世の中、まちがってる、根拠なき反日キャンペーン。

相も変わらず根拠なき反日キャンペーンで、国をまとめようとする輩が存在する。

日韓併合100年(109)

2011-07-07 00:45:34 | Weblog

7/23、小村寿太郎は記者会見で、日本戦勝の理由を解説して見せた。

その一、日本にとってこの戦いは「正義の戦い」であった。だから日本の力は3倍となった。
その二、日本の官界・軍界には腐敗が無く、国力の全力が発揮できた。
その三、国民が質実剛健であり、一致団結していた。

そして財政も健全、産業も発展し、戦争から回復は早い、とした。今の民主党内閣とは様違いである。こいつらに任せていたら日本は何時まで経っても復興は覚束ないであろう。悲しいかな、現代の日本よ。

7/24、小村の一行はシカゴで声明を発表している。
「日本は平和を望むが、無料の平和は考えられない。正当な代価が必要だ。」と、ウィッテに反論している。

更に同日、樺太北部アレクサンドロフスクに、第十三師団第二十六旅団が無血上陸し、難なくアレクサンドロフスクを占領している。アレクサンドロフスクは樺太中央部西岸の弓形に入り組んだ湾の弓形の最南端に位置する町である。その北西の対岸、沿海州のカストリー湾がある。湾口の灯台に陸戦隊を威力偵察のために上陸させた。ロシア軍は火薬庫に火を放ち逃げてしまった。そして沿海州一体は、日本軍攻略の噂で恐慌状態となった。

だから北韓作戦も実行してウラジオストクの攻略も、それほど難しくは無かったものと思われる。そうすれば、賠償金樺太全島も手に入れることが出来たものと思う。もう少しの手間隙で、大いなる果実を手にすることが出来た筈であった。日本は弱気になってしまっていたのであろう。混乱させるためにロシア社会の政情不安を煽(あお)ったのではなかったか。

7/25、小村全権の一行はニューヨークに到着した。ハーバード大学の卒業生だった小村は米国では大いに親近感を持たれて、歓迎された。小村寿太郎は、米国で活躍している金子堅太郎とは、ハーバードで共に学んだ仲であった。('11/1/12,NO.54参照)

小村寿太郎は、第1回文部省海外留学生として、ハーバードに留学している。

1875(M8)年    ハーバード大学ロースクールに入学。
1877(M10/6)年  同卒業、更に専修科に進む。
1878(M11)年   同専修科終了。金子堅太郎、ハーバード卒業。
1880(M13)年   2年間の法律事務所での実務研修終了。
1880(M13/11)年 帰国し、12月に司法省勤務となる。この年、T.ルーズベルト同大学卒業。 
1884(M17)年   法律と英語が出来るということで、外務省勤務となる。


まあ期せずして、小村寿太郎、金子堅太郎、T.ルーズベルトの3人が同窓生であったことも、日露講和談判には寄与したことであろう。しかしかえすがえすも残念だったことはウラジオストクを攻略しなかったことであろう。英国王のエドワード七世の忠告を聞いておくべきであった('11/7/1,NO.105参照)。

(続く)
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