世の中、まちがってる、根拠なき反日キャンペーン。

相も変わらず根拠なき反日キャンペーンで、国をまとめようとする輩が存在する。

日韓併合100年(110)

2011-07-08 09:06:01 | Weblog

7/26、金子は小村より、日本軍の切羽詰った事情を聞き愕然とする。日本はすでに全勢力を満州に注いでおり、新兵力は望むべくもなかった。そして先ずは、賠償金や領土の割譲を主張して、ロシアが拒否し談判が不調になれば、日本は一旦引上げて、ルーズベルト大統領の登場を願いその調停により日本側が譲歩して、講和談判をまとめると言う秘策を話し合っている。それほど「陸海軍人は、今日、講和条約の締結を希望」していたのである。

同じ日、フランスのシェルブール港からロシア全権委員ウィッテは、ドイツ汽船に乗船し、ニューヨークへと船出している。

7/27、小村、高平の両全権委員は、ロングアイランド島のオイスターベイの別荘に、ルーズベルト大統領を訪ねている。オイスターベイは、現在ならNYのマンハッタンから車で50~60分で行けるところにあるようで、当時は汽車で行ったと「日露戦争7」(児島襄)には記載されている。ロングアイランド海峡に面した湾であり、対岸にはスタンフォードと言う都市がある。地図にはSTAMFORDと言う記載があるので、その対岸辺りがオイスターベイである。そこにルーズベルトは別荘を持っていたのであろう。そこで、大統領と講和条件について話し合った。

大統領は盛んに講和を進め、英米の同情を失うような条件は出さないほうがよいと勧めた。国際的な共感を得られなければ、講和は失敗すると忠告している。要は、賠償金は講和条件から外したほうがよい、と言うことである。もちろんロシアが「賠償金など払う理由がない」と主張していることは、日本も承知している。だから、日本も「賠償金」は絶対条件ではなく、次の比較的必要条件としているのである。だが結局、賠償金は取れなかった。

その頃、船上のウィッテも頭を悩ませていた。随行の2人の武官は、「更に戦争を続けてもロシアは負けるであろう、だから賠償金を払っても講和をしたほうがよい」と言うし、皇帝は賠償金と領土割譲はならん、と言っているし、ウィッテも必死になって考えた。そして、大統領を味方に引き込むことを思いついた。そして「将を射んと欲すればまず馬を射よ」のことわざを思いついたかどうかは知らないが、大統領の拠って立つ所の米国世論を味方につけることを思いついた。そしてその影響力で、大統領をして日本に賠償金を諦めさせる、と言う戦略をとることを考え出した。

そのため、ウィッテは自分を米国民に、次の手練手管で売り込むこと決めた。

第1は、ロシアは世界平和のために米国の勧誘に応じたことをPRする。
第2は、ロシアはアメリカと同じ大国であり、勝敗についは頓着しない。
第3は、マスコミを味方につける。当時は新聞である。
第4は、米国は民主・平等なので、米国市民へ進んで愛嬌を振りまく。
第5は、米国で有力なユダヤ人に対して、ロシア国内でユダヤ人差別を緩和するために、ユダヤへの友愛感情を積極的に示す。

「日露戦争7」(児島襄)では、このことを米国の本質を理解した卓見だとしている。けだし、その通りであった。日本の場合は、上述のような諺があるにもかかわらず、将にのみ集中した嫌いがある。
全力で当っていたため、余裕をなくしており、そこへルーズベルトからの誘いもあり、大統領一人に集中してしまったのであろう。一呼吸置く、と言うことは何事にも必要な所作である。それにしても「郷に入っては郷に従え」を絵に描いたような、ウィッテの行動であった。

(続く)
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日韓併合100年(109)

2011-07-07 00:45:34 | Weblog

7/23、小村寿太郎は記者会見で、日本戦勝の理由を解説して見せた。

その一、日本にとってこの戦いは「正義の戦い」であった。だから日本の力は3倍となった。
その二、日本の官界・軍界には腐敗が無く、国力の全力が発揮できた。
その三、国民が質実剛健であり、一致団結していた。

そして財政も健全、産業も発展し、戦争から回復は早い、とした。今の民主党内閣とは様違いである。こいつらに任せていたら日本は何時まで経っても復興は覚束ないであろう。悲しいかな、現代の日本よ。

7/24、小村の一行はシカゴで声明を発表している。
「日本は平和を望むが、無料の平和は考えられない。正当な代価が必要だ。」と、ウィッテに反論している。

更に同日、樺太北部アレクサンドロフスクに、第十三師団第二十六旅団が無血上陸し、難なくアレクサンドロフスクを占領している。アレクサンドロフスクは樺太中央部西岸の弓形に入り組んだ湾の弓形の最南端に位置する町である。その北西の対岸、沿海州のカストリー湾がある。湾口の灯台に陸戦隊を威力偵察のために上陸させた。ロシア軍は火薬庫に火を放ち逃げてしまった。そして沿海州一体は、日本軍攻略の噂で恐慌状態となった。

だから北韓作戦も実行してウラジオストクの攻略も、それほど難しくは無かったものと思われる。そうすれば、賠償金樺太全島も手に入れることが出来たものと思う。もう少しの手間隙で、大いなる果実を手にすることが出来た筈であった。日本は弱気になってしまっていたのであろう。混乱させるためにロシア社会の政情不安を煽(あお)ったのではなかったか。

7/25、小村全権の一行はニューヨークに到着した。ハーバード大学の卒業生だった小村は米国では大いに親近感を持たれて、歓迎された。小村寿太郎は、米国で活躍している金子堅太郎とは、ハーバードで共に学んだ仲であった。('11/1/12,NO.54参照)

小村寿太郎は、第1回文部省海外留学生として、ハーバードに留学している。

1875(M8)年    ハーバード大学ロースクールに入学。
1877(M10/6)年  同卒業、更に専修科に進む。
1878(M11)年   同専修科終了。金子堅太郎、ハーバード卒業。
1880(M13)年   2年間の法律事務所での実務研修終了。
1880(M13/11)年 帰国し、12月に司法省勤務となる。この年、T.ルーズベルト同大学卒業。 
1884(M17)年   法律と英語が出来るということで、外務省勤務となる。


まあ期せずして、小村寿太郎、金子堅太郎、T.ルーズベルトの3人が同窓生であったことも、日露講和談判には寄与したことであろう。しかしかえすがえすも残念だったことはウラジオストクを攻略しなかったことであろう。英国王のエドワード七世の忠告を聞いておくべきであった('11/7/1,NO.105参照)。

(続く)
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日韓併合100年(108)

2011-07-06 11:33:49 | Weblog

7/10、樺太(南部)攻略部隊は豊原(ユジノサハリンスク)に到達し、本格的戦闘に遭遇する。そして7/11,12、密林戦で雨で苦戦するが、ようやく敵陣に突入して敵を壊走させる。俘虜約2百、野砲4門/6門中、機銃1挺/3挺中を確保する。日本側損害戦死14、負傷63。

7/11、ロシア本国では、元蔵相ウィッテに全権委員の白羽の矢が立った。ウィッテは講和推進論者てあった。ロシアの財政も危機的状況にあり、金を工面してくれる外国は少なくなっていた。さらに、ロシアが満州、韓国から手を引けば、国内生活は活力を取り戻すことが出来るものと考えていた。
'11/12/8,NO.37では、日清戦争後の三国干渉のことを述べている。それを企画したのが、当時ロシアの蔵相だったこのウィッテであった。ずるがしこい強敵である。

7/12、皇帝ニコライ2世は、ウィッテを講和全権委員に任命し、全権委員に、賞金・領土の割譲はしてはならない、と申し付けている。

7/13、ウィッテは、関係者から軍事的判断を聴取した。その内容は、「1年間の内に樺太と沿海州を奪取されるかもしれない。そして満州では、十億ルーブルの戦費と二十五万人の損害」と言うものであった。そして一年と言わずすでに樺太南部は占領されてしまっている。「至急の講和」の必要を痛感したのであった。ウィッテの任命は、各国からは「これで講和が得られる」ものと好評を以って迎えられた。

もう一人の全権委員は、駐米ロシア大使のローゼンであった。



7/16樺太南部ロシア軍が降伏し、午後2時、武装解除される。気抜けするほどのあっけないものであった。報告を受けた参謀次長長岡外史少将は、いち早く樺太攻略を実施していれば、そこからロシア満州軍の背後をつけたものを、と大いに悔やんだが今となっては後の祭りである。ただ、ただ、参謀総長山縣有朋元帥と海軍を恨むばかりであった。

7/17、ウィッテは記者会見で、「ロシアはそれほど軍事的な敗北は受けていない。だから、寛大な条件なら講和するが、過酷な条件ならば拒絶する。ロシアは相手の言いなりの値段で平和を買うつもりはない。」と語っている。とは言うものの、海軍が壊滅しても陸軍にはまだ十分の余力があったが、ロシア社会の政情不安に対しては一抹の不安を感じ、講和を急ぐ必要は十二分に認識していた。

7/19、 ウィッテは出発した。
同日午前8時30分、小村寿太郎を乗せたミネソタ号がポートタウンゼントに到着した。シアトルの対岸と言っても北北西60~70kmに位置する当時は栄えていた漁港である。

そして翌7/20の朝シアトルに到着している。そして夜8時鉄道で、ニューヨークに向かって出発している。

7/21、ウィッテ、パリに到着する。ウィッテへの歓迎は華やかではあったが、熱烈さは無く冷めたものであった。これに対して小村は行く先々で米国民の大歓迎を受け、NYへ向かっている。

7/22、ウィッテは、エリゼー宮で仏首相M.ルヴィエと会見する。ルヴィエは講和に賠償金が必要なら工面する、旨を伝え、大統領のE.ルーべは、ロシア国内の騒擾(そうじょう)も激しくなり、極東から手を引くべきだ、と勧告している。

(続く)
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日韓併合100年(107)

2011-07-05 11:38:04 | Weblog

絶対的条件]--政治的条件
(1)韓国を全然我が自由処分の任させる。
(2)一定期間内に日露両軍の満州撤兵。
(3)遼東半島租借権及びハルビン、旅順口間鉄道の譲渡。

比較的条件]--経済的条件
(1)軍費の賠償。ただし、最高額を「十五億円」として、談判の様子でそれ以内に適当にまとめる。
(2)中立港に逃げこんだロシア艦の引渡し。
(3)樺太およびその付属諸島の割譲。
(4)沿海州沿岸の漁業権。

付加条件]--軍事的条件
(1)極東におけるロシア海軍力の削減。
(2)ウラジオストク軍港の商港化。

そして、もし談判決裂の恐れある場合には、必ず電報報告し指示を受けること、と追加された。

要するに、ロシア韓国、満州からの撤退絶対的な条件であり、これこそが日露戦争を始めた目的でもあった。今までも度々言及した事であるが、朝鮮から列強など他国の侵食を排除することが一番の目的であり、これこそが朝鮮の保全と日本の独立を強固に保障するものであった。だから日清戦争では、真っ先に朝鮮の独立を謳ったのであり、日露戦争では、朝鮮に食い込んだロシアの毒牙をへし折り、抜きさらなければ戦争の目的は達成されないのである。そして朝鮮の発展と独立を維持するために、日本は朝鮮の経営に乗り出さざるを得なかったのである。朝鮮は日本人が作ったのであり、決して朝鮮は朝鮮人が作ったものではない。今でも朝鮮の半分は中国の植民地に戻ってしまっているではないか。そして後の半分はアメリカと日本が共同で作り上げたものである。

7/7、樺太(南部)攻略部隊が亜庭岬に上陸し、コルサコフ(大泊)に進撃し占領する。亜庭岬は二股に分かれた東側の岬である。コルサコフは亜庭湾の奥に位置する。

7/8、小村全権委員と随行一行の渡米の日である。新橋から横浜に向かい、米客船「ミネソタ」に乗り込んだ。その道中は、見送りの市民でごった返した。そして第4回の外債募集が広告され、この募集とコルサコフの占領が、一行の餞(はなむけ)となった。しかし小村の耳に響く「万歳」の声は、談判の先行きの重さを暗示したものであった。

講和を有利にする四つの条件のうち('11/6/30,NO.104参照)、(4)が実施され(3)が半分が達成されただけである。

(1)ロシア満州軍主力の撃破
(2)北韓作戦の実施
(3)樺太島の占領
(4)三億円の外債の新募


樺太の占領などは、ロシアにとっては痛くも痒くもない。外債発行は日本の借金漬けを示すだけである。だから(1)と(2)があってこその講和談判なのである。

(続く)
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日韓併合100年(106)

2011-07-04 11:17:45 | Weblog

戦艦「ポチョムキン」は1898/10に起工、計画より2年遅れの1905/5/20に竣工しているロシア黒海艦隊の一等戦艦である。

1905/6/27(ロシア暦6/14)、Wikipediaによるとテーンドル湾にて射撃試験をしていた。テーンドル湾はオデッサ湾とクリミア半島の西側・カルキニト湾の間の海域を言うようだ。「戦艦ポチョムキンの反乱」は、その昼食に出たボルシチスープに腐った肉が使われていたことに、水兵達が反乱を起こしたことに起因する。「日露戦争7」(児島襄)では、朝食のボルシチスープの肉にウジがうごめいていた、としている。いずれにしてもこんな状況では、反乱が起こっても当然であろう。しかも、半年前の1905/1/22には「血の日曜日」事件('11/5/31,NO.83参照)が発生しているほどに、世情は荒れているし、当時オデッサ市では工場でストライキが行われていたのである。更には明石元二郎大佐が反政府グループに4万円を渡し、軍艦「ポテムキン」で騒乱を起こす手はずになってもいた。そして翌日の6/28抗議に行った水兵が射殺されたことにに水兵達が騒ぎ出し、艦内で武装蜂起して、艦長や士官達を殺害し艦を乗っ取り革命の象徴としてマストに赤旗を掲げる。ポチョムキンの砲塔はオデッサ市内に向けられていたので、警官や鎮圧兵たちは取締りを躊躇した。6/30に鎮圧艦隊が到着したが、鎮圧艦隊の水兵達も反乱軍の水兵達に同情したため、更なる反乱を恐れ海戦にならずにセバストポリ軍港に戻ってしまう。しかしオデッサでは食料も水も与えられず、「ポチョムキン」はやむを得ずルーマニアのコンスタンツァに、7/4入港する。ルーマニア側も強硬であったため、結局は「ポチョムキン」は7/8、赤旗を降ろしてそこで投降している。

戦艦「ポチョムキン」は、巷に言われているほどの事件とも思えずただ当時の赤いサボタージュの世情を反映した出来事だったように推測するが、後に1925年に3ヵ月余りの短期間で作成されたプロパガンダ映画「戦艦ポチョムキン」による影響が大きいのであろう。日中戦争も中国共産党によって(蒋介石の国民党軍に対抗するために国共合作をはかり、中国共産党が勢力を伸ばし結局は国民党軍を駆逐した)、日本軍が内乱に引っ張り込まれたものであり、ありもしない反日教育が行われているのと同様なプロパガンダ効果だったのであろう。このようなプロパガンダに、我々は騙されてはいけないことと同じように、「戦艦ポチョムキン」などは神話でもなんでもない。堕落した世情を反映した単なる反乱なのであろう。それだけロシア社会が混乱状態にあったということで、事実は神話でもなんでもない。



7/4、日本では樺太攻略の第十三師団を載せた輸送船11隻が、第3艦隊に守られて青森県大湊港を出港している。樺太におけるロシア軍の兵力は、総数約7,000人余と見積もられしかも素質が悪い軍隊であった。これに対して日本軍は総数17,000人余で圧倒的に優勢であった。

同じ日、東京では、天皇から小村寿太郎が全権委任状を下賜されていた。

7/6、首相官邸において、講和条件が正式に小村に伝達された。政府首脳間で協議されてきたものであり、首相、小村共々熟知したものであった。

講和条件は、絶対的条件、比較的条件、付加条件の3種類に分かれていた。絶対条件は、わが国が戦争を始めた目的そのものであり、絶対に確保しなければならないものであった。いわば、日本国の存立条件そのものであった。

(続く)
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日韓併合100年(105)

2011-07-01 12:36:39 | Weblog

これに桂首相も同調した。結局(2)と(3)の実施が決まる。

長岡は大いに面目を上げたが、6/16に海軍が前言を翻し(2)に反対したため樺太島の占領だけが実施されることとなった。北韓作戦とは、朝鮮の図門江(門にはにんべんイが付く)を超えて進入しているロシア軍を打ち払っておく作戦であった。長岡はムカムカしたがどうしようもない。そして悔し涙にくれたのである。

この時北韓作戦を実施しロシア軍を追走して浦塩へ進軍しておくことも必要だったのではないか、とも思うのである。当然海軍との共同作戦で必要に応じて浦塩への艦砲射撃を実施する構えをすれば、ロシアは否応無く講和の席に着かざるを得なかったのではないか。そして樺太全島と賠償金も獲得できたものと思う。ロシアは下手に出れば付け上がるだけである。現在の日本には核も無く軍隊も無いため、嘗められっ放しであるが。

6/19、講和談判は、スッタモンダした挙句、講和会議開催地をワシントン、両国とも全権委員を派遣することで、やっと会議開催にこぎつけていた。ルーズベルト大統領の骨折りの甲斐があったと言うものである。

6/20、日本側全権委員は、外相小村寿太郎と駐米公使高平小五郎に決まる。

6/22、樺太攻略作戦の準備は順調に進んでいる。ワシントンでは、大統領が駐英大使リードからの電報に目を細めていた。その内容は、英国王エドワード七世の「なぜ日本は浦塩を占領しないのか。講和の際に浦塩を還付すれば、講和はうまく成立するではないか。」と言うささやきを伝えたものであった。このことは、反面、日本の軍事的成果不十分であることを、世界が認識していることでもあった。だからサガレンと北韓作戦の両方が実施されるべきであった、と思われる。

6/27、開催地が、米国の都合でポーツマス軍港に変更される。そして講和会議の場で休戦問題も討議されることが確認された。(休戦してからの講和談判ではない。)

7/3、清国が講和会議に参加させよとの意向に対して、外相小村はぴしゃりと断っている。これは、駐清ロシア公使ポロチコフの差し金であった。


7/4「日露戦争7」(児島襄)はロシア黒海艦隊所属の戦艦「ポチョムキン」に話題を移している。

ポチョムキンとは変わった名前だが、ロシアの軍人・政治家の名前である。彼は、1773年に発生した農民の反乱「ブガチョフの乱」の鎮圧で活躍し、エカテリーナ2世の愛人となりエカテリーナの不可欠なパートナーとなる。また1787年の露土戦争を指揮して勝利し、黒海北部沿岸(クリミア地方)を完全にロシア領化している。エカテリーナはポチョムキンをそこの総督に任命している。

(続く)
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