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孤帆の遠影碧空に尽き

年に3回ほどアジアの国を中心に旅行、それが時間の流れに刻む印となっています。そんな私の思うこといろいろ。

春節とぶつかったカンボジア旅行

2024-02-11 01:14:50 | 身辺雑記・その他
(カンボジア・シェムリアップの外国人街「パブ・ストリート」付近 一番多いのはカンボジア国内旅行者でしょうか。 街の雰囲気は西洋人をターゲットにしたもの)

【春節とぶつかったカンボジア旅行】
8日(木曜日)からカンボジア・シェムリアップ(世界有数の観光地アンコールワットを抱える街)を旅行中です。

カンボジアでは上院選挙が始まったとのことですが、間接選挙なので、街中の様子にはまったく影響がありません。

****カンボジア上院選挙戦始まる 首相世襲後初、一族独裁強固に*****
カンボジア上院選の選挙運動期間が10日始まった。フン・マネット氏が首相職を昨年8月に世襲してから最初の国政選挙。政権与党カンボジア人民党で党首を務める父親のフン・セン前首相は上院議長に就任すると宣言しており、一族がさらに独裁的な権力基盤を固めそうだ。投開票は25日。
 カンボジアでは近年、与党側が野党弾圧を強め、上下両院の議席をほぼ独占してきた。上院選は下院議員や地方評議会(議会)議員の投票により議員を選ぶ間接選挙で、人民党の独走は決定的だ。
 上院の任期は6年。議員定数は62で、選挙では国王による任命議員らを除く議員を選出する。【2月10日 共同】
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街の様子に影響があるのは、中国で春節を迎えたこと。

****中国で旧暦の正月「春節」迎える 8日間の連休中、延べ90億人の移動を予測****
中国は10日、旧暦の正月にあたる「春節」を迎えました。8日間の連休中に延べ90億人の移動が予測されています

中国は10日、春節を迎え、17日までの8日間の連休に入ります。帰省や旅行で延べ90億人が移動すると予測されていて、経済が低迷する中、消費拡大への期待が高まっています。

中国メディアによりますと、高速鉄道の利用者は、移動が本格化してからの1週間で延べ1億人を超えました。(後略)【日テレNEWS】
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カンボジア人自体は春節を祝う風習はなく、祝日でもありませんが、中華系住民も少なくないので、市場にはランタンを売るあ店が目だったり、中華系住民が関係する企業・お店は休業したり。
また、カンボジア国内の観光地は中華系住民で賑わっています。

個人的な影響としては、今日(10日)はアンコールワットに行ってきましたが、中華系住民で混雑。あと、予定してお店が春節で休業・・・といったことも。

【中国人観光客のオーバーツーリズムで変化するラオスの古都ルアンプラバン】
中国の旅行スタイルも、不景気の影響もあって国内中心で、海外についても、ひと頃の団体で押しかけて爆買いといったものから、各人の興味・嗜好に合わせたものに変化しているようです。

海外旅行のなかでは、手近な日本は香港に次いで人気だとか。それも北海道・ニセコだったり、岐阜や青森が人気があったりと。

そうしたなか、中国ラオス鉄道開通の影響もあって、ラオスを訪れる中国人も多いようですが、オーバーツーリズムの問題も。

*****中国ラオス鉄道開通で観光ブーム 古都の静寂壊されるとの声も****
ラオスの古都ルアンプラバン。夜明けとともに黄色のけさを着たはだしの僧侶たちが托鉢(たくはつ)に出る。カメラを握り締めた大勢の観光客が、早朝の厳格な雰囲気を打ち破る。
 
国連教育科学文化機関(ユネスコ)の世界遺産に登録されているルアンプラバンには、昨年1〜9月に80万人近くが訪れた。国営メディアによると、ルアンプラバンは2024年末までに300万人の観光客を誘致する目標を掲げている。
 
政府は観光業に力を入れているが、地元の人たちは静かだった街が団体観光客に占領され、文化が変わってしまうと懸念している。
 
朝の托鉢はかつて、仏教徒の住民と僧侶の間で粛々と行われていた習慣だった。しかし、今では僧侶たちはプラスチック製の椅子に座る数百人の観光客と、携帯電話を目の前に突き出してくるツアーガイドの間を歩かなければならなくなっている。
 
ルアンプラバンでは、朝の托鉢を見学する外国人観光客は以前から大勢いた。しかし、いまでは托鉢は写真撮影会のようになってしまったと住民は嘆く。

何も買わずに写真を撮りまくっている」と、30歳の物売りの女性は不満を漏らした。

だが、もち米が入った喜捨セットを1個5万キープ(約360円)で販売する女性にとって、まったく観光客が来ないのも問題だ。
「観光客が来なければ、売り上げもなくなってしまう」「観光客が来れば来るほど、私たちの生活も変わってしまう。もはやカオスだ」

■一帯一路の鉄道開設
ルアンプラバンは、中国が進める「一帯一路」の下で敷設された高速鉄道の開業で観光客が急増し、外国からの投資も流入している。
 
昨年開業した駅と街を結ぶ公共バスはない。ぼろぼろの舗装道路に白いミニバンが6列に止まっている。駅の表示はすべて中国語で、ターゲットにしている層は明らかだ。
 
中国の重慶から到着した団体旅行客の一人はAFPに対し、「ラオスはこれから発展するだろう。特に習近平国家主席による一帯一路が経済に寄与する」と語った。
 
中国が60億ドル(約8900億円)を投じた高速鉄道は、中国の昆明からラオスの首都ビエンチャンを結ぶ。ラオスが中国から多額の借り入れをして進める数あるプロジェクトの一つだ。
 
両国首脳は、鉄道の開通はラオスに恩恵をもたらすと強調したが、地元の人々は言われていたような利益はほぼもたらされていないと口をそろえる。
 
中国人の団体旅行客は、中国人が所有するホテルに宿泊し、中国人が経営するレストランで食事をし、中国人の所有する車で移動する。
 
タクシー運転手の男性は、自分が若い頃は欧州からの観光客が多かったが、今はアジアからの旅行者が増えたと話す。
 
団体旅行が増えたことも、観光を変化させている。静かに日没を眺めるメコン川のサンセットクルーズは、ポップ音楽が鳴り響き、客がカラオケに興じる騒々しいパーティーに変わった。
 
早朝の通りに目を戻すと、托鉢に参加する中国人、韓国人、日本人であふれていた。欧州の言語を話す人は少なかった。
 
若いラオス人の女性が、僧侶の顔の目の前に携帯電話をかざして写真を取ろうとしていた男性を追い払っていた。「僧侶に近づかないよう、観光客にいつも言わなければならない」と話した。「観光客がたくさん来るのはいいけど、写真をたくさん撮ったり、声高に要求を突き付けてくるのは好きではない」 【2月9日 AFP】
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【カンボジア・シェムリアップ 思ったほど目立たない{中国」の存在】
ラオスと並んでASEANのなかでは親中国路線のカンボジアは・・・と言えば、さほど中国人観光客が押し寄せているという状況ではないようです。

街の看板など見ても、漢字表記のものは意外なほどに目立ちません。(中国人相手のレストランなどは別ですが)

外国人観光客が集まる繁華街でも、確かに言われてみると中華系(国内中華系住民なのか中国からの観光客なのかはわかりませんが)は目につきますが、それ以上に多いのは西洋人で、何にしても街の雰囲気が完全に西洋人をターゲットにしたもの。(東南アジアでよく見る外国人街の雰囲気)

ということで、ここ2.3日のごく限られた個人的印象で言えば、カンボジア・シェムリアップの中国化は思ったほど進んではいない・・・というのが正直な感想です。(完全に中国化した都市もあるようには聞きますが)
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南アフリカ 「トラベル イズ トラブル」 ツアー添乗員は大忙し 客はお気楽

2023-10-19 08:11:24 | 身辺雑記・その他

南アフリカ 「トラベル イズ トラブル」 ツアー添乗員は大忙し 客はお気楽

(ジンバブエとザンビア国境にかかるヴィクトリアの滝 全長が2kmほどあるので、地上から全体を撮影するのは無理(後日、ヘリコプターから空撮も行いました)
落差100mを超える滝の真上でプールを楽しむ観光客も。もちろん自己責任。日本の旅行社では企画しないアクティビティでしょう。 ザンビア側から入るようです  画像が曇っているのは水しぶきのせい)
 
現在、南アフリカからの帰国便の機内です。

「トラベル イズ トラブル」・・・・トラブルに見舞われた旅行ほど、その記憶が鮮やかに残ると常々考えています。(もちろん程度問題はありますが)

今回は個人手配ではなく、ツアーを利用していますので、多少のトラブルがあっても、個人的には不安感ゼロ。 でも添乗員さんは大変。

一昨日、二日間のジンバブエ観光(ヴィクトリアの滝やチョベ国立公園でのサファリ)を終えて南アフリカのケープタウンへ移動(同じ南ア・ヨハネスブルグで乗り換え)・・・・のはずでしたが・・・。

まず、ジンバブエの通信事情がすこぶる悪い。
ホテルのWiFiは問題なく使えるものの、レンタルして持参したWiFiルーターは結局ホテルでも空港でも使えず。

空港のチェックインカウンターもWiFiを使って処理しているとのことで、通信速度が非常に遅くなかなか進まない・・・結局途中でシステムダウン。チェックイン作業が中断。

まあ、フライトまで時間があったので、それは特段の問題なし。
問題はここから。

ようやくチェックインしたものの、南ア・ヨハネスブルグフライトが1時間遅れるとのこと。待つことしばし・・・そろそろと思ったら更に遅れるとのこと。

ヨハネスブルグでケープタウンへの乗り継ぎがあるのですが、どうなるのか・・・・
添乗員の話では、同じ航空会社なので、なんとか対応してくれるだろうとのこと。

なんだかんだでヨハネスブルグに到着したのがすでに夜間。
乗り継ぎ時間が45分ほどで、単に飛行機を替えるだけでなく、南アへの入国審査もこの間に行う必要があります。

入国審査のカウンターには長蛇の列。
どう考えて時間内に乗りかえるのは無理ですが、利用航空会社の者の案内で入国審査を通常とは別枠でやってもらえる・・・・はずでした。通常はそうやっているとのこと。

バトル・その1 イミグレの管理者 vs. 航空会社係員
しかし、この日のイミグレの管理者(中年の太った白人)は、一切そのような話には耳をかしません。 

白人・小太りのイミグレの管理者は腰にてを当ててて仁王立ち。ここから先は一歩も通さない・・・という感じ

黒人の小柄な航空会社係員(男性と女性2名)は「そう言わずに。いつもやってもらっています・・・そうしないとこの日本人16人が飛行機にのれないです。飛行機は彼らの到着を待っています」みたいなことを言ってるのでしょう。

私らのほかにも、ヨーロピアンのグループもいて、何やらそちらは激高しています。

しかイミグレ管理者は「規則は規則だ」と頑として譲らず。

様子を眺めていたツアー添乗員は「時間の無駄。この間抜けで石頭のおっさんが認めるわけない」とあきらめて、通常の列の最後尾に並ぶことに。

イミグレ管理者の圧勝。

バトル・その2 ツアー添乗員 vs. 派手な黒人女性
私らの後ろにも長い列が。 進まない列に苛々しながら待っていると、後方から若い黒人女性が並んでる乗客を押しのけてやってきます。まつげを大きくカールさせた派手なメイク・服装で、日本ならモデルさんみたいな雰囲気。

「そこ、通して。飛行機出ちゃうの!」なんて言いながら。

その女性の前に立ちはだかったのが私たちのツアー添乗員(40歳台? 50前後?の女性。)

「ダメ。列の後ろに並びなさい!」
  「飛行機に遅れるのよ!」
「それは私たちも同じ状況よ」といった押し問答を激しくたたかわせていましたが、黒人女性はあきらめました。
  (仕方なく後ろに下がりながら)「どうして通してくれないの。遅れたらあなたのせいよ!」
「間違ってるのはあなたよ!」

ツアー添乗員の勝利

タイムアップ
何とかイミグレを通過して、航空会社係員の案内で空港内を走る16名。
最初は本当に走っていましたが、私を含め高齢者がほとんどなので、後半は急ぎ足で。

向かった先は手荷物検査。 時刻は午後8時を少し過ぎたあたり。飛行機は8時の予定ですが、10分程度なら待ってくれるはず・・・(親切ということではなく、航空会社のせいで乗り遅れをつくると、代替便や今夜のホテルなど、航空会社も面倒になりますので)
 
検査を始めたところ、セキュリティチェックの女性が作業中止を宣告

「飛行機はもう出発したわ。」
航空会社内部でどういう話になっていたのか・・・とにかく間に合わなかったみたい。万事休す。

泣きっ面にハチ
仕方ないのでに一部チェック済みの手荷物を回収。場所を変えて、これからどうするかを考えることに。

機内預けのスーツケースは、本来はヨハネスブルグで各自がピックアップして、改めてケープタウン行きに預ける手順ですが、それをやっていたら絶対に乗り継ぎに間に合わないので、航空会社の係員がケープタウン行きに積み替えることになっていました。

ただし、荷物の乗り継ぎが間に合わないこともあるので、スーツケースなしでも今晩・翌朝すごせるように、各自、1日分の着替え・薬・化粧品などは手荷物でもっていく手はずになっていました。(もともと、そのような「綱渡り」的な乗り継ぎでした)

今回は人間のほうがケープタウンに行けなくなったので、スーツケースもヨハネスブルグで回収することに。

ヨハネスブルグ空港で各自がスーツケースを受け取って・・・・でもツアー客一人のスーツケースが足りません。
どこに消えたのか? 航空会社の方で探しますが、見つかりません。

考えられる可能性は、手違いで回収できずにそのままケープタウン行きに乗せられて、ケープタウンへ荷物だけ行ってしまった・・・でも、その確認もできません。

(全員分の荷物をヨハネスブルグで回収する判断が誰によっていつなされたのか・・・このあたりの事情は今でもよくわかりません)

今夜どうするのか? ケープタウンへはどうやって行くのか?
まずはケープタウンへの代替便を確保する必要があります。

そのほか、今夜のヨハネスブルグでのホテルを探し、予約していたケープタウンのホテルをキャンセルする必要も。

添乗員は大忙し。添乗員・航空会社・日本のツアー会社で調整。

ツアーメンバーは空港内で待機。
時刻はすでに9時過ぎ メンバーも「今夜はもうフライトはないでしょう」とあきらめムード。

結局、明日朝一番、6時のフライトを確保。今夜はヨハネスブルグのホテルで宿泊することに。(航空会社負担でしょうか)

なんだかんだでホテルにチェックインしたのが10時過ぎ。
本来は「おひとり様」の私は一部屋使用していましたが、この緊急避難で、今夜はおなじ「おひとり様」男性と相部屋に。

夕食がまだ。ホテルのレストランはとっくに終了。
添乗員がタクシーでマクドナルドに向かい、人数分のハンバーガーを購入してくることに。

ハンバーガーの必要有無を確認していると、ツアーメンバーの一人は「私はあれがいいわ・・・」 さすがに添乗員もムッとした様子で「ごめんなさい。この状況なので全員同じものになります」 しょりゃそうだ。

そのハンバーガーが届いたのが11時頃

普段体を動かすこともないのに、急に空港内を走ったりしたので、夜中に足がつりまくり。
睡眠時間は2時間ほどか。

翌朝は3時半起床で6時フライトに。

怒涛の観光スケジュール消化
翌朝なんとかケープタウンに到着 昨夜ヨハネスブルグ空港で紛失したスーツケースを無事回収。

ただし、本来スケジュールからすでに30分から1時間遅れで観光スタート。

運悪く、最初に向かったテーブルマウンテンが大混雑で、ロープーウェイに乗るまで長時間待たされて更に遅れが拡大。

もともとそういうトラブルがなくても、ケープタウン観光は通常以上に目いっぱい組み込まれており、相当にタイトな時間管理になることがわかっていましたが、この事態で状況は悪化。

予定が押しまくりで昼食がとれたのが4時頃。
「申し訳ないですが昼食は45分ですませてください」と分刻みスケジュールに。

というのは、そのあとに訪れる予定の植物園の最終時間がきめられているため。

45分で・・・食べるのにそんなに時間はいりませんが、料理が出てくのに時間がかる。
添乗員の話では、「お店についたら、料理はテーブルの上に並べられているので、申し訳ありませんが・・・」なんて言っていましたが、ちっともそんなことはありません。

パックに包んでもらってバスの中で食べたら・・・といった提案もありましたが、(そんなパックに詰められるような料理ではありませんでしたが、それはともかく)「そんなことを頼んだら、包むのにまたすごい時間がかかる」とのこと。

日本のように客の事情に併せて最大限の配慮を・・・といった世界ではありません。

現地ガイドも要領が悪い・・・・
喜望峰近くのペンギンのコロニーを見学したのですが、見学後に支払いを行っていた現地英語ガイドがなかなか終わりません。

業を煮やした添乗員は「先にバスに戻ってるわよ!」とおかんむり。
でも現地ガイドから聞いていたバス(遠くのバス駐車場に駐車しているはず)の待ち合わせ場所が違っていて、急いでいる中で16名はうろうろさまようことに。

ようやく戻ってきた現地ガイド、WiFi電波事情が悪く、スマホ決済の入力ができなかったとのこと。

でも、現地ガイドなら、そのあたりの地域事情をわかっているはずだろうに・・・・といった感も。

車内でのガイド氏の謝罪(添乗員に促されたみたい)に、一部メンバーからは「気にしないで」という声もありましたが、添乗員も私も(それ以上責める気もありませんが)「プロの仕事として、それは少し違うのでは・・・」


植物園は多少は待ってもらえる話になっていましたが、大きくずれこんだこの時点ですでに電話しても誰も出ない状態になっていました。

しかし、もうあきらめて・・・・という訳にはいかないようです。
最近は旅行業法のコンプライアンスが厳しく求められており、間に合わなくてもとにかく現地に行って、すでに閉まっていたことを確認する必要があるとのこと。

また、事前に「予定」として明示したプログラムについては、現地の都合でショートカットすることも認められていません。それは返金・賠償の対象にもなります。

という訳で大きく遅れて植物園に到着したころ・・・まだ開いていました。
私ら以外にも、これから入る客も。どういう時間管理になっているのかは知りません。とにかく結果オーライ。

遅い昼食をすませたばかりですが、「予定」のレストランでの夕食。

そうしたなかで、ショッピングモールは閉店時間となっており、さすがにこれはアウト。お買い物はできませんでした。(私は買い物しませんので、むしろ助かった・・・というところですが、女性客はよく買う・・・不思議なくらい)

ホテル事情についてもいろいろありますが、ひとつだけ。

周知のように南アフリカの治安は非常に悪いことを反映して、ホテルのセキュリティーチェックが厳しい。

エレベターに乗るのにカードキーが必要なのは日本でもよく見るところですが、南アの場合、自分の宿泊階にしか行けません。

ツアー客がトラブル対応で添乗員に連絡しても、客と添乗員のフロアが異なると、添乗員は客の部屋には行けません。どうしても・・ということなら、いったんレセプションに降りて交渉ということに。

と、いろんなことを書きましたが、(添乗員の頑張りもあって)それでもいろんなところをまわれていい旅でした。

トラブル最中も添乗員任せで、自分を含めてツアー客はお気楽。
そうしたトラブルのせいで印象に残る旅にもなりました。

ひとつ間違いなくいえるのは、こうしたトラブルに一人旅で遭遇していたら・・・南アの異郷で呆然と立ち尽くすだけだったでしょう。

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トルコ観光 アジアとヨーロッパにまたがる世界唯一の都市、イスタンブール

2022-09-08 22:41:57 | 身辺雑記・その他
1日からのトルコ観光を終えて、先ほど(8日夜)帰国。
コロナ水際対策が丁度変更になって、帰国直前のPCR検査は不要に。

羽田国際線の対応ぶりは、大量にチェック要員を動員しての人海戦術。

私の場合は、今夜は東京に宿泊して、明日早朝のフライトで自宅に。
空港で検査して問題なければ、一応今回旅行も終了に。

*********************
イスタンブールで泊まったインタコンチネンタルホテルからも近い、新市街地中心にあるタクシム広場は街歩きの基点になる場所です。



広場の中央には共和国記念碑があります。地下鉄やトラム、バス乗り場などが集まっており観光へのアクセスが便利な場所。


広場から新市街のメインストリートであるイスティクラール通りが伸びており観光客も多く訪れる広場です。



↑ ↓ スイーツのお店が多かったよう。



朝早い時間なので、ケバブも"太って"います。
これから焼けた表面を削り取られ、次第に痩せ細っていきます。


↓ 昼食をとった旧市街エジプシャンバザールそばのレストランからの眺め。

金角湾をはさんで対岸は新市街。中央の塔はガラタ塔。 橋はガラタ橋。
両岸ともにヨーロッパ側



↓ 7日午後訪れた最後の観光スポット、トプカプ宮殿からアジア側の眺め



言うまでもなくイスタンブールはアジアとヨーロッパにまたがる世界唯一の都市です。さらに旧市街、新市街とその表情は多彩。
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トルコ観光  コンスタンチノープル攻防戦 アヤソフィアの変遷

2022-09-08 04:20:56 | 身辺雑記・その他
1日から8日までトルコを観光しています。
9月6日はイスタンブールに戻り、ボスポラス海峡のクルーズと、市内観光の前半。

イスタンブールはかつてコンスタンチノープルと呼ばれる東ローマ帝国の首都で、20回以上に及ぶ外敵の攻撃に対し、1204年の第四次十字軍による攻撃以外は鉄壁の城壁でこれを撃退してきましたが、1453年にオスマントルコのメフメト2世の攻撃によって遂に陥落し、東ローマ帝国は消滅しました。

この攻防戦で、守備側はガラタ塔付近の金角湾入り口を鉄鎖で海峡封鎖し、オスマン艦隊の金角湾侵入を阻止しましたが、これに対し、オスマントルコ軍は艦船を車輪付き台車に乗せて陸に引上げ、山越えして湾に収入させる奇策をとったとされます。

歴史上最も有名な攻防戦のひとつです。


【マルシアクラッチ: コンスタンチノープルの陥落 13 (calforniwa.blogspot.com) 】

↓ 画像左手前がガラタ橋  守備側はこの付近を鉄鎖で海上封鎖したのでしょう。
一方、メフメト2世は、画像右奥のガラタ塔の奥を「オスマン艦隊の山越え」させました。




*****アヤソフィア****
トルコ共和国のイスタンブールにあるモスク。2020年7月までは博物館であった。

元々は東ローマ帝国(ビザンツ帝国、ビザンティン帝国)時代に首都コンスタンティノープルで建てられたキリスト教正教会の大聖堂を起源とし、帝国第一の格式を誇る教会、コンスタンティノープル総主教座の所在地であったが、1204年から1261年まではラテン帝国支配下においてローマ・カトリックの教徒大聖堂とされていた。

その後はオスマン帝国によるコンスタンティノープルの陥落が起きた1453年5月29日から1931年までの長期間にわたりイスラム教モスクとして改築を繰り返し使用されて現在の特徴的な姿となった。

トルコ共和国政府は1935年2月1日、世俗的な博物館とし、それが2020年7月まで続いた。【ウィキペディア】
****************


上記のように宗教的変遷を経験してきた壮麗なアヤソフィアですが、2020年にエルドアン大統領が再びモスクとして利用することを決定。

入り口付近のキリスト教関連装飾は、礼拝時には白いカーテンで覆われるとか。

また中央祭壇上部の装飾もカーテンで覆われています。



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トルコ観光 エフェス遺跡

2022-09-07 02:22:37 | 身辺雑記・その他
棚田状石灰岩地形のパムッカレの後訪れたのがエフェス(エフェソス)遺跡

****エフェス(エフェソス)*****
トルコ西部の小アジアの古代都市

エフェソスはヘレニズム都市として栄えたが、紀元前2世紀に共和政ローマの支配下に入り、小アジアの西半分を占めるアシア属州の首府とされた。

巨大な図書館と劇場を備えていた。劇場は当時最大のもので、5万人が収容された。エフェソスの繁栄は港湾によるところが大きかった

東ローマ帝国の下でも、エフェソスは引き続きアシア属州の首都として繁栄した。【ウィキペディアより】
********************

↓ その繁栄ぶりがクレオパトラに妬まれて放火されたとも言われる巨大図書館 エジプトにパピルスの使用を禁じられ、羊皮紙を使用


↓ 巨大円形劇場


↓ 港湾に通じる通りから円形劇場を望む

 

エフェス遺跡は、この地域が世界の古代史において中心的存在であったことやその文化水準の高さを偲ばせる遺跡です。

この日(9月5日)はイスタンブールまで移動
↓ ガラタ橋からの夜景


翌日、翌々日はイスタンブール観光です。
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トルコ観光 パムッカレ

2022-09-06 06:39:26 | 身辺雑記・その他
9月1日から8日までトルコ観光中。
5日に訪れたのはパムッカレ

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ヒエラポリス-パムッカレはトルコ西部・デニズリ県にあるユネスコの世界遺産(複合遺産)の登録名。パムッカレは石灰華段丘からなる丘陵地の名前であり、2世紀頃、ヒエラポリスというローマ帝国の都市が存在した。現在は遺跡が残る。【ウィキペディア】
******************

“ヒエラポリス”(聖なる都市)は温泉を利用した一種の療養都市で、人口は3万人ほどだったとされています。
人口推計は、劇場の収容人数の約10倍という算出方法とか。

遺跡は地震と崩れやすい岩質のため、現在はさほど大きなものは残っていません。
遺跡を見るなら近くのエフェソス遺跡がよいでしょう。

****パムッカレ****
パムッカレとは、トルコ語で「綿の宮殿」という意味。綿とあるのは昔からこのあたりが良質の綿花の一大生産地であることによる。

二酸化炭素を含む弱酸性の雨水が台地を作っている石灰岩中に浸透し、炭酸カルシウムを溶かした地下水となる。その地下水が地熱で温められて地表に湧き出て温泉となり、その温水中から炭酸カルシウム(石灰)が沈殿して、純白の棚田のような景観を作り出したものである。

棚田の畦の部分は、流れてきた植物片などがひっかかり、これに石灰分が沈着して次第に堤のように成長する。これは温水が畦を越流する時に石灰分の沈積が化学的に加速するためでもある。

このような景観が約200mの高さにわたって形成されている。【ウィキペディア】
*******************

下は現地の看板。

最高の条件でプロが撮影したものですが、基本的に以前と異なり、現在は温水が棚田を流れ落ちる・・・・という状態ではなくなっているようです。

そのため、現実の風景は・・・・



パムッカレ観光の後は前出のエフェソス遺跡に向かいます。

なお、売店で売られていたカップヌードルは1個60リラ 約500円。
街中であれば35~40リラほどか。約280円~320円
やはり日本の物価は外国に比べ格安になりつつあるようです。

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トルコ観光二日目はカッパドキアの気球観光 経済効果は大きそう

2022-09-05 03:02:44 | 身辺雑記・その他
トルコ観光二日目(9月3日)

奇岩ニョキニョキの景観で世界遺産にも登録されているカッパドキアで気球観光 ただし、4時前に起床 ちょっとつらい。

ざっと見た感じでは周囲に飛んでいる気球は80~100個 別場所でもやっているのかも。

私たちの気球は乗客14名でしたが、最大24名乗れるみたいです。時間は小1時間。


気球は飛行機と同じような扱いで、ターキッシュエアラインの管理下にあります。

気球を操縦するパイロットは、ターキッシュエアラインの訓練学校で学び、その後50時間の見習い乗務が必要とか。

その日の気球フライト催行の可否判断もターキッシュエアラインが毎日行っているとのことで、安全性は厳しくチェックされているとか。

気球自体も150時間(つまり150回)使用したら、新しいものに交換する規則
また、定期点検も半年ごとにあるようです。


操縦は2名ほどでやっていますが、着地地点への車の配備、車がけん引する台車への気球の誘導・固定、着地した気球の整理・片づけ(数名~十名が気球を引っ張って横倒しにするなど)など、運用には相当の人員が必要になります。

ということは、それだけの雇用を生んでいるということでもあります。


ただ、着地後に参加者にシャンパンがグラスでふるまわれるセレモニーが行われますが、参加者は飲み干したグラスにチップのお札を入れるのが習わしになっているようです。

参加者がそのような形でチップを差し出すと、運用側関係者から一斉に拍手が。

まるでホストクラブで「はい、ドンペリ入りました!」みたいな雰囲気で、私は興ざめ。(ほとんどの日本人参加者は嬉々としてやっていましたが)
支払う側は少額ではすまないような雰囲気も。

こういうチップを強要するような習慣は、あまり好きではありません。
もともとチップの習慣がなかった国でも、欧米系観光客が持ち込むチップ習慣が広がっているようにも。

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トルコを旅行中 カッパドキアの地下都市や洞窟住宅

2022-09-03 23:50:29 | 身辺雑記・その他
9月1日から8日まで、トルコ観光旅行中です。
コロナ対応の手続きなどもあるので、すべてお任せのツアー参加。

詳しくは帰国後、旅行記サイトにアップしますが、とりあえず、どんなところへ行ったのかだけ紹介。(通常の記事を書く時間も、気力もないので)

1日は移動(地元から羽田へ移動、羽田からイスタンブールまで13時間、イスタンブールで国内便に乗り換えてカッパドキア方面へ・・・・滅茶苦茶疲れました。

2日目、その滅茶苦茶疲れた状態で、休むことなくそのまま観光スタート。しかも日中は35℃、36℃。いささかゾンビ状態。

最初のスポットはカイマクルの「地下都市」

地下都市とついている通りそこは巨大な地下空間。紀元前から存在し、多くの人が住み着いた場所。 

地下8層(深さ約55m)にもなる巨大な地下都市ですが、現在入れるのは地下4階まで。

次に訪れたのがウチヒサル城

カッパドキアと言えばニョキニョキ、キノコののような岩の奇景が有名ですが、ここは岩山全体をくりぬいて要塞にしたもの。

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古代ローマ時代後期、ギリシャ人のキリスト教徒がローマ帝国の迫害から逃れるためにこの地に隠れ住んだことが始まりと言われています。数々の争いの中で、この巨大な岩山は城壁の役割を果たしてきました。

城内はまるで蜂の巣のように、数多くの部屋が洞窟を掘って造られています。迫害から逃れたキリスト教徒たちは、外敵から身を守りつつ、信仰を守り続けながらこの場所に隠れ住んでいたのです。【ターキッシュエア&トラベル】
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付近にはカイマクルの「地下都市」のような地下都市もあって、敵が来たらその地下都市に逃げ込んだとか。

カッパドキア地方では、以前はごく普通にこうした岩山や奇岩に穴をjくりぬいた横穴式住居に住民が住んでいましたが、最近では政府が資金を出して買い上げるかたちで立ち退かせ(自発的なものか、半ば強制に近いのかは知りません)、ホテルやレストランなどの観光資源に再利用しています。(新たに岩をくりぬくのは禁止されています)

そのため、実際に岩をくりぬいた住居に住んでいる世帯は現在ではごくわずか、数えるほどしかいないそうです。

その中のある住居(現地ガイドさんのお知り合い)を特別に見せてもらいました。


洞窟住宅内の撮影は遠慮して、外観だけ。
中は結構広いです。くりぬいた洞窟にトルコ特産の絨毯を。

奥様が絨毯作成の先生だとかで、ご自分が結婚時にもってきたものとか、お母さんの結婚時のものとか。

なにより涼しい、エアコンいらず。
こうした形状の洞窟住宅がひろく利用された理由がわかります。

現在は、先述のようにかつての洞窟住宅はホテルやレストランに再利用されています。

昼食を食べたのも洞窟レストラン、宿泊も洞窟ホテル

洞窟ホテルは、付近の洞窟をまとめてホテルに再利用したもの。
ですから、敷地内に散らばる部屋ごとに広さも形も異なります。



↑ 私の部屋。 奥が寝室 さらにその奥にバスルーム
相当に広いです。

ただ、外観は普通の建物のようにも見える形状のせいか、エアコンがないとちょっとつらい。

翌日はカッパドキア名物の気球観光。
朝4時前起床のハードスケジュールが続きます。

気球の話はまた次回。
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パキスタン  食べた料理いろいろ 

2019-04-01 11:03:35 | 身辺雑記・その他

3月25日に到着したパキスタン・フンザ旅行ですが、昨日イスラマバードに戻り。今夜のフライトで帰国です。

いつも長いフライトはおっくうなのですが、今回は「あのカラコルムハイウェイの長時間ドライブに比べれば・・・」という感も。

でもって今日は、旅行中に食べた料理の画像をひたすらアップしていきます。

到着日にアフガニスタン料理店で食べたチキンのカバーブ(串焼き)は昨日紹介したとおり

 

下は、二日目ベシャームで食べた「ハンディ Handi」

土鍋料理ですが、スパイシーな料理が多い(と言うか、ほとんどの)パキスタン料理にあっては、珍しく非常にクリーミーな味付けでした。

具材は骨なしチキンでした。

 

上は一般的な朝食 右下は油で焼いた「パラタ Paratha」 ナンやチャパティとの区別はよくわかりませんが、油を使用するところが違うようです。

もっとも、私は旅行中は、パラタではなく、トーストのバター・ジャムを食べていました。

上の方に写っているのは、オムレツと豆料理です。

上は、三日目夜、カリマバード到着時のホテルで食べた「Shashilik」

肉野菜の煮込みですね。黄色いのは卵焼き。

上は4日目、カリマバードで食べた「Beef Karahi」

上は4日目夜、アリアバードで食べた「ティッカ Tikka」 チキンの丸焼きです。

上は、5日目昼に、ランチ代わりに食べたケーキ 下がくるみ、上はアーモンド

特にくるみのケーキが甘くておいしく、翌日、お土産に購入しました。

上は、5日目昼、パッスー村周辺のガイド氏実家で食べたお菓子「Galmandi」

 

同じく5日目昼 パッスー村周辺の小さなお店で食べたスープ料理「ダウダウ」

チーズ味のとろみのあるスープの中にパスタが入っています。

上は5日目夜、カリマバードのホテルで食べた「酢豚」ならぬ「酢鶏」

これまでスパイシーなパキスタン料理が多かったので、メニューの「Sweet and sour」という表記を見て思わず注文したのですが、オーダーするときにポークではなくチキンなのに気づきました。

パキスタンはイスラム国なので豚肉はありません。酢鶏も結構おいしかったです。

 

上は6日目昼、アリアバードで食べた「Nihari」 味は忘れました。

6日目夜、カリマバードで食べたチキン(右)とビーフ(左)のティッカ

ビーフは固くてチュウインガムを食べているような感じ。

なお、マトンはメニューにはありますが、どこの店で頼んでも「欠品」でした。

7日目朝、ギルギットで食べた豆料理「Chola」

 

7日目昼、ダッソーだかどこかで食べたひき肉のキーマカレー

 

8日目昼、アボッタバードで食べた「コフタ Kofta」

肉団子料理ですが、肉団子の中にゆで卵が入っていました。

同じく8日目昼のマトンの「Bakak」 主にガイド氏が食べたもの

 

同じく8日目昼にドライバー氏が食べた「マシダルカレー」

 

いつも私とガイド氏・ドラーバーの3名で食べますが、一応私が主賓という立場で、何を食べるか決めるのも私、最初に手をつけるのも私ということで、こちらも結構気をつかうことも。

ハンバガーか何かで簡単にすませたいと思っても、それではガイド氏などが頼みづらくなるので、そこらを考えて・・・ということも。

 

今日はこれからガイド氏と最後のイスラマバード市内観光に出かけます。

平成に出発しましたが、帰国したら「令和」ということのようですね。

 

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パキスタン北部  アフガニスタン関連のニュースでよく見る人々とよく似た感じも

2019-03-31 23:02:51 | 身辺雑記・その他

330日ブログ“パキスタン・フンザ  アンズが咲き誇る村で、変わりゆくフンザを考える”で、フンザの観光地化・変化を取り上げた際に、フンザ出身の男性と結婚されたスズケーさんのブログ「変わるフンザ 観光客がダメにする」(https://suzukikeiko.com/pakistan/information/change-hunza/)を「勝手に」紹介しました。

 

そうしたところ、スズケーさんご自身から以下のようなコメントを頂きましたのでご紹介します。

 

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ブログのご紹介ありがとうございます。
本日こちらのブログからのアクセスが何件かあって、紹介していただいていることに気がつきました。

現在フンザに滞在中だそうで、今日はお天気もよくなかったようなので、
ちょっと寒かったのではないかと

フンザが変わることについてですが、
あのブログでは少しわかりにくかったかもしれませんが
(末尾に別の関連記事へのリンクを追加しました)
フンザが近代化することに関しては私は悪いと思っていません。
実際に1年住んで、何もないことが大変なことも重々理解してますし、
そもそも、今そこに住んでいない私がどうこう言えることではないですし。

あれは、景色や近代化云々に関してではなくって、
外国人に慣れて、人として、ムスリムとして、
ダメな行為をしちゃうような人が増えるのはどうなの?って言うことに関する記事でした~。【スズケーさん】

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私も特段の定見がある訳でもありませんので、“変化”に関する話そのものについては特に言うべきこともありません。

 

話の内容より驚いたのは、私のブログからスズケーさんのブログへアクセスされた方が何人かおられるということです。

 

10年以上、ほぼ毎日このブログを書いているせいで、gooブログサイトが表示するアクセス数は非常に多く(訪問者数で1200件前後 PV数で4000件前後)、286万程度あるgooブログ中200位前後(!!!)記録しているとされています。本当かね???

 

一方、やはり10年以上、全く同内容をコピーしてアップしているアメーバブログの訪問者数は毎日2030件(!!!)程度。

 

この差は何なのか?(以前はアメーバブログの方はもう1ケタ多かったようにも思いますが、それでも大きな差が以前からありました)

 

Gooブログの方は自動検索のボットをカウントしているせいで、異様に数が膨らんでいるのだろう・・・と理解していました。

 

そういう話になると、「何を書いたところで、見ているのはボットばかり」ということにもなって、「じゃ、まあ、好き勝手に書き飛ばすか・・・」という話にもなります。

 

そういうなかで、私のブログからスズケーさんのブログへアクセスされた方が何人かおられるということは、まともに読んでいただいている方、しかも引用元まで飛ばれた方がいるということで、驚いた次第です。

 

でも、今書いていて気づいたのですが、ひょっとして引用先に飛んだのもボット???

もう、わかりません。

 

最近わかったことがひとつ。

アメーバブログの訪問者数は毎日2030件ですが、そのなかで「いいね」してくださる方が毎日数件いらっしゃいます。

 

ひと月ほど前からアメーバブログで全く別ジャンルのブログを始めてみてわかったのですが、2030件のなかから数件の「いいね」というのは非常に高率のようです。

 

たとえ数は少なくても、そうした方々に感謝しないといけない・・・と、最近改めて感じています。

(別に、「いいね」を催促している訳では決してありません!!!! ただ、「いいね」してもらえれば嬉しいです・・・なんてね)

 

話をパキスタン・フンザ旅行に戻すと、今日はベシャームからカラコルムハイウェイを更に南下して、首都イスラマバードまで戻ってきました。明日夜には帰国します。

 

今日は、旅行中に食べた料理の話。

 

冒頭写真は到着日夜にイスラマバードのアフガニスタン料理店で食べたバーベキュー(カバーブ)

マトンだったか、チキンだったか忘れました。(多分チキン)

画像左上はマトンかビーフが中に隠れている炊き込みご飯・プラウ(ピラフの語源でもあり、ビリヤニとは正確には違うと言われていますが、実際にはあまり区別されていないようにも)

 

アフガニスタンの内戦・混乱で、パキスタンには多くのアフガニスタン難民が生活しており、こうしたアフガニスタン料理のお店も。

 

店に飾られた(タリバンによって破壊され、今はもう見ることもできない)バーミアン大仏の絵が痛々しい感じも。

 

なお、フンザ方面で見かける人々のイメージをザックリ言えば、アフガニスタン関連のニュースで目にする人々とよく似ている・・・という感じ。(パキスタン自身はメディア露出が少なく、パキスタンの人々のイメージがないため、上記のような話にもなります)

 

ギリシャ彫刻のようなヨーロッパ的な風貌もよく見かけます。

 

実際、アフガニスタンとパキスタン北部は民族的・宗教的にも関連が強く、パキスタンにもハザラ人が多いエリアがあったりもするようです。

 

そうした類似性もあってタリバンはパキスタン北西部を出撃・物資補給拠点にしていた訳ですが、現在は一掃され、北西部エリアの治安・政府支配はよくなったとのことです。ガイド氏の話ではカーン首相の功績が大きいとか。

 

一方でパキスタン国軍が長年タリバンを支援してきたということ(これも、ガイド氏の話では今はないそうです)についても、上記のような類似性があっての話で、部外者の批判的見方とはまた異なるものもパキスタン(軍部)にはあるのかも。

 

話が、どんどん料理からそれていきます。(最初からブログ訪問者数の話にそれて、今日はそれまくりです。これも、悪路カラコルムハイウェイの8時間ほどのロングドライブで疲れているせいでしょう)

 

料理の話は、明日以降にまた仕切り直して取り上げることにします。

 

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