原左都子エッセイ集

時事等の社会問題から何気ない日常の出来事まで幅広くテーマを取り上げ、自己のオピニオンを綴り公開します。

今時電話使っているの?

2007年10月11日 | その他オピニオン
 皆さん、今時プライベートで電話って使っていますか?まだ電話で長話なんてしているのでしょうか?(携帯電話ではなく、普通の電話の話です。)
 
 私の場合、電話の発信に関しては事務的な用件以外はほとんど使用していない。着信に関してはこちらの意思通りにはいかないため、ナンバーディスプレイでバリアを張っている。
 通信手段が電話しかなかった頃から私はどうも電話は苦手だ。電話はいつも突然かかってくるからだ。突然の電話に今やっていることを中断させられるのが嫌なのである。良く言えば何事にも集中力があり、悪く言うと頭の切り替えが出来ないのだ。(要するにキャパシティがない自己中人間であり、融通が利かない頑固者なのだ。)呼び出し音が鳴ると何をさておいてもそそくさと電話に出る人が多いが、私にはアンビリーバブルな世界である。 そこで、ナンバーディスプレイに大いに頼り大事な電話以外は居留守を使ったりするのであるが、これはこれで良心の呵責を感じる小心者で手が付けられない。だから電話はほとほと嫌いだ。
 そもそも電話とは無礼な代物である。家に突然やって来てつかつかと勝手に上がり込まれているようなものだ。話し込む前に「今、時間大丈夫ですか?」と丁寧に尋ねて下さる方もいるが、家に突然訪問された場合「すみませんが、今度にしていただけますか。」とは言えても、なぜか電話ではそうは応えられないものだ。それでも、あまりにも話が長い場合、私は勇気を持って言う時もある。「申し訳ないけど、今から出かけるので続きは今度にしましょうか。」と。相手は「あっ、ごめんごめん。」とは言いながら、その後ぷっつり電話はないものだ。
 もっと始末が悪いのは“キャッチホン”などどいう代物だ。向こうからかけてきておいて、突然キャッチホンが作動し話が中断する。「あっ、ちょっと待ってて」なんて軽く言われてもこちらは冗談ではない。キャッチホンに慣れなかった頃は訳がわからず言われるままに待ったものだが、1時間ほど待たされたことがある。とんでもない話だ。それに懲りて、その後は必ず一旦電話を切ってかけ直すよう指示する。キャッチホンなどどいうあんな非常識なものがまだこの世に存在しているのだろうか?
 数年前、子どもの学校へ学校運営に関する意見書を提出したところ、学校長から突然、電話で返答が来たことがある。あれにも参った。突然のことで頭が回らず自分が書いた意見書の詳細部分が思い出せないのだ。きちんと議論したいのに、電話での返答とはアンフェアだ。文書には文書で応ずるのが常識ではなかろうか。
 こちらから発信して事務的な用件だけで済ませたいのに、長話されてしまい困惑する事もある。(誤解のないように付け加えるが、決して私は会話が嫌いなわけではなくむしろ好きな方だ。上記のごとくキャパシティがなく自己中人間のため、長話している場合でない時にそうなってしまうことに耐えられないのだ。)ところが、電話とは人間同士の1対1のコミュニケーションツールであるし、人間とは話す動物である以上電話の特性としてどうしてもそういう事態は避けられない。これを回避するため、相手がメールを使用している場合はメールを、そうでない場合はFAXを私は多用している。結果として電話はほとんどかけないことになり、通話料金が0円という月もある程だ。
 そんな私だが、唯一電話が有用な事がある。年老いた母が田舎で一人暮らしのため、ときどき電話でご機嫌伺いするのだ。これはやはり電話でないと駄目だ。長々と取りとめもない話を聞く事が今の私ができる唯一の親孝行である。

 という訳で、私にとっては今や電話は必需品とは言えない。通信手段が多様化している現在、皆さんにとっては電話ってどのような存在ですか?
 
 
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朝日新聞「相談室」論評

2007年10月08日 | その他オピニオン
 私は30年来の朝日新聞の愛読者である。朝日新聞なくして私の生活が成り立たないと言っても過言ではない。私のオピニオンの源として欠かせないアイテムのひとつである。
 加齢と共にお気に入りのジャンルが変わり行くのであるが、「社説」と読者のオピニオンの公表の場である「声」欄は毎日はずせない。その内容に我が意を得たりの思いであったり、時には反感をあおられて“馬鹿書くんじゃない!”と怒りつつ、自分とは異なる価値観に触れることも大いに刺激となり有意義な時間を過ごすのである。(堪忍袋の緒が切れる記事には、意見書を提出させていただいたりもする。残念ながら未だかって返答を頂戴したことはないが。)

 近年の朝日新聞のコラムの中で私がお気に入りなのは「相談室」である。これは相談者の各種相談に回答者が答えるというよくあるQ&Aのパターンのコラムではあるが、興味深いのは、回答者が数人いて皆さんそれぞれ個性的な方々でユニークな回答を書かれていることである。私は相談者の立場ではなく、回答者の立場でこの「相談室」を楽しませていただいている。
 その中でも、私は明川哲也氏の大ファンである。この「相談室」に出会うまで、私は「明川哲也(ドリアン助川)」のお名前位しか存じていなかった。ご回答から察する限り、明川さんは繊細なハートの持ち主でいらっしゃるのに心の大きい人物なのである。私はすっかりファンになってしまい、尊敬する人物は?と聞かれると「明川哲也」と応えることにしている程だ。 明川さんの回答は、いつも涙なくして読めない程私に感動を与えてくれる。なぜならば明川さんの場合、どんな相談であれまず相談者の人格を認めることが根底にあるからだ。 例えば、先だって30歳代の主婦から“聞き役になるつもりはないのにどういう訳か人から長話をされてしまい、後で自己嫌悪に陥るのだがどう対処すればよいか?”という趣旨の相談があった。この相談を読み私は、この主婦はキャパシティが大きく周りが安心して話せる人なのだと感じたのだが、明川さんも同様の回答をユーモアセンスたっぷりに書かれていらっしゃったように記憶している。(微妙なニュアンスがわかりにくいと思うので、是非実際の明川さんの回答をお読みいただきたい。)
 室井佑月氏もいい。相談内容にかかわらず室井さんの回答からは、“人間は一個人として自己を確立することが最優先”との一貫したポリシーが感じ取れる。これは私の信念と一致する。どのような相談であれ、「うだうだ悩んでないで、まずは自分を磨くべく努力しろよな。」とアドバイスされている。“よくぞ言ってくれた”の思いで、室井さんの回答を拝見すると私の心もスカッと晴れる。
 おすぎ氏は、辛口回答者である。一見厳し過ぎはしないかとも感じるのであるが、おすぎさんがすばらしいのは相談者の裏心をちゃんと見抜いているところである。先だっての40歳代主婦の相談は“自分はPTA役員として活躍していて大変やりがいがあるのに、夫はじめ家族がこれを嫌がるがどうすればよいか。”という趣旨だった。そもそも、PTA役員をはじめ立候補さえすれば誰でもなれる役員をやりたがる人達には共通の気質(簡単なことで自分は偉いんだと勘違いしてしまい、場が読めていないような…)があることを私も感じているのであるが、おすぎさんはその辺の裏心を見通した上で、本末転倒であると手厳しい回答をされていて私の胸のつかえもとれた。
 水道橋博士氏の回答には奥深い思慮がある。相談内容はうろ覚えであるが、先日の水道橋氏の回答における「学校」の解釈は私の考えと一致した。(当ブログ別章「不登校という選択肢」参照)
 「相談室」の編集者は相談内容に応じて、相談を適材適所にうまく回答者に配分しているようだ。明川さんには根がよさそうな人の相談、室井さんには多少軟弱な人の相談、おすぎさんには自分を正当化しているような裏心のありそうな相談…という風に。(違うでしょうか?)

 とにかく今後共楽しみにしておりますので、どうか内容の濃い「相談室」をお届け下さいね、朝日新聞の編集者さん。 
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本当にあった怖い話

2007年10月07日 | 雑記
 たまには息抜きも必要です。 ガラリと趣向を変えて、本当にあった怖い話でも書いてみましょう。


 B子はその時20歳代半ばであった。 携帯電話などまったく存在しない時代である。 B子は外見が派手で目立つタイプである。 仕事の帰りの時間が遅くなることが多く、その日も夜10時頃駅から自宅マンションへの帰路を足早に急いでいた。 普段人通りが多い場所なのだが、さすがにこの時間ともなると行き交う人もまばらである。 特に自宅マンションに近い道は人気(ひとけ)がまったくない。

 背後にひたひたと人が忍び寄っているのをB子は見逃してはいなかった。 警戒しつつも、次の角を曲がれば別々になることを期待していた。 ところが、次の角その次の角を曲がってもまだ、不気味にひたひたとついてくる。 自宅近くまで来たときB子は決死の勇をふるった。(自宅までついて来られては大変だ。)よせばいいのにB子は後ろを振り返り「何か用ですか!」と背後の人物(やはり男であった。)を怒鳴りつけたのだ。 相手は一瞬ひるんだものの、案の定逆切れしB子に襲い掛かろうとする。 こういうときのとっさの判断というのは大抵はずれる。 自宅マンションの近くだったため、血迷ったB子はマンションのエレベーターに乗り込みさえすれば逃げられるなどという、とんでもなく危険な方法を考え付いてしまい、我武者羅に走った。 相手は男だ。追いつくに決まっている。案の定マンションエレベーターのドアで男に追いつかれてしまい、もみ合いになった。 エレベーターの中の密室で二人になってしまってはもっと危ない。 B子は最後の力を振り絞りドアの外に出て、ありったけの大声で叫んだ。 「助けて!」「痴漢です!」 世の中は世知辛いものだ、誰も助けに来てはくれない。 と思っていたら、誰かが110番通報してくれたようだ。サイレンを鳴らしパトカーが近づく。 お陰で、男は一目散に逃げ去った。 B子はかすり傷程度で済んだ。


 この話が怖いのはこの後である。

 こういう事件があると誰しも心にトラウマが残ってしまい、人が皆悪漢に見え、しばらくは外出の度に怯えるものである。 B子とて例外ではないのだが、仕事に行かないわけにはいかず警戒しながら外を歩くことになる。

 事件の数日後、やはり夜遅く帰宅した時のことだ。 自宅の最寄り駅に降り立った時、ちょうど同じマンションの同階に住む住人の男性を見かけた。 普段まれに見かける程度でつきあいはまったくないのだが、B子としては藁にもすがる思いだ。 いっしょに帰ってもらおうと思い、B子はその男性に話しかけ男性も応じてくれいっしょに帰路を歩いた。 道中、B子はその事件のお陰で大変な思いをしたこと、今でも不安なことなどを語っているうち、自宅マンションに着いた。いっしょにエレベーターに乗って同階で降り、B子は男性にお礼を言って別れた。

 その直後、B子はその男性の後姿を見て身の毛がよだつ。

 な、なんと、そのうしろ姿があの時の男にそっくりなのだ
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癌は突然やって来る

2007年10月05日 | 医学・医療・介護
 私が利用させていただいているこのブログのgooもピンクリボンキャンペーンに協賛されているようである。
 現在、癌は日本人の死亡原因の第一位を占めているようだ。とは言っても、自分や身内や近親者が癌に罹患しない限り、他人事と考えている人が今なお多いのではなかろうか。 ところが、癌とは本当に突然やって来るものなのだ。

 実はこの私にも癌が突然やって来た。私の場合、医学関係の仕事をしていたこともあってある程度自分の体の状態が客観的に把握できるため、突然と言うには少しニュアンスが違うのだが、そんな私にとっても癌との対面はやはり人生において忘れることはない大きな出来事であった。
 癌と診断される8年も前のある日、私の頭に突然“できもの”が出現した。痛くも痒くもないのだが何日たっても消えない。不気味に思い、健診時に医師に相談したところ「粉瘤」であろうとの診断である。私もその類のものではないかと自己診断していたため多少は気にしつつも“できもの”に特に変化はなく年月が流れた。 子どもが1歳の頃、その“できもの”が徐々に大きくなっていくのに私は怯えながらも、母親として育児を最優先し自分の事は後回しにしているうちに、子どもが2歳になり少し手が離れた。その“できもの”の大きくなり方が尋常ではないため、私は思い切って近くの皮膚科を受診した。案の定、直ぐに大学病院を紹介され、その大学病院にて“できもの”の組織を切り取り細胞診の結果を待った。その3週間後の夜10時半頃担当医から突然自宅に電話があり、次の日の午前中に必ず病院まで来るようにとの指示があった。あの電話のことは今でも生々しく憶えている。私はその電話で既に癌であることを悟り、生まれて初めて「死」を意識した。ところが、私は自分でも不思議なくらい至って穏やかなのだ。なぜならば、死を意識した瞬間に「いい人生だった」と思えたからである。(何分、類を見ないほど自分のやりたいことを最優先して自分勝手に生きてきたもので…。) いち早く、その電話の事と私の「いい人生だった」との思いを親しい知人に話したところ、知人からこっ酷く叱られた。「馬鹿なことを言ってるんじゃない。あなたにはこれから子どもを育てていく義務がある!」と。その知人の愛情が心にしみて、私は初めてぼろぼろ涙を流した。 それでも、死を意識した瞬間に「いい人生だった」と思えたことが、その後の私の癌闘病生活の大きな支えとなる。
 入院後、癌周辺組織の摘出手術を受け私は順調に回復し、見舞ってくれた友人に“明るい癌患者”と名付けられる程生き生きとしていた。2週間後には退院できると喜んでいた時、突然担当医が抗癌剤投与を告げるのだ。私は自分の癌について医学書を熟読し十分な知識を得てから入院しており、担当医とも出来る限り話し合って治療に臨んでいた。私の癌に特異的に作用する抗癌剤はその時点では開発されていないはずで、抗癌剤投与はしないことを話し合っていたのに、突然の変更に私は大きく動揺した。抗癌剤はご存知のように癌細胞を攻撃する薬であるのだが、正常な細胞までも攻撃してしまう、すなわち副作用が大変強い薬なのである。私は投与を中止するよう担当医に交渉したのだが聞き入れてもらえず、早速抗癌剤投与が始まってしまった。これが予想通りの大打撃で、投与の度に発熱して体が手に取るように弱っていくのだ。手術後はあれだけ元気だったのに、抗癌剤のせいで私は一転して“癌患者らしく”なってしまった。人間というものは体が弱ると心まで弱気になり悲観的になるものだとつくづく学習させられることになる。人にも会いたくなくなりせっかくの見舞い客の対応が苦痛になった。1週間のみ限定投与の条件を付けたので、この苦しみを私はとにかく1週間我慢した。担当医はこの約束は守ってくれ、投与終了後退院の運びとなった。入院前にはピンピンしていた体が抗癌剤のせいで弱りきっての退院である。
 退院後は定期的な通院となるわけであるが、育児の日常が待ち構えており私はみるみる回復した。ただ、抗癌剤による後遺症の抜け毛が半年程続き、手術の置き土産の傷跡は一生残ることとなる。それでも術後11年が経過した今、私は再発、転移もなくこの通り普通に生きている。
 近年は癌検診の精度も上昇し、癌治療5年後の生存率も驚異的に上昇しているらしい。昨日のニュース報道によると、病院ごとの癌治療生存率さえ公表される時代に突入しているようである。癌患者にとってはすべて吉報ではある。ただ、癌の遺伝的要因に関しては研究が進んでいるものの、未だにその発症原因が不明の疾患でもある。それ故に治療法もまだまだ確立されたとは言い難い。 癌はやはり突然襲ってくる病気であることには変わりはない。少なくとも今後共、癌に突然襲われた癌患者やその家族が医師と対話しつつ治療に臨めることを、私は祈るばかりである。
  
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パーコン

2007年10月04日 | 仕事・就職
 「パーコン」って懐かしい言葉なのですが、皆さん覚えていらっしゃいますか?
えっ?「パーソナルコンピューター」ですって?? 確かにそれも「パーコン」ですが、今回私がテーマに掲げたのは「パーティコンパニオン」の方です。 この言葉の語源はおそらく1970年の大阪万博の「コンパニオン」に由来するものと思われます。 大阪万博以来、この「コンパニオン」という言葉が多方面で濫用されたようですね、銀座のホステスから巷のイベントスタッフに至るまで幅広く…。女性がコスチュームを着て女性であることをアピールしながら媚を売る仕事の総称として、この「コンパニオン」という言葉は一世を風靡した模様です。バブル期に入ると「パーティコンパニオン」が引く手あまたとなりました。時代が流れ今や死語と化しており、若い世代の方々は誰もご存じないものと思われ私など少々寂しく感じるのですが…。

 何を隠そう、私もこの「パーコン(パーティコンパニオン)」にチャレンジしたことがあるのだ。
 私は30歳を過ぎた頃、自らの意思で再び学生となった。大学院修了までの6年間独り身で学業に励んだのであるが、自力で生計を立てつつ学業に没頭するためには、手っ取り早く稼げる仕事を選択するのが一番の方策であった。 民間企業勤務中に既に購入していた分譲マンションの住宅ローンもまだほとんど未返済であった。 学校の長期休暇にはそれまでの自分の専門の医学分野の人材派遣で集中的に稼ぎ、普段平日には家庭教師をし、土日祝日にはワープロのデモンストレーター等単発の仕事で収入を得、そしてその合間に「パーコン」にもチャレンジし…、とにかくがむしゃらに稼ぎまくった。

 今から20年ほど前、すなわちまさにバブル期の話であるが、その頃「パーコン」は既に女子大生のアルバイトのひとつとしてそう珍しくもなかった。ただ、国公立の学生の間ではまだポピュラーではなかったようである。(ちなみに、私は幼稚園から大学院まで私立には一度も通ったことはない。私立の教員はしたことがあるが。)
 私はごく一部の親しい友人以外には極秘で、この「パーコン」に挑んでいた。
 ある日の授業で、何を思ったのか担当講師が唐突に「パーコン」の話をし始めるではないか。「私立女子学生の中にはパーティコンパニオンなどどいういかがわしいアルバイトをしている不届き者がいるらしい。まさか、本学ではそんな浅はかな学生はいないと思うが、いったい今時の女子学生は何を考えているのやら嘆かわしい…。」という趣旨の話を始めるのだ。私は一瞬冷や汗ものではあった。が、黙って聞いていると話はどんどんエスカレートする。「芸者には一応芸があるが、パーコンには芸も脳もない。馬鹿でもできるからと言って何も考えずにあんな事を続けていると堕落の一途だ。くれぐれも皆さんは安易なアルバイトをして堕落しないように、云々…。」 (おいおい、ちょっと待てよ、パーコンの内情も知らないでそりゃいくらなんでも言い過ぎだろ。だいたい、大学の講師たる者がこんな職業差別発言をしていいのかよ。あんたさあ、よっぽど質の悪いパーコンにしかお世話になっていないんじゃないの?) 私の場合、学生とはいえ30過ぎていて既に社会経験を積んでいるし、自活のためにやっているし、学業成績も優秀で表向きは模範的な学生であるし、文句言われる筋合いはないさ…。と気を持ち直しはしたものの、この講師の世間知らずぶりに私は呆れるばかりであった。

 私も30歳代で学生などしたお陰で、様々な仕事にチャレンジできいろいろな世界に足を突っ込めた訳であるが、楽で安易な仕事など何一つない。その中でも「パーコン」はとても厳しい仕事のひとつと記憶している。
 パーコンには事前研修もあるようだが、私は学生であったためか研修を経ずいきなり本番の仕事に臨んだ。私の場合、赤坂、六本木周辺のホテルでの仕事が多かった。実働はほぼ2時間であるが、事前準備に時間がかかる。まずは、バンケット会社(パーコンの派遣会社)の直営美容室で髪を結う。そしてバンケット会社で衣裳を受け取り、現地へ向かう。現地で着替えの後、グループリーダーの化粧やヘアスタイル、衣裳の着方等全身に及ぶ厳しいチェックがあるのだ。それを通過すると、いよいよ本番だ。まずは全員でお客様を出迎えるため、会場入り口に一列に整列する。(パーコンは見た目が良いようにグループごとに身長をそろえるらしい。)その後会場でのサービスが始まる。
 確かに「パーコン」には技や芸は要求されない。 要求されるのは“華”“気品”そして“おもてなしの心”(NHKの「どんど晴れ」のようだが)である。 むしろ、これらは技や芸より大変なことなのだ。どんなに疲れていても顔を塗りたくり、さっそうと姿勢を正し、笑顔でいなくてはならない。 “おもてなし”という仕事は、場を読み、相手の心のうちを察っする細やかな心配りが要求される。報酬の高い仕事であったが、その報酬に見合った能力や資質が必要とされる仕事なのだ。
 何事も実際に経験した者でなければその内情はわからない。安易に人の職業を見下すのはやめましょうね、講師の先生。

 とにもかくにも、「パーコン」は私の貴重な試行錯誤の一ページである。