原左都子エッセイ集

時事等の社会問題から何気ない日常の出来事まで幅広くテーマを取り上げ、自己のオピニオンを綴り公開します。

そばに自分の声を受けとめてくれる人がいる。

2017年01月14日 | 時事論評
 私程、「文学」という言葉に縁がない人間は珍しいかもしれない。

 そもそも子供の頃から“本(特に小説類)を読む”という行為が苦手(と言うより嫌い)だった。
 それに連動して、学校の宿題の中で一番億劫だったのが「読書感想文」だ。

 かと言って、身勝手ながらも文章を書く事自体は昔から得意分野だった。 日記や自発的小説や詩など、子供の頃より好き好んで綴っていた。 (要するに人が書いたものを読むより自分が書きたい派だ。 書きたい材料・対象物は、常に物事を観察し考えている我が頭の中に山程あった。)
 皆様既によ~~くご存知の通り、批判文も得意分野だ!

 そんな私は中学生時代の読書感想文課題に於いて、「なぜこの本は面白くないのか?」とのテーマで原稿用紙5枚書きなぐって提出した事がある。
 それより以前の小学6年生時に学級担任批判作文を書いて提出し、当該担任から吊し上げを食らうとの痛手を負った前歴がある私だ。 これを提出するとの行為は、再びそれを覚悟した上での挑戦だった。
 ところが過疎地公立中学の国語教師にして、話せる人材がいたものだ。 何と国語先生は、私の読書感想文(批判文)に最高点をくれたのだ!  おそらく当時としては意表を突いたであろう我が勇気ある批判精神を買ってくれたものと想像する。  普段より静か目のおっとりした男性先生だったのだが、その後時々私に声を掛け、高校受験合格に向けて応援して下さったりした。


 さて、文学書にはほぼ縁が無い私も、社会人となって以降は新聞を読む事は外せない日課だ。

 先だっての1月11日朝日新聞夕刊 文芸・批評 思考のプリズム は 作家 小野正嗣氏が執筆を担当されていたが、その内容には久しぶりに文学に縁の無い私も唸り、大感動させて頂いた。

 早速、以下に 「排他的な世界 今こそ文学的聴力を」 と題する当該コラムのほぼ全文を紹介しよう。
 昨年11月、2015年ノーベル文学賞受賞ベラルーシのスヴェトラーナ・アレクシエーヴィッチ氏(以下SA氏と略す)が来日し、(小野氏が)東京大学でのイベントで質問者として直接話を伺う貴重な機会を得た。
 16年は歌手ボブ・ディラン氏の受賞が大きな話題となったが、<ノンフィクション作家>として唯一の受賞者であるSA氏の言葉とたたずまいに触れ、<文学>の根幹をなす姿勢とは何なのか、考えさせられた。
 小説を書いたり論じたりしてきた一人として、文学活動の本質は<書く>こと以上に<読む>ことにあると考えてきた。 しかし、どうやら小説や詩をたくさん読んでいるからといって、人は文学者になれる訳ではない。
 僕が育った大分の漁村には書物の文化はなかった。 ところが、生涯に一冊も本を読んだ事がなくても、まるで本でも読むようにこちらの心の動きを理解し、一緒にいると元気が湧いてくる人間的魅力に溢れた人がいて、僕は漠然と「文学的だなあ」と感じるようになっていった。 だが、どういう点で文学的なのかうまく言葉にできずにいた……。
 SA氏の作品を読んでずっと不思議に思っていたことを尋ねた。「どうすればたくさんの人の心を開くことができるんですか?」 「むずかしいことではないわ。いまあなたといるように、一緒に座って話を聞くだけです」  この小柄で物静かな女性がたぐいまれな<耳>の持ち主であることは確かだ。 彼女の著書からは、彼女がインタビューしたおびただしい数の人々の多様な声が響いてくる。
 チェルノブイリ原発事故の被災者らの想像を絶する体験が語られる証言集『チェルノブイリの祈り』は、福島第一原発事故がなかったかのように原発稼働へと進む日本でこそ読まれ、何度も読み返されるべき作品だと思う。   独ソ戦に従軍した女性兵士、アフガン帰還兵、ソ連崩壊後のロシア社会で多くを失った庶民。 SA氏が耳を傾けると、国家の大義やイデオロギーによって沈黙と忘却を強いられた人々が、それまで表現できなかった苦悩にふさわしい言葉を見出したかのように語り出す。
 そばに自分の声を受けとめてくれる人がいる。 そのとき世界と他者への信頼が回復され、各々の人生に於ける愛や歓喜の瞬間が生き生きと蘇る。 SA氏にとって、<書く>ことは、相手に寄り添い、その声を<聞く>ことだ。 そして、<聞く>ことがそのまま<支える>ことになっている。 文学的な態度とは、<聞く>ことを学び、人間を取り戻すことなのだ。
 だがいま、SA氏の人と作品が体現するこの文学的な聴力が、世界から失われつつある。 沖縄ではオスプレイが墜落し、原因究明もなされてもいないのに、人々の不安や怒りの声など存在しないがごとく、給油訓練が再開されている。 次期アメリカ大統領やヨーロッパ各国の難民対応を見るとき、他者の苦悶には耳を閉ざし、巳の利得にばかり執心する排他的態度が時代の空気となりつつあるようで怖い。
 もっと文学を! 政治、経済、社会、僕たちの日常を構成するあらゆる領域で、文学的な聴力と姿勢が、かつてないほどに必要とされている。
 (以上、長くなったが、朝日新聞小野正嗣氏執筆によるコラムのほぼ全文を転載紹介したもの。)


 上記小野氏の記述と似たような体験をする場面が、私にもよくある。

 私が育った過疎地郷里ならずとも、国内外様々な地域に旅に出ると必ずや一期一会の出会いがある。 まさに、今出会ったばかりなのにどうしてこれ程までに打ち解けて親切にしてくれるのだろう、と感動させられる。
 私の場合、そんな風に出会った人々に対し「文学的だなあ」という表現がよぎった事は無いものの、言いたい思いはおそらく小野氏と同じだ。 その背景には、必ずや相手に心を開いて<聞く>態度があり、こちらも同様に心を開いている、そんな風景がまさに小野氏がおっしゃる通り「文学的」なのだろう。

 福島原発事故後の対応や沖縄オスプレイ事故対応に対する思いも、小野氏とピッタリ一致する。
 まさに政権の対応とは、まったく<聞く>耳を持たず国民不在の下に身勝手に独り芝居で政策を強行するばかり。 それしか政権の生きる道がないのであろう。 
 まさに政権は自己の利得にがんじがらめになり、文学の香りが一切無い排他主義で突き進んでいる。

 小野氏がおっしゃる通り、「もっと文学を!」と叫ぶべき時かもしれない。 
 文学とは縁が無いと自覚しているこの原左都子でさえ、小野氏を応援したくなる。