原左都子エッセイ集

時事等の社会問題から何気ない日常の出来事まで幅広くテーマを取り上げ、自己のオピニオンを綴り公開します。

再掲載 「23年前の大震災発生直後に献身的に動いた医療ボランティア」

2020年01月17日 | 時事論評
 今日は何だか慌ただしく過ごしてしまい、本日が「阪神淡路大震災」発生より25周年目に当たる日であることをすっかり忘却していた。


 実は私は2年前頃の当時、当該gooブログに於いて関西地方にお住まいの某臨床医師先生とネット上にてお付き合いがあった。

 その臨床医先生が、(2018.01.17)、阪神・淡路大震災の発生から23年目を迎えたその日に。
 タイムリーに、gooブログ上に阪神・淡路大震災関連記事を公開されていた。


 以下に、そのブログ内容を私なりに解釈した文章を再掲載させて頂こう。

 関西地方で医師・大学院講師をされているM氏(とさせていただく)が、23年前の大震災発生直後に医療ボランティアとして活動された記載を公開されていた。
 この私も過去に医学経験があるものの、臨床経験(医療現場勤務経験)が皆無のため、自ずと医療ボランティア力は無くその経験も皆無だ。
 そんな私にとってM氏の医療ボランティア記述は実にリアルであり、また感銘を受ける内容だった。 早速コメントを入れさせて頂いたところ、M氏より更なる詳細のご返答を頂戴した。 
 そのご返答の内容を、私なりの表現にて以下に紹介させていただこう。

 大震災発生のあの日、M医師先生は偶然にも勤務先の大阪の病院にて夜勤をされていたらしい。 仮眠中に物凄い揺れに驚かれたものの、幸い病院の建物には被害がなかったようだが、すぐさま「神戸の病院はどうなっているのか」他の職員氏達と共にテレビ画面にくぎ付けになられたようだ。
 神戸に同業のお知合い医師がおられたM先生が連絡を取られた後、夜勤勤務明けに緊急の医療資材の確認やそれを持ち出すことが可能か、などを看護師たちと手分けして行うと同時に、足の確保などを話し合い準備を整える作業に入られたそうだ。
 尼崎から連絡が入り、4病院が倒壊、倒壊の恐れがあること、また病院の多くが臨時的に野戦救護所的に運営されつつある事など、また「合流したい」との申し出もあり、M先生たちは平常勤務の医者との申し送りも済ませ尼崎へ向かわれたそうだ。  合流場所の阪神尼崎駅からは緊急チームが急遽編成され、彼らの道案内で長田地区に向かったとの事だ。
 後はもう何が何だか分からないままに動かれ…。 現地では、野戦救護所状態だったものの、病院関係者の手伝い、消防や警官のグループに合流、応急処置と病院への橋渡し役などを手分けして行ったのを記憶しておられるそうだ。
 現地では、被災はしたが比較的軽症だった人たちが中心となって、倒壊した家屋、火災した家屋の確認や、行方不明となっている人の捜索などが行われたとのこと。
 以上のような厳しい状況の中、取り敢えず「動けた」ことに、幾らか「使命の一端を担えることが出来た」のではないかと自負されておられるようだ。 M氏は緊急医から医師の一歩を踏み出されておられるとのこと、それもあり医療ボランティアとして動けたとも言える、と記されていた。
 そしてご返答の最後に、今から23年前の出来事はある意味でM先生の原点の一つでもある、と結ばれていた。
 (以上、gooにブログを公開されているM医師先生よりのコメント返答より私がアレンジしつつ引用させていただいた。)

 私見でまとめるが。
 このM医師先生よりのコメントご返答内容とは、今後の大災害発生時に“緊急”「医療ボランティア活動」体制を発動するに際し、貴重な資料となり得るのではなかろうか? 
 「医療ボランティア」に関する情報に関しては、私は今まで海外の激戦地域で活動している報道しか見聞していなかった。
 もちろん、国内の災害時にも「医療ボランティア」が活動している様子はメディアにて伝えられてはいる。 だが、国内の場合“緊急”感に欠けると言うべきか、要するに大災害がある程度沈着して後の報道に過ぎなかったように感じるのだ。
 もちろん、それも重要であろう。

 その点、M先生が23年前の大震災時に実行された「医療ボランティア」活動とは、まさに大災害発生直後の“緊急事態”に対応されている点に於いて素晴らしい故に感銘を受けるのだ。
 阪神・淡路大震災は、早朝の5時台に発生した大災害だ。
 夜勤明け直前の大揺れにも動揺せず、ご自身のお疲れの身体も後回しにされ、まずは「人命救助」の発想が浮かび、それをすぐさま行動に移されたM先生はじめ医療スタッフの皆様の果敢なボランティア精神・行動に、大いなる拍手を贈らせていただきたい。 
 M医師先生のような医療関係者が今後ますます増えたならば、大災害発生直後期の「医療ボランティア」活動が更なる充実を遂げるのであろう。

 この私のブログ記述に対し、M医師先生より更なるコメントを頂いた記憶がある。

 
 現在に至っては、医師にして病を抱えておられたM先生は既にgooブログを抹消されていて、ネット上とてお目に掛かることが叶わない…… 

郷里実母よりの“奇妙な”電話

2020年01月17日 | 人間関係
 我が郷里への3年ぶりの小旅を9日後に控える昨日。

 郷里の高齢者自立支援施設に暮らす実母より、“奇妙な”電話が掛かってきた。

 冒頭での一言からして、どうもいつもの元気がない。
 そして曰く、「26日からこちらに来るんだねえ。 調子が悪いのよ。 だから施設に寄らなくていいよ。」

 ここで“究極”正直を話すと。 
 実際問題、実母の施設へなど訪れたくはない。 ただただ日本に暮らす実の娘であるし(参考だが実姉は米国在住の身で、米国に渡って後一度足りとて日本の地を踏むことは無い。)、保証人を担当している関係上、施設のスタッフの皆様にご挨拶をする義務はあろうと考えている。

 ところが、1月初頭に実母へ郷里行きの電話を入れた時点から、実母は私に難癖を付けて来ていた。 「あのねえ、ここに住んでいる人達は皆リッチで、持ってくるお土産も高級なものばかりなのよ。 変な土産を持ってこられても恥をかかされるだけ…」云々の趣旨の嫌みたらしい会話を始めるではないか。
 付け加えて、その高級土産とやらの例を述べ始める。 ナンタラのういろう、どこやらのカステラ… 私も昔から知っている郷里や近県の菓子類だ。 
 私としては、ちょっと待ってくれよ! と言いたくもなる。  私とて銀座銘菓等々の高級土産をいつも持参したり宅配便で送っったりしている。  私の判断では、この銀座銘菓の方がずっと高級でセンスもいいかと思うのだが…
 まあ元々物の価値など知りもしない実母故に、それを責める必要も無いだろう。 と判断した私は、「私も決して恥ずかしくない土産を持参しているつもりだが、もしも貴女が持ってきて欲しい土産があるならば、具体的に商品名を言ってくれたらそれを買って行くよ。」
 それでも実母は繰り返す。 「あんなあ、ここの施設に暮らす人達は皆、裕福でレベルが高い人達ばかりなのよ。」
 更にちょっと待って欲しい思いだ。  (要するに、娘の私の生活レベルが低いから来られたら恥ずかしいとの事かいな? 勘弁して欲しいよなあ。 自分で努力して現在特段恥ずかしくない程度の暮らしをしているつもりだが…)

 その時の電話で私は、「今回の郷里訪問目的は、医学部時代の恩師である故中村先生のご生家“観音寺”を訪れることにあるから、とにかくそれを優先するよ。 貴女が施設へは来て欲しくないと言うならば、例えば宿泊ホテルで会うとの手段もあるし…」との事で話を締めくくった。

 
 そして昨日の電話だ。

 上記の話に加えて実母が私に告げるに、「施設長さんの態度にムラが出始めて、機嫌が悪いと私に辛く当たるのよ。 ……」
 私としては、ははあ分かった! である。
 どうやら施設での人間関係が上手くいっていない様子だ。 
 そりゃそうだろうなあ。 3年ぶりに施設へ訪れると申し出た娘の私に対しても、上記のごとく平然と失礼な物言いをしでかす実母だ。 施設内でスタッフやお年寄りの皆さんと上手く渡っているとは到底思えない。
 その現場を娘の私に見られたくないのであろう。 あるいは私と施設長氏との久々の面談の場で、実母の施設内での普段の悪態を私に告げられるのを恐れているとも考えられる。😨 

 とにかく、特段身体的にも困っていない様子だし。 
 実母が私が施設へ行くのを嫌がっている事実を都合良きこととして、この度の郷里小旅では、実母に会いに行くのは取りやめることとしよう。

 いやはや、こんな年寄りにはなりたくないよなあ。 
 私の場合、将来的に高齢者施設入居の意思は毛頭無いが。
 もしも娘と別居することとなっても、いつまでも娘の訪問を大歓迎し「お土産なんて要らないよ」、と言いつつ心待ちに出来る母でありたいものだ。