少し前の話になるが。
2019.05.22付朝日新聞朝刊「耕論」のテーマが「東京の大学めざすな?」だった。
私がサリバンを担当している一人娘が無事大学を卒業し、社会人となって早くも4年目の春を迎えている立場にして。
現在の「大学」の制度や「大学」が置かれている現況に関して、興味が薄れているのが実情だ。
そんな我が目に留まったのが、上記朝日新聞の「東京の大学を目指すな?」だった。
一体どうしたと言うんだ?? と思いつつ記事の冒頭のみ読んでみるに。
どうやら、東京23区の大学定員を抑制する法律が施行されたらしい。 一極集中化対策として地方の若者の東京流入を抑える狙いであるようだ。 ただ、「東京の大学へ来るな」という不公平なメッセージにならないかとの懸念も存在する、とも記載されている。
更に記事を読み進めるに…
その背景に、“東京の大学入学・卒業 → 大企業入社 → 明るい未来” との図式が大前提として存在する事実を私は嗅ぎ付けた。
早速私事及び私見に入ろう。
これ、要するに「文系」学生に特有の現象ではなかろうか??
私が卒業した「医学部」など、世間では“偏差値が高い職業訓練校”と揶揄されているその文言が物語る通り…。 実際卒業後は都会であれ田舎であれ新卒就業が保障されているのに加えて、本人にその意思があれば定年まで(あるいはそれを通り過ぎても)その専門を活かせる分野である。
その“就職有利性”をまんまと利用した我が政策とは。
郷里過疎地医学部卒業直後に上京し、医学専門(パラメディカル分野)職員として東京本社の民間医学関連企業(東証一部上場企業だが)への就業との道を選んだ。
その後医学専門職の恩恵に十分与り、私なりに大都会にて今後に渡り生き抜くべく資産も拡大しつつ、この東京こそが我が“活躍の場”!と確信し、別分野へも活躍フィールドを拡大しながら“東京人”としての人生を歩み続けている。
この大都会東京にこそ我が骨を埋める予定でもある。
時代を遡れば、私が過疎地の高校生だった1970年代初頭頃より、東京の大学を目指す若者は少なからず存在した。 何分専門分野がまったく異なるとの理由が大きいが、それら面々が現在一体如何なる人生を歩んでおられるのかを知るすべも無い。
たまに(まさに“たま”だが)出席する同窓会等にて一部の同窓生の現況に触れるに。 (特に女性陣は)東京の大学卒業後早い時期に婚姻に至り、主婦としての人生を歩んでおられる様子だ。 正直申し上げて上京後の生き様が大幅に異なるが故に、今更懇親にしたいとの私からの希望は一切無い…
今回の朝日新聞記事に、3名の“有識者”らしき人物が朝日新聞の取材に応えているようだが。
そのうち2名の記述は要するに現在の「文系」がおかれている苦悩中心の記述かと思われ、原左都子にとって興味が無いと言うよりも、我が人生と交錯する部分が少ないのが残念だ。
そんな中、歴史学者 藤田覚氏が記載されている 「江戸時代に失敗した政策」と題する文面のごく一部を以下に要約して紹介しよう。
江戸の人口増加の原因は、地方農民が出稼ぎなどで江戸へ流入した結果だ。 なぜ農村を捨て江戸をめざすのかと言えば「食うため」である。 農村を支配する幕末代官の言いなりで「江戸へ行けば何とかなる」と村で考えられ、実際に「何とかなった」のだ。
奉公を積み主人にのれん分けされるのはごくまれな例だが、食うや食わずの農村に比べ、江戸には様々な仕事があり農民を受け入れる余地があった。 その後、水野忠邦により出された「人返しの法」も政策として出されたが…
地方の実情を考慮せずして江戸の人口抑制に取り組んでも成果は上がらない。 結果的に「人返しの法」は効果がなかった。 疲弊する地方への支援策に取り組まずに、地方から都市へ来る人間の数を抑制したり、強制的に地方へ戻したりする政策がうまくいくことはない。
歴史は、そう教えている。
(以上、朝日新聞記事より歴史学者 藤田覚氏の記述の一部を要約引用したもの。)
最後に、原左都子の私論でまとめよう。
まさに最後に紹介した歴史学者 藤田覚氏のおっしゃる通りではなかろうか。
再度我が家に話を絞れば、既に娘も大学を卒業し一応大都会の企業に勤務する一社会人として活躍してくれているし。
サリバンの私とて、40年程前に医学部卒業直後に上京を決断した事実、そしてこの大都会東京こそが我が自己実現の夢を一生に渡り叶えてくれる大舞台と、今尚感謝している身だし。
これ、またもや安倍政権の“悪あがき”としか捉えられない現実だ。
こんな安易な法律施行をしたとて一極集中化対策になどなり得ない事実を、どうして“かの”安倍政権は政権終盤期に際して未だに分からないのか!
実に腹立たしいのと同時に。
世の“若手有識者”らしき人物達の論評力の乏しさ(と言うよりも人生経験の浅さ?)に、正直言って落胆させられた朝日新聞記事でもあった。
2019.05.22付朝日新聞朝刊「耕論」のテーマが「東京の大学めざすな?」だった。
私がサリバンを担当している一人娘が無事大学を卒業し、社会人となって早くも4年目の春を迎えている立場にして。
現在の「大学」の制度や「大学」が置かれている現況に関して、興味が薄れているのが実情だ。
そんな我が目に留まったのが、上記朝日新聞の「東京の大学を目指すな?」だった。
一体どうしたと言うんだ?? と思いつつ記事の冒頭のみ読んでみるに。
どうやら、東京23区の大学定員を抑制する法律が施行されたらしい。 一極集中化対策として地方の若者の東京流入を抑える狙いであるようだ。 ただ、「東京の大学へ来るな」という不公平なメッセージにならないかとの懸念も存在する、とも記載されている。
更に記事を読み進めるに…
その背景に、“東京の大学入学・卒業 → 大企業入社 → 明るい未来” との図式が大前提として存在する事実を私は嗅ぎ付けた。
早速私事及び私見に入ろう。
これ、要するに「文系」学生に特有の現象ではなかろうか??
私が卒業した「医学部」など、世間では“偏差値が高い職業訓練校”と揶揄されているその文言が物語る通り…。 実際卒業後は都会であれ田舎であれ新卒就業が保障されているのに加えて、本人にその意思があれば定年まで(あるいはそれを通り過ぎても)その専門を活かせる分野である。
その“就職有利性”をまんまと利用した我が政策とは。
郷里過疎地医学部卒業直後に上京し、医学専門(パラメディカル分野)職員として東京本社の民間医学関連企業(東証一部上場企業だが)への就業との道を選んだ。
その後医学専門職の恩恵に十分与り、私なりに大都会にて今後に渡り生き抜くべく資産も拡大しつつ、この東京こそが我が“活躍の場”!と確信し、別分野へも活躍フィールドを拡大しながら“東京人”としての人生を歩み続けている。
この大都会東京にこそ我が骨を埋める予定でもある。
時代を遡れば、私が過疎地の高校生だった1970年代初頭頃より、東京の大学を目指す若者は少なからず存在した。 何分専門分野がまったく異なるとの理由が大きいが、それら面々が現在一体如何なる人生を歩んでおられるのかを知るすべも無い。
たまに(まさに“たま”だが)出席する同窓会等にて一部の同窓生の現況に触れるに。 (特に女性陣は)東京の大学卒業後早い時期に婚姻に至り、主婦としての人生を歩んでおられる様子だ。 正直申し上げて上京後の生き様が大幅に異なるが故に、今更懇親にしたいとの私からの希望は一切無い…
今回の朝日新聞記事に、3名の“有識者”らしき人物が朝日新聞の取材に応えているようだが。
そのうち2名の記述は要するに現在の「文系」がおかれている苦悩中心の記述かと思われ、原左都子にとって興味が無いと言うよりも、我が人生と交錯する部分が少ないのが残念だ。
そんな中、歴史学者 藤田覚氏が記載されている 「江戸時代に失敗した政策」と題する文面のごく一部を以下に要約して紹介しよう。
江戸の人口増加の原因は、地方農民が出稼ぎなどで江戸へ流入した結果だ。 なぜ農村を捨て江戸をめざすのかと言えば「食うため」である。 農村を支配する幕末代官の言いなりで「江戸へ行けば何とかなる」と村で考えられ、実際に「何とかなった」のだ。
奉公を積み主人にのれん分けされるのはごくまれな例だが、食うや食わずの農村に比べ、江戸には様々な仕事があり農民を受け入れる余地があった。 その後、水野忠邦により出された「人返しの法」も政策として出されたが…
地方の実情を考慮せずして江戸の人口抑制に取り組んでも成果は上がらない。 結果的に「人返しの法」は効果がなかった。 疲弊する地方への支援策に取り組まずに、地方から都市へ来る人間の数を抑制したり、強制的に地方へ戻したりする政策がうまくいくことはない。
歴史は、そう教えている。
(以上、朝日新聞記事より歴史学者 藤田覚氏の記述の一部を要約引用したもの。)
最後に、原左都子の私論でまとめよう。
まさに最後に紹介した歴史学者 藤田覚氏のおっしゃる通りではなかろうか。
再度我が家に話を絞れば、既に娘も大学を卒業し一応大都会の企業に勤務する一社会人として活躍してくれているし。
サリバンの私とて、40年程前に医学部卒業直後に上京を決断した事実、そしてこの大都会東京こそが我が自己実現の夢を一生に渡り叶えてくれる大舞台と、今尚感謝している身だし。
これ、またもや安倍政権の“悪あがき”としか捉えられない現実だ。
こんな安易な法律施行をしたとて一極集中化対策になどなり得ない事実を、どうして“かの”安倍政権は政権終盤期に際して未だに分からないのか!
実に腹立たしいのと同時に。
世の“若手有識者”らしき人物達の論評力の乏しさ(と言うよりも人生経験の浅さ?)に、正直言って落胆させられた朝日新聞記事でもあった。