【牛久保の光輝院とキク】
昨日はオバマ大統領と鳩山首相が、「五七の桐」紋が付いた二つの演台に、並んで共同記者会見に臨んだ。権力の象徴の天皇家の紋も、今では日本国政府の紋章である。そんなことから、「五七の桐」紋のところで中断していたが、久しぶりに歴史の旅である。地名がいろいろ出てくるので、今回から地図を追加した。
牧野一族展のその1が、桜ミュージアムを出発し、熊野神社20ではカシワ(柏)の巨木から小さな苗を育て長岡に里帰りさせようとしていること、常在戦場の参州牛久保の壁書を教育目標にしている牛久保小学校を訪ねたこと。その2が、源平合戦で義経の味方をしたことで兄の頼朝の怒りにふれ、衰退した田口氏が牧野の地で牧野氏を名乗り牧野城2で、ふたたび歴史の舞台に登場したこと。その3は、讃岐から渡ってきたので、住んでいた館を讃岐屋敷3と呼び、当時の門が今も残っていること。その4は、今川方に属したが桶狭間の戦いで破れ、主君義元の墓12が大聖寺にあること、などを話した。今回はその5である。
牧野城2にあった牧野氏は、勢力を南西の瀬木城7、一色城9に広げ、かたや南の豊橋に今橋城(後の吉田城)を築き、やがて一色城とほぼ同じ地に牛久保城8を築いた。
いずれの城跡も、今でも一部の遺構は確認できるし、吉田城は江戸時代も大名の城として利用されたので、立派な天守が残っている。
牧野家の菩提寺になる光輝院11には牛久保古図が伝わり、古図には牛久保城、一色城、今川義元菩提寺の大聖寺、光輝庵(院)、山本勘助ゆかりの長谷寺(ちょうこくじ)14や、当時の家臣団の敷地が読み取れる。
光輝院の近くに大林勘右衛門山本勘助養父13の記載もある。
光輝院から少し離れたところに牧野成定公霊廟15があるが、昔は霊廟も光輝院の敷地内であったと聞く。成定は今川から徳川家康(当時は松平)に主君をかえるという的確な判断をした明君である。その子の康成(家康から一字拝領)は徳川方として活躍し、大胡城(前橋市)2万石、そして孫の忠成は長岡7万4千石に出世する礎を作った。
牛久保付近には色とりどりのキク(菊)が咲いていた。
朝から雨になりました。
これだけ菊があれば、ピントはどの花かには合います。
どの菊かにピントは合う
菊は香りも花も上品で美しく「桜」と共に「菊」も日本国花だそうですね。
ピントきちっと合っています!!
見られたようですね。五七の桐の演台を2つ並べたのを見るのは初めてです。
米国単独の会見は、もっと凄いのが付いていました。
米国も付けていた
なるほど、歴史はデジタルとアナログが組み合わさっているんですね。
年代は確かにデジタルですが、出来事は読む人の心でいかようにも変わります。
歴史はデジタルとアナログ
牧野家の歴史はゆっくりと読まないと頭に入りませんね。歳ですかね(笑)。