5月26日(月)朝日新聞夕刊のコラム「窓」において、論説委員が記した「貨幣愛のゆがみ」と題する論説記事が掲載されていた。
今回の論説記事を何度か読み返してみたのであるが、如何なる所得層の読者を対象として書かれた記事であるのか捉えにくいのだ。 どう考察しても一般庶民の読者を対象には書かれていないように私は判断する。
まさか、なけなしの所得の中からやっとこさ一部を捻出して、ちまちまと預貯金に回している一般庶民を批判することを趣旨とした記事ではないと信じたい。
まずは早速、この論説記事の内容を以下に要約してみよう。
日本では、それぞれの家計が持つ金融資産の総額が昨年末で1545兆円、うち現金預金は784兆円にもなる。これは世界でも突出して多い。
お金はあるに越したことはない。貨幣は富の効用を合理的に計算する重宝な尺度である。しかし問題も多い。このものさしが歪んでいるのは、他人の事や世の中の事より自分にかかわる事を大きめに測ってしまう点だ。将来を見通すときも、生身の個人の利己心が増幅されてしまう。
預金は「なにもしない」という逃げ道も提供する。預けてさえいれば元本は減らず、利息も付く。しかも使い道を決める難しい判断も避けられる。こんな貨幣への愛に流され過ぎると人間社会が時間をかけて進める営みの大切さを見落としてしまう。例えば、環境保護や少子化対策への投資だ。個人が自分のことに「合理的」になればなるほど、こうした投資が抑えられ事態は深刻になる。
行き過ぎた打算にはブレーキをかけるべきだ。貨幣愛が人々の思考や行動にもたらす歪みを正す知恵と想像力が求められる。
以上が、朝日新聞論説記事の要約である。
では、私論に入ろう。
まず、上記記事の中に記載されている家計における現金預金額総額784兆円を国民一人当たりの金額に計算すると、約650万円程になる。これは日本の総人口を1億2千万人として単純に割り算した値である。4人家族だと一家の現金預金額は約2600万円という計算になる。もちろん、もっと多額の現金預金を貯め込んでいるご家庭もあろう。
ところが、この金額を国民総数で平均した金額と各家庭の実態とを比較して一喜一憂することにはほとんど意味がないことは皆さん既にご承知であろう。なぜならば、各家庭間の所得格差は激しく、ごく一握りの超富裕層が巨額の現金預金を保有していることにより、全体の平均値を押し上げてしまうからである。
この論説が、上記のごく一握りの超富裕層を対象として書かれた記事であるのならば私もある程度納得できる。余剰資金を社会福祉等の投資に回さず、自己の利益のためだけに預金に回すのは歪んだ貨幣愛だとする論説者の見解にも一理はある。
ただ、そもそも経済とは貨幣が循環して成り立っているものである。 預金に回された貨幣とて経済活動の原資となり循環し、政権による歪みは大きいがゆくゆくは経済発展や社会福祉にもつながるべきものである。 家計における預金行為が“「なにもしない」という逃げ”であるとか、“個人が自分のことに合理的になった結果”であるとか、極めつけは“行き過ぎた打算”であるという論説はどのような発想から来るのか私には理解しかねるのだ。
そもそも預金(タンス預金も含めて)とは、一般庶民にとっては金融資産の中ではローリスクローリターンの一番安全な資金の運用法である。
一般庶民に貨幣愛もへったくれもあったものではない。万が一の疾病や傷害に備えるため、マイホーム購入資金の一部に充てるため、あるいは子どもの教育費のため、はたまた年金も満足にもらえない老後の生活資金のために、なけなしの所得の中から精一杯捻出して預金に回しているのが実態であろう。
この朝日新聞の記事は2点において過ちをしでかしている。その一点は経済活動における貨幣の循環性を無視している点である。そしてもう一点は朝日新聞一般読者の視点を見失っている点である。
朝日新聞が一般紙として生き残りたいのであれば、論説委員さん、もっと一般庶民の実生活に配慮した経済論説をされてはいかがか。
今回の論説記事を何度か読み返してみたのであるが、如何なる所得層の読者を対象として書かれた記事であるのか捉えにくいのだ。 どう考察しても一般庶民の読者を対象には書かれていないように私は判断する。
まさか、なけなしの所得の中からやっとこさ一部を捻出して、ちまちまと預貯金に回している一般庶民を批判することを趣旨とした記事ではないと信じたい。
まずは早速、この論説記事の内容を以下に要約してみよう。
日本では、それぞれの家計が持つ金融資産の総額が昨年末で1545兆円、うち現金預金は784兆円にもなる。これは世界でも突出して多い。
お金はあるに越したことはない。貨幣は富の効用を合理的に計算する重宝な尺度である。しかし問題も多い。このものさしが歪んでいるのは、他人の事や世の中の事より自分にかかわる事を大きめに測ってしまう点だ。将来を見通すときも、生身の個人の利己心が増幅されてしまう。
預金は「なにもしない」という逃げ道も提供する。預けてさえいれば元本は減らず、利息も付く。しかも使い道を決める難しい判断も避けられる。こんな貨幣への愛に流され過ぎると人間社会が時間をかけて進める営みの大切さを見落としてしまう。例えば、環境保護や少子化対策への投資だ。個人が自分のことに「合理的」になればなるほど、こうした投資が抑えられ事態は深刻になる。
行き過ぎた打算にはブレーキをかけるべきだ。貨幣愛が人々の思考や行動にもたらす歪みを正す知恵と想像力が求められる。
以上が、朝日新聞論説記事の要約である。
では、私論に入ろう。
まず、上記記事の中に記載されている家計における現金預金額総額784兆円を国民一人当たりの金額に計算すると、約650万円程になる。これは日本の総人口を1億2千万人として単純に割り算した値である。4人家族だと一家の現金預金額は約2600万円という計算になる。もちろん、もっと多額の現金預金を貯め込んでいるご家庭もあろう。
ところが、この金額を国民総数で平均した金額と各家庭の実態とを比較して一喜一憂することにはほとんど意味がないことは皆さん既にご承知であろう。なぜならば、各家庭間の所得格差は激しく、ごく一握りの超富裕層が巨額の現金預金を保有していることにより、全体の平均値を押し上げてしまうからである。
この論説が、上記のごく一握りの超富裕層を対象として書かれた記事であるのならば私もある程度納得できる。余剰資金を社会福祉等の投資に回さず、自己の利益のためだけに預金に回すのは歪んだ貨幣愛だとする論説者の見解にも一理はある。
ただ、そもそも経済とは貨幣が循環して成り立っているものである。 預金に回された貨幣とて経済活動の原資となり循環し、政権による歪みは大きいがゆくゆくは経済発展や社会福祉にもつながるべきものである。 家計における預金行為が“「なにもしない」という逃げ”であるとか、“個人が自分のことに合理的になった結果”であるとか、極めつけは“行き過ぎた打算”であるという論説はどのような発想から来るのか私には理解しかねるのだ。
そもそも預金(タンス預金も含めて)とは、一般庶民にとっては金融資産の中ではローリスクローリターンの一番安全な資金の運用法である。
一般庶民に貨幣愛もへったくれもあったものではない。万が一の疾病や傷害に備えるため、マイホーム購入資金の一部に充てるため、あるいは子どもの教育費のため、はたまた年金も満足にもらえない老後の生活資金のために、なけなしの所得の中から精一杯捻出して預金に回しているのが実態であろう。
この朝日新聞の記事は2点において過ちをしでかしている。その一点は経済活動における貨幣の循環性を無視している点である。そしてもう一点は朝日新聞一般読者の視点を見失っている点である。
朝日新聞が一般紙として生き残りたいのであれば、論説委員さん、もっと一般庶民の実生活に配慮した経済論説をされてはいかがか。