原左都子エッセイ集

時事等の社会問題から何気ない日常の出来事まで幅広くテーマを取り上げ、自己のオピニオンを綴り公開します。

言葉と心は常に空回りするもの…

2012年09月15日 | 自己実現
 過去に於いて教員経験がある原左都子の場合、日々教壇に立ち生徒相手に授業を行っていた時代がある。

 それ以前にも医学関連民間企業で社員教育部署に所属した時期があり、新入社員や総合職部門社員を対象に医学専門分野の研修講義を行った経験もある。
 同時期に医学学会に度々出席して、全国から集結した参加者の前で研究発表及びディスカッションを行った事も今となっては懐かしい過去の我が職業経験の一つだ。


 私が教職に就いていたのはバブル経済末期頃 今から20年程前の時代であるが、その時期の学校現場と言えば、生徒や学生が教員の授業を聞かない事甚だしい頃だった。
 参考のため、その少し以前に30代にして某公立大学(及び大学院)へ学生の立場で通っていた私でもあるが、ある程度の偏差値を誇って入学しているはずの学生ですら授業など聞きもせず、ただくっちゃべっている有様に呆れ果てたものだ。  (今思うにあの大学での光景とは、まさにバブル経済にどっぷりと浸り切った当時の若者像の“お粗末な失態”の一面だったのかもしれない。

 当時は大学に於いてすら学生が講義を聞かない時代背景なのだから、高校教育(しかも失礼な表現をお詫びしつつ私が教員をしたのは“底辺高校”)現場で、我が未熟かつ下手な授業を生徒達が聞いてくれるはずもない。
 それでも、何とか生徒の興味をひくための最大限の努力を私なりに続けたものだ。  周囲の“熱血先生”達などは 「お前ら、授業をちゃんと聞かないとどういう処分となるか分かってるのかーー!!」 と脅しをかける手法に出ていたようだが、まさかこの“か弱き?”私が自分より腕力が勝る高校生相手に脅しなどかけられる訳もないし、その種歪んだ手段で生徒を黙らせたいとの発想もなかった。 
 板書は避け毎時間プリントを作成配布してそれに書き入れる作業を生徒にさせる等、授業内容の工夫をしつつ教室の騒々しさに対応してきたものだ。  それでも、我が授業を聞いてくれる生徒はほんの一部だったのかもしれない。 (今更ながらであるが当時授業を本気で聞きたかった生徒の皆さんに、周囲を静かにさせる力量が私にはなかった事をここで改めてお詫び申し上げたい思いだ。

 片や民間企業とは競争現場であるが故に、社員の皆さんは私の拙い講義を全力集中して聞いて下さった。
 同時期に参加した医学学会に関しても、当然ながら参加者の皆さんは専門医学分野の最先端の研究発表を聞きディスカッションすることを意図して全国から会場を訪れているため、それはそれは熱心に会合に参加しておられた。 ディスカッションの場に於いて、負けず嫌いの私が冷静さを失い自分勝手に発言し過ぎた事を後に上司に指摘されたことが、今となっては懐かしい思い出である。 


 今回の記事を綴るきっかけを得たのは、「原左都子エッセイ集」バックナンバーに於いて幾度か取り上げさせていただいている 仏教家 小池龍之介氏のコラムを朝日新聞で見聞したことによる。

 早速、9月6日付朝日新聞小池氏による 「他者の評価に揺れるな」 と題するコラムを以下に要約して紹介しよう。
 筆者(小池氏)はしばしば講演を行うが、不得意と感じるのは企業などの団体研修で話す時だ。 先日も最初しばらくの間、言葉が空回りするような具合だった。 この種の場においてはすべての方が「話を聞きたい!」と積極的に集まった訳でないため、よそ見をしたり白けた表情をする方もおられる。 そんな場において話す側は「自分が受け入れられていないのでは」と緊張してしまう。 それでも時間の経過と共に徐々に笑う人やうなずく人が増えてくると格段に話し易くなる。 これは“聴き手の評価によって一喜一憂する弱さ”に他ならない。 評価された時は“自信”という上げ底で自分を支えて頑張れても、逆境に立たされると“自信”はたちまち崩れて何事であれ行き詰ってしまう。 我々のこんな脆弱さに釈迦はビシッと応えているが、それが難しい時もある。 ……
 (以上、朝日新聞記事より仏教家 小池龍之介氏によるコラムより要約引用)


 当エッセイ集において、小池氏のコラムを取り上げるのは久しぶりの事だ。 
 仏教家であられる小池氏の当該コラムを朝日新聞紙上で毎週拝読している原左都子だが、ここのところ、氏の記述に以前のごとくの“他者敵対バッシング意識”の刺(とげ)が薄れ、文章表現が穏やかになっているような印象を抱かせて頂いている。
 小池氏は自己の持つ“弱さ”を表現すること等により、若き宗教家として成長を遂げられているのかとの思いも抱くのだ。

 ここで、上記小池氏による「他者の評価に揺れるな」とのコラムに関する原左都子の私論を述べさせていただこう。
 「講演」を生業の一部と出来る事に、まず小池氏は仏教家として幸福と思うべきではなかろうか?  宗教家とはその教えを世間に広めることを使命とする職業であろう。 世間一般を見渡せば、おそらく「講演」をする機会など皆無の宗教家が大多数ではあるまいか?  若き小池氏が「講演」との貴重な機会を持てている現実に、とりあえず感謝するべきではなかろうか。
 そして一旦「講演」活動を引き受けたならば、自分が不得意あるいは不特定多数の人種が集まっている会合等程、その“講話”を聴かない人々が大勢存在する事など前もって予想しておくべきである。
 今の時代、自分の話を聴かない参加者がいるなど何ら珍しくもない事象であろう。 そんな事態に緊張し焦っている場合ではなく、一旦プロとして「講演」を引き受けた以上は、その場で臨機応変に方向転換して一人でも多くに話を聴いてもらえるよう話題を切り替えるキャパシティこそが、講演者に要求される真の能力であろう。


 そうは言っても、小池氏の思いも理解できる私だ。
 自分が話したいテーマの話題こそを聴いてもらいたいのが、小池氏ならずとて私のような小市民の願いでもある。

 ところが「講演」ともなれば聴衆に迎合した話をせねばならない。 それが我が生業範疇であれば努力もするが、今となってはその種の「講演」オファー自体が原左都子には一切ない。
 逆の聴く立場ばかり要請される現在と成り果てた今、確かに“低レベルで聴くに耐えない講演”の数集めのための誘いなど出来る限り勘弁願いたいのが正直なところだ。
 それでも、くだらない話を義務で聴かされる場に直面した場合に際して、過去に於いて「講演」をする側の職業経験がある私は“聴くふり”をしてあげるサービス精神を今尚旺盛に持ち合わせている。
 
 だが“聴くふり、有意義なふり”するその役目って正直なところ顔がピクピク引きつりそうになるのが落ちで、早くその場から逃げ去りたい思いに駆られるものだしねえ……