オペラファンの仕事の合間に パート2

大好きなクラッシック音楽やフィギュアスケート、映画などを語ります。メインは荒川静香さんの美しさを語るブログ。

ブルーノ・ワルターとの出会い その5

2007年09月27日 01時20分41秒 | ブルーノ・ワルターとの出会い
(お断り)
ブルーノ・ワルターとの出会い その1からその4は私の旧ブログよりコピーしました。

ブルーノ・ワルターとの出会い その1

私の大好きな往年の大指揮者ブルーノ・ワルターとの出会いを書いていきます。ただ「この録音を聴いてワルターを好きになりました」というだけでは面白くないし、この6月で私も半世紀生きてきた事になるので、この機会にワルターにたどり着くまでの自分自身の歩みをいろいろ思い出しながら振り返るのも良いのではないかと思いました。ぐどぐどと文章を並べる事になりますが、どうかご容赦下さい。

意識してクラッシック音楽を聴き始めたのはいつからであろうか?今は亡き私の父が音楽好きだったので家には映画音楽や歌謡曲などいろいろなジャンルのレコードがありました。(私自身、物心付いた時は自分でプレーヤーを操作して童謡のレコードを聴いていた記憶があります)さて、いろいろあるレコードの中で何故かクラッシック音楽が1枚ありました。曲目はチャイコフスキーの交響曲第6番「悲愴」演奏はカラヤン指揮ベルリンフィル。父は特に第1楽章が好きだったようで日曜日の朝はしょっちゅう聴いていたので当時小学生の私もこの曲を憶えてしまいました。そしてカラヤンの名前も当然頭の中に入ってしまいました。後年、父から聞いたのですが、この頃カラヤンとベルリンフィルが我が町にやってきたそうで当時、建築会社に努めていた父は丁度その頃カラヤンが泊まったホテルの増築工事を担当していたのでホテルでカラヤンを見た(見に行った?)そうです。夫人も一緒で、たいへんきれいな方だったと聞いた記憶があります。
ただこれらの事が現在に至る私のクラッシック音楽歴の下地になっているかもしれませんが直接大きく関係があったとは思えません。学校の音楽の時間も退屈だった。何か大きなきっかけがあったはずである。それはやはり中学生のときテレビで見た「札幌冬季オリンピック」しか考えられません。初めて見る雪と氷の祭典!夏のオリンピックには無い神秘さ、美しさ、雪や氷といった自然の中での競技や演技。一番感受性に富んだ時期、感じやすい時期だっただけにどれだけ心をとらえたでしょうか?開会式や閉会式も素晴らしかった!今も札幌五輪以上の開・閉会式は無いと思っています。
さてここでクラッシック音楽と札幌五輪との接点である。開会式の直前、テレビで岩城宏之指揮NHK交響楽団が札幌でのオリンピック記念の演奏会の模様を見ました。曲目はベートーヴェンの序曲「レオノーレ」第三番。(武満徹の「ウィンター」も演奏されたらしいが全く記憶が無い)生まれて初めて聴いたこの作品、本当に衝撃的でした。そしてベートーヴェンには自分の知らない作品がたくさんあるという事を思い知らされました。
話が前後しますが、初めて見た冬季五輪の競技の中で一番心をとらえたのは何といっても「女子フィギアスケート」です。サッポロの恋人といわれたジャネット・リンの登場です。赤い衣装とにこやかな笑顔。そしてフリーの演技の後半使用された曲が何と数日前聴いて感激した序曲「レオノーレ」第三番の劇的なフィナーレ。あの驚きは今も忘れません。リンの演技にも当然魅了されましたが改めてこの曲の大きさ、素晴らしさに感激を新たにしました。

話が長くなりました。本日はこれまで。

ブルーノ・ワルターとの出会い その2


前回、札幌冬季オリンピックまで、やってきました。早くワルターにたどり着きたいのですが、まわり道ばかりで申し訳ございません。
その1でもお判りかもしれませんがクラッシック音楽、フィギアスケート、大相撲など私が大好きな事に関しては私の父親の影響や存在なしでは語れません。私が大相撲に興味を持ったら大阪へ本場所へ連れて行ってくれたり、クラッシック音楽を聴きだしたら我が街の市民会館にNHK交響楽団が来た時には連れていってくれたりで今から思えば絶妙なタイミングで本物を見せてくれました。感じやすい時期に生で本物に接するという事はどれだけ自分自身大きい事だったか本当に感謝するばかりです。
私の父は大阪生まれで終戦まで大阪で過ごし親類縁者にもハイカラな方も多かったらしく幼い時から音楽や映画に身近に接していたそうである。私が中学生の時だったでしょうか。東京出張の時、岸洋子さんのリサイタルを聴いて来て感激したらしく日曜日の朝はいつも岸さんのレコードばかりかけて家族皆閉口したのも懐かしい思い出です。また戦前、大阪の関目というところに国技館があったらしく準本場所がよく開催され父方の祖父が二所ノ関部屋の後援会に入っていたとの事で、しょっちゅう見に行っていたらしいです。ある時、国技館へ行くと祖父が芸者さんを引き連れて升席にいて驚いたという話も聞いた事があります。戦前の良き時代の話でしょう。その頃は双葉山や玉錦の時代で後年よく話しを聞かされ、私の描いている横綱像に大きな影響がありました。今日もテレビのワイドショウーでは朝青龍の話題ばかりで精神科医まで登場して本当に嫌になってきました。
戦後、ある建築会社に就職したのですが私が小学6年の時、県下で初のスケートリンクの工事を担当する事になりました。(ここからは昨年しーぱらの掲示板にも書いた事がありますので重複しますがご了承下さい)社を挙げての大変な工事だったと後年、母から聞かされました。私自身忘れはしないのはある夜、急にほとんど完成された工事現場に連れて行かれました。その夜は初めてリンクに氷を貼る日で父も初めての事で落ち着かなかったのでしょう。初めて見た氷の貼った真っ白い、そして誰も足を踏み入れていないリンクの様子は私のフィギアスケートの原点かもしれません。大変な工事だっただけにオープニングの華やかさは父にとって忘れることの出来ない事だったと、これも母から聞いた事があります。
そんな父も私が高校3年の時、病気で他界。もっといろいろな事を聞きたかったものです。昨年は父が他界してちょうど30年の節目の年で、命日の10日前に荒川静香さんが金メダルに輝き何とも言えない気持ちでした。父が生きていたら本当に喜んでいたでしょう。

今回は父の思い出を語らしていただきました。話がなかなか前へ進みませんが次回は中学生時代から高校生時代に進みたいと思います。いよいよカラヤンからベームに移ります。

ブルーノ・ワルターとの出会い その3

早くワルターにたどりつきたいのですが、まだ見えてきません。話を飛ばしても変なので順を追って行きます。

札幌冬季オリンピックが終わりました。中学生ですがますますクラッシック音楽に興味が出てきました。その頃、私にとって予想もしなかったことが起きました。
それはコーラス部入部です。クラスメートに引きずられたという事もありますが当時好きだった女の子がソプラノで在籍していて追いかけてしまったというのが入部の大きな理由でしょう。いざ入部するとそこは、それまで体験した事のない環境でピアノをバリバリ弾く女の子はゴロゴロいるし、(後年東京芸大をはじめ音大に進学した者も多数いる)、クラッシック音楽に詳しい医者や牧師の息子がいて訳のわからん事を言って来るし、大変刺激的な毎日でした。ちょうどその頃NHKのテレビで「NHKコンサートホール」という番組(今のN響アワーのようなもの。木曜日の夜の放送だったかな?)があり放送の翌日はよく盛り上がっていました。忘れはしないのはベートーヴェンの「皇帝」の放送があり、その時のソリストの弾き方が大変変わっていたので次の日、大変話題になりましたが、その時のピアニストがグレン・グールドだった事を知ったのはかなり年数が経ってからでした。
高校受験は県下でもナンバーワンのコーラス部がある公立高校を目指したのですが見事に失敗!コーラス部のない私立高校へ入学という事になり大学受験勉強以外は音楽を聴くしかないという状態になってしまいました。

暗黒の高校生生活を送っていましたが一番の楽しみは夜のNHKのFM放送を聴く事でレコードを買いまくるほどお金が無かったので最大の情報源でした。
高校1年の秋、カラヤン指揮のベルリンフィルが来日し東京で1週間ほど連続演奏会があり全演奏会がFM放送で生放送され全て聴きました。この来日公演のプログラムはバッハからシェーンベルクまで演奏されるという実に多彩で私自身このとき初めてブルックナー、R.シュトラウス、シェーンベルクの作品を聴きました。ブルックナーはよく解からなかったのですがシュトラウスの「英雄の生涯」には本当に驚かされました。またワーグナーの「トリスタンとイゾルデ」前奏曲と愛の死もこの来日公演の放送で初めて聴き、この来日公演の放送は正に私にとって音楽的視野を広げる大変インパクトのあるものでした。

これ以降しばらくはどうしてもカラヤン中心だったのですが高校3年になる直前の春、それまでの流れをひっくり返す、現在の私の音楽志向につながる私にとっては大変な放送がありました。話が長くなってきたので、また次回に。うっすらと遠くですが、かすかにワルターの姿が見えてきました。

ブルーノ・ワルターとの出会い その4

今日、朝からビデオでワーグナーの楽劇「ニュールンベルクのマイスタージンガー」を観る。最初は冷静に観ていたが第3幕でエヴァがザックスの仕事場に現れるあたりから、だんだん熱くなってくる。歌合戦の場はピークである。まさに自分の音楽!自分の世界!
いつからこの世界に脚を踏み入れたのだろうか?そのきっかけは何だったのだろうか?

高校1年の時FM放送でカラヤン指揮のベルリンフィルの連続演奏会を聴いて以来購入するレコードは全てカラヤンオンリーという時期が続きました。しかし予期しなかった事があり方向転換する時がきました。
高校2年も終わり3年になる直前の3月でした。NHKがベーム指揮のウィーンフィルを招聘し、これも連日放送されました。今では都会ではウィーンフィルの来日は年中行事になっているようですが当時は何年かの1度の事件でした。(私の4年間の東京での大学生時代でも来日は1回だけだった)当時、私自身はベートーヴェンやブラームスの交響曲は全て聴いており知っている(つもり)状況でした。
初日はFMの生放送でベートーヴェンの4番と7番の交響曲を聴きましたが別に何とも思いませんでした。そして・・・今も強烈に記憶が残っています。
2、3日後テレビでブラームスの交響曲第1番を聴き(観)ました。第1楽章の冒頭のティンパニの連打を聴いた瞬間、今迄聞いて来たものと全く違う事に驚き、別世界に連れて行かれるようであった。この作品はカラヤンのレコードを持っていましたが冒頭は単にティンパニを叩きましたという感じでしたが、この日聴いた演奏は指揮者の強い意思、そして気迫がオケに乗り移り物凄い緊迫感を第1楽章で感じました。ベームの指揮ぶりもカラヤンのような外面の良いものではありませんが作品に寄り添っているのがよくわかりました。そして第2楽章では気高さと第1楽章に反するような美しさ!特にコンサートマスターのソロの美しさ!初めてこの作品を聴く感じであった。第3楽章を経て第4楽章。あの有名な主旋律では、ここぞとばかり歌うウィーンフィル。そして速度をあげて力強い響きの圧倒的といえるクライマックス。カラヤン指揮ベルリンフィルのレコードと次元が違いすぎる!クラッシック音楽というものが、こんなに物凄く、決してきれい事でない世界である事を始めて知った!クラシック音楽を聴き初めての感動だったのではないか?
数日後FMでの生放送でシューべルトの交響曲9番も聴きましたがブラームスと同様でした。アンコールでの「マイスタージンガー」前奏曲も素晴らしかった!

それまでは、どちらかと言うと「作品を聴く事」が勝っていたが、べーム指揮ウィーンフィルの演奏を聴いて初めて知った事は今にして思えば「演奏を聴く事」の面白さだったのではないか?

長くなったので続きは次回に。いよいよワルターが近くまで来たようです。

ブルーノ・ワルターとの出会い その5

ベーム指揮のウィーンフィルの来日公演の放送を聴いて知ったのは「演奏を聴く」という事の面白さであった。それまでカラヤン一辺倒でしたが、これ以降色々な指揮者の演奏を聴くようになりました。クナッパーツブッシュ、モントゥー、朝比奈隆といった今も熱心に聴いている面々を知ったのはこの頃でしょう。しかし中心はベームでした。来日公演から少ししてある日、本屋でベームの回想録の「回想のロンド」という本を見つけ迷わず購入しました。音楽の知識があまり無い時代でしたのでまだ理解できない点も多々ありましたが、ベームと親交のあった作曲家のR・シュトラウスやベルクの事を知り、バイロイト音楽祭の事も知り、カラヤン一辺倒だった頃と比べて音楽的視野が広くなっていきました。そして、この本の中で一人の興味深い指揮者の名前を見つけました。「ブルーノ・ワルター」です。この頃になるとワルターの名前は雑誌「レコード芸術」のレコードの広告などで知っていましたが当時、私にとってコロンビア交響楽団という今一つよく解からないオケの指揮者というイメージで全く興味の無い存在だったのでワルターという名前の登場は私にとって、たいへん以外でした。

1916年ベームは郷里のオーストリアのグラーツで指揮者としてスタートし、その後グラーツの歌劇場の主席に着く事が確実になっていた頃ミュンヘンの歌劇場より第三または第四指揮者の契約のためにミュンヘンで指揮してみないかという誘いの電報がベームに届く。電報の発信者は当時のミュンヘンの歌劇場の音楽監督であったブルーノ・ワルターであった。グラーツと縁の深いの当時の名指揮者のカール・ムックがワルターに推薦したらしい。とうとうワルターが私の目の前に登場した。
 
ミュンヘンでの「魔弾の射手」「蝶々夫人」の二つのオペラの試演の後、ワルターは若いベームに「ベーム君、ミュンヘンは気に入りましたか?」とたずねるとベームは「素晴らしく気に入っています。」と答え、ワルターは「ミュンヘンもあなたを非常に気に入っています」と答えグラーツで「フィデリオ」を指揮した事を述べるとワルターは「あなたはここでそれを振る事は無いでしょう。あなたは私の元でまだたくさんの事を学ぶ事ができるのが私の意見です。(中略)私は欲の為にいうのではないが私はあなたに勧めたい。ここにとどまることを。あなたは昇進していき多くの事を学び取る事でしょう。ミュンヘンの席を引き受けなさい。」
1921年ベームは郷里の主席指揮者を約束されたグラーツを去り末席の指揮者としてミュンヘンに移るのである。

「この時から私とワルターとは親密な関係が成立した。私たちは第二次世界大戦中も手紙を交換し友情は彼の生涯の最後まで続いた。」
「何よりも決定的な事があった。ワルターが私をモーツァルトに近ずけてくれた。」
「私はワルターの指揮で行われるモーツァルトの公演は、ほとんど欠かさ無かったし、可能な限り練習も傍聴もした。ワルターは私の興味に気が付きミュンヘンで活動して最初の年なのに、私のような末席で一番若い指揮者に「後宮からの誘拐」(ベルモンテ役はタウバー)がまかされるという信じがたい出来事が生じた」(ベームの生涯最後のオペラのプレミエはミュンヘンでの「後宮からの誘拐」である!)
「ワルターはよく師のマーラーの事を思い出して語った。その際どれほどこの先生に恩を受けているかを強調するのを忘れなかった。」
ワルターの秘蔵っ子のソプラノがミミを歌った「ラ・ボエーム」の公演でワルターはベームに繰り返して言う。「彼女は魅力的な声だが、まだ声量が小さい。彼女はまだ17歳だからね。プッチーニの管弦楽は恐ろしくやかましい。迎えたまえ。極力迎えたまえ。」彼女こそ後年ベームの妻となるテアである。

ベームの回想録を通じてワルターという指揮者に大変興味を持ちマーラーやベートーヴェンなどのレコードを買い求めて聴いてみましたが「レコード芸術」では名盤とされているものも今一ついいとは思いませんでした。

ワルターが私のすぐそばにいるのですが私が彼の芸術に開眼するには、まだ年月が必要でした。続きは次回に。(いよいよ最終回かな?)

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2 コメント

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2007-09-29 10:11:37
ワルターに目覚める時が来るのですね。
どういう転機が訪れるのか楽しみにしています。

オペラファンさんがミュンヘンに思い入れる気持ちがだんだんわかってきました。
敬愛する音楽家たちが本拠地として活躍していた場所ということで。

近い将来是非ミュンヘンを訪問されて下さい。
私もまた行きたいと思っています。
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ミュンヘン。 (オペラファン)
2007-09-30 21:46:20
昨晩は飲み会があって暴れて?いたらしくご返事が遅くなりました。

ミュンヘンは作曲家ではワーグナーやR・シュトラウスの所縁の地。指揮者では私の大好きなワルター、クナッパーツブッシュ、ベーム、そしてサヴァリッシュが活躍していましたので、どうしてもこだわります。普通はヨーロッパの歌劇場というと、まず第一にウィーン国立歌劇場を挙げる方が多いと思いますが私は何といってもバイエルン州立歌劇場とミラノ・スカラ座です。

さて記事の補筆ですが、私はカラヤンに関する本も読みましたが何か権力闘争的な記事が多く、この作曲家を聴きいてみよう、この作品を聴いてみたいと思った事は皆無でしたが、ベームの場合は全く逆でした。ベームがいなかったらワルターもベルクも素通リ、R・シュトラウスのオペラも熱心に聴かなかったかもしれません。
最後にベームの死後、出版された本を二冊。
①「カール・ベーム」フランツ・エンドラー著
4800円もしましたが写真や手紙が多く掲載されベームのミュンヘン時代から晩年まではまさに一つの音楽史であり、その生涯は大変重いものであったと改めて痛感します。また序文はなんとレナード・バーンスタインです。
②「カール・ベーム 心より心へ」真鍋圭子著
晩年のベームと大変親交の深かった真鍋氏のエッセイ。特に死を目の前にしたベームがいかに壮絶であったか本当に胸を打ちます。


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