原左都子エッセイ集

時事等の社会問題から何気ない日常の出来事まで幅広くテーマを取り上げ、自己のオピニオンを綴り公開します。

「先生」と呼ばないで

2008年05月21日 | その他オピニオン
 とかく、人を呼ぶときの呼称や敬称というものは意外に難しいものである。
 例えば英語のように、呼称が比較的単純な原語の国ではさほど頭を悩ませることもないのであろうが、我らが日本語における呼称、敬称ほど複雑なものはない。


 現在、私が愛読している朝日新聞の「声」欄において、ご年配の方々への呼称である「おじいちゃん」「おばあちゃん」について論争が起きている。
 事の発端の投書は、見知らぬ他人から“おばあちゃん”と呼ばれるのは不愉快であるという趣旨であった。
 私自身はまだ“おばあちゃん”と呼ばれる年代には及んでおらず、当然呼ばれた経験もないのであるが、自分の孫から呼ばれるのならともかく、他人から“おばあちゃん”呼ばわりされる筋合いは何らない。これは確かに失礼な呼称であり、投書者のおっしゃる通りと私も同感である。

 同様に、子持ちの女性を“○○ちゃんのお母さん”という呼ぶのも一般的である。 これは私自身も経験してきている。母親同士や学校、幼稚園等の教職員からよく発せられる呼称である。子どもの事を話題に取り上げている場合にはこの呼称もさほど違和感はないのだが、子どもからまったく離れての大人同士の懇親の場面にこの呼称は不自然である。特に私など、子どもから離れた場所では母親としての自覚、意識があまりなく滅多に子どもの話題を出さない人間であるため、この呼称には大きな違和感がある。

 また、買い物などに行くと“奥さん”“奥様”呼ばわりもよくされる。普段から“奥さん”の自覚などさらさらない私は、ましてや一人で行動している時に勘弁してよ、としか言えないとんでもない呼称である。

 日本語において私の好きな呼称がある。それは名前の後に付ける“ちゃん”である。これは諸外国語に類を見ない日本語特有の呼称ではなかろうか。この“ちゃん”には何とも言えない愛らしさや、親しみを感じる。もちろん、見知らぬ人や目上の人には使用できない呼称であるが、それを裏返すと、この呼称を付けて呼べる相手というのは信頼関係の裏づけがある証拠ではなかろうか。

 話が職場に変わるが、私は過去において教員経験がある。学校の教員は一般的に“先生”と呼ばれている。教員以外に“先生”と呼ばれる職業と言えば、国会議員、医師、弁護士等々であろうか。
 実は私はこの“先生”の呼称(敬称)が昔から嫌いだ。端で聞いていてとにかくみっともないのだ。 教員の職場である学校において生徒が教員に対し“先生”と呼んだり、小学生位までの生徒に対し教員自らが自分のことを“先生”を付けて自称するのは役割認識上やむを得ないのかもしれない。 私が勤務していたのは高校であるのだが、生徒とさほど年齢が変わらない教員が生徒相手に“先生”と自称したり(教員の年齢にはかかわらない話だが)、生徒のいない場で教員同士で“先生”と呼び合うのを見て、不自然さや居心地の悪さを感じずにはいられなかったものである。
 私自身は教室でも職員室でも自称は“私”で貫いた。そして生徒に対しても、学校内ではともかく学校から一歩でも外へ出たら他の“先生”方のことはともかく、私のことを決して“先生”とは呼ばぬよう指導してきた。とにかくみっともない。例えば学校の帰りの混雑した駅等で遠くから生徒が「○○せんせ~~~い!!」と呼ぶ。一斉に皆が私に注目する。教員である事がバレバレである。プライバシーも何もあったものではないし、実はミニスカボディコンスーツ、ロン毛ソバージュのド派手な外見の教員だった(バックナンバー記事でも述べているが。)ため、「これで先コウかよ。」ごとくの周囲のジロジロと蔑んだ視線が一身に突き刺さってくる。 これは半分冗談であるとしても、“先生”という言葉から感じられる“おごり”の感覚が私は受け入れ難い。学校という教育現場において指導者たる者に“おごり”の感覚など無用である。教員も他の職場同様“さん”付けで十分かと私は考えるのだが如何なものか。
 この“先生”と同類の年長者に対する敬称として“親方”“親分”“師匠”等の日本語も存在するが、これらに対してはさほど抵抗感がないのは単なる私の嗜好上の問題であろうか。


 話を冒頭の“おばあちゃん”論議に戻すが、朝日新聞「声」欄の投書への反響として、例えば米国では女性への呼びかけとして年齢にかかわらず“レディ”を用いるという投書があった。これはとてもよい響きの呼称である。これに該当する日本語と言えば“ご婦人”とでもなるのであろうが、あまり一般的とは言えない。日本語にも“レディ”に該当するような年齢にかかわらず呼べる呼称が欲しいものである。

 さしあたって、知らない人に声をかける場合「すみません。」ぐらいでいいのかもしれない。
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公立大学の混乱

2008年05月19日 | 教育・学校
 私は過去において某公立大学、同大学院修士課程に合計6年間在籍し、有意義な学生生活を満喫し経営法学修士を取得している。
 その公立大学が今、法人化の波を受けて混乱しているという。

 先だって5月5日の朝日新聞朝刊教育面の記事によると、財政難にあえぐ自治体から予算を大幅に削られたり、法人化による影響で学内が混乱したりする公立大学が相次いでいるそうである。
 大学全入時代を迎え、国立大学も私立大学も生き残りに躍起になる中、公立大学の行くべき未来は如何にあるべきなのか。


 現在、公立大学は全国に75校あり、これは全大学の11、8%を占める。意外に多い数字である。このうち約半数が単科大学であるが、複数の学部を抱える公立大学も多い。また医学部のある公立大学も多く、附属病院を併設し市民の医療を担う役割も果たしている。
 これら公立大学のうち、本年度2008年4月に39校が法人化した。

 上記朝日新聞の記事によると、自治体の財政悪化により大学の予算の削減計画も進んでいるようだ。例えば、公立大学の中で最大の8学部を持つ大阪市立大学では、付属病院を除き人件費、物件費を06年から5年間で20%カットする計画が進んでいる。人件費削減の手段としては教授が退官しても補充せず短時間だけ教える“特任教授”を当てる等で対応し、その結果学内では専門科目が減る等の弊害が生じているそうである。 他の公立大学においても非常勤職員の採用増加による対応や海外出張旅費の予算カット等で経費削減を図っているという。
 このような自治体の財政悪化に伴う公立大学の予算削減は大学の教育力、研究力の質の低下に直結する忌々しき事態である。

 一方で、大学中心の街づくりにより公立大学に経済効果を期待する動きもある。市民向けの講座の開講や地元行事への教員や学生の参加を促す等、地域貢献を意識する公立大学は多い。
 某公立大学では市の人口3万2千人に対し、学生数3千人を全国から集めている。市民の約1割が公立大学の学生という計算だ。これだけの学生を集めるだけで年36億円の経済効果を市にもたらすという。この市では、5ヵ年計画のトップ項目として“大学中心の街づくり”を掲げている。地元の公立大学の存在を市政に活かした類稀な例である。地方の小規模な自治体ではこのような成功例もうなずける話である。
 
 また他方、自治体が多額の税金を投じたのに自治体に人材が残らないという問題点もあるようだ。ある県立大学では卒業生のうち県内に就職したのは1割に満たないという例もある。自治体が期待する公立大学が果たすべき使命である地元のための人材育成という観点と、グローバル化を目指す大学側の意向との間に大きな食い違いが生じている例である。
 
 公立大学を法人化するかどうかは自治体の判断に任せられているらしい。この春法人化した39校の大半は財政難に苦しむ自治体が不採算部門である大学を切り離すことを主目的に法人化されたものである。
 我が出身大学では、今回の自治体からの強引な法人化に際して任期制や年俸制の導入をめぐり教員側と自治体が対立し、大勢の教員が辞職する事態が起き混乱した経緯がある。(付け加えると、我が出身大学は以前、自治体の財政難により医学部のみを残し大学自体を潰そうという案が自治体から出された経緯さえあるのだ。卒業生にとって出身校が消えてなくなるというのは何とも寂しいものである。何とか生き延びてくれたようで私も胸を撫で下ろしていた矢先なのであるが…。)

 
 国民の所得格差が広がる中、公立大学は低所得層の進学先として重要性が増している。 この私も自活する勤労学生として当時6年間公立にて学んだ訳であるが、市民である学生への入学金減額等の特典措置を享受し学業に励んだ経緯がある。

 自治体からのある程度の独立性の確保の観点からは、大学にとって法人化は肯定される事象であろう。大学も経営手腕が問われる時代への突入である。
 一方で、基本的には大学とは学生のための学府であるべきだ。自治体の財政難による経費削減がもたらす教育力や研究力の低下は、今後に続く頭の痛い問題である。
   
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残した捨てゼリフ

2008年05月17日 | 音楽
 ♪追いかけてヨコハマ、あのひとが逃げる~、残した捨てゼリフに誰か、見覚えはありませんか~♪♪

 中島みゆき作詞作曲、桜田淳子が歌った“追いかけてヨコハマ”のさびの部分の歌詞である。


 さて、先週末に続きネットの動画の話をしよう。
 ネットの世界とは私のような年寄りはアッと驚くほど瞬時に移り変わる時間の次元に存在しているようだ。 昨日聴けていた曲が今日は配信停止になっている。おそらく著作権上の問題があり、著作権者から配信停止措置が取られるのであろう。

 上記の桜田淳子の“追いかけてヨコハマ”はどうやらまだ聴けるのだが、同時に楽しんでいた“リップスティック”が数日前から聴けなくなっている。 ♪紅く、紅く、紅く~♪♪ の曲である。
(ところが、本日確認したらまた聴けるようである。一体、どういうシステムなんだ??)


 ところで、今さら何でまた私のようないいおばさんが“桜田淳子”にはまっているのかと言うと、これが何とも魅力的で惹きつけられるのだ。
 元々は山口百恵を聴いていて、例の“芋づる式”で桜田淳子に入ったのだと思う。(何分カラオケ好きなもので、山口百恵あたりの前後20年程度の時代の曲はほぼ全曲歌えるのです…)

 山口百恵の動画を毎晩飽きるほど見聴きしていて気が付いたことがある。山口百恵の引退コンサート(おそらく武道館?)の影像があるのだが、当時このスーパースターの引退劇はひとつの社会現象とも言えるほどのトピックスであった。人気絶頂期の結婚による電撃引退であり、日本中を震撼させたものである。
 さて何に気が付いたのかと言うと、この引退コンサートのクライマックス「さよならの向こう側」を歌っている山口百恵の涙が嘘臭いのである。(ファンの方々から袋叩きに合いそうだが…。)何度影像を繰り返し見ても、私の目には涙がわざとらしくて鼻につく。どうも演出が過度であり、あのすべてにおいて超越しているがごとき山口百恵にして、華々しく去り行く勇姿を演じきれていないのだ。
 ついでに言うと、キャンディーズの“「普通の女の子に戻りたい」引退コンサート”の動画も見たのだが、これも山口百恵引退コンサート同様に3人娘が過度の演出を演じきれておらず、私の目にはわざとらしい。

 そんないきさつがあって山口百恵に少し愛想を尽かした私は、芋づる式で桜田淳子に乗り換えたというのがそもそものことの運びだ。

 実は私は桜田淳子に実際に会ったことがある。能登半島へ友人と旅行中に、デビュー後間もない頃の初々しいベレー帽時代の桜田淳子がたまたま取材の撮影中だったのに出くわした。その場には私たち2人と取材陣しかいないという場面で、よせばいいのに友人が桜田淳子に「サインして下さい!」と迫った。突然の事で戸惑った桜田淳子は即答は避けマネージャー(?)に相談し、そのマネージャーから「撮影中ですのでご遠慮下さい。」との回答が来た。 私は当時桜田淳子のファンでも何でもなかったのだが、まだ中学生(?)の桜田淳子がブラウン管で見るよりもはるかに小柄で華奢で美人だったという印象がある。

 そんな桜田淳子の、プロの歌手としてある程度経験を積んだ頃の“追いかけてヨコハマ”“リップスティック”あたりの影像がなかなかなのだ。
 この人は元々演技派であるようだが、このプロに徹した身のこなしが小気味良くて惚れ惚れする。その歌に入り込んでいる演技の徹し方が半端でないところがいいのだ。そして、今見ると何とも艶っぽい。現在の若手女性歌手達がやたらと露出してかえって色気が感じられないのと比較して、とても色っぽい。しかも歌唱力もある。
 その存在感は山口百恵とは全く異質なものである。当時は山口百恵の人気が爆発し過ぎていて桜田淳子の存在感が相対的に影を潜めていた感があるが、何の何の十分に輝ける存在である。プロとしての能力はこちらが上回っているのではないかと私は評価する。
 おそらく、半端ではない人間性なのであろう。 宗教団体の広告塔になって以降はピタリと姿を見せないのも、そんな徹底ぶりを物語っている。

 
 実はまだまだあるのだ。私の動画お気に入りアーチストが。またの機会に紹介することにしよう。
 (洋楽もクラシックも…♪ ジャンルを問わない音楽好きです。)
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むなしい若者

2008年05月15日 | その他オピニオン
 どうやら、現代の若者は“むなしい”らしい。
 いや、現代に限ったことではなく、昔から“若さ”とは虚無との闘いであるのかもしれない。

 5月10(土)朝日新聞夕刊「こころ」のページ“悩みのレッスン”の若者の悩みもこの“むなしさ”なのである。
 以下に、中学3年生の相談内容を要約する。
 この春中3になり高校受験の年であるが、勉強する気が全く起きない。自分には作家になりたいという夢があり、童話を書いたり物語を作るのが好きだ。だが、自分の夢の実現方法が分からず、勉強も手につかず、ただ流される毎日である。この1年をどう過ごせばよいのか。

 当ブログのバックナンバー記事「学問は虚無からの脱出」においても、この“悩みのレッスン”を取り上げた。前回の相談者は高校生だったが、悩みの内容が今回とほぼ同一だ。 小説家になりたい希望はあるが勉強をする意義が見出せない、という相談であった。
 この相談に対し、創作家の明川哲也氏が「ほぼすべての若者の対決は“生 vs 虚無”の構図にある。まず“虚無”を認識しそれに敗北することがスタートである。」という趣旨の回答を書かれていて、私見も同感であることは既述した。

 今回の相談の回答者は哲学者の永井均氏なのだが、その回答を以下に要約する。
 誰もがしなければいけない勉強などそんなにはない。 たぶん小学校の勉強だけで十分である。 与えられた勉強を与えられるがままにやれる人というのは、「順応主義的」といえるような特殊な才能があり、そうでない人には真似はできなくて当然である。ではどうするか。中学生ならばもう自分の「専攻」を持つべき。幸い、相談者は作家になるという夢があり、既に問題は解決されている。まず、真剣に本格的な作品を書き人に批評してもらったり、人の作品を読んだり、話の作り方や書き方の研究もしよう。そして自分の「むなしさ」についてその本質をつかみ作品化することも試そう。そのような自分にしかできない勉強を通じて、学校の勉強もはじめて自分のものとしてつかめるようになる。


 私論を述べる前に、自分自身の中学生時代を振り返ってみる。

 私の中学生活は至って多忙だった。なぜならば、私は(自分で言うのも何だが)勉強もよくする生徒だったのに加え、クラブ活動(今は部活と言うのか?)に没頭していたためだ。 ブラスバンド部に所属していたが、過去において全国優勝経験がある程の伝統ある部で、活動が大変厳しかったのだ。 毎日夕方6時頃まで、土曜の午後も、そして日祝日は終日練習、夏休みには合宿もあった。 加えて、中学校管轄自治体の市民バンド的な役割も果たしていて、市の各種行事、例えば消防出初式、成人式、駅の開通式、市内パレード、etc…にはいつも演奏隊として駆り出される。それに毎年定期演奏会に学校の文化祭での舞台、そして極めつけのコンクール出場と、年中行事が目白押しなのである。(表舞台に立つことを好んでいた私にとってはこれが快感で、大きな達成感を得たものである。) 中3の2学期までこれを頑張った。 合間に部の仲間とのコミュニケーション(帰りの寄り道等のチョイ悪行動)もこれまた楽しくてはずせない。 この過密スケジュールの中、私は高校受験勉強もそつなくこなし、第一志望校合格を見事ゲットした。 (一応、私の出身の都道府県では当時1、2位を争っていた名立たる高校なのだが…。当時も今も推薦入試など一切なく、自力での学科試験合格ゲットだった。)

 この通り、私の中学生時代は“むなしさ”を感じる暇など一切ない程忙しかった。
 ここから結論を短絡的に導くならば、虚無からの脱出の一番手っ取り早い方法は自分を過密スケジュールの中に置くことである。 過密とまではいかずとも、ある程度自分に負荷をかけることにより虚無を回避することは可能ではなかろうか。
 ただしその負荷が自分の意に沿わない事柄である場合は、当然長続きしないどころがかストレスばかりを食らうであろう。好きであるからこそ対象事象に没頭できるのだ。

 そういう観点から推測して、この相談者は本当にものを書くことが好きなのであろうか、という疑問符が私の頭をもたげる。 もしかしたらただ単に“作家”という職業に漠然とあこがれているだけなのかもしれない。ただ、まだ中学生の相談者にこの指摘は酷であるため、私論としてもとりあえずは永井氏の回答を支持する。 とにかく自分が好きだと思えることを行動に移してもっと掘り下げよう。 それを日々実行している間に、気が付いてみれば“虚無”から脱出でき、学校の勉強にも励んでいる自分がそこに存在しているかもしれない。


 それにしても若さとは“むなしさ”との闘いであり、それはごく自然で健全なことだとも思うけどね。
 えっ、年をとってもまだむなしいって? 今の時代、その気持ちもわかるよね…。
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能力別クラス編成を憂慮する

2008年05月13日 | 教育・学校
 中学生の我が子が通っている私立中学において、本年度から中3に限り能力別クラス編成制度が採用された。高校へは基本的に全員が内部進学のため、高校受験を経験しないことによる学力低下を阻止し、生徒全体の学力向上を図ろうとする狙いだ。

 現在、この能力別クラス編成を採用する学校は急増傾向にあるようだ。
 小学校においてすら、習熟度別学習と称して算数等一部の教科で能力別学習を採用している学校が今や一般的である。


 さて私事であるが、今年中3に進級した我が子がこの能力別(正確に言うと成績別)クラス編成の最上位クラスの所属となってしまった。こういう場合、通常は喜ぶ保護者が大多数なのであろう。ところが、我が家では親子共々頭を痛めてしまっている。なぜならば、最上位クラスにおける学習方法が我が子に合わないであろうことを懸念していたのだが、1ヶ月が経過した今、まさに嫌な予感が的中してしまっているためなのだ。

 成績が良いことを否定する訳ではない。良いに越したことはないのであろうが、学校における成績とはそもそもある一定時点の相対評価に過ぎない。この数字にこだわり過ぎると個性ある子ども個々の成長の観点からは先を誤る危険すらあると私は懸念するのだ。
 
 我が家の教育方針は子どもの全人格的な成長に重きを置くことにある。その中で学力という項目ももちろん重要な成長の要素ではある。この学力の伸びを判断するに当たって、目先の学校の成績もそのひとつの指針にはなるが、もっと広い視野で子どもの学力を捉えたいと私は考え、日々子供の教育指導に当たってきている。その指針とは席次や通知表の評価では決してなく、子どもが学習内容を真に理解できているがどうかなのである。これを、私なりの判断においてずっとチェックしてきている。

 学習において最重要なのは概念理解である。数学を例にとって話すと、公式というものがある。これを暗記する事はもちろん重要であるが、それに先立ち公式が成り立っている理屈を筋道立てて理解しておく事が肝心だ。
 つい先日も子どもが数学の因数分解の問題の答がどうしても合わないと言うので見てみると、単に公式を誤って暗記してしまっている。例えば簡単な例として、
(a+b)(a-b)  = aの二乗 - bの二乗(二乗の数字が出せず、すみません。)
という公式があるが、これは元の式を乗除加減の法則に従い順序立てて計算していくと誰でも簡単に導き出せる。
 ところが、計算の量をこなさせるために担当教員が早く公式を暗記するように指導したらしい。そのこと自体に問題がある訳ではないのだが、それを力不足の我が子が誤って暗記してしまったのである。
 そこで私は、初心に戻り公式を導く計算から何度もやり直させた。どうしてその公式が導かれたのかを理解することが暗記の近道であると、私は自分自身の学習経験から考えるからである。

 この概念理解学習は時間を要する作業であるかもしれない。丸暗記して計算をどんどんこなして計算力をつける方が、とりあえずの成績アップのための近道ではあろう。ただ、自分の確かな学力として長年定着させるためには、回り道ではあれ概念理解はかかせないのではなかろうか。


 さて能力別クラス編成の話に戻すが、我が子の学校の場合、最上位クラスはさらなる成績向上のために各教科共ドリルを他クラスより1冊増やし、早い話が「詰め込み教育」を行っているのである。これがそもそも私の教育理念に合わないし、加えてスローテンポで力不足の我が子にも向いていないのである。これを日々強制されてしまうと、我が子の場合は逆効果だ。案の定、もうオーバーフロー気味である。
 これでは我が子は潰されてしまう。何とか我が子の学習スタイルに合う方法で学習に取り組ませてやりたいのだが、学校の課題を無視する訳にもいかない。それで頭を痛めてしまっているのである。

 この連休も学校の大量の宿題をこなすのに精一杯で、行楽にも行けない。親子で趣味のバレエ公演も観たいのに…。やっと半日美術館へ行けただけである。こんな状態では、私が目指す全人格的成長は望めない。

 高校進学時は特進クラスの希望は出さないことを既に子どもと話し合った。後1年、何とかこの不健全な状況を耐え抜いて欲しいと今は願うばかりである。
 

 以上のように、能力別クラス編成は子どもの個性によっては大きなマイナスとなる場合もある。生徒全体の学力向上を目指すならば、成績別ではなく、学習タイプ別、学習環境別、すなわち生徒の学習への取り組み方の個性に応じたクラス編成が効果的なのではないかと私は考えるのだが…。
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