小屋に戻ると、そのカモシカにヤギの乳を飲ませます。

 セバスチャンと別れてセザールは牛の様子を見に行きますが、途中で村人に遭遇します。
 どうも、彼らがカモシカを撃ち殺したようですが、その中の一人が「川沿いの道で“野獣”に足を噛まれた」と話します。

 一方、セバスチャンは川沿いの道を歩いて家に戻ろうとしたところ、途中で“野獣”に遭遇します。でも、“野獣”はセバスチャンを襲おうともしません。
 セバスチャンは、「セザールが君のことを“野獣”と言っているよ」、「セザールは僕のおじいさん。血は繋がっていないけど」などと話しかけます。

 こうして、セバスチャンと“野獣”(実は飼い犬だったグレートピレニーズで、セバスチャンは“ベル”と名づけます」)との交流が始まります。ですが、時は1943年7月、セバスチャンたちが住むサン・マルタン村にナチスドイツ軍が進駐してきます。
 セバスチャンとベルはどうなるのでしょうか、………?

 本作は、戦時中のフレンチアルプスを舞台に、幼い少年と犬との交流を主に描いたもので、原作が児童文学ですからまあこんなところかという点はママあるにしても、緊迫する社会情勢が物語の中に取り込まれサスペンス性が増す作りになってもいて、何より背景に映し出されるアルプスの季節ごとの風景は実に見事だなと思いました。

(2)本作にも、色々指摘できる点はあるように思います。
 例えば、外からやってきたドイツ兵ならともかく、山をよく知る村人が、授乳期のカモシカを銃で撃ち殺してしまうというのはよくわからないところです(なぜ、セザールだけが山のルールを知っているのでしょうか)。
 また、村に進駐したナチスの将校が、「峠越えしてスイス側に密出国する者(ユダヤ人でしょう)を案内する組織を潰すことについて、親衛隊の方から白紙委任された」として、「我々を甘く見るな」と村人たちを脅しつけますが、映画で見る限り厳しい捜査が行われているように見受けません(注2)。



 さらに、ベルは銃で撃たれますが、医師のギヨームディミトリ・ストロージュ)が持っている化膿止めの注射をするくらいで全快してしまうものなのでしょうか(注3)?
 それに、セザールの姪のアンジェリーナマルゴ・シャトリエ)とセバスチャンとベレがユダヤ人の一家の峠越えを道案内しますが、ドイツ軍の追跡を逃れるためにアンジェリーナは、クレバスに架かっていた雪橋を皆が渡りきった後に破壊してしまうのです。アンジェリーナと別れて(注4)単独で村に戻ることになったセバスチャン(それにベレ)は、どうやってクレバスを越えていくのでしょうか(注5)?

 でも、こんなつまらないことはどうでもいい事柄です。
 本作は、小学校1年生位の年齢の少年が、犬とか家族や村人とのふれあいを通じて成長していく様子がみずみずしく描き出されていて感動的な作品であり、その少年のセバスチャンを演じるフェリックス・ボシュエは大勢の子どもたちの中から選ばれただけあって、とても可愛らしく、かつまたその素直な演技には、子役にありがちな嫌味は少しも感じられません。



 また、クマネズミは、動物が活躍する映画は、人が調教した痕が伺えて好まないのですが、本作に登場するグレートピレニーズは、それが感じられるシーンもあるとはいえ、大部分はいかにも自然に振舞っている感じが出ていて、違和感を覚えませんでした(注6)。



 でも、本作で特筆すべきはなんといっても素晴らしい自然の景色でしょう(注7)。これは、『わたしに会うまでの1600キロ』で描き出されていたシエラネバダ山脈などの景観にも勝るとも劣らないものであり、それだけを見に映画館に行ってみてもいいくらいではないかと思いました。

(3)秋山登氏は、「特筆すべきは自然をとらえる映像の美しさである。緑の夏山と白一色の冬山、青い湖、オオカミ、カモシカ、リス……。冒頭から色彩が目に染み、詩情に酔う。ここには、自然保護活動家ヴァニエ(監督)の面目が躍如としている」と述べています。
 遠山清一氏は、「自然と動物と人間との関係にとどまらず、原作にはない戦争と人種差別の物語が挿入されシンプルな人間性の成長だけでなく理不尽な社会へと一歩踏み出していく厚みも盛り込まれている」と述べています。



(注1)監督はニコラ・ヴァニエ
 原作は、セシル・オーブリー著『アルプスの村の犬と少年(Belle et Sébastien)』(学習研究社)〔1965年に発表された原作は、日本で『名犬ジョリィ』としてアニメ化されています(1981~1982年)〕。
 原題は「Belle et Sébastien」で、続編も制作されています。

(注2)真っ先に疑われそうな知識人のギヨームは、自由に山歩きをしている感じなのです。
 どうも、村に駐留するナチスドイツ軍を率いるピーター中尉(アンドレーアス・ピーチュマン)にいわくがありそうですが、よくわかりません(なぜ彼は、ドイツ軍の捜索隊が出ていることをわざわざ峠越えを案内するアンジェリーナに密告しようとしたのでしょう?アンジェリーナの身の上を思ってのことかもしれませんが、道案内役がギヨームからアンジェリーナに代わったことは知らないはずではないでしょうか?)

(注3)銃弾の摘出をしなくてもいいのでしょうか?

(注4)アンジェリーナは、ユダヤ人一家と一緒にスイス側に入り、イギリスに行ってド・ゴールが率いる「自由フランス」に参加するとのこと。

(注5)ここらあたりに詳しいベルがセバスチャンに付いているから大丈夫ということでしょうが、いくらベルが一時野生化していたからといって、雪山まで詳しいとはとても思えないところです。それに、セバスチャンが帰り道でドイツ兵と遭遇したらどうなるのでしょう(子供だとはいえ、雪山に入り込んでいるのを疑われるでしょう)?

(注6)犬が全面的に登場する映画としては、10年ほど前に『イヌゴエ』を、渋谷東急デパートの前にあったミニシアターで見たことがあるくらいです。

(注7)この記事によれば、本作は、「フランス・アルプス山脈地方にて、夏、秋、冬の3シーズン、計13週間にわたり撮影」されたとのこと。
 なお、ロケ地は「オート・モリエンヌ・ヴァノワーズの谷(la vallée de la Haute-Maurienne Vanoise)」で、地図で調べると、スイスとの国境沿いではなく、イタリアとの国境沿い(山向うはトリノ)に位置するようです。



★★★★☆☆



象のロケット:ベル&セバスチャン

ヴィンセントが教えてくれたこと

2015年10月06日 | 洋画(15年)
 『ヴィンセントが教えてくれたこと』を渋谷シネパレスで見ました。

(1)評判が良さそうなので映画館に行ってきました。

 本作(注1)の舞台はニューヨークのブルックリン。
 冒頭は、主人公の初老のヴィンセントビル・マーレイ)が、バーで酷くつまらない冗談(注2)を話している場面。



 変わって、ヴィンセントの家のベッドルーム。
 妊娠しているロシア人ストリッパーのダカナオミ・ワッツ)とヴィンセントが体を重ねています。
 ダカが、突然、「動いた!蹴ってる、触ってみて」と騒ぎます。
 ヴィンセントは「起こしてしまってごめん」と言い、ダカも「このロクデナシのせいよ」と応じます。

 ヴィンセントはダカに金を支払おうとしますが、持ち合わせがごくわずかで、「分割払いはお断り」、「来週は2倍払ってね」とダカに言われてしまいます。



そ れで銀行に行って融資を求めるも断られ、預金を引き出そうとしても「112ドル14セントのマイナス」と素気ない返事。
 挙句に、バーで「もっと強い酒を」と頼むと、マスターに「やめときな、あんたのためだ」と断られてしまいます。

 それから、隣の家に引越しトラックが入ってきます。ところが、ヴィンセントの家の庭に植えられている樹木の枝を折ってしまい、その枝が彼の車の上に。
 トラックに同乗してきたマギーメリッサ・マッカーシー)が言い訳しにやってきますが、ヴィンセントは、自分の車の損害は引越し業者に求めると言いながらも、枝とフェンス(注3)を弁償するようマギーに要求します。



 これが、シングルマザーのマギーとその息子のオリヴァージェイデン・リーベラー)がヴィンセントと出会った最初の出来事。
 さあ、これからヴィンセントとオリヴァーらとの関係はどのように発展するのでしょうか、………?

 本作は、妻を介護施設に入れて一人で暮らしている老人のヴィンセントと、その隣の家に引っ越してきた12歳の少年オリヴァーとの交流を描いた作品で、偏屈で近所の人たちに嫌われているヴィンセントと、聡明なオリヴァーとのさまざまな会話などがなかなか面白く、さらに、いじめや認知症といった日本でも大きな問題となっている事柄(注4)が取り上げられる中で物語がコメディタッチで展開されていくので、見る者を飽きさせません。ただ、少々宗教色がかっている点に違和感を持つ向きもあるかもしれません(注5)。

(2)まず、ヴィンセントの隣に引っ越してきた少年オリヴァーが入学するのが、カトリック系の聖パトリック小学校。
 学校に行った最初の日に、転校生として担任の先生(クリス・オダウド)から紹介されますが、その後、先生から朝の祈りを先唱するよう求められます。でもオリヴァーは、「僕、ユダヤ教徒と思う」と答えます。すると、児童の間から、「私も」とか「私は仏教徒」、「神はいない」などの声が上がり、先生は、「私はカトリック。でもこの教室ではどんな宗教でもかまわない。みんなバラバラ」としながらも、「カトリックが最良」と言って、オリヴァーに朝の祈りを先唱するよう求めるのです。

 次に、授業中先生が「聖人ってなんだろう?」と尋ねると「エレミヤ」「聖ユダ」といった答えが返ってきて、さらに「最近の聖人を知らないか?」と質問し、児童の一人が「マザー・テレサ」と答えると、先生は、「そうだ。聖人というのは、世の中を良くしようと一生懸命働いた人だ」と言い、「今の時代にも身近なところに聖人はいる。探して報告すること」を宿題にします。
 そして、「私たちの周りの聖人」についての発表会において、オリヴァーが聖人として発表したのがヴィンセントなのです。

 何しろ本作の原題が「St. Vincent」なのですから、見る方も何かあるなと少しは身構えており、なるほどここに持ってくるために映画の中でいろいろ布石を打っているのだなとわかってきます(注6)。
 とはいえ、児童の父兄らが大勢見守っている発表会の会場にヴィンセントが姿を見せ壇上にまで上がるというのは少々やり過ぎのような感じがしますが、そして宗教色を感じてしまいますが、全体としてはとても感動的なシーンになっているなと思いました(注7)。

 加えて、最後のエンディングロールで、カセットウォークマンを耳にしたヴィンセントが、ガーデンチェアに寝そべって、ホースで周囲に水を撒きながら、ヘッドホンから流れるボブ・ディランの「嵐からの隠れ場所」に合わせてボソボソ歌っている姿が映像として流れますが(注8)、エンディングとしてこんな素晴らしいシーンが映し出されるのかと大層感動し、このシーンだけでも本作は見る価値があったとクマネズミには思えました(注9)。

(3)渡まち子氏は、「偏屈な中年男と孤独な少年との交流を描く「ヴィンセントが教えてくれたこと」。凸凹コンビの絶妙な距離感が最高」として70点をつけています。
 稲垣都々世氏は、「ヴィンセントだけでなく、登場人物は深刻な状況に直面しているが、みなコミカルで生き生きしている。皮肉たっぷりの笑いや、本人たちがそれと気づかずに発している負け組らしい自虐ネタで感傷など吹き飛ばしてしまう」と述べています。
 滝藤賢一氏は、「シリアスな問題を多く抱えた作品なのに、笑いに満ちているので逆に泣けてしまうんですよ」と述べています。



(注1)監督・脚本はセオドア・メルフィ
 原題は「St.Vincent」。

(注2)あるアイルランド人が、なにか仕事がないかと言うので、婦人が「ポーチ(porch)を塗る仕事がある」と答えたところ、2時間後その男が戻ってきて言うには、「終わりました。だけど、「ポルシェ(Porch)」じゃなくて「BMW」だったよ」。

(注3)実はフェンスは、ヴィンセントが自分で壊しておきながら放置しておいたもの。
 ヴィンセントはマギーに、「フェンスは20年物、車は30年物、木は俺よりも年取っている」とふっかけます。

(注4)オリヴァーは転校生として学校でいじめられますし、ヴィンセントの妻は認知症で介護施設に入っています。また、ヴィンセントは、ダフ屋のズッコテレンス・ハワード)が借金の取り立てに来た際に脳卒中で倒れてしまいます。

(注5)出演者の内、最近では、ビル・マーレイは『グランド・ブダペスト・ホテル』(ほんの少しの出番しかありませんが)、ナオミ・ワッツは『バードマンあるいは(無知がもたらす予期せぬ奇跡)』、テレンス・ハワードは『プリズナーズ』で、それぞれ見ました。

(注6)ヴィンセントがダカを「夜の女」としてオリヴァーに紹介したり、オリヴァーを競馬場とかバーに連れて行ったりしたことなどが、すべてオリヴァーの発表の中でポジティブなネタとして生かされています(反対に、マギーが離別した夫に対して提起したオリヴァーの親権を求める裁判では、これらのことはネガティブな要素となり、共同親権となってしまいます)。

(注7)全く余計なことながら、オリヴァーの小学校での授業風景とか発表会の様子(映像を使ったプレゼンテーションといえるでしょう)を見て、最近の日本の学校での組み体操にからむ問題(例えば、この記事)などと比較すると、小学校と中学校の違いとか、普通の授業・発表会と運動会との違いなどがあるにしても、アメリカはズッと個人主義的であり、日本はズッと集団主義的だなと感じてしまいます(あるいは、この記事が関連するかもしれません)。
 例えば、『at Home アットホーム』で、授業参観の日に隆史が作文を父兄らの前で読み上げるシーンがありますが、オリヴァーの発表内容と比べたら、内容は随分と定型的な感じがします(尤も、オリヴァーの発表が特異なものであり、クラスメートの発表にも定型的なものがあるのかもしれませんが)。

(注8)このシーンの一部はこのURLで見ることが出来ます。

(注9)金欠病は相変わらずとはいえ、ヴィンセントの周りには、ダカと生まれたばかりの赤ん坊(父親が誰だかははっきりしませんが)、それにマギーとオリヴァーが集い、一緒に食事をするようになったわけで、まさに「嵐からの隠れ場所」に彼の家がなっているように感じました(ボブ・ディランの歌の歌詞は、例えばこのサイトで)。



★★★★☆☆



象のロケット:ヴィンセントが教えてくれたこと

キングスマン

2015年09月25日 | 洋画(15年)
 『キングスマン』をTOHOシネマズ渋谷で見ました。

(1)評判が大層良いことを耳にして映画館に行ってきました。

 本作(注1)の冒頭は、1997年の中東。
 キングスマン達の乗るヘリコプターが石造りの建物をロケット砲などで襲撃します。
 そして、建物の中に入り込んだキングスマンが、一人の捕虜を捕まえ情報を得ようとすると、隠し持っていた手榴弾を捕虜が爆発させようとしたため、キングスマンの一人が捕虜に覆いかぶさり、仲間を救います。
 キングスマンのハリー(注2:コリン・ファース)は、「クソッ、見逃すとは!すまない、死なせてしまって」と悔しがります。

 次いでロンドン。
 ハリーが、仲間を救ってくれた男の家に向かいます。
 ハリーは、「ご主人の勇敢な行為については、これ以上話せません」と言いながら、メダルを渡して、「困った時には、メダルの裏側に書かれている番号に電話してくれれば、援助します」と告げます。
 妻が「援助なんか要らない。夫を返して」と言うので、ハリーはそのメダルを息子のエグジーに渡して、「これを大切にするんだ。合言葉は「ブローグではなくオックスフォード」だ」と教えます。

 更に場面は17年後。舞台はアルゼンチンの雪山に設けられた小屋。
 その中にアーノルド教授(マーク・ハミル)が捕らえられているところ、キングスマンのランスロットが救出にやってきます。ランスロットは、消音銃を使って敵をなぎ倒すものの、敵の幹部のガゼルソフィア・ブテラ)の義足(先に剣が付いています)による攻撃で真っ二つにされてしまいます。
 ガゼルが、転がっている幾つもの死体の上に布を被せると、敵のボスのヴァレンタインサミュエル・L・ジャクソン)がドアから入ってきて、「これは嬉しい、私は暴力が苦手。血を見ただけで吐いてしまう。不快なものをお見せした」などと言って、アーノルド教授に近づきます。

 他方、ロンドンにある国際的な諜報組織キングスマンのボスであるアーサーマイケル・ケイン)は、ランスロットの死を受けて、隊員の補充を計画します。
 そして、大きくなったエグジータロン・エガートン)も新規隊員選抜試験を受けることになりますが(注3)、果たして、教官マーリンマーク・ストロング)が実施する過酷な試験をくぐり抜けることができるでしょうか、そしてキングスマンとヴァレンタインとの闘いはどうなるのでしょうか、………?

 最初から最後まで弛れたところが少しもなく、次から次へと面白くストーリが展開し、実に楽しい映画でした。ただ、途中における主役の扱いにはやや拍子抜けしたところですし、また、シリアスではない昔のスパイ物が良いなどと映画の中で言われていますが、セクシーな女性がもう少し活躍したり、また各種の変わった車(あるいは武器)が登場したりすれば、もっと面白くなるのではと思ったりしました(注4)。

(2)本作の公式サイトの冒頭に、「今まで、こんなブッ飛んだスパイ映画があっただろうか!」とありますが、果たして本作は「スパイ映画」と言えるでしょうか?
 確かに、そこで言われているように、「マシンガンに早変わりする傘やナイフ仕込みの靴など魅力的なスパイ・ガジェットの数々」を映画の中に見ることはできます。
 でも、キングスマンの諜報活動が実際にどんなものなのかはほとんど描かれておらず、上記(1)で見るように、警視庁のSAT(特殊急襲部隊)のごとく、敵のアジトを急襲するのがもっぱらの仕事のように描き出されています(注5)。

 また、寄付をする大金持ちということでヴァレンタインに近づいたハリーが、「スパイ映画は好き?」と尋ねるヴァレンタインに、「最近のはややシリアスすぎる」、「昔の007では悪役が良かった」などと答えると、ヴァレンタインも「子供の頃、スパイに憧れたものだ」と応じます。



 昔の「007」が良かったというのであれば(6注)、エグジーの相棒となるロキシーソフィー・クックソン)や敵のガゼルがもっとセクシーに振る舞ったり(注7)、また秘密兵器を満載したボンドカーのようなものが登場したりしたら、もっと面白くなったのかもしれません。

 とはいえ、そんなことはどうでもいい些細なことであり、7回にわたる新規隊員選抜試験はどれもなかなか興味深いものですし(注8)、敵との壮絶な戦いも実にスピーディーに描かれていて、見る者を飽きさせません。
 面白いなと思った点は、イギリスのキングスマンは、教官のマーリンが「チームワークが大切」とは言いながらも、あくまでも個人個人で敵に向かうのに対して、敵のアメリカ人大富豪・ヴァレンタインは数量で立ち向かってくるように見える点です。
 例えば、ケンタッキー州にある教会に一人で乗り込んだハリーは、大量に配布されているSIMカード(注9)によって凶暴化した数十人の人間に立ち向かうことになります。
 また、エグジーは、教官マーリンを伴うとはいえ、実際には単身で敵のヴァレンタインの拠点(注10)に攻め入ります。



 アメリカの物量主義に対する皮肉の意味もあるのでしょうか。

(3)渡まち子氏は、「監督のマシュー・ヴォーンは「キック・アス」でも意外性のあるヒーロー映画を作って見せたが、本作はそれに優雅さを加味した、痛快な進化形だ」として70点をつけています。
 前田有一氏は、「イーサン・ハントとジェームズ・ボンド両横綱が揃い踏みの2015年に、両者の間に割り込む形で入ってきた「キングスマン」は、しかし巨頭をたたき落とす勢いの傑作スパイ映画だった」として85点をつけています。
 渡辺祥子氏は、「昨今は現実をふまえてシリアスに闘うスパイ物が多いが、こちらは肉体駆使のアクションに笑いを添えてスパイの新旧世代交代劇になっているのが新鮮」として★4つ(「見逃せない」)をつけています。
 小梶勝男氏は、「「007」シリーズなど、過去の様々なスパイ映画のパロディーを盛り込んだアクションだが、本家のほとんどより、こちらの方が面白い。強烈な毒を含んだブラック・コメディーでもある」と述べています。
 秋山登氏は、「ヴォーン監督の腕っ節は強く、配役も決まっている。ただ、はしゃぎ過ぎの気色はある。………しかし、これは上機嫌な冗談として楽しむべき作品だろう。消閑に最適だ」と述べています。



(注1)監督・脚本は、『キック・アス』や『X-MEN:ファースト・ジェネレーション』のマシュー・ヴォーン
 原作は、マーク・ミラー著『キングスマン:ザ・シークレット・サービス』(作者のマーク・ミラーは本作の製作総指揮を担当し、またこの記事によれば、マシュー・ヴォーンが当該著書の共同原案を担当しているようです)。
 なお、原題は『Kingsman: The Secret Service』。

(注2)ハリーは、諜報機関「キングスマン」ではガラハッド(Galahad)と呼ばれます。
 ガラハッドは円卓の騎士の一人であり、とすると組織内のボスのアーサーも「アーサー王」ということになるでしょう。また、ガゼルによって真っ二つにされるランスロットも、円卓の騎士の一人です。
 なお、劇場用パンフレット掲載のインタビュー記事の中でマシュー・ヴォーン監督は、「キングスマンの組織をアーサー王の円卓の騎士になぞらえたのはなぜですか?」との質問に対して、「キングスマンが道義心や礼節の精神に根ざしたものだということを描くのにわかりやすい方法だった」などと述べています。

(注3)キングスマンの新規隊員選抜試験を受けているエグジーを、ハリーは高級スーツ店「キングスマン」に連れて行き、その第3試着室の奥の部屋を見せます。



 そこには、キングスマンの使う物が壁のガラス棚にずらりと並んでいます。ハリーは、紳士靴を指して、「外羽根式(open lacing)のオックスフォードが正式の靴だ」、「装飾がついたものはブローギング(broguing)という」などと説明します〔この「靴用語辞典」によれば、「ブローグ(brogue)」とは、「穴飾り、親子穴飾り、ギザ飾りなどの装飾を施したウイング・チップのオックスフォード・シューズのこと」とされています〕。
 こんなことから、先に出てきた合言葉「Oxfords, not Brogues」も、“装飾の付いていないオックスフォード・シューズ”という意味合いになるのでしょう。
 そして、ハリーが考える“gentleman”としてのスパイの在り方の一端が伺えるのかもしれません。

(注4)出演者の内、コリン・ファースは『マジック・イン・ムーンライト』、サミュエル・L・ジャクソンは『4デイズ』、マーク・ストロングは『イミテーション・ゲーム エニグマと天才数学者の秘密』、マイケル・ケインは『インターステラー』で、それぞれ見ました。

(注5)むろんキングスマンといえども、敵のアジトがどこにあり、そこで何が行われるのかに関する情報を諜報活動によって取得しているのでしょうが、そちらの方面は殆ど描かれません。

(注6)マシュー・ヴォーン監督は、劇場用パンフレット掲載のインタビュー記事の中で、「(原作者の)マーク・ミラーも私も最近のスパイものがやたらシリアスになっていることに不満だったんだ。我々は『007』シリーズや『電撃フリント・アタック作戦』、TVシリーズ「おしゃれ㊙探偵」などを観て育ってきた」などと述べています。

(注7)ラストにスウェーデンのティルデ王女(ハンナ・アルストロム)のサービスがあるとはいえ(どのようなサービスかはシークレットにしておきましょう)。

(注8)なにしろ、犬を使ったテストが3回も行われたりするのですから。

(注9)ヴァレンタインは、人口の急激な増加によって地球の環境が破壊されており、地球を救うためには人間の数を減らさなくてはならないと考え、世界中にSIMカードを大量にバラ撒きました(それを持っていると通信が無料になると言って)。ヴァレンタインがスイッチを入れると、SIMカードを持っている人間は凶暴化し、互いに殺し合いを始めるので、人口が減少するというわけです。
 なお、人間が地球にとって害悪となっているとする考え方は、『寄生獣 完結編』の中で、広川市長(北村一輝)が、突入してきた特殊部隊に向かって言い放つ言葉とよく似ていると思いました。すなわち、広川市長は、「人間の数をすぐにでも減らさなくてはいけないことや、殺人よりもゴミの垂れ流しの方がはるかに重罪だということに、もうしばらくしたら人間全体が気づくはずだ」とか、「環境保護といっても、人間を目安としたものだ」、「万物の霊長というなら、人間だけの繁栄ではなく生物全体を考えろ」、「人間こそ地球を蝕む寄生虫だ」などと言うのです。

(注10)“ノアの方舟”のように(以前見た『ノア 約束の舟』を思い出します)、ヴァレンタインは、人間が大量に殺された後にも生き残ることのできるエリートだけを選別して、自分の拠点に集めていました。ヴァレンタインは、集められた人たちに対して、「君たちは選ばれたのだ、新しい時代の誕生を祝おう」と演説します。
 でも、こうした人々がエリートとしてこれから生きていくためには、エリートではない人々のサポートがどうしても必要なのであり、としたら、同じように地球破壊は継続することになるものと思われるところです(「注9」で触れた広川市長の議論が成立しないのと同じではないかと思われます)。
 なお、ヴァレンタインは酷い悪者扱いされていますが、それを倒すキングスマンの方だって、ボスのアーサーがヴァレンタインに洗脳されているとすると、規律を絶対的に重視する組織ですから(飼いならした犬を殺せと命じられたら殺さなくてはいけないような)、とても危険な存在になってしまうのではないか、と思いました。



★★★★☆☆



象のロケット:キングスマン

クーデター

2015年09月18日 | 洋画(15年)
 『クーデター』を新宿バルト9で見ました。

(1)いつもお世話になっている「ふじき78」さんが、そのブログ「ふじき78の死屍累々映画日記」の8月28日の記事で「おもろいから見に行ってほしい」と述べているので、映画館に行ってきました。
 これは、ちょうど4年前、『この愛のために撃て』を見た時と全く同じ状況です!
 その際も、「ふじき78」さんが、そのブログで「大傑作だ」とか「いやあ、おもろいよ」と述べていたのを見て映画館に足を運んだところ、まさに「映画の面白さが凝縮して」いる作品であり、大満足しました。
 果たして今回は如何に?

 本作(注1)の冒頭は、東南アジアの某国。
 首相官邸でしょうか、明かりが煌々と点けられている大きな建物が映し出されます。
 その中には、護衛の兵士がいたり、また東南アジア風の踊りを女が踊ったりしています。
 ドリンクが係りの者によって運ばれ、警護官が毒味をします。
 その少し先では、首相と米国企業カーディフ社の幹部とが話し込んでおり、交渉がまとまったのでしょう、乾杯の盃をあげます。
 その後、警護官は、カーディフ社の幹部を見送るために持ち場を離れますが、突然銃声が聞こえます。
 警護官が慌てて戻ると、首相が血を流して倒れており、そばには武装したテロリストたちが。
 警護官は、ナイフで自分の首を切って自決します。

 場面は変わって、飛行機の中。上の出来事の17時間前とされます。
 本作の主人公のジャックオーウェン・ウィルソン)と、その妻アニーレイク・ベル)、長女・ルーシースターリング・ジェリンズ)、次女・ビーズクレア・ギア)が乗っています。
 ルーシーが「この国、楽しい?次の会社も潰れるかも」と言うと、ジャックは「パパがやっていた会社よりもずっと大きいから大丈夫」と答えます。

 某国の空港に降り立ったジャックが、「出迎えの車が来るはずなんだが、約束が違う」と困惑していると、飛行機ですぐ後ろに座っていた男(ハモンドピアース・ブロスナン)が近づいてきて、「詐欺師だらけだから、タクシーを使うのはやめておけ。ホテルまで案内するよ」と声をかけてきます。
 結局、ハモンドがよく知る運転手・ケニーの車に乗って、皆がホテルに向かいます。

 しかし、首相が暗殺されたばかりの国に赴任したジャックらは、無事に新しい生活を始めることができるのでしょうか、………?

 本作は、東南アジアの某国に赴任するアメリカ人の一家4人が、着任日に武装集団の蜂起に巻き込まれるというお話です。タイトルは「クーデター」ながら軍隊が決起したわけではなく、また蜂起した武装集団が外国人を皆殺しにする行動をとったりするなど(今時、黄色人種と白人との対立なんて!)、よくわからない点はあるものの、追い詰められた一家が、何度も陥る窮地をなんとか逃れ出ようとする様子は、見ている者を最後までハラハラさせます(注2)。

(2)本作では、主人公・ジャックが一家を引き連れて、『この愛のために撃て』の主人公・サミュエルと同じように、「ひたすら走る、逃げる、ビビる」のです。
 そこで、『この愛のために撃て』について拙エントリを作成した時と同じように、「ふじき78」さんの本作についてのエントリと、『この愛のために撃て』についてのエントリに依拠しながら、もう少し述べてみましょう。

a.本作について、「恐竜が出たり、ヒーローが大活躍したりなどの過剰な華がない」ために「ヒットしないだろうと思う」と、「ふじき78」さんは述べていますが、クマネズミが見た時もほんの僅かの入りでした。
 『この愛のために撃て』の場合はもっと酷く、「ふじき78」さんが見た際には「お客が5人」状態であり、クマネズミが見た際には「10人ほどの観客」でした!

b.本作について、「発見次第射殺されてもおかしくない状況で主人公家族が如何に逃げ切るか」が描かれていて、「危機また危機」だと「ふじき78」さんは述べていますが、『この愛のために撃て』も「ノンストップ」で「ハラハラドキドキする」シーンの連続でした(注3)!



c.本作の主役のオーウェン・ウィルソンについて、「等身大の普通の“父ちゃん”」であり、「当たり前に強くない」ものの、「負けたら二人の娘と妻が殺されるから、ギリギリで踏ん張る。このギリギリ加減がとてもいい塩梅で上手い」と、「ふじき78」さんは述べています。
 こうした主役についての「ふじき78」さんの把握の仕方は、『この愛のために撃て』の主人公・サミュエル(ジル・ルルーシュ)について、「元CIAとかじゃなくって、縁側でスイカ食ってるのが似合いそうな“おっさん”」と「ふじき78」さんが述べているのに通じています。
 実際にも、ジャックは民間人であり(水道整備事業の技術者)、病院の看護助手であるサミュエル同様、諜報機関などに関与したことなどありません。

d.ジャックたちが窮地に立たされた時に、ハモンド(「現地に溶け込んでる手練れの男」)が救い出してくれますが、この人物には、『この愛のために撃て』におけるサルテと同じような雰囲気が漂っています(注4)。



 そして、ロシュディ・ゼムが演じるサルテについて、「ふじき78」さんが、「怪しい犯罪者くささとプロフェッショナルが同居しててかっこいい」と述べているのと同じように、本作のハモンドに扮するピアース・ブロスナンについても、「年取ってからの方がみんなよくなってる」007役者の一人だと評価しています。

(3)とはいえ、本作については、若干ながら疑問点があります。
 まず、邦題の「クーデター」です。
 本作の元々の原題が「The Coup」だったようですから(注5)、邦題を「クーデター」としてもかまわないとはいえ、本作でジャックらが巻き込まれた騒乱は、いわゆる「クーデター」のようには思えないところです。

 一般には、「クーデター」とは、Wikipediaが言うように、「支配階級内部での権力移動の中で、既存の支配勢力の一部が非合法的な武力行使によって政権を奪うことであり、行為主体である軍事組織により、臨時政府の樹立と直接的な統治が意図された活動」を指すものと思われます(注6)。
 例えば、1936年の2.26事件は、陸軍内の派閥争いから、皇道派が統制派を排除しようとしたクーデター未遂事件と見ることができるでしょう。
 翻って本作で描かれている騒乱を見てみると、リーダーめいた人物はおり、また暴徒たちはかなり銃器を携えてはいるものの、警官隊と衝突した際には、棍棒とか石などが使われたりしています。要するに、一部は組織立っているとはいえ(注7)、大部分は自然発生的な騒ぎではないでしょうか?



 とても「既存の支配勢力の一部が非合法的な武力行使によって政権を奪う」事態のようには見えません。特に、リーダーや彼を取り巻くグループの外観からは、かれらが「支配階級」に所属しているようにも見えないところです。

 そして、本作についての最大の疑問点は、一体この国の軍隊は何をしているのかという点です。
 首都でこれだけの騒乱が起き、なおかつアメリカ大使館の爆破という大変な事態まで招いているのです。どうして軍隊がすぐにも出動して治安の回復をしようとしないのでしょうか?
 にもかかわらず、本作には軍部が登場しないように思われます(注8)。

 あるいは、この騒乱の裏で糸を引いているのが軍部なのかもしれません。リーダーたちに資金を与えて、首相の暗殺を要請したことも考えられます。
 でも、政権奪取のためであれば、外国人を皆殺しにしたり、アメリカ大使館の爆破まで行ったりする必要性は酷く乏しいのではないでしょうか?
 そうではなくて、軍部はこの騒乱に何も関与しておらず、暴徒に警官隊が蹴散らされてしまったのを見て恐怖を感じ、兵舎に閉じこもってしまったのでしょうか?
 でも、東南アジアの国々の軍隊は、どの国でも相当に強力なはずで、持てる力は警官隊の比ではないものと思われます。

 それにまた、暴徒たちの行動がどうも不可解な感じがします。
 暗殺された首相に結びついている人たち(現体制で利益を受けている人達)を襲うというよりも、むしろ、外国人排斥の方に重点を置いているようなのです(注9)。
 となると、あるいは清朝末期の「義和団の乱」(1900年)に類似しているのかもしれません。
 ただ、そんなことをすれば、「義和団の乱」と同じように、直ちに外国の軍隊の介入を招いてしまいます。
 この騒乱が、「クーデター」であり、「行為主体である軍事組織により、臨時政府の樹立と直接的な統治が意図された活動」だとしたら、そんな大きなリスクを招くようなことはしないのではないでしょうか?

 尤も、本作で描かれているような騒乱に類似した事件がこれまで実際に起きていることもあり(注10)、またなによりも、本作で描かれるジャック一家のサスペンスあふれる逃走劇の無類の面白さからすれば、ここで申し上げたことはどうでもいいことなのかもしれません。

(4)渡まち子氏は、「土地勘もないのにスイスイと動くことや、顔にスカーフをまいただけの変装など、少々浅い描写が気になるが、夫が弱気になれば妻が叱咤し、足手まといな行動ばかりの娘たちが意外なところで踏ん張るなど、家族愛のドラマとしても楽しめる」として55点をつけています。
 前田有一氏は、「リアリティある設定の割にアクションの見せ場は少々非現実的で一瞬なえかけるが、まじめに作られた映像演出によりなんとかもった感じ」として70点をつけています。
 小梶勝男氏は、「まさにノンストップと呼ぶにふさわしいスリラーの秀作」であり、「映画はあくまで、主人公の家族の視点で進む。現地人は恐怖の対象で、人間的には描かれていない。その意味ではゾンビ映画に近いかもしれない。それがスリラーとしての緊張感を高めている」と述べています。



(注1)本作の監督はジョン・エリック・ドゥール
 原題は「No Escape」(なお、下記の「注5」を参照してください)。

(注2)出演者の内、オーウェン・ウィルソンは『ミッドナイト・イン・パリ』で、ピアース・ブロスナンは『ゴーストライター』で、それぞれ見ました。

(注3)「ふじき78」さんは、『この愛のために撃て』についてのブログ記事で、「地下鉄のシーンが凄い。追い詰める側の顔が獰猛なドーベルマンみたいで、こんなんから逃げオオせられはしないだろう、緊迫感が更に高まる」と述べているところ、本作でも、ジャックの一家が宿泊するホテルを襲撃する武装した暴徒は、まさに「獰猛なドーベルマン」然としており、ホテル内の各部屋を徹底的に捜索している様子を見ると、ジャック一家は「こんなんから逃げオオせられはしないだろう」と思えてきてしまいます。
 なお、『この愛のために撃て』においてサムエルとサルテは、“水平方向の流れ”に従って逃げ回っているところ、本作におけるジャック一家は、当初ホテルを“垂直方向”に逃げていますが、そこを脱出すると、今度は“水平方向”に逃げ、最後は川を利用することになります。

(注4)ハモンドは、「自分がこの騒ぎの元凶だ」などとジャックに打ち明けます(英国CIAの工作員?)。それが正しいのであれば、彼は、『この愛のために撃て』のサルテなど足元にも及ばないほどの悪人といえるかもしれません。

(注5)このサイトの記事の「Production」によれば、まず「The Coup」と題する映画が制作されることが2012年に報道され(この記事:また、この記事も参考になります)、その後2015年2月になって、タイトルが「No Escape」に変更されると発表されたとのこと(Wikipediaの記事が引用する記事においては、タイトル変更の理由として、映画館に足を運ぶ人たちの中には、教育程度が低くて「coup」の意味を理解できない人も混じっているように思われるから、と述べられています)。

(注6)Wikipediaの「クーデター」についての記事の冒頭には、「クーデター(仏: coup d'État)とは一般に暴力的な手段の行使によって引き起こされる政変を言う」と述べられていますが、これではあまりに包括的にすぎるものと思われます。

(注7)なにしろ、一国の首相を暗殺してしまうほどなのですから。
 また、ホテルの屋上に逃れた開国人を銃撃するヘリコプターが出現したり、アメリカ大使館を爆破したりしますから、リーダーたちには一定の計画があったものと考えられます。

(注8)東京大学法学部教授の石川健治氏が、「あの日(安全保障関連法案が衆議院を通過した9月16日)、日本でクーデターが起きていた」と述べていることに対して(この記事)、池田信夫氏が「軍の関与しないクーデターなんて歴史上ひとつもない」と批判しているように、本作の騒乱は「クーデター」とは思えないところです。
(ちょうど昨日、アフリカでクーデターが起きたようです。この記事によれば、「西アフリカ・ブルキナファソで16日、大統領警護隊が首都ワガドゥグで開かれていた閣議に乱入、暫定政権のカファンド大統領やジダ首相らを拘束した。17日には、軍が国営テレビやラジオで「暫定政権の解散」を宣言、事実上のクーデターを表明した」とのこと。まさに軍が関与しています。)
 ただし、石川氏は、「国民から支持を受ける「革命」に対し、国民を置き去りにした状態で法秩序の連続性を破壊する行為を、法学的には「クーデター」と呼ぶのだ」と石川氏は述べています。とはいえ、仮にそうした定義に従うとしても、本作で描かれる騒乱を「クーデター」とは呼べないのではないでしょうか(本作で描かれているのは民衆の自然発生的な騒乱のように見えるため、国民を置き去りにした状態」とは言えないように思われます)。

(注9)本作で描かれる外国人排斥の対象は、外国人一般というよりも、むしろ白人に限定されているようにも思われます。ですが、今時、そのような白人嫌悪の運動が行われている国が東南アジアにあるのでしょうか?

(注10)2012年に起きたリビアの米国領事館襲撃事件では、駐リビア大使ら4人が武装集団によって殺害されています。ただし、これは軍部による「クーデター」絡みの事件ではありません。



★★★☆☆☆



象のロケット:クーデター

わたしに会うまでの1600キロ

2015年09月15日 | 洋画(15年)
 『わたしに会うまでの1600キロ』を日比谷のTOHOシネマズ・シャンテで見ました。

(1)今時の女の子が直ぐ口にしそうな“私探しの旅”がタイトルにつけられているのでパスしようかと思ったのですが、主演のリース・ウィザースプーンがアカデミー賞主演女優賞にノミネートされた作品だということで、映画館に行ってきました。

 本作(注1)の冒頭では、山が連なる風景が映し出され、山の頂上らしきところに座っている主人公のシュリルリース・ウィザースプーン)が、大きなリュックサックをそばに置き、登山靴を脱いでいます。
 靴下を脱いで足の爪を見ると、割れています。
 「大丈夫」とつぶやいて割れた詰めを剥ぐと、その拍子に脱いだ靴の片方が下に落下してしまいます。
 シュリルは「クソッ、ふざけんな」とつぶやき、残った靴も投げ捨ててしまいます。

 それからホテルのフロントの場面。
 シュリルが「1泊で。PCT(パシフィック・クレスト・トレイル)を歩く」と言うと、受付は「18ドル。他に誰も来なければ、家族の住所を書いて」と答えます。
 次いでシェリルは、部屋から別れた夫のポ―ルトーマス・サドスキー)に電話をします。
 彼女が「ホテルの書類にあなたの住所使わせて。弟が見つからないので」と言うと、ポールは「友達ならかまわない」と答えます。さらに、シェリルが「連絡先教えようか」と言うと、ポールは「切るね。楽しんで」と答えて電話が切れます。

 それから、家で、様々なものをリュックに詰め込むシュリルの姿や(重すぎて、背負うと簡単には立ち上がれないほどです)、昔、母親・ボビーローラ・ダーン)と子どもたちが楽しく家の中で踊り回ったことや母親の笑っている姿などが回想されたりします(注2)。



 次いで、砂漠地帯をシェリルは歩き始めます(第1日目)。
 道の直ぐそばには舗装道路が設けられていて、車が走っています。
 大きなリュックサックを背負ってよろよろ歩いているシェリルは、「バカなことをした。何なのこれ。いつやめてもいい」などと悪態をつきます。

 さあ、シェリルは、この先このPCTを歩き続けることができるのでしょうか、………?

 本作は、まさに、主人公のジェリルが、アメリカ西海岸に設けられている自然歩道を1600km徒歩で北上し、その間様々に自分を見つめ直していくという映画です。ただ、映しだされる自然が素晴らしいのと、単に自分を見つめなおすということよりも、自分を育ててくれながら45歳で若死にしてしまった母親との関係を問いなおすという面が強いこともあって、予想したよりは面白く見ることが出来ました(注3)。

(2)とはいえ、本作は、2008年に見た『イントゥ・ザ・ワイルド』の女性版なのではないかという気がしてしまいました。
 まず、本作の原題も「Wild」で、タイトルに類似性があります(注4)。
 また、両作ともノンフィクションの原作を映画化したものです(注5)。
 それに、両作とも、男女は異なるとはいえ主人公が単独で長大な旅に出る様を描いていますし、特に、それぞれが映し出す雄大な自然の光景には圧倒されます。

 とはいえ、『イントゥ・ザ・ワイルド』の主人公クリス・マッキャンドレスエミール・ハーシュ)が、大学を優秀な成績で卒業し誰からも将来を嘱望される青年であるのに対して、本作の主人公のシュリルの場合、最愛の母親がガンで死んでしまったことに耐え切れずに、夫がある身にもかかわらず、ドラッグにふけったり様々な男に身を任せたりするという放縦な生活を送っていました。
 ですから、クリス・マッキャンドレスの場合は、いろいろサポートしてくれる裕福な親の手を完全に離れて、自分自身の手で一から生活してみたいと強く望んで一人旅に出るのに対して、シュリルの場合は、荒んだこれまでの生活を逃れて自分を取り戻そうとして単独行に出るのです(注6)。
 言ってみれば、クリス・マッキャンドレスの視線は将来の方を向いているのに対し、シュリルの視線は過去に向かっています。
 その結果、クリス・マッキャンドレスにとっては、旅の間で出会う人々との関係が重要ですが、シュリルにとっては、旅の間で出会う人々よりも(注7)、むしろフラッシュバックとしての過去の映像が重要といえるでしょう、本作では煩いくらいに挿入されます。

 そうした違いはあるとしても、ふたりとも本来的な自分を取り戻したいと願っている点は同じように思えます。ただ、その場合にどうして、クリス・マッキャンドレスやシュリルは、無謀な一人旅に出ようということになるのでしょうか?
 クリス・マッキャンドレスの場合、文明から隔絶した生活を送ることで、自分を取り戻そうとするとはいえ、途中でなんどもヒッチハイクするなど、文明の利器の恩恵に預かっているわけですし、アラスカの荒野に放置されたバスの中で生活する段になると、これまで文明が蓄積してきた知識の持ち合わせがないことから、死に至ることになります。
 本作のシュリルの場合は、それほど無謀な旅を送るわけではありません。 ですが、所々に設けられているロッジには、友人のエイミーギャビー・ホフマン)などから一定の荷物が届くようになっていますし、また、元夫のポールなどに電話を入れることも出来ます。そうやって、旅を安全・確実なものにしようとすれば、自分探しの一人旅というコンセプトから離れてしまいかねないという問題が出てきます。

 どうも、「自分探しの旅」というものには酷く安易なイメージを持ってしまいます(注8)。
 それでも、本作のように、ずっと広がる砂漠地帯とか、雪が降り積もった山々などを3ヶ月もかかって一人で歩き通して、最後に「神の橋(Bridge of the Gods)」にたどり着いたシェリルを見ると、きっと何か自分を変えるものがあったに違いないとは思えてくるのですが。



(3)渡まち子氏は、「人生をやり直すために1,600キロの距離を3か月かけて1人で歩き通した女性の実話「わたしに会うまでの1600キロ」。リースが文字通り体当たりの演技をみせる」として75点をつけています。
 渡辺祥子氏は、「3か月に及ぶシェリルの旅の記録に感動して映画化を決意したアカデミー賞受賞女優リース・ウィザースプーンが、彼女の潔い孤軍奮闘ぶりを小気味よく演じてすがすがしい」として★4つ(「見逃せない」)をつけています
 小梶勝男氏は、「カナダの映画監督ジャンマルク・ヴァレは、フラッシュバックの名手だ。若い女性が1600キロもの自然歩道を歩きながら、過去の出来事を様々に思い出していくこの作品は、まさにフラッシュバックの映画であり、ヴァレの手腕が存分に発揮されている」と述べています。
 真魚八重子氏は、「本作は編集が秀逸だ。一人きりの旅は終始、考え事のみで声もほとんど出さない。その内省が、回想は映像で、心の声は残響のエフェクトで表現される。これらの手法で、過去と現在はめまぐるしく往来し、ただ旅を写す映画とは異なる世界を生み出している」と述べています。
 藤原帰一氏は、「リース・ウィザースプーンは無表情に終始しますが、抑えた演技が母親の輝きを際立たせ、母の笑顔が娘の心に灯りを点します。演技の素敵な組み合わせです」と述べています。



(注1)監督は、『ダラス・バイヤーズクラブ』のジャン=マルク・ヴァレ
 原作は、シェリル・ストレイド著『わたしに会うまでの1600キロ』(雨海弘美訳、静山社:未読)
 なお、原題は「Wild」(原作の原題は「Wild: A Journey from Lost to Found」)。

(注2)またボビーは、子育てが終わると、シェリルと同じ学校に通い出したりするのです。

(注3)出演者の内、リース・ウィザースプーンは『MUD-マッド-』や『ウォーク・ザ・ライン』(2006年)で、ローラ・ダーンは『きっと、星のせいじゃない。』(ヘイゼルの母親役)で、それぞれ見ました。
 なお、ローラ・ダーンは本作で、アカデミー賞助演女優賞にノミネートされています。

(注4)“Wild”をタイトルにしたものといえば、邦題では『人生スイッチ』となっているアルゼンチン映画『Wild Tales』(英題)がすぐに思い出されます。
 尤も、こちらの作品は、人が原野の中に踏み込むものではなくて、都市生活そのものの中に見出される人間のとても“wild”な側面を取り扱ったもの、と言えるでしょうが。

(注5)映画『イントゥ・ザ・ワイルド』の原作本はジョン・クラカワー著『荒野へ』(集英社文庫)。

(注6)ある面からすると、母親の死の重さに耐えかねてドラッグやセックスにはまり込んだのと同じように、自分探しというよりも、むしろ現実逃避のためにシェリルはPCTにはまり込んだのかもしれません(はまり込む対象は何でも良かったのでしょう!)。
 あるいは、PCTを歩くことによって、シェリルはドラッグの禁断症状を脱することが出来たとはいえないでしょうか?

(注7)むろん、シェリルだって様々な人に会います。
 8日目で、暖めずに食べることのできる食糧がなくなってしまった時に、家に連れて行って家庭料理をふるまってくれたフランクW・アール・ブラウン)とか、PCTに詳しくいろいろシェリルに情報を教えてくれながらも途中で脱落してしまったクレッグケヴィン・ランキン)など。
 なかでも、オレゴン州のアシュランドというところに行った時、シェリルは、ジェリー・ガルシア追悼集会を呼びかけていたジョナソンミキール・ハースマン)と出会って、ベッドインまでしています。



 なお、原作の作者のシェリル・ストレイドがPCTを歩いたのは26歳の時とされていて、ちょうどジェリー・ガルシアが亡くなった1995年に相当しています(映画撮影時のリース・ウィザースプーンは38歳位でしょうから、実際のシェリルよりも10歳位年齢が高いことになります)。

(注8)都会で人々に混じって生きていくことも、「自分探しの旅」に違いはないのではないでしょうか?なにしろ、上記「注4」で触れた『人生スイッチ』によれば、そういう生活の中にこそ“wild tales”が転がっているというわけですから。



★★★☆☆☆



象のロケット:わたしに会うまでの1600キロ

彼は秘密の女ともだち

2015年09月04日 | 洋画(15年)
 フランス映画の『彼は秘密の女ともだち』を新宿武蔵野館で見ました。

(1)予告編を見て面白そうだなと思い、映画館に出かけてきました。

 本作(注1)の冒頭では、口紅を塗ったりまつげを整えたりと、女性の顔を化粧していく様子が映し出されます。そして、指輪を指にはめて、結婚行進曲が流れます。
 最後に、人の手によってまぶたが閉じられ、棺桶に横たわる女性の姿が映し出され、蓋が閉められてタイトルクレジットが流れます。

 場面は変わって、主人公のクレールアナイス・ドゥムースティエ)が7歳の時。
 学校のクラスで、転校生のローラが紹介されます。
 二人は直ちに友達となって、一緒にブランコで遊んだり、森の中を歩いたりし、ついには、ナイフで手に傷をつけて“永遠の二人”の誓いをします。

 大きくなって、ローライジルド・ル・ベスコ)がダヴィッドロマン・デュリス)と結婚し、しばらくしてクレールもジルラファエル・ペルソナ)と結婚します。
 ですが、ローラは、生まれて間もない娘・リュシーを残して病死してしまいます。

 冒頭の場面は、そのクレールの大親友のローラの葬儀。
 葬儀でクレールは、ローラの夫と娘を一生見守っていくと誓います。



 ですが、葬儀の後クレールは、哀しみの余りリュシーの世話をする気になれませんでした。
 そんな時、夫のジルが、「ダヴィドの様子を見てきたら」と言うものですから、クレールは、ジョギンしがてら、近くにあるダヴィッドの家を覗いてみると、………?

 本作は、主人公の親友が幼子を残して若死にしてしまい、その親友の夫が、女装して子どもを育てているという状況から物語が動き始めます。主人公は、親友に、子どもと彼女の夫のことは見守ると約束していたので、足繁くその家に出入りすることになり、その結果、…という展開です。状況設定が面白く、主人公の夫や親友の夫を演じる俳優は、これまでの映画でよく見かけていることもあり、まずまずの仕上がりの作品ではないかと思いました。

(2)本作に出演しているロマン・デュリスについては、これまで『ニューヨークの巴里夫(パリジャン)』や『ムード・インディゴ うたかたの日々』、『タイピスト!』、『メッセージ そして、愛が残る』、『Parisパリ』を見ましたが、それらの作品の中で、小説家、資産家、保険会社の社長、弁護士、元ダンサーといった様々の役柄を演じてきているところ、本作では女装する夫を演じるというので興味がありました。

 本作において、ロマン・デュリスが演じる夫・ダヴィッドは、クレールに、「結婚する前に、ローラには打ち明けていた。ただ、ローラが、人前では止めてねと言ったので、女装では外出していない。それに、ローラがいた頃は、そうした欲求は感じなかった。でも、彼女の死で、また始まってしまった。それに、僕だけだとリュシーが泣き止まないが、ローラの服を着て口紅を塗ると、彼女が喜ぶんだ」と説明します。



 ダヴィッドの女装は、単なる女装趣味というのではなく、ちゃんとした理由があるというわけです(注2)。
 そればかりか、ダヴィッドが、小学校以来の大親友であるローラの服を着たり化粧道具を使ったりするのです。
 次第にクレールは、こうした状況にのめり込んでいくようになります(注3)。

 本作で描かれている事態は、ある意味で、先に見た『あの日のように抱きしめて』と類似するような感じも受けたところです。
 クレールは、親友ローラの衣装を身にまとったダヴィッドを別人のヴィルジニアとして受け入れるわけですが、実際には中身がダヴィッドであることは知っているのです。それと同じように、『あの日のように抱きしめて』のジョニーは、エスターという名で現れた女性が、直観的には妻のネリーだとわかるものの、妻は強制収容所で死んだはずという先入観からそのことを理性的に認識出来ず、あくまでも別人だとして対応します。

 『あの日のように抱きしめて』では、結局、ネリーはジョニーの元を離れていきますが、本作のクレールとヴィルジニアは、7年後のラストの場面で、リュシューを学校に迎えに行き(注4)、さらに公園らしきところを3人で手をつないで楽しそうに歩いているのです(注5)。
 それでは、あのクレールの夫、『黒いスーツを着た男』で主役に扮し、アラン・ドロンの再来かと騒がれたラファエル・ペルソナが演じていたジルは、いったいどこに行ってしまったのでしょう?



(3)渡まち子氏は、「オゾンはいつもマイノリティに対して優しいまなざしを向けているが、現代社会はジェンダーも家族の血縁も、境界線は限りなくあいまいになっているようだ。深刻ぶらず、ちょっとコミカルに、かなりおしゃれに。これがオゾン流」として65点をつけています。
 日経新聞の古賀重樹氏は、「ゲイであることを公言するオゾンだが、これは同性愛の映画ではない。世に流されず、自分の心の声に耳を澄ます。多様な他者を理解し、正直に誠実に生きる。それはオゾンの映画に一貫するメッセージだ。ドゥムースティエとデュリスの繊細な演技が素晴らしい」として★4つ(見逃せない)をつけています。



(注1)監督・脚本は、『危険なプロット』(2013年)や『しあわせの雨傘』(2011年)のフランソワ・オゾン
 原題は、「Une nouvelle amie」(英題は「The New Girlfriend」)。
 ちなみに、劇場用パンフレット掲載のインタビュー記事において、フランソワ・オゾン監督は、「ルース・レンデルの短編「女ともだち」を基にしたんだ。……ある主人公の女性が、隠れ異性装者である親友の夫に興味を持ち「女ともだち」になるのだが、彼から愛を告白され愛し合おうとした時、彼女はふと我に返り、彼を殺してしまう、という物語だ」と述べています。

(注2)ただ、こうしたダヴィッドの説明に対して、クレールは、「リュシーのためというよりも自分のためだわ。変態だわ」と批判しますが。

(注3)幼い頃、樹の幹にハートのマークを刻み込み、更にその中にローラとクレーの名前をも書き入れたり、お互いの髪をとかしっこしたりと、二人の間には同性愛的な雰囲気があったのではないでしょうか。

(注4)ローラとクレールが出会った時と同じ年齢だと思われますから、リュシーも学校で格好の女ともだちを見つけることでしょう!

(注5)おまけに、クレールのお腹はどうやら子どもを身ごもっているようです。
 劇場用パンフレット掲載のインタビュー記事において、クレールに扮したアナイス・ドゥムースティエは、「クレールが妊娠しているのはジルの子なのだろうか、ヴィルジニアの子なんだろうか、と少々あやふやですが、私自身の解釈としては、ヴィルジニアの子を身ごもっている、と思っています」と述べています。
 この時は、メインの物語から7年も経過していますから、状況的には、彼女が言うとおりではないかと思います。でも、映画の中で、ヴィルジニアの格好をしているダヴィッドからベッドで迫られると、クレールは、「あなたは男よ」と言って強く拒みました。それはそうするのではないかと思います。何しろ、クレールは、ローラの格好をしたダヴィッド=ヴィルジニアを受け入れたのであって、男としてのダヴィッドを受け入れたわけではないのでしょうから。
 そうだとすると、クレールのお腹の子は?
 ひとつ考えられるのは、この7年の間にクレールの方も変化し、ダヴィッドを受け入れられるようになったとする展開です(この場合には、クレールは、ジルと随分前に離婚していることになるでしょう)。
 もう一つ思いつくのは、クレールは、日中はヴィルジニアと付き合うにしても、ジルが帰宅する夕方からはジルの妻として振舞っているのではないか、という状況です。要するに、クレールとジルの家に、クレールの女友だちであるヴィルジニアとリュシーが同居しているのかもしれません。



★★★☆☆☆



あの日のように抱きしめて

2015年09月01日 | 洋画(15年)
 『あの日のように抱きしめて』を渋谷のル・シネマで見ました。

(1)たまにはドイツ映画でも見てみようということで映画館に行ってきました。

 本作(注1)の冒頭は、1945年6月(注2)に、アウシュヴィッツ強制収容所から生還した主人公・ネリーニーナ・ホス)が、ユダヤ機関に勤める親友の弁護士・レネニーナ・クンツェンドルフ)と一緒に、車でベルリンに戻るところです。
 検問所で米軍兵士がその車を停止させます。
 レネが「収容所帰りだ」と説明したにもかかわらず、パスポートを見た兵士がネリーに顔を見せろと言い張ります。
 仕方なくネリーが、繃帯で覆われた顔を見せると、兵士は驚き、「悪かった、もういい」と言って車を通過させ、二人の乗った車は鉄橋を通って行きます。

 次いで場面はネリーとレネが暮らす家。



 レネは、「また散歩したのね?」と咎めます。
 今はベッドで横になっているネリーは、「誰がこの家の家賃を支払っているの?」とか、「一家は全滅なの?」といろいろ尋ねます。
 更に、「エスターは?」と訊くと、レネは「消息不明」と答え、「夫のジョニーは?」の質問には無言です。

 ネリーは形成外科に行きます。
 医者が、「どういう顔になりたいのですか?」と尋ねると、ネリーは、「元の顔に戻して」と答え、それに対して医者が、「それは難しい。新しい顔には、身元がバレないという利点もあります」と言うと、ネリーは「とにかく元の顔がいいのです」と応じます。
 それから麻酔注射が打たれて、顔の再建手術が行われます。

 退院したネリーは、レネが止めるのも聞かずに、ベルリンで夫のジョニーロナルト・ツェアフェルト)を探し歩き、とうとうアメリカ人向けのクラブ「フェニックス」で彼を見つけ出します。
 さあ、二人はどうなるのでしょうか、………?

 本作は、アウシュヴィッツ強制収容所から奇跡的に生還した女性が主人公。ピアニストだった夫を探しだして元の幸せな生活を取り戻そうとしながらも、顔に大怪我を負っていてその再建手術を受けたために、夫に再会しても、夫は妻であることに気づきません。さあどうなるのかというサスペンスドラマです。なかなか興味深い設定ながら、話に広がりが乏しくイマイチの感がありました。

(2)ドイツ映画といえば、本年3月に『陽だまりハウスでマラソンを』を見たものの、その前には『コーヒーをめぐる冒険』(2014年)とか『ゲーテの恋~君に捧ぐ「若きウェルテルの悩み」~』(2011年)や『ソウル・キッチン』(2011年)くらいでしょうか、映画館で見たのは(注3)。
 そんな数少ない事例から言うのもなんですが、ドイツ映画というと、総じてナチス物になりがちだと思えます。
 『コーヒーを巡る冒険』でも、「水晶の夜」の事件(1938年に起きた反ユダヤ暴力事件)を巡る話が出てきますし、本作も強制収容所に絡むお話です。

 と言っても、本作では、強制収容所自体は描き出されません。
 ただ、主人公が、そこで受けた仕打ちが、生還後の生活に大きく影響するのです。
 なにしろ、収容所で顔にひどい怪我を負ってしまい、収容所を出てから再建手術を受けなくてはならないほどなのです。
 その際、ネリーは、上記の(1)でも書きましたように、昔の幸福だった時の生活になんとか戻りたいと思っているために、是が非でも元の自分の顔に戻りたいと、形成外科に頼み込みます。

 でも、その手術はどのくらいうまくいったのでしょうか?
 退院後、ネリーが、昔知っていた人に再会すると、誰もが皆簡単にネリーだと識別するのです。
 ところが、肝心の夫・ジョニーだけは、面影はあるとしながらもネリーだとは思わないのです。



 ジョニーは、ネリーが「自分はエスターだ」というのを信じて、ある計画に引き込もうとして、エスターに、昔のネリーの筆跡やサインなどを練習させたりするのですが、エスターがいとも簡単に筆跡やサインを真似たりできるのを見ても(注4)、彼女がネリーだと気が付かないのです(注5)。

 要するに、ネリーに一番近づいていた人が識別できず、ある程度距離をおいていた人の方が識別できたことになります。
 もっと言えば、ジョニーにとって、自分の計画達成にとり、まさにピッタリのポジションにネリーが存在することになります。
 はたしてそんなことが起こりうるのでしょうか?

 とはいえ、不思議なことにネリーも、いつまで経っても「私はネリーよ」とジョニーに向かって言わずに、ジョニーの言うがままにエステーとして振る舞おうとするのです。
 これはあるいは、ジョニーが自分をネリーとしっかりと認めない限り、自分はまだ真のネリーではないとネリーには思えるからでしょうか。そして、逆に、ネリーが「私はネリーよ」と言わない限り、ジョニーの方も、エステーをネリーと認めないで済む僅かながらの隙間があるということなのかもしれません(注6)。

 あるいは、本作を、クルト・ヴァイルが1943年に作曲した『Speak Low』(注7)を巡る音楽劇のようなものと考えるならば、そんな賢しらごとを言ってみても意味がないということになるでしょう。
 なにしろ、その曲は、冒頭の場面とか、ベルリンのネリーとレネが暮らす家の中で(注8)、あるいはラストでネリーが歌ったりするなど、本作の主要な場面で何回も登場するのですから!

 とはいえ、『Speak Low』に思い入れがない者にとっては、本作が仮にそうした音楽劇まがいのものだとしても、もう少し物語に広がりを持たせるなどしてリアルに出来ないものかと思いたくなってしまいます(注9)。

(3)渡まち子氏は、「戦争の惨状をストレートに見せるのではなく、裏切りや後悔を背負いながら戦後を生きねばならない人間たちの心理サスペンスとして描いたペッツォルト監督の手腕と、「東ベルリンから来た女」でもタッグを組んだニーナ・ホスの繊細な名演が素晴らしい」として70点をつけています。
 藤原帰一氏は、「映画後半のサスペンスは、……巧みな設定に寄りかかった前半よりもずっと濃く、ずっとやるせない。ラストシーンは最近観た映画のなかでいちばんです」と述べています。



(注1)監督・脚本は、『東ベルリンから来た女』(未見)のクリスティアン・ペッツォルト
 原題は『PHOENIX』。

(注2)本作の公式サイトの「イントロ&ストーリー」から。
 なお、劇場用パンフレットに掲載の松永美穂氏のエッセイ「死者が帰郷するとき」によれば、「妻が連行されてからベルリンに戻ってくるまで、わずか8カ月しか経っていない」とのこと。
 (ここらあたりの年月の数字は、クマネズミが映画を見た際には確認できませんでした)

(注3)DVDでは、『善き人のためのソナタ』、『白バラの祈り』や『ヒトラー 最期の12日間』などを見ていますが、どうしてもナチス物になってしまう感じです。

(注4)あるいは、昔ネリーが履いていた靴も、エスターの足のサイズに合っているのです。

(注5)クリスティアン・ペッツォルト監督は、劇場用パンフレット掲載のインタビュー記事において、ジョニーがエスターについてあるいはもしかしたらと思う時があるが、それでもジョニーは、「妻は死んだ。この女は妻ではない。僕が組み立てているただの模型だ」と思うのだ、と言っています。
 なお、劇場用パンフレットに掲載のエッセイ「」において、高橋諭治氏は、「ジョニーが自分の妻だと認識できない理由」として、「戦時中に彼女をユダヤ人狩りから守りきることができ」なかったことと、自分の計画を成し遂げるためには「共犯者は“偽者のネリー”でなくてはならない」ことを挙げていますが、仮にそうだとしても、ジョニーにとってずいぶんと都合のいい存在になっているものだと思えてしまいます。

(注6)このインタビュー記事において、ジョニー役のロナルト・ツェアフェルトは、「彼(ジョニー)は彼女(ネリー)を認識することを自らに禁じる。「ネリーであるはずがない!夢に違いない。彼女は僕の前に立っている。何もかもがぴったりとくる。筆跡まで……だがそんなはずはない!」彼は無理やり否定するが、直観はまったく別のことを告げているんだ」と述べていますが、まさに認識と直感との間に隙間が出来てしまっているようにも思われます。

(注7)『Speak Low』については、例えば、このサイトの記事が参考になります。

(注8)劇場用パンフレットに掲載の前島秀国氏のエッセイ「愛の歌「スポーク・ロウ」が優しくささやきかけること」には、「本編で流れてくるSPレコードの「スピーク・ロウ」の録音は、クルト・ヴァイル本人がピアノを弾きながら歌った貴重な演奏が使用されている」と述べられていますが、あるいはこのURLで聞けるものと同一なのかもしれません。

(注9)本作についてもう一つ申し上げれば、ネリーは、レネが拳銃自殺したことを家政婦から聞きますが、たとえ世の中を悲観する理由がレネにあるにせよ、何もそこまですることもないのでは、と思ってしまいます。



★★★☆☆☆



象のロケット:あの日のように抱きしめて

人生スイッチ

2015年08月11日 | 洋画(15年)
 『人生スイッチ』を渋谷のシネマライズで見てきました。

(1)このところ見ていなかったアルゼンチン映画で、アカデミー賞外国語映画賞にノミネートされた作品ということで、映画館に行ってきました。

 本作(注1)は、6つの話から構成されるオムニバス映画ですが、その第1話「おかえし」は次のように始まります(注2)。
 一人の美女が飛行場でチェックインをします。
 係りの者から、「マイルは発生しません。3番ゲートです」と言われます。
 次いで、飛行機の中。



 さっきの女が荷物を機内の収納棚に入れようとするのを、近くの男が助けてくれます。
 飛行機が飛び立つと、その男が女に声をかけます。「仕事?観光?」
 女は、「両方かしら。モデルなの」と答えます。
 男が更に、「広告の撮影?」と尋ねると、女は「ファッションショーよ」と答えます。
 今度は逆に、彼女が「そちらは何の仕事?」と訊くと、男は「クラシックの音楽評論」と答えます。
 すると、彼女は、「初恋の相手が音楽家。未だ勉強中。何度か自作の曲を送ってきたけれど出版されなかった。パステルナークというの」と言います。
 これを聞いて男は驚き、「墓掘り人と自己紹介すべきだった。彼が音楽院に提出した作品をさんざん酷評したことがある。あの作品はあまりに酷かった」と言いますが、女は「結局うまく行かず別れた。今でも好き。いい人だし」と応じます。
 ところが、この話を小耳に挟んだ近くの席の女が、「パステルナークは、小学校の教え子だった。問題ある子だったから、彼を留年させた。30年間の教師生活であんな子はいなかった」と言い出し、それを機に「私が店長のころ、お話の男が働いていたが、客とよく揉めるのでクビにした」などという話が次々にあちこちで持ち上がってきます。
 それで、最初の男が、「待ってくれ、パステルナークの知り合いは?」と機内の乗客に尋ねると、周りの皆が手を上げるのです。

 さあ、一体どうしてこんなことになったのでしょうか、そしてこれからどんなことが起こるのでしょうか、………?

 本作は6つの話から構成されたオムニバス形式の作品です。どれも、些細な事が出発点となっているにもかかわらず、最後はとんでもない結果がもたらされるというストーリーで、それぞれドキッとするオチがついていて、まずまず面白く映画を見ることが出来ました(注3)。

(2)本作の邦題は「人生スイッチ」とされていて、本作の公式サイトの「STORY」の冒頭には、「私たちの日常の中には、切り替えてはいけないスイッチがある。それは身近にあって、うっかり押したときには、時すでに遅し。何がきっかけで押してしまうのか、押したらどんな世界が待っているのか―覗いてみよう」と述べられていて、各話も「スイッチ1」「スイッチ2」……と紹介されています。
 また、劇場用パンフレット掲載のエッセイ「“最終ボタン”で幕を開ける傑作人生劇場」において、映画ライターの森直人氏は、「本作全体を鑑賞してみると、“人生スイッチ”とは、取り返しのつかないほどの悲劇や破滅に展開する“怒り”の感情だと言い換えることができる」とし、第1話について、「パステルナークが行使したのは最終ボタンだ。~そして我々観客は気づく「物語が始まる前から、スイッチはすでに押されていた」ということに」と述べています。

 とはいえ、「人生スイッチ」とは邦題にすぎず、原題(英題)は「Wild Tales」です(注4)。
 何も“スイッチ”にこだわることなく、単に“怒り”を巡るお話と受け取ればいいのでは、という気がします。

 例えば、第1話のパステルナークですが、彼が怒りを溜め込んでいるにしても、小学校で留年させられてからのものであり(あるいは、もっと以前に彼を怒らせた人が、飛行機の乗客に混じっているかもしれませんが)、そんなに長い間“スイッチ”を入れっぱなしにしていたのでしょうか?
 また、第2話で破天荒な行為に及ぶのは、怒ってしかるべきウェイトレスではなく、彼女から酷い話を聞いた料理人なのです。そして、その料理人は、怒りの“スイッチ”が入ってあのような行為に及んだとは思えないのですが(注5)?



 さらに、第5話となると、轢き逃げ事故を引き起こした息子の父親は、弁護士らの話にいいように振り回されていたにもかかわらず、検察官が発したちょっとした言葉を手がかりに形勢を逆転しますが、それは冷静な判断によるものであって(注6)、突然の怒りにとらわれてのものでもないようにも思えます(注7)。

 とのもかくにも、“スイッチ”にあまりこだわらないで本作を男女の関係の話を集めたものと見れば(注8)、最後の第6話こそが山場といえるかもしれません。なにしろ、結婚式における花婿の理不尽な行為に怒った花嫁が、結婚式をめちゃくちゃにしてしまいますが、最後の最後にはヨリを戻し、映画全体のオチも“ハッピー”なものとなるのですから。



(3)渡まち子氏は、「些細な事から最悪の事態へと転がり落ちていく人々を6つのエピソードで描くブラック・コメディ「人生スイッチ」。怒りが爆発したときのパワーがハンパない」として70点をつけています。
 前田有一氏は、「日常をちょいと離れてビターなお話を体験することで、自分の暮らしについて安心感を得たり、あるいは改めて見直したいと思わせてくれる点で、面白い上に多少の役にも立つオモシロ映画といえるだろう」として70点をつけています。
 小梶勝男氏は、「小説ならロアルド・ダール、漫画なら藤子不二雄(A)のブラックユーモア短編集を思わせる。そんな6本の短編オムニバスだ」と述べています。
 林瑞絵氏は、「ブラックユーモアに笑いながらも、「個」を犠牲にして成り立つ現代社会への辛辣な眼差しにも気がつく。怒りの反乱に溜飲が下がる思いもする」などと述べています。



(注1)本作の監督・脚本は、ダミアン・ジフロン

(注2)第1話については、今月一杯、本作の公式サイト経由で、無料視聴することが出来ます。

(注3)出演者の内、第4話の主人公を演じるリカルド・ダリンは、『瞳の奥の秘密』で見ました。



(注4)原題は「Relatos Salvajes」(英題 Wild Tales)。
 なお、各話のタイトルは次のようになっています。第1話「おかえし(Pasternak)」、第2話「おもてなし(Las Ratas:The Rats)、第3話「エンスト(El Mas Fuerte:The Strongest)」、第4話「ヒーローになるために(Bombita:Little Bomb)」、第5話「愚息(La Propuesta:The Proposal)」、第6話「Happy Wedding(Hasta Que La Muerte Nos Separe:Until The Death Do Us Apart)」.
 「人生スイッチ」という邦題は、商業政策上から仕方がないのかもしれませんが、第1話の「おかえし」というタイトルは、他の話にも共通していますし、第2話の「おもてなし」は、昨今の日本における使われ方と幾分違っているように思われます。また第4話の日本語タイトルも意味不明です。
 各話のタイトルくらいは忠実に翻訳すべきではないかと思うのですが?

(注5)どんどん恐ろしいことを行う料理人は、特段、怒りに任せているというふうではなく、極めて冷静に振舞っているように思われます(「世界は悪党が支配している」などと言ったりします)。
 「人生スイッチ」などと言うと、先に見た『インサイド・ヘッド』のように、脳内の司令室にボタンが設けられているイメージになりますが、果たしてそんなものでしょうか?

(注6)あるいは、第5話では、ひき逃げされた被害者の夫が、犯人に仕立て上げられた使用人を怒りに任せて襲撃する点が問題なのでしょうか?

(注7)第5話はルーマニア映画『私の、息子』を思い出させます。

(注8)例えば、第1話では、最初のモデルの女は、パステルナークの親友と浮気したということですし、第2話における被害者は、ウェイトレスの父親を自殺に追い込み、母親を誘惑してきた男とされています。また、第3話のラストでは、黒焦げの死体を見て「心中ですかね?」と警官が言いますし、第4話では主人公は離婚訴訟に巻き込まれてしまいます(ただ、主人公は、刑務所で誕生日を妻と娘に祝ってもらいますが)。
 尤も、第5話は、あまり男女関係は取り扱われていないように思われます(轢き逃げをした息子の母親も登場するものの、大きな役割は果たしません)。



★★★☆☆☆



象のロケット:人生スイッチ

インサイド・ヘッド

2015年08月07日 | 洋画(15年)
 『インサイド・ヘッド』をTOHOシネマズ渋谷で見てきました。

(1)本作は、『脳内ポイズンベリー』を見た際に、アメリカでも類似の映画があるとして取り上げられていたことから、興味を持っていました。

 字幕版だからいきなり本作が映し出されることになるのだろう、と期待していたら、やっぱりそんなことはなく、まず監督の挨拶があり、次いでDREAMS COME TRUEの主題歌「愛しのライリー」が歌われ、そして日本人の顔の写真が次々と映し出され、最後に短編映画『南の島のラブソング(LAVA)』が上映された上で(注1)、やっとこさ本作となります。

 本作(注2)の冒頭では、「人の頭のなか、どうなっているか知ってる?」とのナレーションがあって、赤ちゃんのライリーの顔が映しだされます。両親がライリーを覗き込みますが、まずライリーの頭の中にヨロコビ(Joy:黄色)の感情(emotion)が生まれ、頭の中の司令室(Headquarters)で彼女がボタンを押します。



 すると、ライリーは笑い、黄色い玉(ball)が作られ、レールを転がります。それはどうやら記憶の玉のようです。
 33秒経つとカナシミ(Sadness:青)が現れ、彼女がボタンを押すとライリーは泣き出します。



 ついで、ライリーの頭の中の司令室には、イカリ(Anger:赤)、ビビリ(Fear:ラベンダー)、ムカムカ(Disgust:ライトグリーン)といった感情が登場してきます(注3)。



 彼らがボタンを押すことで記憶の玉が作り出されますが、特別な記憶には特別な玉(core memories)が作られます。そして、それらはいくつかの島にまとめて蓄えられて(注4)、全体でライリーの個性(personality)が形成されます。

 さて、ライリーは、米国中部のミネソタ州でずいぶんと楽しい生活を送ってきましたが(注5)、11歳の時に、父親の転職で、一家は西部のサンフランシスコに引っ越すことになります。
 ライリーも転校せざるを得ず、その感情は大きな影響を受けることになります。



 特に、それまでヨロコビは、カナシミがやたらと動き回らないよう注意を払ってきたのですが、どうも手に負えなくなってしまったようです。さあ、一体どんなことが起きるのでしょうか、………?

 本作は、すぐ前に見た『脳内ポイズンベリー』とずいぶんと類似した設定がとられてはいるものの、主人公の年齢が同作に比べてずいぶんと幼いことなどいろいろ違いもあり、さらにアニメだけあって大層冒険心あふれる映像ともなっていて、それなりに楽しめる作品に仕上がっていると思いました。

(2)本作を見ると、どうしても『脳内ポイズンベリー』と比べたくなってしまいます。
 例えば、『脳内ポイズンベリー』が実写であるのに対し本作はアニメですし、また『脳内ポイズンベリー』では、「ポジティブ」「ネガティブ」「衝動」「記憶」「理性」という5つの思考面を擬人化したキャラクターが登場するのに対し、本作では「ヨロコビ」「カナシミ」「イカリ」「ムカムカ」「ビビリ」といった感情面を擬人化したキャラクターが登場します。
 さらに、上で申し上げたように、『脳内ポイズンベリー』の主人公(真木よう子)は30歳であり、これに対して本作の主人公(と言っても、真の主人公はヨロコビでしょう)は11歳とかなり幼いことから、『脳内ポイズンベリー』で引き起こされる事件が主人公をめぐる恋愛であるのに対して、本作ではライリー一家の引越しとなっています。

 そんなところから、本作では、ヨロコビとカナシミの大冒険がなかなか面白いとはいえ(注6)、クマネズミとしては、やはり『脳内ポイズンベリー』に軍配を上げたくなってしまいます。

 もう少し申し上げれば、
a.本作のように、それぞれの感情をキャラクターとして擬人化して描こうとすれば、これは『脳内ポイズンベリー』でも同じこととはいえ(注7)、それぞれのキャラクターが、ライリーと同じようにその頭の中にさらに5つの感情を持つことになってしまうのではないか、でもそれでは至極複雑なプロセスになってしまうのではないのか(その5つの感情が更にそれぞれ5つの感情を持つとしたら、…)、と思えます(注8)。
 その上、本作では、ライリーのみならず、父親とか母親の脳内の状況をも描き出しているので、確かにその方が正確でしょうが、かなりうっとうしい感じがしてしまいます。

b.本作では、『脳内ポイズンベリー』で中心的な役割を果たしている「理性」(西島秀俊)が見当たりません。
 この点は、『脳内ポイズンベリー』についての拙エントリの「注11」で触れましたように、制作者たちが、もしかしたら、「理性だけではいかなる行為をも生じないし意志作用も生じないと主張」したイギリス経験論哲学者デイヴィッド・ヒューム以来の考えに従っているのかもしれません。
 でも、ヒュームの言うように、たとえ「理性は情念の奴隷である」としても(注9)、人の頭の中に「理性」が全然見当たらないわけのものでもないと思われます。
 劇場用パンフレットに掲載されているエッセイ「感情は自分の思い通りにならない。だから感情たちの動きは面白い」において、筆者の心理学者・植木理恵氏は、「人は小学校5年生くらいになると、からだと共に、頭の中の機能も急速に発達します。その時、それまで物事を「好き」「嫌い」といった具体的かつ単純に全て解決できていたものが、急に「抽象的」な考えが頭の中に忍び込んでくる」と述べているところ、その“「抽象的」な考え”こそが「理性」の働きによるものではないでしょうか?
 例えば、ライリーは家を出てミネソタに戻ろうとしますが、旅費がないために母親のハンドバッグからクレジットカードを盗んで、それで切符を買ってバスに乗り込みます。確かに、家出をしようという行為は感情によるものとしても、長距離バスの切符を購入するためにクレジットカードが必要だという判断、そしてそれを母親の目を盗んでハンドバッグから抜き取ってしまうという行為などは、理性的であり、客観的な冷静な認識に基づいたものではないでしょうか?

c.本作には、『脳内ポイズンベリー』でキャラクターとして登場している「ポジティブ」「ネガティブ」「衝動」「記憶」も、キャラクターとしては見出されません。
 ただし、「記憶」は、本作では玉となって貯蔵されていて、必要に応じて取り出せるシステムになっています。
 また、もしかしたら、「ポジティブ」は「ヨロコビ」に、「ネガティブ」は「カナシミ」に相当するかもしれません。とはいえ、映画の中での「ポジティブ」「ネガティブ」は「思考」の一種であり、「感情」として描かれていないようにも思われます(注10)。
 更に言えば、「衝動」が本作における「感情」全体に相当するのかもしれません(注11)。
 それに、『脳内ポイズンベリー』には「本能」として「黒いちこ」が登場しますが、「本能」になると本作の範囲をはるかに超えたものといえるでしょう(注12)。

 全体として本作の作りは大企業的で規模が壮大ではあるものの、中小企業的な感じが否めない『脳内ポイズンベリー』の方が、本作の及ぶ領域を超えてしまっているようにも思えるところです(注13)。

(3)渡まち子氏は、「頭の中の感情たちを主人公にしたファンタジー・アニメーション「インサイド・ヘッド」。映像も美しいが、何と言っても物語が深い」として80点をつけています。
 前田有一氏は、「水城せとなの「脳内ポイズンベリー」を彼らがリサーチ済みだったかどうかはともかく、映画として先を越されてしまったのは事実。しかも、対象年齢が異なるとはいえ純粋なコメディーとしての面白さで、あちらより劣るのだから後発としては残念感が漂う」として60点をつけています。
 藤原帰一氏は、「そう、これは人間にとって悲しみとは何かという、哲学的な問いを抱えた映画なのです。子ども向けのアニメで哲学、ですよ。すごいすごい」と述べています。
 読売新聞の大木隆士氏は、「擬人化された感情が、冒険を繰り広げる。発想の卓抜さと巧みな話術に脱帽だ」が、「もちろん、感情は五つだけではない。人間の気持ちは、微妙で複雑な感情から成っている。テーマパークのような頭の中は明快だが、その分、深みには少々欠ける気がした」と述べています。



(注1)最近、各地の火山活動が活発化しているようにみえる日本においては、短編『LAVA』は、時宜にかなった作品と言えるかもしれません!
 非常にセンスあふれるアニメと思いましたが(火山島と火山島との恋なんて!)、ただ舞台とされるのがハワイだとすると、「マントルの高温岩体の噴出口であるハワイ・ホットスポット上を海洋地殻が移動することにより形成したと考えられている」ことからしたら(Wikipedia)、このアニメのストーリーのようなことは起こりにくいのでは、と少々疑問を感じました。

(注2)監督・原案・脚本は、『カールじいさんの空飛ぶ家』のピ―ト・ドクター
 共同監督・原案はローニー・デル・カルメン

 原題は『Inside Out』。
 なお、邦題のように「インサイド・ヘッド」とすると、「頭の内部」とはならずに「内部の頭」といった意味になって、よくわからなくなってしまうのではないでしょうか〔原題だと「裏返しにする」という意味で、頭の裏側を明らかにするといったような意味合いになるものと思われます(さらに、この原題について深読みしたければ、例えば、このサイトの記事のようにも考えられるでしょうが、クマネズミは、なにもそこまで考えることもないのではと思ってしまいます)〕

(注3)ムカムカについては「毒を防ぐ」(“She basically keeps Riley from being poison, physically and socially”)、イカリについては「不公平が我慢ならない」(“He cares very deeply about things being fair”)、ビビリについては「危険から身を守る」(“He's really good at keeping Riley safe”)、などと説明されます。

(注4)司令室の窓から見ると、『家族島(Family Island)』、『正直島(Honesty Island)』、『ふざけ島(Goofball Island)』、『ホッケー島(Hockey Island)』、『友情島(Friendship Island)』といったものが見えます。
 ただ、これらの島からライリーの個性が形成されているとすると、彼女は嘘も吐かないし意地悪もしない極めて品行方正な女の子ということになりますが、いくら11歳だとしてもそんなものでしょうか?

(注5)ヨロコビの頑張りによって、頭の中の貯蔵所には、黄色い記憶の玉がずいぶんとたくさん蓄えられています。

(注6)その冒険を通して、ヨロコビは、それまでよそよそしく対処してきたカナシミの存在意義を見出して、感情の5つのキャラクターが一致団結するようになるのですから、ストーリーとしてなかなか良く出来ているなと思いました。

(注7)『脳内ポイズンベリー』についての拙エントリの「(2)ロ」をご覧ください。

(注8)劇場用パンフレット掲載のインタビュー記事において、プロダクション・デザインのラルフ・エグルストンは、「もしもそれぞれのキャラクターがひとつの感情しか持ち合わせていなかったら、90分の映画として物語を語れなかったと思います」と述べています。

(注9)このヒュームの言明について、立命館大学教授・伊勢俊彦氏は、論文「ヒュームの情念論における人格と因果性」(このURL)において、「この言明は、理性の領域すなわち真理の認識と、行為を導く価値意識の領域を峻別し、行為の動機および理由を提供する役割を理性ではなく情念に帰するものと、多くの解釈者によって理解されてきた」が、「情念は理性に対して、行為の指導において優越するに止まらず、基本的な世界把握の形成において先行する役割を果たすのである」と述べています。

(注10)尤も、『脳内ポイズンベリー』についての拙エントリの「注6」で触れましたように、それらを「感情」とみなす評者も存在しますが。

(注11)ただ、『脳内ポイズンベリー』における「衝動」の役割が小さいために、よくわかりませんが。

(注12)例えば、本作においては、赤ん坊が泣くのはカナシミが登場してボタンを押すからだとされていますが、それよりも「本能」に従って泣いているのだ、とする方がしっくりするのですが。

(注13)ただし、このサイトの記事によれば、上記の「注8」で触れたプロダクション・デザインのラルフ・エグルストンは、「この映画は、心の中が舞台であって、頭の中が舞台ではありません」と言っています。
 すなわち、記者に従えば、「本作のタイトルは『インサイド・ヘッド(頭の中)』だが、ピクサーのフィルムメイカーが描こうとしたのはヘッドではなく心」であり、例えば、「“考えの列車”は、頭の中を走っている乗り物で、ライリーの思考はこの列車に乗って、彼女の感情や行動を決める司令部にやってくる」というわけです〔このサイトの記事によれば、“考えの列車”(train of thought)とは、頭の中を走り回って、空想や事実、意見、記憶といったものを運搬している列車のようです〕。
 確かに、そうであれば、『脳内ポイズンベリー』のように「理性」がキャラクター化されていないのもわからないわけではありません。
 でも、こうした見解によれば、時折“考えの列車”によって運ばれてくる「思考」を踏まえて、5つの感情が司令室で行動のボタンを押すことになるわけでしょうが、心と精神との関係とはそんなものなのでしょうか?



★★★☆☆☆



象のロケット:インサイド・ヘッド