原左都子エッセイ集

時事等の社会問題から何気ない日常の出来事まで幅広くテーマを取り上げ、自己のオピニオンを綴り公開します。

私は病院へ行かない

2007年10月19日 | 医学・医療・介護
 善良な市民の皆さんにはくれぐれも真似をしないでいただきたいのだが、私の健康法のひとつは“病院へ行かない”ことである。とは言っても、手術や投薬等の医療的処置をしなければ治らない病気の場合と、自己診断が不能な場合は必ず行く。(さすがに癌の時には自分でも癌を疑い病院へ行ったことは、当ブログ別章「癌は突然やってくる」で既に述べた。) 要するに、自己診断が可能で自然治癒する病気と、自然治癒はせず医療的処置をしても治らないが命には別状のない病気の場合は行かないという意味である。 一方、歯に関しては自然治癒ということはあり得ないため、これも行く。(歯科が大の苦手でとことん悪化してからでないと行かないため、私の歯はぼろぼろである。ミュージシャンのRUさんは自分で歯を抜くらしいが、今度是非その方法を伝授いただきたいものだ。)
 歯科以外では、今から10年程前に帯状疱疹を患い病院へ行ったことがある。この時も自己診断は既にしていて自然治癒するとも予測していたが、癌手術後の通院中だったため念のために病院へ行った。処方された薬は副作用が強いため結局飲まず自然治癒に任せたところ、間もなく治癒した。 5年ほど前、喉の違和感と音声が聞き取りにくい症状があった時にも耳鼻科を受診した。この時もプレ更年期の神経的一症状との自己診断はしていたのだが、やはり癌の転移をほんの少し懸念しての受診であった。結局自己診断は正しかったようで、今もたまに症状は出るが大事には至っていない。 その後は、インフルエンザの時も、ノロウィルス感染の時にも自己診断の上、病院へは行かず自然治癒に頼り無事完治している。
 私がなぜ病院へ行かないのかというと、第一の理由は私は元医学関係者のため、上記のごとく自分の体の状態に関してある程度の客観的な自己診断が可能なためである。(こんなことを書くと、現医学関係者から中途半端な知識での自己診断は禁物と批判されそうである。ごめんなさい、おっしゃる通りなのだが今回はどうか見逃していただきたい。) 次の理由は、病院、医師と一概に言ってもその能力格差の程は皆さんもご存知の通りであるためである。運悪く、いわゆる藪医者にかかってしまうと大変な事になる。(私の場合藪か否かの判断がつくためまだ何とかなるが、そうでない人にとっては医者にかかるのもさぞ命がけであろう。)昨今は日本においてもやっと医療ミスが摘発されはじめ、訴訟問題に発展するのが日常茶飯事となってきている。医療機関や医師の能力格差が今後縮小していくことに期待したい。
 病院の果たす役割は医療行為である。すなわち、医師による問診をはじめ、諸検査及び投薬が医療行為の中心的役割をなす。その中でも現在の医療において中核をなしているのは検査と投薬である。この両者が“諸刃の剣”である事は皆さんも既にご存知の通りである。
 私の周りにも、病院へ行って検査、投薬を受けたがために病気が重くなったり、他の病気まで併発してしまっている人が多いのだ。 例えば、ほんの少しの腹痛のため病院へ行って諸検査を受けたがためにたまたま「胆石」が見つかり(くれぐれも助言するが「胆石」と一言で言ってもその症状は軽症から重症まで千差万別なので、必ず主治医の指示に従って欲しい。)、軽症だったため胆石を温存して様子見していればよかったにもかかわらず、自分の体の中に“異物”(正確には異物ではない)があることに耐えられず、その後神経を病んだ人もいる。 また、高血圧症を指摘され薬剤投与となり(高血圧の薬剤投与は長期に及ぶのに加え、副作用が強い。)本来の高血圧症状よりむしろ副作用で日夜苦しんでいる人もいる。こうなってしまうと、その後の医療的対応は大変困難である。主治医が患者よりも若い場合がほとんどで医師ご自身がその疾患の経験がなく、患者やその家族の真の苦しみが理解し難い場合が多いのではないかとも察する。
 上記のように、医療行為が新たな疾患を呼び起こしている症例を私は日々目の当たりにしている。実はこれが私が病院へ行かない真の理由である。やはり、病気になる前の自己健康管理が第一の特効薬である。 現在、医療も急激に進化していることは垣間見れる。どうか今後共患者の身になった医療の発展が志されることに期待したいものである。いわんや、善良な市民の皆さん、病気になってから医療機関に頼ればどうにかなるという発想ではなく、日頃から自分の健康は自分で守りましょう。
 
 

朝日新聞 池上彰の「新聞ななめ読み」論評

2007年10月16日 | 時事論評
 朝日新聞月曜夕刊に何ヶ月程前からであったか詳細の記憶がないのであるが、池上彰氏が「新聞ななめ読み」と題するコラムを連載されていらっしゃる。この池上氏とやら、私の記憶によると元NHKの報道記者か何かをしていらっしゃった方ではなかろうか。(私の記憶違いなら失礼をお許し下さい。)もっと失礼ではあるのだが、もうお年のせいか、あるいはフリーになられてから(?)良い仕事に恵まれていらっしゃらないのかと推測申し上げる。と言うのも、朝日新聞の愛読者の私にとってはこのコラム、相当時代錯誤の、さしてインパクトの無いエッセイばかりが毎週綴られており、正直申し上げて物足りなく印象の薄い記事のひとつであるためだ。
 さて、何を悪あがきしていらっしゃるのか、こともあろうに池上さんは今週のこのコラムで沢尻エリカを取り上げているのだ。しかも、表題が「もはや社会現象でしょう」ときている。そして、「テレビはNHKだけ、新聞は朝日新聞だけという人にはわからない話だと思うので念のため騒動をおさらいしておきましょう」とまで書いてしまった…。どっ、どっ、どうしたんだ!
 私もこの池上さんのおっしゃるところの「NHKと朝日新聞」に特化している人種であることは認める。が、ちょっと待って欲しい、池上さん。これだけ情報が氾濫している今の時代、本人が欲しなくとも情報は暴力的に向こうから押し寄せてくるものだ。今回の沢尻エリカ騒動、私だって知りたくもないのに重々知っている。知ってはいるが人の興味とは千差万別なのである。たかが一人の小娘が悪態ついたごとくのじゃれごとに興味を持てと、たとえ国家権力から強制されても、興味がないものはどうしても興味がないのだ。
 何ですって? 何でこんな“社会現象”を朝日新聞がとりあげなかったのかですって?沢尻エリカ騒動を朝日新聞が取り上げなかったから「朝日新聞はお高くとまっている」ですって?「朝日新聞ならではの切り口で(この沢尻エリカの悪態を)社会批評して見せるのが新聞の役割」ですって?「遅ればせながら数日後の夕刊に記事が載るようなことでは読者の新聞離れは加速する」ですって?
 勘弁して下さいよ、池上さん。あなたが沢尻エリカのファンだか何だかは存じないが、沢尻エリカのファンだってこんなじゃれごと、もう忘れ去った話ですよ。何でこんなくだらないことが「社会現象」たり得るのか、もう少し冷静に考えてからコラムを書かれてはどうなのか。
 朝日新聞も朝日新聞だ。(でかでかと写真まで掲載して、沢尻エリカの所属事務所と癒着でもあるのか?)誰が考えてもこんなたわごとが「社会現象」たり得ないのは明白な事実である。どうせ、それを承知の上で私のような反論をあおり、点数稼ぎしようとたくらんでいるのは見え見えだ。が、それにしても今回のこのコラムの内容、お粗末過ぎはしないか。
 池上さんのお言葉を拝借するが、元NHK報道記者の名ばかりに頼りこんな陳腐な内容のコラムを連載し続け、朝日新聞の本来の切り口を忘れてしまっては、読者の期待に応えられず読者の朝日新聞離れは加速しますよ、朝日新聞さん。
 
 
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エロコメントを送って下さる方へ

2007年10月15日 | お知らせ
 50歳を過ぎて更年期真っ最中の私が綴るこんな“気難しい”ブログにまで、どういう訳かエロコメントをいただく。お送り下さっている方には、いつもいつも即時削除させていただき申し訳ない次第である。
 私は、常々大きな心で皆さんのコメントやトラックバックをお待ち申し上げているのであるが、エロコメントとて例外ではない。ところがどうしたことか、お送りいただくエロコメントのすべてが高齢者の私には読解不能なのだ。すべて暗号のような文章なのである。持ち前の洞察力でエロコメントであろうことは何とか察するのであるが、残念ながら主張論点が読み取れない。何か、その業界や仲間内での申し合わせでもあるのであろうか。
 私のブログをお読み下さればおわかりいただけるように、当ブログはオピニオンの公開を趣旨としている。上記のごとく“エロ”とてその例外ではなく、我がオピニオン展開の対象とするべくアンテナをはっている。にもかかわらず、こうも読解不能だと分析に苦慮するばかりで削除させていただくしかない。
 どうか、せっかく当ブログにコメントをいただけるのであれば、せめて私のような高齢者にも読解可能なものをお願いしたい。そして願わくば、たとえエロの世界であれ文化の香りのする格調高いコメントをお願いしたいものである。
 
 
 

トラックバックを送られる方へ

2007年10月14日 | 教育・学校
 当ブログでは、コメント、トラックバックともに大歓迎です。賛同意見はもちろん、異論、反論、何でもどんどんお寄せ下さい。読者の皆さんとブログ上で議論できますことを日々楽しみに、記事を作成しております。
 
 一点だけ、お願いがある。特に、当ブログの教育問題に関する記事にトラックバックを送信される場合、くれぐれもブログを熟読してからご送信いただきたいのである。塾、家庭教師業界(と推測する。)からトラックバックをいただいた事が何回かあるが、記事の論点の趣旨にまったく沿わないものばかりなのだ。コメントとしていただいたならば、その場で議論したり趣旨に沿っていない旨指摘できるのだが、トラックバックの場合そうはいかないため、申し訳ないが削除させていただくしかない。
 例えば、別章「横並び教育の所産」において、私は現在の学校の横並び教育を批判した。が、熟読いただければ一目瞭然なのだが、決して偏差値によりランク付けせよ、とは一言も述べていない。私は、“自然発生的な競争”にさえ耐えられない子どもを育ててしまっている学校の現状を批判したのだ。偏差値でのランク付け等“人為的な競争”は当然排除されるべきだと、私は完全否定している。“自然発生的な競争”と“人為的な競争”をくれぐれも混同しないで欲しい。教育産業たる方々が肝心な論点をよく読み抜いていただきたいものだ。
 ましてや、私は“優等生”の輩出などという取るに足りない教育を、まかり間違っても目指してはいない。そもそも“優等生”って何なんだ。愚かな大人が創り上げた実体の無い虚像でしかない。別章「塾の教育力のレベル」においては塾の偏差値偏重を批判し、愚かな親が信念もなく子どもを塾に通わせている実態を嘆き、塾に真の意味での教育力を身につけるべく精進するよう促している。こんな当ブログに、偏差値偏重主義の塾、家庭教師業界の宣伝をトラックバックするというちぐはぐが生じるのは、熟読していただいていない証拠である。(教育産業の中には教育に関する考え方が私と近い組織もあるかもしれないため、一概にトラックバックを拒否する訳ではない。)

 教育産業の方々、くれぐれも上記のような的外れとならないよう、トラックバックの送信は本文を熟読の上慎重にお願い申し上げたいものである。(可能ならば、コメントでお願いしたい。)

個人情報保護法と学校の緊急電話連絡網

2007年10月12日 | 教育・学校
 子どもを学校に通わせるようになって、現在の学校の諸制度や諸手続きにおいて保護者にとっては厄介で手を煩わされる事柄が多いことを実感している。
 その最たるものが「緊急電話連絡網」ではなかろうか。

 個人情報保護法が施行されて以降は、学校もようやくこの緊急電話連絡網の運用において細心の注意を払い始めたようである。 が、それ以前はこの緊急電話連絡網の運用は野放し状態であり、その濫用には閉口するばかりであった。

 最も多い濫用はPTA役員からの連絡である。 このケースがなぜ「濫用」に該当するかにつき理解していない教員やPTA役員が多いため、ここで説明しよう。
 学校の電話連絡網は通常、新年度当初に保護者が記載して提出した生徒調書から転記して作成される。 この生徒調書は極秘文書である。 そもそも、この文書から保護者に無断で電話番号等個人情報を転用して連絡網を作成、配布すること自体、法的に大きな問題をはらんでいるのであるが、現在どこの小中学校においても「緊急電話連絡網」の作成が慣行となっている以上、ここでは不本意ではあるが目をつぶることにする。
 次に、学校とPTAとは法律上の組織が異なる。(学校要覧等で学校の組織図をご覧いただきたい。)学校によってはPTAを学校の下位組織と位置づけ学校長を最高責任者としている例もあるが、多くの場合はPTAは学校とは別組織となっている。故に、学校が作成した連絡網をPTAが発動することは、法的には「濫用」に該当するのだ。

 しかもそのPTAの連絡網濫用の内容と言えば、重要性が乏しくくだらないものばかりだ。 茶話会のお知らせ、先生への謝礼(だいたい、公務員が公然と保護者から謝礼もらって法的に問題ないの~?)について、等々…。 そしてすべてが文書にて連絡済の通達事項の念押しである。 PTA役員にとっては、電話で連絡を回すことにより保護者皆がそれに従うため偉くなったような気分にでもなるのであろうが、電話を回される方はたまったものではない。

 担任からの連絡網濫用も経験した。 文書にて配布済みの通達事項に担任の記載ミスがあり、それの訂正のため連絡網が回ってきたことがある。 さすがに私は堪忍袋の緒が切れ夜9時半頃であったが担任の自宅に電話し、連絡網の濫用である旨抗議した。まず、担任は「こんなに遅い時間に連絡網が回っているのか。」と驚いた。 夕方、学校から連絡網を発令したらしい。 教員が連絡網の実態を把握していないことにも落胆するのだが、保護者は皆それぞれに多忙で連絡網が迷惑な存在であることも露知らず、皆電話の前で学校の連絡網を待っているとでも思っているのであろうか。 私はひるまず訴えた。「自分の仕事上のミスを保護者の手を煩わせて穴埋めしようなどという考えはもっての外だ。 自分のミスは自分で後始末しろ! そんな甘い考えだから教員はじめ公務員は非難されるのだ。 こんなことを民間企業でやったら即リストラだ、あんたが思っているほど世の中甘くない!」と熱くまくし立てた。 
 (数日後、言い過ぎたことを謝ったが…。) その担任、多少考えの甘いところはあるが子ども思いのいい先生で、学校運営に関する考え方も私と共通していた。 それでもこういう濫用を何も考えずに軽はずみにする無神経さを、私は叩き直したいのだ。

 保護者個人による濫用もある。 私が経験したのは、自分の仕事のセールス、自分が信仰している新興宗教への勧誘などだ。
 外部組織や個人による濫用は皆さんも経験されていることであろう。 塾や家庭教師団体からの学校の電話連絡網濫用は日常茶飯事である。 私は、この手の電話セールスの場合、必ず個人情報をどこから入手したのか確認し個人情報の濫用である旨釘をさす。

 最近、このような見解を個人情報保護の過剰反応だと警戒する世論もあるようだ。 が、過剰反応だと騒いでいるのは学校やPTA役員等、大抵は個人情報の発信側だ。 自分の都合に合わせて個人情報保護法を解釈することは避けるべきである。

 誤解しないでいただきたいが、決して私は学校の緊急電話連絡網の存在自体を完全否定している訳ではない。 
 学校の緊急連絡網とは天災地変、事件事故等その名の通り「緊急」時(すなわち子どもの身に危険が及んだ時)に学校の最高責任者である学校長の責任において発令されるべき性質のものであるはずだ。
 これが濫用ばかりされ“狼少年物語”と化し、緊急連絡網としての使命が果たせず、救うべき時に子どもを救えないという事態となってしまうことを私は憂えるのである。 
 
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