世の中、まちがってる、根拠なき反日キャンペーン。

相も変わらず根拠なき反日キャンペーンで、国をまとめようとする輩が存在する。

日韓併合100年(105)

2011-07-01 12:36:39 | Weblog

これに桂首相も同調した。結局(2)と(3)の実施が決まる。

長岡は大いに面目を上げたが、6/16に海軍が前言を翻し(2)に反対したため樺太島の占領だけが実施されることとなった。北韓作戦とは、朝鮮の図門江(門にはにんべんイが付く)を超えて進入しているロシア軍を打ち払っておく作戦であった。長岡はムカムカしたがどうしようもない。そして悔し涙にくれたのである。

この時北韓作戦を実施しロシア軍を追走して浦塩へ進軍しておくことも必要だったのではないか、とも思うのである。当然海軍との共同作戦で必要に応じて浦塩への艦砲射撃を実施する構えをすれば、ロシアは否応無く講和の席に着かざるを得なかったのではないか。そして樺太全島と賠償金も獲得できたものと思う。ロシアは下手に出れば付け上がるだけである。現在の日本には核も無く軍隊も無いため、嘗められっ放しであるが。

6/19、講和談判は、スッタモンダした挙句、講和会議開催地をワシントン、両国とも全権委員を派遣することで、やっと会議開催にこぎつけていた。ルーズベルト大統領の骨折りの甲斐があったと言うものである。

6/20、日本側全権委員は、外相小村寿太郎と駐米公使高平小五郎に決まる。

6/22、樺太攻略作戦の準備は順調に進んでいる。ワシントンでは、大統領が駐英大使リードからの電報に目を細めていた。その内容は、英国王エドワード七世の「なぜ日本は浦塩を占領しないのか。講和の際に浦塩を還付すれば、講和はうまく成立するではないか。」と言うささやきを伝えたものであった。このことは、反面、日本の軍事的成果不十分であることを、世界が認識していることでもあった。だからサガレンと北韓作戦の両方が実施されるべきであった、と思われる。

6/27、開催地が、米国の都合でポーツマス軍港に変更される。そして講和会議の場で休戦問題も討議されることが確認された。(休戦してからの講和談判ではない。)

7/3、清国が講和会議に参加させよとの意向に対して、外相小村はぴしゃりと断っている。これは、駐清ロシア公使ポロチコフの差し金であった。


7/4「日露戦争7」(児島襄)はロシア黒海艦隊所属の戦艦「ポチョムキン」に話題を移している。

ポチョムキンとは変わった名前だが、ロシアの軍人・政治家の名前である。彼は、1773年に発生した農民の反乱「ブガチョフの乱」の鎮圧で活躍し、エカテリーナ2世の愛人となりエカテリーナの不可欠なパートナーとなる。また1787年の露土戦争を指揮して勝利し、黒海北部沿岸(クリミア地方)を完全にロシア領化している。エカテリーナはポチョムキンをそこの総督に任命している。

(続く)
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