夢逢人かりそめ草紙          

定年退職後、身過ぎ世過ぎの年金生活。
過ぎし年の心の宝物、或いは日常生活のあふれる思いを
真摯に、ときには楽しく投稿

七夕(たなばた)の日、高齢者の私でも、ささやかな短冊の願いを思い馳せれば・・・。

2020-07-07 12:52:53 | ささやかな古稀からの思い

私は東京の調布市の片隅みに住んでいる年金生活の75歳の身であるが、
私たち夫婦は子供に恵まれなかったので、たった2人だけ家庭であり、
そして私より5歳若い家内と共に、古ぼけた一軒屋に住み、ささやかに過ごしている。

今朝、ぼんやりとカレンダーを眺めると、七夕(たなばた)の日、
と明記されていた・・。

私は年金生活16年半も過ぎた上、
子供、そして孫もいないので、
ともすれば曜日感覚も薄れる時もあり、
本日は、『七夕(たなばた)の日』かょ・・と微苦笑したりした。

私は齢を重ねるたびに、病院に通院することが増して、
今や火曜日の午前中は、右脚の膝(ひざ)を痛めて、整形外科に通院している身で、
小雨降る中、路線バスを利用して、向かった・・。

こうした中で、バスに乗車し、車窓から情景を眺めていた時、
過ぎし年のささやかな短冊の願いを思いだされたりした・・。

          

       ☆ 過ぎし2018年の7月初旬、『神代植物園』で『七夕飾り(たなばた・かざり)』にめぐり逢い、
         記念に撮ったりした ☆


私の現役サラリーマン時代の夏季休暇の旅行は、

1996年(平成8年)の時は、作並温泉に8月初旬に3泊4日で滞在した。

この当時、私たち夫婦は、何かとJR東日本のビューの旅行パンフレットを見たりして、
幾たびか旅路を休日とか代休を活用して、重ねていた私たちの時代であった。

こうした中、仙台市の郊外にある作並温泉は未知であったので、
夏季休暇を利用して、周辺の観光めぐりをしょうとした。

この当時も、私は現役のサラリーマンで数多くの人と同様に、多忙な時期であった・・。

春先に大幅な人事異動であり、私も異動し、ある部署に落ち着いたと感じた夏季休暇に、
家内と宮城県の作並温泉にある観光ホテル『一の坊』に3泊4日で滞在した。

          

上野駅から新幹線に乗り、たった2時間ばかりで仙台駅に到着したのは、

私はかっての国鉄時代の『L特急』大好きだったが、新幹線の威力に改めて驚かされた。

そして在来線の仙山線に乗り継ぎ、仙台市の郊外の情景を眺めたりし、
『愛子』と名づけられた駅、街を思わず微笑んだりした後、1時間弱で、作並駅に到着した。

駅前から宿泊先の観光ホテルの迎えのマイクロバスが待機して下さり、
私たち夫婦は乗り込み、樹木の多い林の中を通り抜けると、
宿泊先の看板、そして建物が観えた。

広瀬川に沿ったゆるやかな傾斜に館内の露天風呂の数々があり、
私たち夫婦は、それぞれの風呂を享受した。

そして川べりに近いところからは、広瀬川の清流に小魚が遊泳する情景も見られ、

水は清き、という言葉がぴったりだ、と私は家内に話しかけたりした。

              

こうした中、館内に宿泊している方達は、仙台市の中心街の七夕を観に行かれる方が多かったが、
私は平素は会社で多忙だった時代で、せっかくの休暇に、
わざわざ人の多過ぎるところは、なるべく避けていたので、論外であった。

まもなくホテルのロビーの一角に、
3メートル前後の竹に5色の短冊が飾り付けられていたことに気付いた。

私は昼の風呂上り、浴衣姿でロビーの一角を歩いていた時、
この短冊を何気なしに読んだりしてしまった・・。

数多くの短冊を読んだが、ひとつの短冊に瞬時に心を惹(ひ)かれた・・。

《 らいねんも このホテルに
      かぞく ぜんいんで こられますように 》

と小学生の上級生の女の子らしい綴りで書かれていた。

          
        
私は作並温泉に訪れる途中で、
仙台市内の華麗で豪壮な七夕(たなばた)を少し観えたが、
この女の子のひとつの短冊に籠(こ)められた願いが、心に沁みた・・。

そして私は華美な仙台の七夕もそれなりに良いが、遥かにこの短冊のひとつに魅了され、
この人生の微笑みを頂き、心を寄せたりした。

このようにささやかな想いでがあり、私はこうした情愛が限りなく愛(いと)おしく、
華美な飾りより、たったひとつの願いを託した尊ぶ心に、圧倒的に魅了されたりした。

          
              

私は齢を重ねるたびに、幼年期の頃の出来事を思いだすことが、多くなっている。
こうした時に、幼年時代に七夕の飾り、短冊のことも思いだされる・・。

私は1944年(昭和19年)の秋、東京の郊外で農家の三男坊として生を受けた。

祖父と父が中心となり、小作人の手を借りながら、程々に広い田畑を耕していた農家であった。

こうした中で、七夕(たなばた)に関しては、
私が小学生の頃まで、生家の庭の隅に竹に短冊を吊るす慣わしだった。

東京の都心は、もとより全国の各地は『七夕(たなばた)の日』は7月7日が多かったが、
東京の郊外の付近の一部の地域に於いては、一ヶ月遅れの8月7日であった。

              
      
               現在、私の住む周辺は無念ながら竹林がなく、私が6月中旬、近くの『実篤公園』で撮った一葉。

母屋の宅地に隣接している竹林から、
兄と共に私は、孟宗竹の今年成長した5メートル前後の若竹を一本だけ伐って、
庭の片隅みに兄たちが杭を打ち、安定させていた。

父の末妹の叔母が嫁ぐ前だったので、お正月の小倉百人一首と同様に、
叔母の指導の下で、私は妹のふたりと共に飾りだてをすることが多かった。

こうした毎年過ごしている間、
1952年(昭和28年)の3月、私が小学2年の3学期、父に病死され、
その翌年の1953年(昭和29年)年の5月に祖父が亡くなった。

農家の大黒柱の2人が亡くなり、母と叔母、そして長兄、次兄、私、そして妹の2人が残されたが、
もとより農業の技量、大人の男手を失くしたので、生家は没落しはじめた・・。

          

私は祖父の葬儀が終わった後、学校に行くと、担任の女の先生から、職員室に呼ばれた。

『XXくん、貴方のお父さん、お祖父(じい)さんも亡くなってしまい、
大変に可哀想と先生は思っていますが・・貴方、男の子でしょう・・
お母さんに心配させるようなことは・・分かっているわよね・・』
と私に言った。

そして
『男の子は、頑張るのよ・・』
と担任の女の先生は、私に握手してくれた。

              

やがて私は、その夏、短冊に秘かに書こうとしたが、少しためらっていた・・。

《 せんせい、あくしゅもいいけど、
              だきしめてほしい・・ 》

叔母や妹ふたりは短冊に何かしら綴っているので、私は本心を書けなく、ためらっていた。
そして私はやむなく、

《 せいせいも げんきで
            ぼくもがんばります 》
と何とか読める汚(きたな)い字で書いた。

短冊を吊るしている時、叔母が、
『どういうことなの・・』
と私に言ったりした。

『何でもない・・何となく・・』
と私は下を向きながら、叔母に答えたりした。

私は小学生の時は、兄ふたりは成績が良い優等生で、
私はいじけた『2』と『3』の多い劣等生で、可愛げもない児であったが、
齢を重ねた75歳の今、それなりに苦(にが)くも懐かしい想い出となっている。

                        

余談であるが、『七夕(たなばた)の日』に関しては、
現代風に解釈したならば、遠距離交際の恋人たちが、待ち焦(こが)がれて
たった一年に一度だけ秘かに逢える日、と齢ばかり重ねた私は、固く信じてきたひとりであった。

しかしながら、織姫と彦星の関係は恋人でなく夫婦であった、と65歳の時に私は知った時は、
私は、夢をこわさいないでね、と微苦笑したことがあった。

コメント (2)
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