孤帆の遠影碧空に尽き

年に3回ほどアジアの国を中心に旅行、それが時間の流れに刻む印となっています。そんな私の思うこといろいろ。

ベトナム  ふたりの仏教僧侶の死

2008-07-21 13:27:48 | 世相

(ハノイのチャンクオック寺 タイ湖のほとりに建つベトナム最古の、こじんまりとした“かわいい”寺です。(建立は6C中頃)
歴史的にも仏教が早く広がった北にはこのような古い寺がありますが、寺や僧侶の数でみると、南が圧倒的に多いようです。
北では共産党政権以降新たに建てられることは殆どないのに対し、南の寺の多くはここ数十年に建てられたものです。 04年9月撮影)

【「ベトナム統一仏教会」創始者クアン師の死】
ベトナムの非合法の仏教運動「ベトナム統一仏教会(UBCV)」の創始者、ティック・フエン・クアン師が、7月5日に87歳で死亡しました。

****死してなお論議される仏教指導者*****
11日の葬儀は、治安警察が監視するものものしい雰囲気の中で行われ、生前同様に死後も政治的に論議を呼んでいる。
UBCVを支援している、パリに本拠を置く国際仏教徒情報局(IBIB)は、当局の威嚇や妨害にも関わらず、クアン師の葬儀はビンディン省のグエン・ティエウ寺院で、UBCVの僧侶と尼僧1000人、一般仏教信徒5000人、UBCV仏教青年運動の会員が集う中、厳粛に行われたと声明を出した。
治安警察はベトナム中の仏塔を訪れ、仏教徒のビンディン省への旅行を禁じていた。ベトナム政府はUBCVを認めず、老師の病気を利用して過激派が非合法の活動を広めようとしていると報じていた。

12歳で仏門に入ったクアン師は、フランスの植民地時代から抑圧との闘いに身を投じた。反フランス抵抗運動、民族解放運動などに加わり、親米の南ベトナム政権によって逮捕・投獄されたこともあった。その翌年にUBCVが結成された。AIによるとUBCVは学校建設や福祉事業に関わり、戦争反対を主張し、ベトナム当局の人権侵害を非難してきた。
ベトナムが共産党政権になると、UBCVは反体制組織として弾圧された。さらに1981年には当局によるベトナム仏教会設立の承認を拒んだために、政府の怒りを買う。1992年にクアン師はUBCVの最高指導者となり、「民主主義と人権を求める仏教徒の提案」を発表した。そしてその共産党政権を否定する内容により軟禁幽閉される。「ティック・フエン・クアン師は長年にわたり、宗教的政治的抑圧の中でベトナムの仏教徒を保護してきた大木だった」とUBCVの副代表はクアン師の棺の前で語った。【7月20日 IPS】
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【ベトナムの仏教】
ベトナム人のおよそ8割程度は仏教徒に分類することができるとみられています。
しかし、ハノイやホーチミンシティの街を歩いていて、タイ・ラオス・ミャンマーなどで感じる“仏教国”の雰囲気はありません。

それはベトナムの仏教の多くが、束縛のゆるやかな大乗仏教であることや、宗教を奨励しない共産主義体制の下で、仏教が政治と結びついて発展していないことなどに原因があるようです。
また、ベトナム仏教は自分の「用」があるときだけに願掛けに出向くといった御利益宗教的な感じで、タイにおけるような日常的な信心はベトナムでは稀薄だそうです。
(仏教国かどうか不確かなのは日本も同様ですが、日本は“葬式仏教”ですから、もっと形骸化しているかも。)

このようなベトナム仏教の歴史、特徴等については、「ベトナムの仏教 ベトナムはやはり仏教国なのか」に、非常にわかりやすく詳細にまとめられています。(http://www5c.biglobe.ne.jp/~vdg/book_buddism.html
興味深い点は多々あるのですが、それらを割愛して、冒頭記事に直接関連する部分をピックアップします。

【仏教徒の抵抗運動】
*****「ベトナムの仏教 ベトナムはやはり仏教国なのか」より抜粋***
現在、共産党政権から公認されている仏教界の上部組織としては、ベトナム仏教会がある。現在のベトナム仏教会は、南北統一から5年後の1981年に、それまで全国にいくつかあった仏教組織を、それまでのベトナム仏教会に併合して発足したもので、建前上はベトナムにあるすべての宗派と仏寺がこれに属することになっている。

他方、現政権が存在を認めていない組織として、ベトナム統一仏教会がある。1963年に南ベトナムで結成されたベトナム統一仏教会は、仏教が社会参与するうえで中心的な役割を果たし、政治的行動にうったえることもあった。
1981年にベトナム仏教会が創設されて以降は、ベトナム統一仏教会は非公認の団体になり、存在しない建前になっているが、非公然ないしは国外で活動をおこなっており、制約の多いベトナム仏教会に反発する少なくない数の僧侶がこれに参加しているといわれる。

ベトナム仏教の特色の一つとして、潜在的ながら社会参与的な傾向をもつことが挙げられる。これは、かつての南ベトナムの領域(およそフエ以南)についていえることで、北部ではこの傾向はほとんどない。これは、南ベトナム時代(1954~75年)の仏教が反政府運動を経験したことと関係がある。

南ベトナムでは、1955年から63年まで続いたゴ・ディン・ジエム政権のもとでカトリックが優遇され、それ以外の宗教にたいして抑圧的な政策をおこなった。これにたいして、1960年代の初めに南ベトナムの仏教徒はしばしば街頭に出て抗議行動をおこなった。

仏教徒の抗議行動は、焼身自殺という極端な行為にうったえることすらあった。そのうちもっとも知られているのはティック・クアン・ドゥック師の焼身自殺である。
ティック・クアン・ドゥック師は、1963年6月、サイゴンの路上でガソリンをかぶって焼身した。これは多くの僧侶や報道関係者が見守る中で公然とおこなわれ、翌日アメリカの新聞で報道されて、ゴ・ディン・ジエム政権が抑圧的な政権であるという印象を世界に与えた。この年、ティック・クアン・ドゥック師につづいて、僧侶や尼僧の焼身がフエやサイゴンなど南ベトナムで頻発した。

1975年以降の共産主義体制のもとでは、仏教の社会運動は低調になっているが、それでも1993年には、政府の宗教政策と対立したフエの仏教徒が、政権との間で衝突を起こしている。このとき仏僧を含む仏教徒は街へ出て、自動車をひっくり返して放火するなど、過激な直接行動にまでうったえた。
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【クアン=ドゥック師の焼身自殺】
アメリカの傀儡政権ゴ・ディン・ジエムの圧政と仏教徒弾圧に対する抗議として、ティック・クアン・ドゥック師がガソリンをかぶって焼身したのが1963年。
リアル・タイムの記憶はありませんが、茶の間で食事をとりながら、その後激しさを増すベトナム戦争を伝えるニュースを観るなかで、その焼身自殺を見聞きしたような気がします。
(アメリカの本格的軍事介入・北爆が始まる契機となったトンキン湾事件が翌年の64年でした。)



ゴ・ディン・ジエムの弟ゴ・ディン・ニューの妻であるニュー夫人は、当時ゴ・ディン・ジェムの身近にいて強い影響力を持っていました。
そのニュー夫人が「あれ(僧侶の焼身自殺)は、単なる坊主のバーベキューにすぎない」と発言したと報じられたことは、国際的にも批判の的となりました。
これはケネディ大統領の怒りも買い、アメリカはゴ・ディン・ジエムを見限り、クーデターを黙認します。
ゴ・ディン・ジエムはクーデター軍に囚われ、殺害されました。

【時代の空気】
当時、子供の目に映る世界は非常に単純なものでした。
力を振りかざすアメリカ、それに抵抗するアジアの人々・・・それは時代の空気でもありました。
あれから45年、世界の出来事がそれほど単純でないことも知りましたが、やはり子供の頃の時代の空気は自分の中に強く刷り込まれたところもあるように思うこともしばしばあります。

コメント
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