世の中、まちがってる、根拠なき反日キャンペーン。

相も変わらず根拠なき反日キャンペーンで、国をまとめようとする輩が存在する。

日韓併合100年(108)

2011-07-06 11:33:49 | Weblog

7/10、樺太(南部)攻略部隊は豊原(ユジノサハリンスク)に到達し、本格的戦闘に遭遇する。そして7/11,12、密林戦で雨で苦戦するが、ようやく敵陣に突入して敵を壊走させる。俘虜約2百、野砲4門/6門中、機銃1挺/3挺中を確保する。日本側損害戦死14、負傷63。

7/11、ロシア本国では、元蔵相ウィッテに全権委員の白羽の矢が立った。ウィッテは講和推進論者てあった。ロシアの財政も危機的状況にあり、金を工面してくれる外国は少なくなっていた。さらに、ロシアが満州、韓国から手を引けば、国内生活は活力を取り戻すことが出来るものと考えていた。
'11/12/8,NO.37では、日清戦争後の三国干渉のことを述べている。それを企画したのが、当時ロシアの蔵相だったこのウィッテであった。ずるがしこい強敵である。

7/12、皇帝ニコライ2世は、ウィッテを講和全権委員に任命し、全権委員に、賞金・領土の割譲はしてはならない、と申し付けている。

7/13、ウィッテは、関係者から軍事的判断を聴取した。その内容は、「1年間の内に樺太と沿海州を奪取されるかもしれない。そして満州では、十億ルーブルの戦費と二十五万人の損害」と言うものであった。そして一年と言わずすでに樺太南部は占領されてしまっている。「至急の講和」の必要を痛感したのであった。ウィッテの任命は、各国からは「これで講和が得られる」ものと好評を以って迎えられた。

もう一人の全権委員は、駐米ロシア大使のローゼンであった。



7/16樺太南部ロシア軍が降伏し、午後2時、武装解除される。気抜けするほどのあっけないものであった。報告を受けた参謀次長長岡外史少将は、いち早く樺太攻略を実施していれば、そこからロシア満州軍の背後をつけたものを、と大いに悔やんだが今となっては後の祭りである。ただ、ただ、参謀総長山縣有朋元帥と海軍を恨むばかりであった。

7/17、ウィッテは記者会見で、「ロシアはそれほど軍事的な敗北は受けていない。だから、寛大な条件なら講和するが、過酷な条件ならば拒絶する。ロシアは相手の言いなりの値段で平和を買うつもりはない。」と語っている。とは言うものの、海軍が壊滅しても陸軍にはまだ十分の余力があったが、ロシア社会の政情不安に対しては一抹の不安を感じ、講和を急ぐ必要は十二分に認識していた。

7/19、 ウィッテは出発した。
同日午前8時30分、小村寿太郎を乗せたミネソタ号がポートタウンゼントに到着した。シアトルの対岸と言っても北北西60~70kmに位置する当時は栄えていた漁港である。

そして翌7/20の朝シアトルに到着している。そして夜8時鉄道で、ニューヨークに向かって出発している。

7/21、ウィッテ、パリに到着する。ウィッテへの歓迎は華やかではあったが、熱烈さは無く冷めたものであった。これに対して小村は行く先々で米国民の大歓迎を受け、NYへ向かっている。

7/22、ウィッテは、エリゼー宮で仏首相M.ルヴィエと会見する。ルヴィエは講和に賠償金が必要なら工面する、旨を伝え、大統領のE.ルーべは、ロシア国内の騒擾(そうじょう)も激しくなり、極東から手を引くべきだ、と勧告している。

(続く)
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