世の中、まちがってる、根拠なき反日キャンペーン。

相も変わらず根拠なき反日キャンペーンで、国をまとめようとする輩が存在する。

日韓併合100年(111)

2011-07-18 00:24:49 | Weblog

7/31、昼過ぎ北部樺太のロシア軍が、全面降伏している。日本側には一人の死傷者もでなった。7/7~7/31間の、わずか24日間で樺太攻略作戦は終了した。これで、講和を有利にする四つの条件のうち二つが達成されたことになる。しかしロシアにとっては少しも痛痒は感ずることはなかった。
ロシアに痛痒を感じさせるためには、浦塩を攻めておくべきであった

8/2、ウィッテの乗ったドイツ船籍の客船は、ニューヨーク港に到着し、沢山の記者が乗り込んできた。ウィッテは早速全記者と握手を交わし、愛嬌を振りまき全ての質問に丁寧に答えた。そのため8/3の各新聞は、ウィッテの到着を写真入りで好意的に伝えた、と「日露戦争7」(児島襄)には記されている。そして人目に触れぬ場所ではいつものように傲慢な態度であったため、秘書などは、人前では急に親しみを見せる態度で接してこられたので、大いに面食らっていた。

糞まじめな日本全権団の、明らかな劣勢であった。これというのも、明治維新からわずか38年しか経っていない。国と国との外交交渉に関してのマスコミの役割に対して、それほど理解をを持てなかったものと思われる。

8/4、ウィッテはオイスターベイで、ルーズベルト大統領と会食している。ウィッテは、大統領からサガレンを譲渡し、賠償金を支払い講和したらどうか、と説得されたが、頑として肯(がえ)んじなかった。

日本も小村寿太郎も、多分必死だったに違いない。最大の努力でもって講和談判に当ろうとしていたことであろう。誠に頭の下がる思いである。

8/5、日露両全権団は、オイスターベイの沖合いの停泊する大統領専用ヨット「メイフラワー」の船上で、相見(まみ)えることとなる。

ウィッテは、大国であるロシアの体面を保持するために、日本より上席に位置することにこだわった。そのため、大統領専用ヨットに乗船する順序にも難癖をつけ、結局は米国に到着巡にメイフラワー号に乗船することとなった。まず日本全権団を乗せた巡洋艦「タコマ」が先にニューヨーク港を出港し、次にロシア全権団を乗せた巡洋艦「チャタヌガ」が出港した。

大統領は、メイフラワーに乗り移った小村寿太郎を早速最大限の敬愛で迎えた。そして小村・高平両全権を艦長室に案内して、8/4のウィッテへの説得状況を説明した。それは、講和状況の不調を暗示するものであった。

ロシア全権団は、サロンに案内され大統領に迎えられた。ロシア全権団の紹介は、米国務次官補のパースが親近感を示すように行っている。日本全権団の大統領への紹介は高平公使が行っている。アメリカ人パースは本能的に白人種側に立っていた。

紹介が済むと、大統領は「日本委員を紹介する」と言うと、いきなり隣のドアを開けて小村・高平両委員を招じ入れた。お互いに無口のまま握手を済ませると、大統領は昼食へと誘った。

通常なら日本全権団、ロシア全権団という順序で、食堂へ移動するものであるが、下座に立ちたくないというウィッテから苦情から、大統領は順序を指定することなく「さあ、行こう」と言うなり歩き出した。そのためウィッテは即座に大統領の後に付き、ローゼンは小村委員に先を譲り交互に一列となり食堂に向かったと言う。しかも食事は立食であった。これでは席順問題が起こらない。そして大統領の乾杯の音頭も「両大国の君主と国民のために」と、配慮したものであった。

(続く)
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