孤帆の遠影碧空に尽き

年に3回ほどアジアの国を中心に旅行、それが時間の流れに刻む印となっています。そんな私の思うこといろいろ。

中国の動物園での生餌ショー 命の重さ

2007-05-31 21:30:01 | 世相


5日ほど前TVで、中国ハルビンのサファリパークで放し飼いのトラに生きた牛を餌として与えており、その光景を喜ぶ現地の人たちの様子が批判的に放映されていました。

確かに見たくない嫌な映像でした。
観ながら感じたことが三つありました。
一つ目は、トラが牛を襲うシーンの残酷さ。
二つ目は、それを喜んで見ている観客に対する嫌悪感。
三つ目は、「ほら、中国人ってこんな連中なんですよ。」的なビデオの作り手の優越感みたいなもの。

動物園側は「自然に戻す訓練の一環」という弁解をしているようですが、明らかにこれはお金目当てのショーでしょう。
この件に関してはいろんなところで様々な人が論じています。
もちろん批判的な意見が主流ですが、“反”動物愛護団体的な「殺しあうのは自然の姿だ。それを見せてどこが悪い!」といった意見も思った以上にあるようです。
最近は特に若い人達に反中国感情が強いように思えますが、そのようなグループと反動物愛護団体グループはかなり重なる部分があるようで、2チャンネルなどでも必ずしも中国批判一色という訳でもないのが面白い現象でした。

オーソドックスな意見は「確かに人間は生き物を食べて生きている。でもそれは生きるうえでの必要性によるものであって、今回のようなショーとして殺しあう様を見せ、それを喜ぶのとは全く異なる。このようなショーは野蛮で残酷だ。」といったところでしょうか。

確かにそうなんでしょうが、いろいろなケースについて「あれがよくて、何故これはダメなの?」と考え始めるとよくわからないことが多くあります。

世界には生餌を与えるワニ園、ヘビ園もそう珍しくないようです。
私の住んでいる奄美では「ハブ対マングース」の戦いを見せるところがあって(今でもやっているかは確認していませんが、少なくとも2、3年前はやっていたようです。)、これを写真で紹介しているブログには小学校の先生から「沖縄旅行に行くので、その参考としてこのブログを是非子供達に見せたい」といったコメントが寄せられています。
少なくとも「残酷だ!野蛮だ!」というコメントはないようです。
(沖縄でも以前はありましたが、動物愛護の観点から現在はやっていないと思います。)
今回のショーをめぐる2チャンネルの議論では、牛に剣を突き刺す闘牛がよく比較に出されていました。

食べるにしても“活け作り”“踊り食い”などもあって、嫌う人もいますが「食の伝統文化」として好む人も大勢います。
ショーという観点では、ボクシングやプロレスようなものを喜んで観ることと、今回のショーを喜ぶ人にどれだけの差があるのか?
考えようでは、「殺さないまでも、人間同士が殴りあうのを興奮して眺めるほうが残酷なのでは?」とも言えるのでは?
もちろん、古代ローマの剣闘士の殺し合いショーは現代的価値観では受入れられませんが、当時ローマ市民は興奮してこれを喜んでいました。それも人間性の一面です。
今回のショーにしても、何の予見も与えずに日本人観光客を連れていけば、相当多くの日本人が「凄い!」ってカメラを向けるのではないでしょうか?

そもそも、「食べるために殺すのはOK、ショーはダメ」というのも、ある意味非常に自分達に都合のいい論理にも聞こえます。
殺生を禁じる仏教の教えではそんなことは言っていないのでは。
飢えた虎の親子のために自らの身を投げる“捨身飼虎”の話もありますが、私が一番よく出来た話だと思っているのは釈迦の前身であるとされるシビ王の「鷹と鳩の話」です。
ある日鷹に追われた鳩が王のもとに来ます。王は鳩を助けようとしますが、鷹は「鳩を食べないと自分が飢えて死んでしまう。」と主張します。そこで慈悲深い王は「鳩と同じだけの私の肉をあげよう。」と言います。片方に鳩を乗せた天秤のもう片方に自分の肉をそぎ落として置きますが、いくら乗せてもつりあいません。結局、自分自身が飛び込んでようやく鳩と釣り合いました。鷹は帝釈天の化身で「よく命の大切さがわかったな。」と褒めたそうです。

残酷さ云々については、おそらく身の回りに類似のシーンがあるか否かで捉え方が随分異なるでしょう。
日本では肉はスーパーにパックされた形で並んでいますが、アジアの国々の市場では頭のついた豚や羊が店頭にぶらさがっているのはごく普通の光景です。
日本でも私と同世代なら鶏を絞めた経験のある人も多いかと思います。
私は全くそのような経験はありませんが、よく「首を切り落とされた鶏が庭を走り回っていたよ。」なんて話も聞きます。
また、国によっては、ある祭日には生贄のために殺され皮をはがれる羊などが街中にあふれる・・・といった地域もあるようです。

このようにいろいろ考えていくと、なかなか明確な結論がでません。
そのなかで感じるのは、今回のショーと類似した、あるいは連続延長線上にある事象は多々あって、何を受入れ何を拒否するかは多分に今自分が生活している環境でそれが普段見られる事象か否かという点にかかっているのではないかという思いです。
私自身は「肉がパックされて並んでいる」社会で生活していますので、今回のショーには残酷さを感じますし、今後なくなることを希望しています。
しかし、異なる生活環境にあれば違う感じ方も当然あるでしょう。
これに対し、「民度が低い野蛮人」という反応はいかがなものでしょうか。

また、このような残酷なショーを好む傾向は少なからず自分達を含めて人間一般にあって、スポーツや文化といったオブラートにくるまれた形ではあっても、それらを普段に受入れいている側面も否定できません。

更に「食べるために殺すのはOK、ショーはダメ」といった基準も、そんなに絶対的なものでもないような気がします。
自分を含め「パックされた肉」しか見たことのない者は、一度食用の牛・豚が処理される現場をちゃんと見ることが大切かも。
そのうえで「感謝して食べましょう」となるか「ベジタリアン」になるか(植物も生き物なんですが・・・)は本人次第ということで。

写真は今年正月に旅行したミャンマーの古都マンダレーの市場です。
http://4travel.jp/traveler/azianokaze/album/10118120/
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人命か特許権か 今の命か将来の命か

2007-05-30 22:39:22 | 国際情勢
エイズ撲滅のレッドリボンエイズ撲滅のレッドリボン posted by (C)まっつん

昨年末からタイ政府はエイズ治療薬、更に心臓病治療薬のいくつかにについて、米国・欧州の製薬会社の特許権を無視して「コピー薬」の製造・輸入を認める“強制特許実施権”(WTOで認められた権利で、「“非常事態”の場合、私的な知的財産権より公衆の健康が優先する」考えに基づくもの)を発動して、世界規模の製薬会社と争っています。

タイでは、HIV感染患者50万人のうちHIV治療薬カレトラを購入する余裕があるのは10%に満たないと言われています。
タイ政府の言い分は「特許権に守られた製薬会社の薬は高価で、所得が低い多くの国民は利用できない。薬を使えば助かる患者が経済的理由で死んでいく、このような現状を座視できない。」というもの。

もっともな言い分です。
“国境なき医師団”などもこれを支持しています。
また、ブラジルなど追随する動きもあります。

一方、製薬会社の立場は「新薬の開発には十数年の長い時間と莫大な投資が必要とされる。もし特許権が保護されないのであれば今後の新薬開発ができない。」というもの。
もし、タイ政府の政策が他国に拡大すれば、その影響は大きなものになるでしょう。
影響は単に製薬会社の利益にとどまらないところが問題です。
もしこのような特許侵害で新薬開発が進まない事態となれば、将来的に可能だったはずの薬が実現できない、つまり将来の命がその分犠牲になるとも言えます。
ですから製薬会社の言い分も、もっともです。

タイ政府と製薬会社は価格引下げ交渉を行ってきましたが、難航しているようです。
タイ政府の「コピー薬」容認政策に対して、製薬会社は「今後新薬の販売をタイでは行わない」という方針で対抗しているようです。

タイは決して最貧国ではなく中所得の国です。
ブラジルにしてもそうです。
だからこそ、世界規模の製薬会社と事を構える力があるのでしょう。
世界にはそのような力もなく、医療の恩恵を蒙ることなく死んでいく多くの人が暮らす地域も少なくありません。

このような絶望的な貧富の差が現存するという“ゆがみ”を前提にする訳ですので、両者の言い分はそれぞれにもっともで、私もどのように判断していいのかよく整理できません。
WHOのような国際機関が間にはいって、貧しい国ではその国の物価水準に見合った価格に抑える、そこで発生する製薬会社の損失については、先進国における価格を引き上げる、あるいは先進国における製薬会社に対する税制の優遇措置などでカバーする(つまり先進国住民の負担で後進国住民の医療をカバーするような何らかの方策)、そういった価格体系・損失補てん策が構築できればいいとは思いますが・・・。

仮にそういった調整が非現実的で、極端な話、「将来の新薬開発が不可能になっても、現在の困窮者を救う」か「現在誰を救済するかは市場原理にゆだね、結果的に将来的技術進歩の可能性を確保する」かのどちらかを選択しなければならないのであれば、私は前者を選びます。

日本などにおける医薬品に関する現在の技術水準はある程度の域に達しており、80歳前後の平均寿命に到達しています。
膨大な費用を投じて先端医療等で更にこの先を目指すよりは、その医療技術の恩恵を世界中のすべての人が享受できるようにすることの方がより重要ではないかと考えています。

写真は“フォト蔵”より。
ケニアのエイズ対策キャンペーン“レッドリボン”
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松岡農相・山崎氏の自殺 間違った責任

2007-05-29 18:17:56 | 世相
霧のロンドン Foggy
霧のロンドン Foggy posted by (C)takeshi

松岡農相に続いて、緑資源談合疑惑の「陰のドン」山崎進一氏も自殺。

松岡農相の国民・後援会あての遺書。

国民の皆様 後援会の皆様
 私自身の不明、不徳の為、お騒がせ致しましたこと、ご迷惑をおかけ致しましたこと、衷心からお詫び申し上げます。 自分の身命を持って責任とお詫びに代えさせていただきます。 なにとぞお許し下さいませ。
 残された者達には、皆様方のお情けを賜りますようお願い申し上げます。
 安倍総理 日本国万歳
 平成19年5月28日 松岡利勝

もう当たり前過ぎて言うのもはばかられますが、やっぱり責任の取り方が違うと思います。
自分たちの死で疑惑をうやむやにしてしまうことなく、“騒がせた”とか“迷惑をかけた”とかいうことでもなく、その疑惑の全容を明らかにすることで今後の“政治とカネの問題”に対する改善の一助となることこそが国民に対する責任です。
亡くなられた方には申し訳ない言い方ですが、“自分の身命を持って責任とお詫びに代えさせて”と言われると「随分勝手な言い分だね・・・」と不愉快です。

残された政治家・検察・国民にとっては、たとえ“死者を鞭打つ”ようなことになったとしても、今後への道筋をつけることこそが彼等の死を無駄にしない唯一の方策だと考えます。

写真は“フォト蔵”より。霧に覆われたロンドン市街
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ANAのシステム障害 コンピュータ社会の実態

2007-05-28 20:05:43 | 世相


昨日全日空グループの国内線予約・発券システムにトラブルが発生して多数の便が欠航・遅延し、終日空港は混乱したようです。

コンピュータ社会である現代、システム障害は大規模な混乱に直結します。
まだ記憶に新しいところでは、銀行合併に伴うシステム統合がスムーズにいかず、経営責任を問われる場面もありました。

私は今の仕事に就く前ある大きな政府系の組織で働いており、一時期システム運用関連の部署にいたことがあります。
政府系の組織のため、業務に関する内容は国会・政府・監督官庁のレベルで決定されますが、当然のことながらその際“そのような変更のためにどれだけシステムレベルの準備期間が必要か?”といった面は全く考慮されません。
政策的に「何月何日スタート」と決定されます。
“偉い人”はコンピュータなんて「こうしなさい」と決めたら魔法のようにすぐさま実現すると考えているのでしょう。
と言うより、そのような準備の必要性の発想がないのでしょう。

その期限にあわせて間に合うように準備するわけですが、スタート日直前に外注先のシステム開発会社に泊まりこんで徹夜でテスト・確認作業することもあって、「当面がしのげればそれでいい」「その先は走りながら考えよう」という泥縄もいいところでした。
その後それらのデータがどうなったか、職を辞めたので関係なくなりましたが、あまり考えたくないのが本音です。
銀行合併時のシステム障害など聞くと、「多分現場の希望・事情など全く考慮されないんだろうね・・・」と同情します。
社保庁の“消えた年金”みたいな問題の背景にも、こうしたシステム運用現場の実態があるかもしれません。
今後は組織のトップもある程度そこらへんを考慮しないと。
経営責任や内閣支持率にも影響しますから。

もうひとつシステム関係で感じたのは、コンピュータ管理が日常化すると人間の処理・判断能力が低下して“コンピュータまかせ”的な状態にもなりかねないということです。
本来“こうすべき”というものがあってそれをコンピュータ処理にのせたはずなのですが、いつのまにか“コンピュータでどう処理されるのか”だけが一人歩き始め、“本来どう処理されるべきなのか”を考えようとしない現象が出始めます。
今の小さな職場でも事情は同様で、「コンピュータでこう処理されるから・・・」「いやそうじゃなくて、本来どう処理されるべきなの?」なんてやりとりをときどきしています。

同時にコンピュータがやってくれている作業は次第にブラックボックス化して、処理の中身については忘れてしまって段々わからなくなる、処理結果を信用して使うだけになってしまいますね。
私自身業務で使っているコンピュータが止まったら、「手処理はもうよくわからないし、面倒でやる気もしない・・」ってところです。

写真は今年正月旅行したミャンマー第一の都市、ヤンゴンの空港のチケットカウンター。
ヤンゴンの空港はフライトの案内表示などが一切ありません。
機内に乗れる時間になるとプラカードを持った人間が「××航空 ○○便 どこそこ行き」と叫ぶので、それにあわせて待合室の乗客がいっせいに動きだします。
大体各社同じ時間帯のフライトになっているので(トラブルがあったときの振り替え対策だとともガイドブックにありました。)、人の動きがあるたびに自分の便かどうかと確認作業が必要になります。
まあ、人間的だと言えば言えなくもありません。
http://4travel.jp/traveler/azianokaze/album/10117298/
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誘拐ビジネス

2007-05-27 11:52:30 | 世相
丘から見たボコタ
丘から見たボコタ posted by (C)ゆたろう

昨夜(深夜なので正確には今朝早くですが)、なにげにTVをつけるとメグ・ライアン主演の映画をやっていたので、ラブ・コメディか何かと思い観ていました。
実際は「プルーフ・オブ・ライフ」(似たタイトルの「プルーフ・オブ・マイライフ」とは別物)という2000年作製の映画で、南米某国を舞台にした誘拐・交渉・解放を軸にしたものでした。
これが結構楽しめました。(深夜放送なのでかなり編集されているでしょうが。)

メグ・ラインの夫が武装組織に誘拐され身代金を要求される。
ラッセル・クロウ演ずる“交渉人”が仲介に立つ。
二人の間の微妙な関係をひきずりながら、交渉は難航。
うまくいきかけたがトラブル発生。
最後の手段で、実力で人質奪還を目指す。
夫が戻ったとき二人の関係は・・・。

映画はそのような流れですが、身代金や交渉にかかる費用をカバーする「誘拐保険会社」、情報機関・軍やFBI出身で犯人側との交渉にあたるプロの“交渉人”といったものの存在も始めて知りました。
映画なのでもちろんフィクションですが、それなりに南米等の誘拐ビジネスの背景を描いているのではないかと推察されます。
数ヶ月に及ぶ交渉の過程、人質が監禁される山岳地帯の雰囲気も「ふーん、こんな感じなんだね・・・」。
奪還を目指す戦闘シーンも、ランボー的な世界ではなく緊張感が感じられるもの。

海外での日本人誘拐というと、古くは20年ほど前のフィリピンでの三井物産マニラ支店長だった若王子さんの事件を思い出します。
このときは4ヶ月以上の交渉で、1000万ドル(現在レートで約12億円)が支払われたそうです。
新しいところでは今年4月パラグアイで統一教会関係の太田さんの事件がありましたが、こちらは19日という短期間で解決したそうです。
このときの身代金は1600万円。
随分低い金額で解決したみたいですが、よほど凄腕の交渉人がいたのでしょうか。
それとも「これも神の意思です。どのような結果になっても本人はこれを受け入れるでしょう。お金は1円も払う考えはありません。」といった統一教会側の強気な対応でもあったのでしょうか?

家族・関係者の立場としては「(犯人要求に対し)いくらまでなら払えます?」と訊かれると困るものがあります。
愛情をお金で表現するようにせまられること、支払う金額によって人間性が問われるような感じ・・・いっそ強奪されたほうがスッキリするような。

やはり南米は恐いね・・・。(マヤ・インカ遺跡など見てみたいけど。まあ、当分は遠くて高いので行けませんが。)
フィリピンも犯罪行為が多いイメージがあってこれまで行っていないですが、実際のところどうなのでしょうか。
もちろん貧乏人の私など誘拐しても1000万ドルも払えないのですが、犯人側はそこまで調べていないこともあるでしょうから・・・。

現在も未解決のポルトガルでの英女児マデリンちゃん誘拐事件では、ベッカムが協力を呼びかけるなどしていますが、両親のもとには推定260万ポンド(約6億2000万円)の金銭を含め、支援の手が各方面から寄せられているとか。

私が誘拐されてもそんな支援はもちろんありませんが、そんなことより「何故そんな危険なところへ行った」「自己責任だ」等々の帰国後のバッシングが恐いですね。
多分解放されても日本にはもどれないかも。

写真はコロンビアのボコタ(“フォト蔵”より)
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異郷で戦う人々 松坂そして朝青龍

2007-05-26 20:31:00 | 身辺雑記・その他


今日レッドソックスの松坂が登板するということで、仕事の合間にgooのアニメ仕立て「ライブ速報」をチラチラ眺めていました。
結果は“体調不良”とのことで、ホームラン2本を浴びて一時逆転を許すなど、あまりいい出来ではありませんでしたが、一応勝投手にはなりました。

メジャーで活動している日本人選手は大分増えてきました。
彼らの活躍が妙に気になります。
より正確に言うと、不調や挫折がとても気になります。
松坂にしても、松井にしても、日本にいるときは彼らが調子がよかろうが悪かろうが気にもならないし、全く関心がありませんでした。
他の選手にしても同様です。
大体、日本の野球自体、ここ十数年殆ど興味を失いどこが優勝したのかも定かでないぐらいです。(松岡、安田、若松、大杉の頃のかなり熱心なヤクルトファンでしたが。もう大昔の話ですね。)

今メジャーで日本を代表して頑張っている・・・という面からの応援もあるでしょうが、それだけではないみたい。
「頑張って」という周囲の期待、「本当にやれるの?」という懐疑、そういった重圧の中で奮戦していることを思うと、不調のとき、うまく結果を残せなかったときの選手本人が感じるであろうせつなさ、挫折感などが妙に私自身の心のうちと共鳴して、正視できないくらいの気持ちになってしまいます。

一方、今日大相撲では白鵬が優勝を決め、横綱昇進を確実にしました。
もちろん彼も日本という異郷で戦う戦士です。
白鵬については、その落ち着き払った物腰がいかにも日本人がイメージする横綱像そのもので、大横綱になってくれるのではと期待させます。

相撲は野球以上に縁遠い存在で、小学生の頃は柏戸のファンでいつも大鵬に勝てない柏戸に熱い声援を送っていたのですが、それ以来殆どTV中継を観ることもなくなりました。

ここ数年は異郷で戦うもうひとりの戦士、朝青龍がめちゃめちゃ強く、たまに見るいかにもヒールっぽいその姿が鼻につく感じもしていました。
そして昨日・今日とたまたま時間つぶしにTVを観ていると朝青龍が信じられないような負けっぷり。

肩から背中にベットリと砂をつけて花道を去る様子を見ていると、「ヒールは強くなきゃ・・・どうした?」と、なんだか応援したくなるような感じがしました。
みんなが褒める白鵬、嫌われ者の朝青龍、そんな図式のなかで彼の不調、寂しげな後姿が妙に気にかかりました。

写真は2005年のGWに訪れた南インド、トリヴァンドラムの夕暮れの海岸コヴァーラムビーチでクリケットに興じる人たち。
http://4travel.jp/traveler/azianokaze/album/10024376/
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奄美、そろそろ梅雨か?まだかな?

2007-05-25 19:52:22 | 身辺雑記・その他


鹿児島県奄美地方の梅雨入りは例年5月10日頃。
今年の5月は雨があまり降らず、梅雨入りもまだ。

今日25日は午後から雨の予報。
「そろそろかな・・・」と思っていたのですが、日中は上天気。
夕方になってパラパラときましたが、大きく崩れる感じはありません。
梅雨明けが例年6月28日頃ですから、今年は随分短い梅雨になるかも。

もちろん降るべきものが降らないと、農業など影響は大きいわけですが・・・。
私が住んでいるアパートは梅雨時になるとイヤなものが出てくるので、梅雨が短いのは個人的には助かります。
何が出てくるかはまた別の機会に。

写真はサネンバナ(和名は「月桃(ゲットウ)」 ショウガ科)。
島の梅雨の季節を代表する花のひとつです。
例年、蕾の先から雨の雫がしたたる写真などよく目にします。
今年はまだ強い日差しのもとで咲いています。

サネンによく似た花にカシャ(クマタケラン、やはりショウガ科)があります。
葉の香りはサネンよりカシャの方がいいとかで、カシャの葉で黒糖を入れたヨモギ餅をくるんだのがカシャ餅。
似ているので実際にはサネンの葉を使うことも多いようです。
葉には殺菌作用があるそうです。


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バイオ燃料 忍び寄る食料危機

2007-05-24 19:11:01 | 国際情勢


先日、地球政策研究所々長レスター・ブラウン氏の発言が報道されていました。
「米国では車の燃料の16%をバイオエタノールで賄っている。米国が石油の不安定さを補おうとしてバイオエタノール燃料に移行したことで、世界の食料事情を危うくしている。トウモロコシの値段はこの15ヶ月間で倍に上がった。コメ、大豆など他の穀物も高騰著しい」

たしかにこのところ日本でもバイオ燃料の原料植物栽培拡大の影響ということでオレンジジュースやマヨネーズの値上げが報じられています。
また、メキシコではトウモロコシ価格の急騰で主食のトルティーヤが値上がりしてデモも起きたとか言われています。

ジュースやマヨネーズ程度であれば、市場原理に基づく生産・価格調整としてすますこともできます。
しかし、世界には未だに8億人を超える飢餓人口が存在していると言われています。
今でも十分な食料を得られない人々の生活が、バイオ燃料関連作物(サトウキビやトウモロコシなど)の生産拡大で影響を蒙るとすると重大な問題でよく配慮する必要があります。

“市場原理”というのは一見選挙投票制度にも似て合理的なシステムに思えます。
ただ、先進国と途上国、金持ちと貧乏人という貧富の差は所与の前提としたシステムでもあります。
いわば、ある人は1000枚の投票用紙を持っていて、別の人は1枚しかもっていない・・・そういう制度でもありますので、何らかの補完措置が必要かと思います。

もとより、バイオ燃料がその削減を目的とするCO2は先進国社会が増加させてきたものと思われます。
その対応として、今後更に飢餓に苦しむ人々の生活が脅かされることがあってはいかにも不条理です。

お題目だけ唱えていても何もスタートしません。
また、人々に犠牲的精神を要求するようなことを言っても非現実的です。
自分を含め人間はみな自分のことが一番大切な身勝手な生き物であり、そうそう他人のことなどかまってはいられません。
ただ、“わずかの配慮で”“少しの節約で”これだけのことができる、これだけの人が助かるということが具体的に示されれば、全く耳を貸さないほど冷淡でもないと考えています。

今後のバイオ燃料に関する予想をよく検討して、燃料と食料の奪い合いというシビアな情勢のなかで実現可能な具体的提案がなされることを期待しています。

写真は今年GWに旅行したインドネシア・スマトラ島のサトウキビ生産地の風景で、牛を使ってサトウキビの汁を絞り、それを煮詰めて黒砂糖を作っています。
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無為への不安

2007-05-23 22:28:02 | 身辺雑記・その他


水曜日、英会話のレッスンを終えた後の時間は私にとって1週間で一番穏やかな時間です。
レッスンが無事に終わった安堵感、翌日の木曜日午後は仕事が休みであること、「あとは流していけば週末を迎えられる」という感じ、そんなリラックスできる時間です。

仕事の客観的状況は大変厳しいものがあるのですが、諸般の事情で「まあ、なるようになるさ・・・」と仕事に関してはあまりストレスを感じることはありません。

カウチポテトでTVでも観ていれば時間は過ぎていくのですが、ならば悠々自適かというと決してそういうわけでもなくて、何かに追われているような不安感、何もせずに時間がすぎていくことに対する不安感を感じます。

そんな不安を埋めるために、以前は仕事関係の勉強みたいなことを毎日やっていました。
52歳になった今は「今更仕事関係の勉強をしてもあとどれだけ現役でいられるのか・・・、それよりその後の人生に何か役立つことをしたほうがいいのでは・・・」という思いもあって、将来海外移住とかロングステイするときのための英語の勉強に毎日かなりの時間を割いています。

自己啓発と言えば聞こえがいいですが、そうやって何かに取り組んでいると「時間だけが流れていく不安感」「何もしないでいいのか・・という不安感」から逃れられるような気がしています。
「今日はこれだけ勉強した」と目に見える形で“今日の成果”が確認できると、気分が落ち着きます。
やったことがどれほどの意味があるのか・・・とつきつめるとわからなくなってしまうのですが。
軽い神経症のような感じがします。
そんな訳で、ひとやすみしたら英語のお勉強です。

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禁煙、節煙 思案のしどころ

2007-05-22 21:35:06 | 身辺雑記・その他


禁煙と煙草の価格の関係に関する京大調査が新聞に載っていました。
それによれば、ヘビースモーカーの場合、健康上の危険を伝えても禁煙にはあまりつながらないが、煙草の価格が1箱700円を超えると約半数が、1000円なら約9割が禁煙を考えることが判明したそうです。

まあ、ヘビースモーカーの方は「煙草の害なんて今更・・・」というところでしょうし、逆に量が多いので価格引き上げは懐を直撃する訳で、想像できる結果とも言えます。

実際そこまで政策的にやるのであれば「健康に害があるとわかっていて、そもそもどうして煙草を法的に禁止しないのか」という議論も出てくるでしょう。

そうなるとついでに酒も禁酒法で禁止してほしいですね。
健康上は少量なら害はない云々と言われますが、実際には大量の飲酒で健康を害する人も多い訳ですし(歯止めがきかなくなるのがアルコールの特質ですから)、飲酒運転などによる事故もあります。
第一、街や電車内での酔っ払いは見るだけで不愉快です。
私は付き合いのときしか飲まないので、禁酒法が施行されても痛くも痒くもありません。

結局のところ、国民生活に対する国家規制をどこまで許容するのか・・・という難しい問題になってきます。

現在煙草は若干吸っています。
以前は1日6~10本程度吸っていたのですが、7~8年前ある雑誌で国際禁煙デーがらみの「喫煙により萎縮した脳」の写真を見て禁煙を実行しました。
当時結婚していて、妻が煙草をいやがっていたこともあります。

その後ひとり暮らしになって、特段「長生きしたい!」という気持ちもないし、再開してもよかったのですが、「せっかく禁煙したのに再開するのはもったいない」という気がして止めていました。

しかし、ここ半年か1年ぐらいでしょうか「あんなに気持ちいいものを我慢して、自分は一体何を目指しているのか・・・」という根源的疑問にかられ、結局1日に2本前後ぐらいの喫煙を再開しました。
夕方帰宅後、半分ずつ4回程に分けて吸っています。
(根元のフィルター付近まで吸うので、本数以上に害があるかも・・・という気はしています。)
また、年3回程海外に旅行にでる際は、「非日常的時間にある」というわけのわからない理由から特に制限をつけずに吸っています。

少量の喫煙から得られる満足感は相当のものがありますが、その危険度は多量喫煙に比較すればそれほどのものではないのでは(もちろんそれなりの害はありますが)・・・という考えで、満足度と危険度のバランスを考えた量が「1日2本」という数字です。

世の中のことがら、すべからくバランスの問題でしょう。
先程の国民生活と国家規制の関係もバランスの問題です。
ただ、個人の価値観でこのバランスが大きく異なるのがまた問題なのですが・・・。

写真は10年ほど前バリ島で買い求めた木彫りの女神。
ちょっと煙草を持っていただきました。

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