原左都子エッセイ集

時事等の社会問題から何気ない日常の出来事まで幅広くテーマを取り上げ、自己のオピニオンを綴り公開します。

NHK夜7時のニュースが果すべき使命

2012年09月17日 | 時事論評
 一昨日(9月15日)の夜、「原左都子エッセイ集」宛に以下のメッセージを頂戴した。

 <件名>
 小郷知子NHKアナウンサーの声について
 <本文>
 2011.9.7の記事、全く同感です。
 小生は、長年、夜7時のNHKニュースを聞いてきました。ところが、小郷アナウンサーになってから、聞くのが苦痛でたまらなくなりました。よくぞ、言っていただきました。小郷さんは清楚で聡明な印象を受けますが、声はニュースのアナウンス向きではないと思います。人格攻撃ではありません。一視聴者の深刻なるお願いです。
 ブログというものへの投稿は初めてです。匿名ですが届きますように!
 (以上は、匿名氏より当エッセイ集に頂戴したメッセージを転載させていただいたもの)


 上記匿名氏のメッセージ中に記載下さっている 2011.9.7の記事 とは、「原左都子エッセイ集」に於いて1年程前に公開した 「アナウンサーは『声』が命!!」 と題する記事である。
 参考のため、ここでそのバックナンバーの一部を要約して紹介しよう。

 NHKのアナウンサーに 小郷知子氏 との若手女性職員がおられる。
 この方を私が一番最初にテレビで見たのは、(当時の時点において)数ヶ月前のNHK夜7時のニュースに於いてであった。 いつもは武田氏というベテラン男性アナウンサーがメインに担当しているニュースだが、その日は小郷氏がメインでニュースを伝えることになったようだ。
 これがどうしたことか声が聞き取れない。 最初は私自身の老化現象で早くも耳が遠くなり始めたのかとも考えた。 娘に確認したところ、私程ではないがやはり聞き取りにくいとのことだ。
 小郷氏の声が小さいという訳ではない。 どう表現すればよいのか、実声部分が少なく息ばかりが漏れているような発声なのだ。 加えて高音であることも聞き取り辛い要素の一つであろう。
 テレビの音量を上げてもやはり聞こえにくい。 当時はまだ東日本大震災関連のニュースが主であった頃で特に福島原発事故に関する報道の詳細を網羅したい私にとっては、このアナウンサー氏の声の聞こえにくさに実に難儀させられのだ。 結局、小郷アナウンサーが声を発する度にテレビの間近まで行って耳を傾けねばならず、たかがテレビのニュースを見聞するのに何で視聴者側がこんな苦労を負わされるのかと、NHKを恨みそうにさえなったものだ。
 やっと武田アナウンサーが7時のニュースに戻って来て以降は、夕飯を食しながらも自然と聞こえてくる報道音声に安堵したものである。
 その後、昼間のニュースにも登場している小郷氏である。 多少低音声を発する努力をしているのか?との印象もなきにしもあらずなのだが、やはり息が漏れ出るその音声は聞き取りにくい。
 そうしたところ、ネット上で小郷アナウンサーの「声」に関する原左都子と同趣旨の見解を発見した!  このネット情報によると、NHKの顔ともいうべき看板番組「7時のニュース」のメインキャスターたり得ない小郷氏の金属性の悪声を厳しく非難した上で、ニュースアナとは何よりもまず抵抗なく聞き取れる発声が最優先条件との見解を述べている。
 このネット情報に勇気をもらった私は、今回やっとこの記事において日頃のストレスを公開することにしたといういきさつだ。 
 いやはや、特に報道番組であるニュースに声が聞き取りにくいアナウンサーを国営放送とも言えるNHKが起用するとはどうしたことか? 視聴者の深刻な不満をNHKには是非共再考して欲しい思いだ。
 (以上、バックナンバー「アナウンサーは『声』こそ命!!」より一部を要約引用)


 引き続き、当時このエッセイに頂戴した数多くの“賛同意見”の一部を以下に端折って紹介しよう。

○ 8月中旬だったでしょうかNHK夜七時のニュースに突如新顔のアナウンサーが出てきてニュースを読み始めた時、家族で「聞きにくい声」について話し合った事を思い出しました。見た目には整った顔で冷たい印象だったように記憶しています。

○ 小郷さんの声にはげんなりしていましたが、原さんも同じように感じていらしたとは驚きました。私だけかと思っておりましたので。 はっきり言って小郷さんにはアナウンサーとしての仕事を遠慮してもらいたいです。お気の毒ですが、訓練してもどうにもなりません。ちなみに最近よく出ているNHKの若手の男性アナウンサーはどの人も大変美声です。そもそもニュースなんてじっと見ているものではなく、見たり見なかったり、何かをしながら聞くものですから見た目より声でしょう。

○ 同感です。7時のニュースのような多くの人が見る番組はいい声のアナウンサーにしてもらいたいと切に願っております。小郷さんはアナウンサー向きの声ではありません。そんなアナウンサーが7時のニュースをやっているのは日本の恥です。外国人観光客は、ホテルに泊まってテレビをつけてNHKのニュースを見るでしょう。そして日本のアナウンサーの声の悪さが日本のイメージになると思います。

○ 小郷さんをアナウンサーとして採用したNHKが悪いのです。私の大学時代の友人はアナウンサー希望でNHKを受けました。とても声がよかったんです。結果は不採用でしたが、もし声が悪かったらやめた方がいいと私が止めています。 採用されてしまった小郷さんが気の毒です。

○ (上記コメンテイター氏より再度頂戴したコメント) 9月11日にNHKへネットで投書いたしました。細かいことは書かずにこちらの記事(「アナウンサーは『声』が命!!」)を紹介してしまいました。無断で紹介したことお許しください。 その後、返信など一切ありませんが、昨日土曜日の7時のニュースは男性アナウンサー主体で小郷アナは出ていませんでした。今日はどうなるのでしょうか?


 以上、「原左都子エッセイ集」バックナンバーよりの引用が長引いてしまい恐縮である。
 当該バックナンバーを公開してほぼ1年の月日が経過した現在、改めて当時と同趣旨のメッセージを一昨日頂戴したことにより、“NHK夜7時のニュースキャスター悪声”の現実とはまさに「社会問題」の範疇ではなかろうか?、との思いを今一度新たにした私である。

 ここで今一度繰り返すが、決して小郷知子氏の人格攻撃など私も含めコメンテイターの皆さんは誰一人としてするはずもない事は、上記の文面よりお分かりいただけるであろう。
 そうではなくニュース報道が果す役割の重要性を鑑みた場合、(特に国営放送に準じる放送局ともあろう立場の)NHKが何故メイン報道番組であろう夜7時のニュースに悪声のメインキャスターを採用し続けるのかに関して、末端視聴者から今一度ご意見申し上げたいだけの話である。


 おそらく「原左都子エッセイ集」に貴重な時間を割いてコメントあるいはメッセージを下さる方々とは、その根底部分の思想において原左都子と同志向であられるのだろうと推測申し上げる。
 当該記事にコメントをお寄せ頂いたコメンテイターの皆さんは、例外なく長年NHKを嗜好し当放送局よりの番組を好んで視聴しておられる事も、そのメッセージ内容より重々把握させていただく私だ。

 原左都子の思いが当記事を通じてNHK現場に届くか否かは、現在本エッセイ集の“営業・公報活動”を一切実施していない立場上判断不能である。
 
 どうか、我が拙いエッセイ集に貴重なご意見をお寄せ下さったNHKファンの皆様の切なる思いが、NHK放送局現場に届く事に期待したいものだ。

言葉と心は常に空回りするもの…

2012年09月15日 | 自己実現
 過去に於いて教員経験がある原左都子の場合、日々教壇に立ち生徒相手に授業を行っていた時代がある。

 それ以前にも医学関連民間企業で社員教育部署に所属した時期があり、新入社員や総合職部門社員を対象に医学専門分野の研修講義を行った経験もある。
 同時期に医学学会に度々出席して、全国から集結した参加者の前で研究発表及びディスカッションを行った事も今となっては懐かしい過去の我が職業経験の一つだ。


 私が教職に就いていたのはバブル経済末期頃 今から20年程前の時代であるが、その時期の学校現場と言えば、生徒や学生が教員の授業を聞かない事甚だしい頃だった。
 参考のため、その少し以前に30代にして某公立大学(及び大学院)へ学生の立場で通っていた私でもあるが、ある程度の偏差値を誇って入学しているはずの学生ですら授業など聞きもせず、ただくっちゃべっている有様に呆れ果てたものだ。  (今思うにあの大学での光景とは、まさにバブル経済にどっぷりと浸り切った当時の若者像の“お粗末な失態”の一面だったのかもしれない。

 当時は大学に於いてすら学生が講義を聞かない時代背景なのだから、高校教育(しかも失礼な表現をお詫びしつつ私が教員をしたのは“底辺高校”)現場で、我が未熟かつ下手な授業を生徒達が聞いてくれるはずもない。
 それでも、何とか生徒の興味をひくための最大限の努力を私なりに続けたものだ。  周囲の“熱血先生”達などは 「お前ら、授業をちゃんと聞かないとどういう処分となるか分かってるのかーー!!」 と脅しをかける手法に出ていたようだが、まさかこの“か弱き?”私が自分より腕力が勝る高校生相手に脅しなどかけられる訳もないし、その種歪んだ手段で生徒を黙らせたいとの発想もなかった。 
 板書は避け毎時間プリントを作成配布してそれに書き入れる作業を生徒にさせる等、授業内容の工夫をしつつ教室の騒々しさに対応してきたものだ。  それでも、我が授業を聞いてくれる生徒はほんの一部だったのかもしれない。 (今更ながらであるが当時授業を本気で聞きたかった生徒の皆さんに、周囲を静かにさせる力量が私にはなかった事をここで改めてお詫び申し上げたい思いだ。

 片や民間企業とは競争現場であるが故に、社員の皆さんは私の拙い講義を全力集中して聞いて下さった。
 同時期に参加した医学学会に関しても、当然ながら参加者の皆さんは専門医学分野の最先端の研究発表を聞きディスカッションすることを意図して全国から会場を訪れているため、それはそれは熱心に会合に参加しておられた。 ディスカッションの場に於いて、負けず嫌いの私が冷静さを失い自分勝手に発言し過ぎた事を後に上司に指摘されたことが、今となっては懐かしい思い出である。 


 今回の記事を綴るきっかけを得たのは、「原左都子エッセイ集」バックナンバーに於いて幾度か取り上げさせていただいている 仏教家 小池龍之介氏のコラムを朝日新聞で見聞したことによる。

 早速、9月6日付朝日新聞小池氏による 「他者の評価に揺れるな」 と題するコラムを以下に要約して紹介しよう。
 筆者(小池氏)はしばしば講演を行うが、不得意と感じるのは企業などの団体研修で話す時だ。 先日も最初しばらくの間、言葉が空回りするような具合だった。 この種の場においてはすべての方が「話を聞きたい!」と積極的に集まった訳でないため、よそ見をしたり白けた表情をする方もおられる。 そんな場において話す側は「自分が受け入れられていないのでは」と緊張してしまう。 それでも時間の経過と共に徐々に笑う人やうなずく人が増えてくると格段に話し易くなる。 これは“聴き手の評価によって一喜一憂する弱さ”に他ならない。 評価された時は“自信”という上げ底で自分を支えて頑張れても、逆境に立たされると“自信”はたちまち崩れて何事であれ行き詰ってしまう。 我々のこんな脆弱さに釈迦はビシッと応えているが、それが難しい時もある。 ……
 (以上、朝日新聞記事より仏教家 小池龍之介氏によるコラムより要約引用)


 当エッセイ集において、小池氏のコラムを取り上げるのは久しぶりの事だ。 
 仏教家であられる小池氏の当該コラムを朝日新聞紙上で毎週拝読している原左都子だが、ここのところ、氏の記述に以前のごとくの“他者敵対バッシング意識”の刺(とげ)が薄れ、文章表現が穏やかになっているような印象を抱かせて頂いている。
 小池氏は自己の持つ“弱さ”を表現すること等により、若き宗教家として成長を遂げられているのかとの思いも抱くのだ。

 ここで、上記小池氏による「他者の評価に揺れるな」とのコラムに関する原左都子の私論を述べさせていただこう。
 「講演」を生業の一部と出来る事に、まず小池氏は仏教家として幸福と思うべきではなかろうか?  宗教家とはその教えを世間に広めることを使命とする職業であろう。 世間一般を見渡せば、おそらく「講演」をする機会など皆無の宗教家が大多数ではあるまいか?  若き小池氏が「講演」との貴重な機会を持てている現実に、とりあえず感謝するべきではなかろうか。
 そして一旦「講演」活動を引き受けたならば、自分が不得意あるいは不特定多数の人種が集まっている会合等程、その“講話”を聴かない人々が大勢存在する事など前もって予想しておくべきである。
 今の時代、自分の話を聴かない参加者がいるなど何ら珍しくもない事象であろう。 そんな事態に緊張し焦っている場合ではなく、一旦プロとして「講演」を引き受けた以上は、その場で臨機応変に方向転換して一人でも多くに話を聴いてもらえるよう話題を切り替えるキャパシティこそが、講演者に要求される真の能力であろう。


 そうは言っても、小池氏の思いも理解できる私だ。
 自分が話したいテーマの話題こそを聴いてもらいたいのが、小池氏ならずとて私のような小市民の願いでもある。

 ところが「講演」ともなれば聴衆に迎合した話をせねばならない。 それが我が生業範疇であれば努力もするが、今となってはその種の「講演」オファー自体が原左都子には一切ない。
 逆の聴く立場ばかり要請される現在と成り果てた今、確かに“低レベルで聴くに耐えない講演”の数集めのための誘いなど出来る限り勘弁願いたいのが正直なところだ。
 それでも、くだらない話を義務で聴かされる場に直面した場合に際して、過去に於いて「講演」をする側の職業経験がある私は“聴くふり”をしてあげるサービス精神を今尚旺盛に持ち合わせている。
 
 だが“聴くふり、有意義なふり”するその役目って正直なところ顔がピクピク引きつりそうになるのが落ちで、早くその場から逃げ去りたい思いに駆られるものだしねえ……

「悪」 の輪廻(りんね)

2012年09月13日 | 時事論評
 冒頭から不満をぶちまけると、近年観賞した映画の中でこれ程がっかりさせられた作品も珍しい。

 その映画とは、 米国制作 2012年夏公開の 「プロメテウス」 である。


 昨日、映画館“水曜レディースデイ”(女性が割安料金で映画を鑑賞できる日)を有効利用して、私は大学生の娘と共にこの夏2度目の映画を観に行った。
 今春大学に入学し1年生前期を終えた我が娘であるが、もしも授業単位を一つでも落としていたならば、9月の今の時期は再試等でこんな悠長な事をしている場合ではない運命にあった。 幸運な事に娘がすべての単位をクリアしてくれたお陰で、(我が子の「お抱え家庭教師」である)私の夏休みもそれに追随して長引いている。 娘の頑張り力の恩恵により、9月中旬に入って尚厳しい残暑が続く日々を パッパラパー とエンジョイしている原左都子という訳だ。


 実は、我々親子が再び映画館を訪れたい理由は他にもあった。
 8月中旬頃 「おおかみこどもの雨と雪」 を観賞するため映画館を訪れた際、映画館内で “ある特異的なもの” を発見していた我が親子である。
 その“特異的なもの”とは、 「巨大ポップコーン」である!

 いえいえ、私はそもそもクラシックバレエやオーケストラ等音楽の舞台観賞趣味があるため、研ぎ澄まされた芸術表現の場であるその種の会場内で“飲食をする”という事態に対して大いなる抵抗感を抱く部類の人間だ。
 ただ、「映画」とは上記芸術分野の舞台に比して“娯楽”志向が強いと解釈している。 肩肘張らない解放志向であらゆる市民に観賞して欲しいとのメッセージを込めて制作されているような感覚が、確かに映画という表現主体に溢れ出ていると感じる。

 「映画」という表現主体に於ける“バリバリ芸術との差別化”の一手段としての最たるものが、昔から何処の映画館でも販売されている「ポップコーン」や「コーラ」なのではあるまいか?
 実は我が娘も、前回映画館を訪れた際に見た 「巨大ポップコーン」 に大いなる関心があったとのことだ。 (早く言えよな~~。若年層が欲しいと言えば私もそれに便乗し易かったのに…)
 早速あの“2ℓバケツ程の大きさ”の「巨大ポップコーン」に関してネット検索で調査したところ、我々親子が常時利用している映画館に於いて現在も特価販売中とのことだ。

 「よし! あの2ℓ巨大ポップコーンを絶対ゲットするぞ!」 との邪道パワーで再び映画館を訪れて我々親子が観賞したのが、 「プロメテウス」 だったとのいきさつである…


 ここでやっと映画「プロメテウス」本筋に話題を戻すが、まずは当映画の日本版に於けるキャッチコピーを以下に紹介しよう。

 「人類はどこから来たのか?」人類が長年にわたって追い続ける、人類史上もっとも深遠でかつ根源的な謎。 2089年、地球上の古代遺跡からその答えを導き出す重大なヒントを発見した科学者チームは、宇宙船プロメテウス号に乗り込んである惑星へと向かう。 2093年、惑星にたどり着いた彼らは、人類のあらゆる文明や常識を完全に覆す世界を目の当たりにすることに。 人類誕生の真実を知ろうと調査に没頭する中、思いもよらない事態が起きる。
 (以上、ネット上の「プロメテウス」関連情報より引用)

 原左都子がこの映画を鑑賞する前に他のネット情報を検索しても、「プロメテウス」とは、現在基礎医学分野で発展を遂げているDNA分析を基盤にその観点から人類創造の歴史を問う事はもちろんのこと、天文学、地史学、文化人類学等々の最先端学問技術を導入駆使して製作された映画なのかと大いなる期待をしていたのだ。
 ところが、私が昨日観賞した「プロメテウス」とは、ただ単にCGを前面に打ち出したSF映画に他ならなかった。

 本日遅ればせながらネット情報を再び検索してみると、「プロメテウス」を観賞した市民によるマイナス見解が数多く存在する実態だ。
 その一部を以下に端折って紹介しよう。
 プロメテウス 結局何を伝えたいのか、わからなかったです。 ストーリーは一見斬新かと思いきや何処かで見たような感じだし……
 プロメテウス これ、日本版のキャッチコピー作った人が悪いです。 人類の起源がなんたらってヤツ。 そりゃあ、勘違いしてワクワクしながら見に行く人続出しますよ。
 (以上、ネット情報より引用)

 原左都子などまさに、上記のネット書き込み者が言うところの、日本語版キャッチコピーに触発されてワクワクとこの映画を鑑賞しに行った部類だ。


 この映画は“SF CGスペクタクル”ものとして、過去に「エイリアン」を成功させた米国リドリー・スコット監督が必ずやヒットすると狙い(?)制作した超大作なのかもしれない。 それが証拠に巨額な制作費をかけたことだけは、影像を見れば即理解可能である。
 ただ、「エイリアン」が流行った過去の世界経済成長期の文化を模倣したところで、今時“二匹目のどじょう”を狙える時代背景ではないことは歴然であろう。
 
 実は私自身はこの映画の途中 「CGスペクタクル影像」が多用され過ぎる場面の連発に辟易としつつ、反吐が出そうな症状すら出現しそうになった。 一旦トイレに行って吐いてくるべきかと本気で迷いながら隣席の我が娘を観察すると、何と普通に画面を見ているではないか!?! 
 後で娘に確認したところ、「私が通った小中高で、先生が自分の授業をエスケイプするためにこんなCG映画を教室のテレビでよく生徒に見せてたよ。 だから私は結構慣れてるけど…」とのことだ…
 いやはやあっと驚くと同時に、現世代の子ども達が「CGスペクタクル影像」を公教育教室内で慣れ過ぎる程見せられている実情にも呆れ果てる私である…

 それにしても、私が「プロメテウス」に期待していた (例えそれがフィクションであれども) 人類の歴史や今後の未来像をDNAレベルで解明するべく医学分野での思いがけない新説や、新星への冒険に於ける地質学的新発見さらには文化人類学的考察の程が、何一つとして描けていない映画造りに心底落胆させられた。


 ただ唯一この映画が描きたかったテーマを、最後の場面であくまでも無宗教の私なりに無理やりではあるが理解できた気がする。

 そのテーマとは 「悪の輪廻(りんね)」 だったのではなかろうか?

 人類とは「悪の輪廻」をもたらすためにこの世に出現し、闘いと破壊を志向しつつ生命を終え行くのだと、私はこの映画を観て今一度理解できた思いだ。
 領有権問題にしろ、一国家内で繰り広げられる愚かな政権争いにしろ、まさに人類とは「悪の輪廻」を人類絶滅まで貫き通さんがためにこの世であえて敵を作り、闘い続けることを唯一の楽しみとして生を営んでいる事実を実感させられる。

 最後に参考のため、映画館で娘と共に食した「巨大ポップコーン」だけは美味しかった事に、愚かな人類の末端部に位置する一人の人間として、今の時代を生きているほんの少しの幸せを有難く思う次第である…

竹島、尖閣諸島は誰の財産か?

2012年09月10日 | 時事論評
 実は私は、8月中旬頃韓国 李明博大統領が竹島に上陸した直後、既に日本海・東シナ海に位置する竹島及び尖閣諸島の領有権をめぐってこじれる事象に関し、当「原左都子エッセイ集」に於いて私論を展開したく考えていた。
 
 ところが当時の私は領有権問題エッセイの表題として 「領有権を争う前に双方が歴史的背景説明を」 とのテーマを掲げたものの、“草稿”扱いとして非公開としたまま月日が経過した。
 何故、原左都子がこのテーマの記事を即刻綴って公開せず(私らしくもなく弱気で)保留措置になどしたのかについて説明すると、ペンネームの「左」の文字が物語っている通り多少“左”志向故である。
 この領土問題に関する当時の率直な私論をそのままエッセイ集にて公開したならば、愛国心旺盛な国民の皆さんより“袋叩き”に遭いそうな危機感を察知したからに他ならない。

 しばらく私論の公開は自粛して領有権をめぐる国内外の動きを静観しようと志したところ、何ともまあ韓国中国相手に喧嘩を売るかのごとくの民主党若き閣僚どもの発言が相次ぎ、領有権バトルが日を追う毎に激化するばかりではないか!
 国内政権情勢が揺れ動き、そうでなくとも政権奪取が如何なる転換を得て何処に辿り着くのか不安定極まっている我が国政情勢真っ只中である。  よりにもよってこんな時期に、今後友好を深めるべき近隣国である中韓相手に好き好んで喧嘩バトルを繰り広げている場合ではないだろう、との危機感を煽られるばかりの私だ。


 そんな折、上記我がエッセイ集の草稿である 「領有権を争う前に双方が歴史的背景説明を」 内の“領有権の歴史的背景説明”に関して、分かりやすく解説した記事を朝日新聞で発見した。
 朝日新聞9月2日、3日両日に渡り「ニュースが分からん!」に於いて解説された「竹島」「尖閣諸島」両者の領有権に関する歴史的背景に関して以下に要約して紹介しよう。(カッコ内は原左都子が注釈)

 まずは「竹島」であるが、1696年に江戸幕府が自国領土との認識で往来を認めたとのことだ。(その背景的要因は不明) 1905年に日本が竹島の領土編入を閣議決定し、1910年に日韓併合条約が整った。 45年終戦、日本の朝鮮半島への植民地支配が終了。 46年、GHQ指令で竹島などへの日本の行政権停止。 51年サンフランシスコ講和条約に於いては、日本が放棄する領土に竹島は明記されず。 52年韓国が竹島を取り込む形で公海上にラインを設定、これに日本が抗議。 (中略) 08年日本政府は学習指導要領に初めて「竹島」を記述。 ……(後略)

 ここで一旦原左都子の私論に入るが、この記事を参照する限り、やはり「竹島」は日韓いずれの領土と白黒判定できない現状と解釈するべきではないのか!?  いや朝日新聞記事を読んだ限りにおいては、江戸幕府が自分勝手に「竹島」を自国の領土と認識した事実が否めない思いの私だ。

 次に「尖閣諸島」に関する朝日新聞「ニュースが分からん!」を以下にその一部を要約して紹介しよう。
 1895年、日本政府が閣議決定で正式に日本の領土に編入。 52年、サンフランシスコ平和条約発効により米国施政下に置かれる。 72年、沖縄返還に伴い尖閣諸島が日本に戻る。日中国交正常化。 78年日中平和友好条約調印。小平氏が尖閣問題の棚上げを表明。 (以下略)

 再び原左都子の私論を述べると、「尖閣諸島」に関しても1895年時点で日本政府の閣議決定で日本の領土とされた以前の記述がないため、その歴史的背景に関する判断が困難である。 中国側がそれ以前の当該領有権に関する歴史的事実を今後調査・公開することに期待したいものである。
 そうだとして「尖閣諸島」に関しても、朝日新聞記事によれば必ずや日本の領土と証明できる歴史的事実は何もないと結論付けられると私は解釈する。


 さらに私論を展開しよう。

 過去に於いて我が国が隣国を「植民地支配」した事実とは、私に言わせてもらうと、それは学校をはじめとする集団組織内の「いじめ」行為に匹敵するがごとくの失策なのではないかとの感覚を抱く。
 我が子が幼い頃、幼稚園や小学校現場で「いじめ」に遭いそれに最大限の対処をしてきた親の立場から言わせてもらうならば、我が子をいじめた相手の顔など一生を通して二度と見たくもない程の嫌悪感を抱く存在である。 それ故に、それらの相手から“逃げて、逃げて、逃げ切って”我が子の現在の安泰を築いてきたとも言える我が家である。 その“逃げ切る行動”を取る事により我が子の「発展」が実ったと私は捉えている。

 過去に於いて愚かな日本に一時“植民地支配”された隣国は、現在素晴らしいまでの国家・経済の発展を遂げている。
 実際に韓国ソウルを訪れた経験がある私など、ソウル市民の皆さんに心を尽くして歓待して頂いたことを今尚嬉しく感じており、またソウルの地を娘と共に訪れたく思っている程だ。
 「竹島」が何処の領地であるのか歴史的背景を紐解いても判定が困難であるのならば、ここは一旦過去に於ける「いじめ」張本人である日本は、若き世代の閣僚連中に悪態をつかせる事を自粛するべきだと私は考察する。

 「尖閣諸島」問題に関しては、その権限もない東京都知事が“買い取る”との馬鹿騒ぎを始めた当初から、国家こそが即座に関与してその領有権に関して調査をし直すべきだったはずだ。
 愚かな日本政府や自治体長老首長が領有権問題に関して大騒動をしでかしたばかりに中国側からの反発を煽ってしまい、今後の友好が民間レベルでも不自由になり、政治経済両面で大きな痛手を被っている現実を国政は如何に捉えているのか!?!


 ここで朝日新聞8月27日付「声」欄 60歳男性の投書を紹介しよう。
 力関係による領土問題の解決は将来までしこりを残し、本当の解決にはつながらない。 しかも偏狭なナショナリズムは繰り返し報道されることによって一気に沸騰しコントロールが効かなくなる。 日本が力によって領土問題を解決する道を選択するのなら、日米軍事同盟は一層緊密になり、緊張状態を絶えず強いられることになる。 領土問題はあくまでも時間をかけて話し合うべきだ。本質的な解決に至るまでは「棚上げ」にして漁業問題や海洋資源問題の暫定的な取り決めをすればいいと思う。

 以上「声」欄60歳男性の投書に、全面的に賛同申し上げる原左都子である。


 最後に本エッセイの結論を述べよう。

 「竹島」「尖閣諸島」 は誰の財産か?
 それは、地球のかけがえのない自然財産に他ならない。

ロスジェネ世代は不幸か?

2012年09月08日 | 時事論評
 9月に入ってすぐ、この春大学へ入学した18歳の我が娘が前期の学科成績結果を受け取りに在籍大学へ出かけた。

 この成績発表に於いて「ランクD」判定が下された科目に関しては「再試」の救済措置と相成るが、その「再試」にかかる費用を正規学費納入金とは別枠で成績発表日当日に即刻納めねばならないと娘が言う。
 過去において国公立大学(及び大学院)在学経験しかない私は、その費用金額の程が如何程なのかまったく想像がつかないのだが、娘に確認してもそれに関する大学からの説明や資料はないと言う。  そこで娘に「ランクD」を取ったと思しき科目数を確認した後、私が常識的範囲内と判断する「再試」費用を算定して持参させた。

 結果としては幸いな事に我が娘の前期成績において「ランクD」判定は皆無、すべての科目で単位をクリア出来る成績を修めていた事に救われた思いの母子である。 とりあえずは大学初期の場面で、まずまずのスタートを切れた事を祝福した我が家だ。


 元医学関係者であり元教育者でもある私が、娘の生後まもない頃より我が子の「お抱え家庭教師」として君臨し続けている事実に関しては「原左都子エッセイ集」バックナンバーにおいて再三紹介して来ている。
 その我が「お抱え家庭教師」家業も、娘が昨秋大学に推薦合格してくれた段階で一つの大きな山を超えた感覚がある。 そうだとしても、まだまだ娘将来の“真の自立”に向けた道程は、現在の時代背景を勘案した場合厳しいものがあろう。

 どうなのだろう?
 我が子の教育に熱心な世のパパ・ママ達はやはり私と同様に、子供を大学入学させた後に及んで尚より良き就職ゲットに向けて励んでおられるのであろうか?? 
 私自身の教育思想及び親として置かれている立場とは、そもそも私よりもずっと若い世代のおそらくバブル期に大学を卒業したであろう上記保護者の皆さんとはその性質が大いに異なるのではないかと思う節がある。

 片や娘から大学現場の話を見聞すると、学生の皆さん至って活動的であるようだ。 若かりし頃の原左都子同様、学業の合間を縫っては学内外諸活動さらにはアルバイトや恋愛等々自己実現に励む女子学生(娘が通う大学は女子大であるが)が多忙を極めている実情の様子だ……
 その種の一般学生とは一味も二味も異なる個性や特質を持って生まれ出てきた我が子の実情を慮り今後の指南をするのが、「お抱え家庭教師」としての私の力の見せ所でもある。

 将来の娘の就職に有利になる条件を整えてやる事を現在の我が使命とした場合、とりあえずの第一目標とは、我が子の勤勉かつ素直・実直な性質を尊重しつつ、大学現場である程度の学業成績を積み上げさせる事こそが最優先課題と判断する。
 加えて(これは大学学業とは関連のない話題であり“親の欲目”範疇であることは承知の上だが)、我が娘は産まれ持ってのDNAによると思しき外見が整っている部類なのだ!?! (いや正直なところ、これってほんとにラッキーと捉えている私であることは認める。)  これを娘将来の自立のための武器にしない手はない!とほくそ笑みながら、その外見に磨きをかける事に関しても日々手厳しく指導している原左都子であり、娘もその指導に従い“美貌?”をも磨く日々である。


 ところで、皆さんは「ロスジェネ(ロストジェネレーション)」なる言葉をご存知であろうか。
 この言葉、元々はAERAで初めに取り上げられた表現であるらしい。
「ロスジェネ世代」とは、バブル崩壊後の失われた10年間、1994年から2005年の超・就職氷河期に就職活動を行った、現在主に25~35歳になる世代のことを言うそうだ。(以上、ネット情報より引用)

 この就職氷河期に社会に進出せざるを得なかった「ロスジェネ世代」とそれより少し前の「バブル入社期世代」を比較した興味深い記事が朝日新聞8月終盤頃に連載されていた。
 申し訳ないのだが、原左都子自身は両者共に経験していないもっと前の世代である。 しかも私の場合は医学分野の国家資格を取得することを条件として民間企業へ就職している。  それ故に「バブル入社期世代」「ロスジェネ世代」共に自分自身の実感が伴わない事実をまずはお詫びする。

 その上で、上記朝日新聞より「ロスジェネ世代」の言い分の一部を以下に要約して紹介しよう。
 いい学校からいい会社へという価値観がまだ根強い頃に育ったが、世に出る時にそのコースは成立しなくなっていた。さりとて、それに替わるライフモデルは見つからない。 こんなはずじゃなかった感が強いのがロスジェネの特徴だろう。 古い価値観にしがみついて恨み節ばかり、愚痴っぽいと思われたって「割を食った」という思いはやはり拭えない… 
 一方、ロスジェネ後の世代(おそらく我が娘の世代)の言い分としては、「現在はより状況が厳しい。割を食ったという思いは今の若者の現実とぶれている」
 今や若者と呼べなくなってきたロスジェネ世代だが、「お前たちには社会に対する疑問や反感という問題意識があるはずだ。世を変えていけるとすればお前たちなんだよ」と叫ぶ直木賞作家もいる…
 (以上、朝日新聞文化面連鎖記事「ぼくたちの失敗」より引用)


 何だか、何処の世代に於いても親の育て方こそが悪かったのではないかとの結論を出したいのが、原左都子の私論である。

 上記朝日新聞記事を読むと、時代を超えて子供とは実に親に従順であるとの結論に達するのだ。 愚かな親とて自分の親なんだねえ…
 例えば上記記事内にある文言を、今一度以下にコピーして紹介すると……
 < (我々ロスジェネ世代は)いい学校からいい会社へという価値観がまだ根強い頃に育ったが、世に出る時にそのコースは成立しなくなっていた。さりとてそれに替わるライフモデルは見つからない。 >
 ちょっと、ロスジェネ世代のあんたらねえ。
 親がそのような貧弱な価値観をあなた達に呈示したとて、大人になった自分自身が自ら価値観を変えライフモデルを見つける手立てが今の時代いくらでもあるだろうに…。 親の加護に甘えて生きて来た挙句今更恨み節を唱えるよりも、未だ30歳前後の世代ならば今後の人生を自分自身で切り開ける道程はいくらでも存在するはずだよ。


 原左都子自身はこの厳しい時代背景において、我が娘の近い将来の社会的自立を必ずや叶えてやるつもりだ。

 それは決して、いい学校いい会社へったくれの“社会迎合甘やかし政策”によるのではないぞ!
 そうではなく、本人が持って生まれた特質長所部分を今後も我が厳しい指導力により最大限に鍛え、花開かせ表出してやることにおいてである。