半農半X?土のある農的生活を求めて

「生きることは生活すること」をモットーに都会から田舎へ移り住み、農村の魅力を満喫しながら、日々、人生を楽しく耕しています

ボチボチ

2014年10月30日 | 自分の時間
(日)の夜に超久々に高熱を出し、もがき苦しみながら朝を迎え、ふらふらになりながら医者にいって薬をもらって飲んだら、ピタっと頭が割れるような痛さが止まりました。

薬の力は凄い~。

そして(水)に少し午後仕事で出かけたけど、昨日まで簡単なPC仕事だけ。


それでも未だ、風邪が抜けきりません

医者からもらった薬を飲み続けてこれだから、多分、飲んでいなかったら2~3日は動けないほどだったかも


思えば、5月頭の熱射病らしきもので、ぶっ倒れ、人生初の3日間寝たきりということを味わったのをきっかけに、今年は体調を見ながら何とか夏を乗り切ってきました。

そして今回の風邪で、やっぱり体力が劇的に低下したな~、ということを自覚せざるを得ません


ということで、何だか仕事も気合が入らず、今の時期はダニが死んでお掃除にぴったりの時期ということで、お部屋に数ヶ月ぶりに掃除機を入れたり、カーテンも全部洗ったり、布団カバーも全部洗ったり、ベットカバーも干したり、蛍光灯も掃除したりと、お部屋の大掃除をしました


そんなこんなで、溜まったビデオ(カンブリア宮殿、スーパープレゼンテーション、プロフェッショナルの3本)を見たりと、ボチボチしながら仕事をして過ごしたのですが、ふと、昔から自分でも体が丈夫ではない方と思っていたことを思い出しました。


昔から、何だか1年を通して、すぐに風邪っぽい状態に体がなっていて、若いときも徹夜をすると翌日は使い物にならない、という感じでした。

だから、2日連続で徹夜なんて、全然出来ませんでした。

マラソンが走れない、といったことではなくて、運動は中の上ぐらい出来た気がありますが、運動ではなく、状態として何だか夏や冬に1度は風邪を引いていたな~。

そして風邪とまでいかないにしても、何だか体調が微妙な状態、というのが良くあった気がします。


それでも中高大と体力をつけてきましたが、睡眠は結構とっていた方だったので、最初の会社で「平均睡眠時間5時間」というのを聞いて「そんなの大丈夫かいな」と心配したものです

1年目は終電で帰って、駅から家までの道は寝ながら歩いて、信号のところだけ目が覚める、というのもありました。
時には寝ながら歩いて壁に激突したり

でも2年目、3年目ぐらいからは慣れました。


思えば、交換神経が動いて、気も張って、大丈夫になったのでしょうね。


ストレスの研究では、プレッシャーなどをストレスと感じる人は早死にするけど、それを前向きなエネルギーと捉えることが出来る人は、むしろ長生きという話です。

当時は、ストレスに対して耐性が出来て、むしろ健康だったのでしょう。

実際、営業などで駅やお客さんのところまで1~2kmぐらいは歩いていたわけで、かなりの運動を日々していたんですね。


田舎に浸かるようになった半年は、それこそ毎日畑でしたから体力はかなりありましたが、やはり会社勤めが始まると、ドアツードアは車で、歩く量が減り、結果的に体力が落ちてしまったのでしょう。

それでも、その辺の人に比べれば田畑仕事で体力があると自負して、昨年までは、朝5時から夕方まで畑仕事、なんてのもドッと疲れるけど、逆にすがすがしい感じでした。

しかし、齢40ともなると、やる時だけ一気に働き、他の日はデスクワーク、とかだと体がもたないのでしょう

意図的に体力増強を図らないとだめなのでしょうね。


で、何となく思ったのが40までこんな感じで来ましたが、60歳とか今後のことを考えると、今の段階で「もう、体力が無くなってきた年なんだよ」ということを今年気づけてよかったです。

多分、これからのことを考えると、無理してエイっと頑張るのではなく、きちんとコツコツ体力をつけて、やり続けられる状態に体をもっていかないとね、というメッセージを受け取った感じです。


私は戦国武将の伊達正宗の言葉で「この言葉は現世の借り物」というのが好きで、「今の体は親から現世で生きるために頂いたもの。借り物」という考えを持っていまして、怪我をしたり調子が悪くても、伊達政宗を真似て「この体もそりゃ~40年使っていると、どこか痛くなるよな」とか、「頑張ってくれて有難う」みたいな言葉を自分の体に声かけしたりすることもあります。

そして、もう少し、セカンドスクールのような人間教育的なことを今後やっていきたいという思っているので、そのために、今までは「使いっぱなし」だったけど、そろそろ「メンテナンス」というか、きちんと体のことを考えてあげていかないとな~と思うのでした。

そんなことを、ぼけ~と部屋掃除したりテレビみたりしながら思った1日でした
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本:灘校・伝説の国語授業

2014年10月30日 | 素敵な本

橋本武さんという灘校に在籍していた伝説の先生がいます。

「銀の匙」という薄い小説を3年間かけて、じっくりと読んでいくことで、学ぶことへ興味を深めていくこと、また子ども達の中に残る授業をしようとした先生です。

通称エチ先生。

そのエチ先生の書かれた本をたまたま見つけて、昨年読みました。

その時のブログは→こちら


さて、今回、またそのエチ先生の本を見つけました。

今回の本は今風に「スローリーディング」と謳ってはいますが、エチ先生の授業内容そのものがわかるようにした本。
つまり、「銀の匙を使った授業ってどんな授業だったのだろう?」と興味を持っている人には、その内容が疑似体験出来るような本です。


エチ先生が、そもそも「銀の匙」を3年間かけて読み込んでいく授業をしようと決めた背景には、ちょうど昭和20年に、灘校が中高一貫して6年間持ち上がりで教科担当者が指導することになったというきっかけがあったそうです。


その時、「自分が中学生だったとき国語の授業で何を教わったのだろうか?」という自問があり、「この自問に対して何も答えられないことに、愕然とした」そうです。


そして「生半可なことでは、生徒の心に何も残すことができない。何かひとつでもいいから、子どもたちの心に障害残るようのあ授業をしたい、この想いの末にたどりついた方法」と書いてあります。


この本を読んで思ったのが、「あ~、やっぱり方法論じゃなくて、その先生が持っているものそのものなんだよね」ということでした。


ある程度の一流企業であれば、社員教育にお金や時間を投資します。

国も、今のがんじがらめになってしまっている先生達に、もう少し時間的余裕をもって頂けるようの環境を整えて、「何のために学びを深めるのか?」「どんな学びをしてもらいたいのか?」といったことをご自身で考え、深め、学ぶということを定期的に出来るシステムを作って欲しいものです。

先生達が、自分達が思うこと、自分達の伝えたいこと、教えたいこと、を振り返り、学ぶシステムが、ある程度の企業レベルの教育システムレベルまで高まれば、今の義務教育がもっと価値があるものになるのにな~、と思いました。


以下、自分の勉強のために、書いてある内容の一部を抜粋します。


■干支について


十干十二支(じっかんじゅうにし)

まずは十干(じっかん)。

十干はもともと、甲、乙、丙、丁…と、日を順に10日のまとまりで数えるための呼び名(符号)でした。10日ごとに、「一旬(いちじゅん)」と呼び、3つの旬(上旬、中旬、下旬)で一ヶ月になるため、広く使われていたそうです。

また五行という古い中国の哲学で、木、火、土、金、水の5つから万物は成り立っているという考えがありました。

その五行にに陰陽思想(物事には陰と陽があるという考え)を組み合わせて「陰陽五行」という思想があわさったものがありますが、これを日本では陰と陽ではなく兄(え)と弟(と)に見立て「兄弟(えと)と呼ぶようになりました。


甲乙丙丁戊己庚辛壬癸
コウオツヘイテイボキコウシンジンキ

これを訓読みすると
きのえ きのと ひのえ ひのと つちのえ つちのと かのえ かのと みずのえ みずのと

木や火や土に冠する言葉がそれぞれ2つあって、語尾が「え」と「と」に統一されていることがわかります。


・・・ということが書いてあって、「ほ~、たしかに、きのえ、とか、きのと、とかは五行の木なのね」と初めて知りました


次に十二支。
十二支は動物と言葉は関係なく、十二支が12ヶ月を順を表す言葉でしたが、それらに転用されたので、覚えやすいようにと身近な動物を割り振ったに過ぎないそうです。


これで、十干が幹で十二支は枝で、干支は全部で60通り。

1番目の 甲子(こう し・きのえ ね)だとか、土用の丑の日だとか酉の市など色々あるわけでうが、甲子は「えとがしら」といって、とりわけめでたい年と言われていて、大正13年に完成した甲子園は甲子の年にできたので名前の由来になったとか。

また、1868年の戊辰戦争も戊辰(ぼ しん・つちのえ たつ)の年に起こった出来事なので、こう呼ばれているそうです。

・・・というのを読んで、なんで「戊辰」という名前がついているのか、当時は習ったのかは知りませんが、全く頭に残っていなかったので、この年で「お~、なるほど」とようやく合点がいきました


また、数え歳の61歳を「還暦」というのは、生まれた年の干支に戻ったからで、赤い色の頭巾やちゃんちゃんこを着るのは、1周回って赤ん坊に戻ったことを意味しているそうです。


■漢字の読み

「行列」「旅行」「行灯」は「ぎょうれつ」「りょこう」「あんどん」と、同じ「行」でも読み方が違うのは何故?というのが書いてありました。

漢字が伝来してきた当時、日本には文字がありませんでした。

「さくら」と呼んでいたとき、「桜(おう)」という音という文字が伝来してきたので、この「桜(おう)」を「さくら」と呼ぼう、となって訓読みが生まれた。

しかし、音読みには3つの読み方があります。それは漢字が入ってきた時代の差だそうです。


呉音(ごおん) :日本に最も古く伝えられた言葉で、中国南方の呉地方の音。
漢音(かんおん):遣隋使、遣唐使の派遣により、都であった長安を中心とした北方の音。
唐音(とうおん):鎌倉時代以降、禅宗の渡来とともに新しく伝えられたもの。宋・元以後の音の総称でもある。

最も使われているのが漢音で、呉音は仏教の経典を音読みするときに用いられ、唐音は仏教の中でも特に禅宗で用いられることが多いという特徴があるそうです。

おおざっぱな特徴は上記の通りだそうですが、例えば1~10はこの通り。

漢音ーイツ ジ サン シ ゴ リク シツ ハツ キウ(キュウ) シフ(シュウ)
呉音ーイチ ニ サン シ ゴ ロク シツ ハチ ク ジフ(ジュウ)

呉音の方が一般的。


また呉音と漢音が同じものがあれば、使い分けているものもあるそうで

最初が漢音、次が呉音
口ー人工(ジンコウ)・口伝(クデン)
供ー供給(キョウキュウ)・供養(クヨウ)
物ー物理(ブツリ)・供物(クモツ)
主ー主人(シュジン)・坊主(ボウズ)


呉音、漢音、唐音の違いはなかなか見分けることができず、3つにも当てはまらない慣用音などもあるそうです。



その他、同じ「すし」でも「鮓・鮨・寿司」の違いは何か?とか。

今でいう大人向けの「オープンキャンパス」で、大学が成人社会人向け講座をやっていますが、ああいった内容として十分通じる骨太の内容でした。

学ぶ内容は妥協せず、その分、教え方も妥協しない先生。

明治45年生まれ、去年101歳で逝去されたそうです。


多くのリーダーを生み出した先生で、こういった先生の後を継ぐ先生が、これからもたくさん出てくることを願います。
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