土練機を我が工房内で分解、補修してから一週間経過。
まだ土練機で練った粘土を使う気になれなく、二日に1度の割合で作動している。
その都度不純物が混ざっていないかと、目を皿のようにして調べている。
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削り作業 |
皿といえば、仕上げ最中の作品が乾燥しないように保存してあり、
皿の仕上げを進めつつ、土練機の点検も行っているという、
誠に無駄な時間の使い方をしている毎日。
今回仕上げている平皿、見こみ部分を広く作った。
シリーズ2回目の皿だが、前回作ったのは見こみ部分が狭く、
料理を盛るには何か物足りなく感じていた。
しかし、それはそれで品良く仕上がっていたが、
もっと沢山の、盛り付けを豪華にと、今回改めて作り直した平皿である。
素焼きし、釉薬を施して焼いてみないと結果が分からないが、
きっと趣のある品良い皿に仕上がると信じている。
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丸の内駐車場 |
そのような日々を送っている昨今、
日本工芸会石川支部の総会が行われ、金沢に出かけてきた。
昨日まで寒くて厚着をしていたが、
今日は半袖でもいいようなくらい天気も良く、気温も高かった。
金沢は幸いなことに空襲にあっておらず、
近代化が進んだとはいえ、そこかしこに風情が残っている町である。
今日の総会に出席する為、どこに車を停めたらいいかと、
金沢に向かう車中で考えた。 と言うのも風情が残っている町ではあるが、
駐車場を探すのが大変なのである。
少し早めに出かけて行き、金沢城址のすぐ際(きわ)にある駐車場に入った。
県外ナンバーの車が多く入っており、待てども待てども中々空かない。
20分くらい待って、ようやく満車のランプが消え駐車場に入ることが出来た。
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県文教会館 |
駐車場から文教会館まで、徒歩5分あまり。
近いといえば近いが、かなり入り組んだところに文教会館はある。
きっとこの道だろうと歩いて行って、恥ずかしながら道を間違えてしまった。
左に曲がるべきところを、右に曲がって電柱の町名を見て間違いに気づいた。
風情の残る町なのに、近代建造物も負けず劣らずニョキニョキと建っている。
実のところ、私の大嫌いな街づくりなのだ。 なんでこんな街づくりをするのか、
どうして由緒ある歴史建造物を大切にしないのか、不思議でならない。
若いときから何度も取材に出かけている、他国の町並み、
歴史を大切に、由緒ある建物はしっかりと管理されていて、
むやみに手をかけられない法律が作られている。
誰が見ても、誰が訪れても美しいと感じる街づくりをしてある。
国会議員はじめ、地方議員たちも視察と銘打った外遊に出かけていて、
何も感じてこないのだろうか? 不思議で仕方ない。
今回の連休にも大勢の議員達が外遊に出かけていると報道されている。
大震災で被害を受けた方々のことを思えば、とてもではないが出かけられない。
外遊に出かける時間と税金を使うなら、
被災地に出かけて手助けをすればいい。
でも、誰もそれをせずに外遊を楽しんでいる。
外遊と言う言葉があること自体が不思議でならない。
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通常総会議案書 |
大きく背の高いビルの谷間にひっそりとたたずんでいる由緒ある建造物、
歴史と現代が融合し合い、とても美しい街だ、と知識人?に評されているが、
「 本当か? 」と、つい疑ってしまう。
いつの間にか建ってしまった、7、8階建てのマンションのお陰で、
昨年は間違えなかった文教会館への道筋を間違えてしまった。
多くの観光客が訪れる、古都金沢、何とかならないのか。
1時間早く着く予定だったが、
駐車場が空くまでの時間と、余計な建物のお陰で時間がかかった。
総会が始まる時間には間に合ったが、何となく複雑な気分のままだった。
改めて、美しい町並みとは、
心に、目に残る町並みとは、を考える一日となった。
確かに新旧入り混じった街になっていますね。
大通りに沿って駅周辺は近代のビル街。
ちょっと入れば、石畳の細道の旧市街といったイメージが残っています。
「つば甚」で清水の舞台から飛び下りるつもりで食事をしたことがありますが、
古さの中に粋を感じて、まさに温故知新。
部屋の色使いや、細工の繊細さは今でも通用するモダンな感じがしました。
特に直線の美しさ。西洋のようにごちゃごちゃした装飾ではなく線の美しさに心を奪われました。
機能性を重んじて無駄を省く中に美を追求する。
商品のグッドデザイン賞などに興味をもって見たりもしますが、
そういった努力を常に意識しないと均等のとれた町づくりは難しいでしょうね。
実のところ、今まで町の景観を意識して見たことがなく、ルーブル美術館にガラスのピラミッドがあっても平気で、切り張りのように新旧入り混じっている様子なども面白いと思ってしまいます。
人の美的センスを統一するのは難しいですね。
老若男女、ハンディキャップのある人もない人も笑顔で機能的に暮らせる町づくりが理想です。
そうなると個性がでなくなるかもしれませんね。
何をもってよしとするかは、やはりそこに住む人たちのコミュニケーションの積み重ねによると思います。
金沢などの古都は文化遺産の宝庫ですから、責任の度合いが違いますよね。
私などは
--慣れし故郷を放たれて、夢に楽土もとめたり--
気楽なものです。
素晴らしいコメント、ありがとうございました。
拝読させていただき、一喜一憂したり、何事も臨機応変にと思ってもみたり。
若い頃に茶道を習っていて、その一つ一つの動作には無駄が無い、と言うことを知りました。
理にかなった作法でおもてなしをする、を身をもって体験いたしました。
では無駄は必要ないか、といえばそうとも言えず、無駄の中から必要性を感じることも大切ではないかと。
今回の日記で街づくりを書きましたが、やはり、どうしても納得いかないのです。
湿気の多い国土にコンクリート建造物、等々。 何かが違う、を感じています。
ここ数日間に大きな自然災害が起き、木造家屋などは大破いたしました。
我が家も4月はじめの強風で、家屋に被害が出て修理にかかろうとしているところです。
自然災害に強い建物はと考えると、頑強な鉄筋コンクリート建造物に勝るものはありませんが、
一つの街として考えたとき、果たしてそれでいいのかと疑問を覚えるのです。
遥か、いにしえの頃からびくともしないで建っている木造建築物、この構造は素晴らしいものです。
加えて、日本の気候風土に合っています。 このような建物を残せれば、と常々思っているのです。
私の作陶に対する思いは、「 自然との調和、対話 」なのです。
何を作るにしても創造するにも、調和が必要と考えます。
出来るなら、町並みだけは調和を大切にし、暮らしている方々には内部を住みやすく、と。
そうそう、バリアフリーが発達しているはずの欧州、実は意外とそうでも無いことがありました。
歩道と歩道の間に段差があるし、歩道はどちらかに傾いているし。
すべての人々が満足に、は最高ですが、
まずは障害のある方々の住みやすい街づくりを行えば、どなたにとっても良い街になると思っています。
大変な今だからこそ、一考を望みたいものです。
久しぶりに、「 流浪の民 」のメロディーが浮かんでまいりました。