原左都子エッセイ集

時事等の社会問題から何気ない日常の出来事まで幅広くテーマを取り上げ、自己のオピニオンを綴り公開します。

葬儀に手間とカネをかける時代は終焉した

2012年09月03日 | 時事論評
 ここのところ我が身内年寄りと接する機会が多く、ついつい年寄りにまつわる話題を本エッセイ集にて取り上げてしまい恐縮である。


 無宗教の私としては元々自分自身の遠い将来(?)の葬儀に関してほとんど無頓着なのだが、もしも身内より先に急逝するようなことがあっても、我が葬儀に手数とカネをかけないようにとの意向は伝えてある。
 既にこの世に存在しない人間のために残された家族が無駄な労力を消費し浪費を重ねるよりも、その貴重な時間や資金を我が子の未来のために有効に使って欲しいと私は考えるからだ。 
 我が死の知らせに関しても、もし郷里の実母がまだ生きているなら事後連絡をしてくれればそれで十分であるし、その他の親族や知人等には一切知らせなくてよいとも伝言済みだ。

 と言うのも、そもそも訃報とは突然届く性質のものである。 それを受け取る側としては、正直言って“人騒がせ・迷惑”感が強いのが本音であり実情ではなかろうか?
 
 もちろん、どうしても出席したい通夜や葬儀もある。
 例えば原左都子の場合、今年3月にくも膜下出血により突然死を遂げた我が友の急逝の知らせが届いたのだが、これは私にとっては実に辛く大いなる喪失感を伴う痛手だった。 そういう場合に際しては、最後のお見送りをさせていただきたかったと私も思う。

 ところが少し前の時代に於いては、突然届く訃報のほとんどが故人生前にさほどの面識がないにもかかわらず、葬儀の“人集め”の性格が色濃かったものだ。(仕事関係や義理付き合い関係等) 
 一例を挙げると、我が子が幼少の頃励んでいた習い事の指導者氏より、ご自身の訃報ならばともかく一度たりとてお目にかかった事もない指導者氏のご亭主の訃報を受け取った事がある。「葬儀に出席願いたい」との電話伝言と共に…  ご亭主を亡くされた指導者氏のご心境の程はもちろん察するが、それにしても見知らぬ方の葬儀にのこのこと出席するのは如何なものか…  結局葬儀には出席しなかったが、それでも一旦訃報を受け取ると「香典」を送らねばならない。 その香典にいい大人が一筆添えない訳にはいかず、その手間を鬱陶しく感じたものだ。
 あるいは、娘が通っていた公立小学校の同級生のお父上が癌で急逝されたとの知らせをクラス担任から電話にて突然受け取った経験もある。 この対応にも難儀した。 我が娘が当該児童と仲がよかったならばともかく、娘に確認すると話をしたこともないとのことだ。 ましてや、私はそのお父上に一度たりとてお会いしたことがない。 これは葬儀出席を辞退させていただくべきと判断してその旨担任に伝えると、「香典のご負担はよろしいでしょうか?」と返してくる。 そこで思い切って私は担任に多少の喧嘩を売って出た。「もちろん香典負担は了承しますが、この公立小学校では在学児童家庭の個人的冠婚葬祭に学校が関与しているのですか?」 それに応えて担任曰く「はい、この地は都会にして地域の繋がりが強いため以前よりそのような慣習があります。もし辞退されても差し支えありません。」…… 


 話題が原左都子自身が過去に於いて受け取った訃報対応についつい飛んでしまったが、ここで親族身内の葬儀に話を戻そう。

 先だって8月末郷里に帰省した際、我が年老いた実母が言うには「私の葬儀は簡略でいい」との事だ。
 10年程前までは、まったく別の希望を私に要請していた母である。 (何分母の身近な親族と言えば娘である姉と私なのだが、我が姉は米国在住のため東京に住んでいる私こそが最速で郷里に駆けつけられる立場にある。) 
 その頃の母が私に曰く「葬儀に伴う費用に関しては私が全額負担するから、親族知人を出来るだけ沢山集めて盛大な葬儀を挙行して欲しい。」……
 その後10年の年月をかけて母を教育し続けた私である。 「今の時代、何のために葬儀に手間とカネをかけるのかを生前に自分でよく考慮するべきだ。 その葬儀費用を私に残して欲しいなどと絶対言うつもりはない。 でも、あなたも葬儀に関する信仰宗教などないはずた。 葬儀に際して誰がその親族知人を集めるのかと言えばそれは私の手間でしょ? 30数年前から都会に住み、今となっては郷里とはほとんど縁のない私にその作業を負担せよと言うのは実に過酷だよ。」…

 私が母を教育せずとも、過疎地田舎においても現在は葬儀の合理化が急速に進展している様子である。  さすがに母自身が日々それらの情報収集をして徐々に学習を積んできたようだ。 その結論が上記のごとく「葬儀は簡略形式で」との事に実に一安心の私である。 


 朝日新聞8月25日付文面に於いて、「葬儀に明朗会計の波」と題する記事が掲載されていた。 その報道によると、分かりにくいと評判の悪かった「葬儀」費用の明示化が現在進展しているとのことだ。
 葬儀とはこの記事によるがごとく「総額表示」が一般的であろう。 我が母の話によっても、12年前に挙行した郷里の我が父の葬儀もそうだったようだ。
 “はい、総額何百万円也です!”と葬儀会社から言われてそれを全額支払う遺族が我が母も含め現実的に存在するからこそ、葬儀請負企業が今まで成り立ったといういきさつなのであろう。

 それにしてももうそろそろ人の死に際し、経済界・宗教界等々各分野において時代に即した合理的な提案をするべき時である。


 「死後」ねえ。
 確かに私にとっても最高最大に未知の世界ではあるが、立派な葬儀を後世に強制したところで天国に昇天できる訳でもあるまい。

 まあ何の力もない私など、せいぜい余生を精一杯生き抜くことで生前死後のつじつまを合わせることにしたいものだ。