高尾山などの「寅太の山野草」

中越地震で被災した小千谷市と長岡市にある戊辰史跡の復興を応援しています。
山野草を中心にしたブログです。

初夏の高尾山(その5)

2013-06-11 00:14:32 | 四季
【コアジサイ】
コアジサイ(小紫陽花)が満開でした。


(綺麗なコアジサイ)

 

右が崖で左が谷のかなり厳しい場所に、コアジサイが生えていました。一瞬子ザルが目の前を横切ったと思いましたら、続いて親猿が現れ、小さな道の中央で通せんぼをしました。
こちらは二人連れで手にはストックもあり、それほど恐怖感はありませんが、場所が場所だけに少しあわてました。しばらくの間は睨み合いでしたが、最後は猿が道を譲りました。

 
(ギンレイカの向こうで猿が通せんぼ)

(高尾山)

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初夏の高尾山(その4)

2013-06-10 00:08:45 | 四季
【サイハイラン】
今年のサイハイラン(采配蘭)は綺麗です。場所によって色の違いがかなりあります。


(小下沢に生えていた美形のサイハイラン)

 
(3号路のサイハイランの群生)


(富士路のサイハイランはかなり赤い)

(高尾山)

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初夏の高尾山(その3)

2013-06-09 00:26:29 | 四季
【マルミノヤマゴボウ】
今回はマルミノヤマゴボウ(丸実の山牛蒡)です。


(マルミノヤマゴボウの花序)

 

 
(咲きはじめのピンク色は綺麗です)


(花の拡大)

(高尾山)

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初夏の高尾山(その2)

2013-06-08 05:36:56 | 四季
【タツナミソウの仲間】
今回はタツナミソウの仲間を集めてみました。ところが肝心のタツナミソウ(立浪草)には出会いませんでした。
コバノタツナミ(小葉の立浪)とトウゴクシソバタツナミ(東国紫蘇葉立浪)には「クサ(草)」が付かず、ヤマタツナミソウ(山立浪草)とオカタツナミソウ(丘立浪草)には「クサ(草)」を付けているようです。また図鑑によっては混同していたりするので自信がありません。


(コバノタツナミ)

 
(オカタツナミソウ)

 
(ヤマタツナミソウ)

 
(トウゴクシソバタツナミ)

いつも頼りにしている図鑑は、山渓ハンディ図鑑と菱山先生の「高尾山花と木の図鑑」ですが、そのいずれもトウゴクシソバタツナミは葉に斑が入っています。従ってシソバタツナミ(紫蘇葉立浪)ではないかと思ったのですが、ネットで調べると斑の有無や葉の裏の紫色などではなく、開出毛の違いで見分けるようです。
そうすると標準のタツナミソウとの違いもややこしくなりますが、今後じっくり観察したいと思います。


(東国は開出毛が決め手か)

(高尾山)

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初夏の高尾山(その1)

2013-06-07 05:06:00 | 四季
【セッコク】
6号炉路のセッコク(石斛)が見事に咲いています。でも株が老化したのか例年より花は少なく、少し奥の木に移っているようです。
初めて見る人は何の花かと必ず質問しますが、耳をすまして聞いていますと、「蘭の仲間でセッコクという寄生植物です」と答えている人が見受けられます。植物から栄養を吸収してはいませんので、セッコクは正しくは着生植物です。植物には水が必要ですが、セッコクは雨や霧からとって成長します。


(これでも例年よりは花が少ないでしょう)

 
(6号路で撮影)


(これは薬王院の境内で撮影)

(高尾山)

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2013年春の放浪記(最終回)女谷~清津峡

2013-06-06 05:51:07 | 四季
家に残してきた鉢植えの山野草が心配で、旅を終わらせ帰ることにしました。鉢の受皿に水を入れ工夫はしているのですが、持ちこたえるのは1週間が限度です。
近くにミツガシワの群生地があり、それを見た足で綾子舞で知られる女谷(おなだに)に向かいました。そのむかし、越後守護の上杉房能は守護代長尾為景(上杉謙信の父親)と対立し、房能は十日町市松之山天水越で自刃に追い込まれました。房能の奥方綾子は柏崎市の南方の山間部に位置する女谷に逃れ、そこで伝えたのが綾子舞と言われています。綾子舞は重要無形民俗文化財の第1回の指定を受けるほど、芸術性が高く評価されています。
今回の旅の帰路は、女谷から十日町市松代に抜け、国道353号線沿いに松之山から清津峡の入口を経由し、塩沢・石内ICから関越道に入ることにしました。


(ミツガシワ)

 
(米山と刈羽黒姫山に別れを告げました)

 
(女谷の綾子舞会館を見学)

 
(綾子舞会館の庭のミズバショウとエンコウソウ)

 
(また山路に入るとタニウツギやフジが満開)


(そしてウワミズザクラ)

 
(ほくほく線松代駅から清津峡の入口へ)

 
(深い崖と岩を噛む急流の清津峡)


(清津峡の渓谷美が見れるのはさらに上流です)

 
(清津峡の入口付近に咲いていたヒメシャガとヤマガラシ)

今回の旅の記念に、ほくほく線松代駅の売店で、青軸のヒトリシズカ(一人静)を350円で購入しました。青軸はかなり高いのですが、この付近では珍しくないのでしょうか。
それからアズマシロガネソウ(東白金草) と青色のキクザキイチゲ(菊咲一華)を手に入れました。
なんと実家の山に生えているのを、妹夫婦が教えてくれました。

 
(旅の記念には、青軸ヒトリシズカとアズマシロガネソウ)

(長岡~女谷~清津峡)

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シャクジョウソウが出ました

2013-06-05 00:08:51 | 四季
まだ小さく、本数も少ないのですが、シャクジョウソウ(錫杖草)が顔を出しました。


(まだ出たばかりです)

 

(多摩丘陵)

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2013年春の放浪記(その8)勝海舟の祖先

2013-06-01 06:28:08 | 歴史
今回の旅で最も熱心に調べたのは、勝海舟(勝麟太郎)の祖先のことでした。江戸城無血開城で功あり、新政府の参事になった海舟は、自分のルーツを調べましたが祖先の故郷にはたどり着けなかったと聞きます。
今回は新発見がないかと、北条を経由し長岡市小国に入り上谷内(かみやち)の集落に向かいました。そこに海舟の親族につながる恵山尼(けいざんに)という女僧が建てた観音堂があるとの情報を得たからです。
海舟の父勝小吉の著書「夢酔独言」によりますと、文化13年(1816)に14歳の小吉は江戸から出奔し、上方まで探しに行ったのはいとこの恵山尼でした。この恵山尼が上谷内観音堂を再建した直後に、水原代官になった男谷彦四郎(燕斉)が弟の小吉を伴って近くを通過しています。恵山尼は親族からの観音像の寄進を、観音肖像勧進帳に細かく記載していました。このことにより男谷一族の名前が明確に残りました。
また観音堂のを建立を支援した庄屋池島佐治兵衛家に、能筆であった彦四郎の書が2通伝わっていることがわかりました。
(参考:勝海舟の祖先のふるさと杉平(Ⅰ)) 


(大仏が横たわる形の八石山の向こうが小国郷)


(米山検校と男谷一族の系図)

海舟の祖先である柏崎市長鳥の山上家の親族で、「評伝銀の杖」の著書の徳間氏は、落成直後に彦四郎と小吉が三国街道を通り水原に向かったなら、落成した観音堂に寄りお祝いをいうのが当然ではないかと推察しています。
前から小普請組の無役の旗本の子麟太郎(海舟)が、どうして大奥に出入りできたか不思議に思っていました。子母沢寛の「父子鷹」や歌舞伎の「天保遊侠録(てんぽうゆうきょうろく)」では、男谷の親戚として「阿茶の局」を登場させ、11代将軍徳川家斉の孫・初之丞の遊び相手として江戸城へ登ったとしています。 今回の調査では、男谷信連の長女で大奥年寄の「瀬山」が、恵山尼を支援しているのが判明しました。幼い麟太郎を大奥に入れたのは阿茶の局ではなく、伯母の瀬山だったということです。米山検校(後に男谷検校)の長男又三郎はわけあって長鳥に帰りますが、その長女恵山尼を男谷一族が全力で支援しているのがわかりました。

 
(上谷内観音堂とその内部)

 
(観音堂の前に咲くワスレナグサとサクラソウの仲間)

 
(一族が納めたまばゆい観音様と中央が男谷検校の位牌)

 
(中央が恵山尼の墓)


(能筆家男谷彦四郎の書)

 
(こちらは重要文化財相野原観音堂)


(小国出身名力士の顕彰碑)

 
(長岡藩お抱えの両国と南部藩お抱えの柏戸)

地元では上谷内観音堂よりも長岡市重要文化財の相野原観音堂がよく知られています。今回の調査で思わぬ発見がありました。それは長岡藩お抱えの両国が載った小国出身名力士の顕彰碑に出会ったことです。昨年完成した碑で、長岡藩の五間梯子が描かれた化粧回しを付けた雄姿でした。なお上谷内が長岡藩領になったのは、観音堂ができてから41年後の文久2年(1862)のことでした。
今回の調査で、小国商工会議所、小国公民館長、上谷内区長、元庄屋家の池島様にたいへんお世話になりました。
(長岡市小国)

明日から2~3日でかけます。
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