世の中、まちがってる、根拠なき反日キャンペーン。

相も変わらず根拠なき反日キャンペーンで、国をまとめようとする輩が存在する。

日韓併合100年(106)

2011-07-04 11:17:45 | Weblog

戦艦「ポチョムキン」は1898/10に起工、計画より2年遅れの1905/5/20に竣工しているロシア黒海艦隊の一等戦艦である。

1905/6/27(ロシア暦6/14)、Wikipediaによるとテーンドル湾にて射撃試験をしていた。テーンドル湾はオデッサ湾とクリミア半島の西側・カルキニト湾の間の海域を言うようだ。「戦艦ポチョムキンの反乱」は、その昼食に出たボルシチスープに腐った肉が使われていたことに、水兵達が反乱を起こしたことに起因する。「日露戦争7」(児島襄)では、朝食のボルシチスープの肉にウジがうごめいていた、としている。いずれにしてもこんな状況では、反乱が起こっても当然であろう。しかも、半年前の1905/1/22には「血の日曜日」事件('11/5/31,NO.83参照)が発生しているほどに、世情は荒れているし、当時オデッサ市では工場でストライキが行われていたのである。更には明石元二郎大佐が反政府グループに4万円を渡し、軍艦「ポテムキン」で騒乱を起こす手はずになってもいた。そして翌日の6/28抗議に行った水兵が射殺されたことにに水兵達が騒ぎ出し、艦内で武装蜂起して、艦長や士官達を殺害し艦を乗っ取り革命の象徴としてマストに赤旗を掲げる。ポチョムキンの砲塔はオデッサ市内に向けられていたので、警官や鎮圧兵たちは取締りを躊躇した。6/30に鎮圧艦隊が到着したが、鎮圧艦隊の水兵達も反乱軍の水兵達に同情したため、更なる反乱を恐れ海戦にならずにセバストポリ軍港に戻ってしまう。しかしオデッサでは食料も水も与えられず、「ポチョムキン」はやむを得ずルーマニアのコンスタンツァに、7/4入港する。ルーマニア側も強硬であったため、結局は「ポチョムキン」は7/8、赤旗を降ろしてそこで投降している。

戦艦「ポチョムキン」は、巷に言われているほどの事件とも思えずただ当時の赤いサボタージュの世情を反映した出来事だったように推測するが、後に1925年に3ヵ月余りの短期間で作成されたプロパガンダ映画「戦艦ポチョムキン」による影響が大きいのであろう。日中戦争も中国共産党によって(蒋介石の国民党軍に対抗するために国共合作をはかり、中国共産党が勢力を伸ばし結局は国民党軍を駆逐した)、日本軍が内乱に引っ張り込まれたものであり、ありもしない反日教育が行われているのと同様なプロパガンダ効果だったのであろう。このようなプロパガンダに、我々は騙されてはいけないことと同じように、「戦艦ポチョムキン」などは神話でもなんでもない。堕落した世情を反映した単なる反乱なのであろう。それだけロシア社会が混乱状態にあったということで、事実は神話でもなんでもない。



7/4、日本では樺太攻略の第十三師団を載せた輸送船11隻が、第3艦隊に守られて青森県大湊港を出港している。樺太におけるロシア軍の兵力は、総数約7,000人余と見積もられしかも素質が悪い軍隊であった。これに対して日本軍は総数17,000人余で圧倒的に優勢であった。

同じ日、東京では、天皇から小村寿太郎が全権委任状を下賜されていた。

7/6、首相官邸において、講和条件が正式に小村に伝達された。政府首脳間で協議されてきたものであり、首相、小村共々熟知したものであった。

講和条件は、絶対的条件、比較的条件、付加条件の3種類に分かれていた。絶対条件は、わが国が戦争を始めた目的そのものであり、絶対に確保しなければならないものであった。いわば、日本国の存立条件そのものであった。

(続く)
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