真実を知りたい-NO2                  林 俊嶺

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尊王攘夷と「異人斬り」 NO2

2018年08月06日 | 国際・政治

 幕末、イギリスが公使館を置いていた東禅寺は、尊王攘夷を掲げる武士(浪士)に、二度も襲われています。 イギリス公使オールコックが、その書簡の中で、この事件について”西欧列強が代表を派遣した国の、政府が置かれている首都で、このような極悪非道な行為が行われたことについては、何ら贅言(ゼイゲン)を要しない”と書いています。こうした襲撃は、当時すでに国際社会では、時代遅れで非常識な犯罪行為だったのだと思います。

 また、東禅寺の襲撃は、いずれも「夜襲」です。尊王攘夷のためには”寝込みを襲う”という野蛮な行為も正当化されるということだったのではないかと思います。

 この時、武士(浪士)・有賀半弥の懐中書に
私儀草莽浪士・微賤(ビセン)の身(わたしは在野の身分の低い人間ーー引用者)なれども、神国(日本)が夷狄に汚されるを見るに忍びず、尊攘の大義に基づき、身命をなげうち、くくの微衷(ビチュウ)(わずかな真心)を以ていささか国恩の万一に報いんとす。もしこの一挙が他日外人掃攘(放逐)の端緒ともなり叡慮(天子の考え)を始め奉り、台慮(タイリョ)(政府?)をも安んじ得れば、無上の光栄である
とあったといいます。幕末期、国際社会の常識や国際情勢をほとんど何も知らなかった若者の一途な思いに同情すべき点はあるかもしれません。しかし、尊王攘夷の思想が” 神国が夷狄に汚されるを見るに忍びず”というような狂信的なものであったことは、見逃してはならないことだと思います。
 
 なぜなら、尊王攘夷急進派を中心に構成された明治新政府は、憲法で”大日本帝国ハ万世一系ノ天皇之ヲ統治ス ”として、「神国日本」を明文化したからです。開国開市政策を進める幕閣や幕府の関係者の多くを暗殺し、いわゆる「異人斬り」をくり返した武士(浪士)の尊王攘夷の思想は、かたちを変えて明治の時代に受け継がれていったのだと思います。それが、その後の日本の野蛮性に発展していったのではないかと考えます。

 また、尊王攘夷派のこうした無謀で野蛮な犯罪行為の後始末や対応に追わて、幕府が追い詰められていった側面も見逃してはならないことだと思います。

 下記は、「幕末異人殺傷録」宮永孝(角川書店)から抜粋しました。
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                   攘夷派への圧力の中でーーイギリス公使館を夜襲
 
 第一次東禅寺事件
 文久元年五月二十八日(1861・7・5)の午後十一時から十二時にかけてのことである。イギリス公使オールコックは、いつものように枕の下にピストルを置いて床についた。疲れてぐっすり眠っていると、一人の若い通訳見習い生が暗い提灯をもって、オールコックのベッドのそばにやって来ると、寝ているかれを起こした。急を知らせに来たその見習い生は、公使館が襲撃され、暴徒が門内に闖入した、と伝えた。
 ・・・
 オールコックはピストルを持って、その現場に行くつもりで、入口の方に何歩か歩いていくと、突如血だらけのローレンス・オリファント(一等書記官、1861年6月着任)が姿を見せたのでびっくりした。かれは頭部と腕関節を斬られており、腕の傷口はぱっくりと開いていた。オリファントの部屋は建物の裏側、庭に面していたが、かれもオールコック同様、館内の騒ぎは召使いたちの喧嘩ぐらいに思っていた。
 ・・・
 オリファントは本国を出発するとき、友人からサーベルや鎖かたびらを贈られ、また自衛のためにピストルを求め来日した。が、突然の襲撃に度を失ったものか、防禦手段としては狩猟用むちだけで満足せねばならなかった。かれは急いで通訳見習い生のラッセルを起こし、物音が聞こえてくる方向に突き進んで行こうとしたとき、腕を上げて刀を構えた闖入者(浪士)が自分たちの方に向かって来るのを見たのである。オリファントは、むちの太く重い先端を相手に打ちながら、無我夢中で闘った。ピストルを持っていないことに腹立たしさや後悔を覚えながら必死に闘っているうちに、何度も殺されると思った。そして、この乱闘の中、かれは頭部と腕関節にけがをした。もうだめだ、と死を観念したとき、突然、ピストルの閃光が目に入り、かれは撃たれたと思った。しかし、その一発に救われたのである。その弾丸は、暴漢の一人を射殺したジョージ・S・モリソン(長崎駐箚イギリス領事)のピストルから発射されたものであった。モリソンも額に受けた刀傷ために血をしたたらせていたが、この発砲の混乱に乗じて負傷した人々は奥のオールコックの部屋に集まって来たのである
 ・・・
 オリファントの出血はひどく、意識を失いつつあった。オールコックはピストルを置くと、直ちに自分のハンカチでその腕の傷をしばらねばならなかった。切傷は骨に達し、伸筋の腱を三つ切断した。その他、右鎖骨の上から頸静脈にかけて切傷や右腕の上に刀の打ち傷などがあり、左手の掌骨(手のひらを形づくる骨)に打撲を受けていた。のち同人はこれらの傷がもとで程なく帰国した。オールコックが外科的手腕を発揮している間、となりの部屋(食堂)では、ひとしきり食器棚のガラスを割るような音が聞こえた。暴徒のうちの何人かは庭に面しているガラス戸を破って押し入った者のようだ。かれらはこの食堂の中で護衛兵らとしばらくの間斬り合いをし、二名ほどが討たれるのであるが、もしここで斬り合うことがなかったら、襖の陰にいたオールコックらは凶徒に発見され、斬殺されていたかも知れないのである。

 オールコックの部屋に集まったオリファント、モリソン、ラウダーらは、生の望みを棄て、一人でも多くの暴徒を殺して死ぬ覚悟をきめた。暴徒らは暗い部屋の中の柱や襖を斬りつけ、器物を破損させ、傍若無人にふるまったのだが、東禅寺には大勢日本の衛士がいるにもかかわらず、だれ一人として直ぐにオールコックらの救援に来るものはいなかった。
 ・・・
 乱闘が終わったのち、オールコックやオリファントらが食堂の中に足を踏み入れたとき、愕然として色を失った。かれらがその部屋で見たものは、身の毛がよだつような光景であった。まずオリファントは血の海の中で足をすべらせた。人間の胴体が食堂の中央あたりにころがっている。首は付いておらず、それは食器棚のそばにころがっている。オリファントは襲撃が起ったとき、寝巻姿ではだしのまま飛び出したのであった。かれは素足の下に「カキのような感触」があったので、それをよく見たところ「人間の眼球」であった。またある死体は、見るも無残な姿であり、顔面の部分は手斧でたたき切られたかのように切りそがれており、後頭部だけが原形をとどめていた。これは屋内で打ち取られた者の死体の有様だが、屋外で護衛兵と戦っているうちに落命した凶徒もあった。当時、外国方の役人として東禅寺詰であった福地源一郎(1841~1906、明治期のジャーナリスト)によれば、別手組の某などは、血刀をたずさえ、血のしたたる生首を持って外国方の詰所(中門内の右側にある塔中、目付方も同所で宿直する)へやって来るなり、「敵を打ち取ったり、一番首の高名御記し下さるべし」といい、詰所の縁側にそれを置いて行ったという。
 ・・・

 事件後発せられたオールコックの書簡
 公使館の襲撃があった翌朝、まだ朝が明けきらぬうちに、オールコックは横浜沖に停泊中の郵船リングダブ号のクレーギー艦長宛ての急送公文書を二名の騎馬の役人に持たせ、事件発生の状況を伝え、緊急援助を要請した。その文面は、次のようなものである。

   イギリス公使館
   1861年7月6日午前2時江戸にて
 拝啓
 真夜中になるちょっと前、暗殺者の一団が四カ所から公使館の中に押し入り、居住者を捜し求めて邸内に散開しました。私たち館員はみなベッドに入っておりました。オリファント氏は急に起きると、廊下で凶徒の何人かと遭遇し、手首や首の部分に刀傷を受けました。モリソン氏も自分の部屋を出たとき同じように敵と遭い、負傷いたしました。役人たちの遅まきの助けを借りて、凶徒を撃退することができました。しかし、夜が明けるまで、まして今後も安全だという保障はありません。
 したがってお願いせねばならないのは、直ちにリングダブ号で江戸に来ていただきたく、そして集められるだけの屈強な水兵の護衛隊を上陸させて欲しいのです。また、士官は、どのような方針を採るのが得策か、私が決断するまで艦にいてもよろしいかと思います。かくお願いするのは公使館の安全と、条約にある権利を守るためなのです。敬具
                 ラザフォード・オールコック
  イギリス海軍リングダブ号
   クレーギー大佐殿

 この要請に対して、クレーギー大佐は、自ら十分に武装した二十名の海兵隊員を率きつれて東禅寺にやって来た。また驚いたことに、イギリスの海兵隊と共に、フランス公使ド・ベルクールも、輸送艦ドルトーニュ号から引き抜いたフランス水兵の一団を連れてやって来た。ベルクールがクレーギ大佐の一隊と行動を共にしたのは、危険をいっしょに甘受しよう、といった騎士道精神(義侠)から出たことであった。フランス公使がオールコックらの危機を知り、迅速な行動をとったのは、次のようなオールコックからの火急の知らせを受けとったからであろう。
     
  1861年7月6日 江戸にて
 拝啓
 昨晩十一時から十二時にかけて、イギリス公使館は突然攻撃を受けました。浪人とも呼ばれる武装した日本人の群れや水戸公の家来などによって同時に戸口を破られました。公使館のオリファント、モリソン両氏とは廊下で会いましたが、二人とも怪我をしておりました。遺憾ながらオリファント氏はひどい手傷を負っておりました。モリソン氏が撃ったピストルの弾はそれたのですが、敵を追い払うのに効果があったようです。すぐに役人や大名の護衛兵らが現場にやって来たようで、凶徒らは私の部屋を除く、ほとんどすべての部屋に押し入り、ベッドや家具などをずたずたに切ってから、ようやく館内から追い払われました。あちこちに血痕があり、公使館に通じる道や並木道で警備の士官や兵といつまでも戦闘が続きました。
 西欧列強が代表を派遣した国の、政府が置かれている首都で、このような極悪非道な行為が行われたことについては、何ら贅言(ゼイゲン)を要しないのです。ご参考と情報がてら、仲間の皆さんに以下の事柄をお知らせ申し上げておくのが私の義務と考えます。すなわち一時的措置としてイギリス海軍の「リングダブ」号を出動させ、護衛兵を上陸させることにしたことです。江戸にある当公使館及び他の公使館が将来にわたって安全を保つためには、どのような方策を採るのが得策なのか、またかくもひどく踏みにじられた国際的に認められた権利と特権をどう維持してゆくか重要問題となっています。差し迫った問題の重要性を見逃すわけにはまいりません。しかしながら、もしご意見を私に寄せたい気持ちがおありなら、この件について貴殿ならびに仲間の皆さんとよろこんでご連絡をとりたく思います。
                                         敬具
                             ラザフォード・オールコック

 これと同一内容の手紙は、アメリカ公使ハリス、オランダ総領事デ・ウィットら二人にも送られ、のちにオールコックは返書を得た。
 ・・・
 (もちろん、イギリス外務省「ラッセル外相」にも長文の急送公文書を送っているが略)

 尊攘の大義に身命をなげうつ
 ・・・
 この事件が起こったとき、各国外交団は水戸藩主が浪士らをけしかけて行わせたのではないかといった疑惑を抱いたが、浪士・有賀半弥(討死)の懐中書に「私儀草莽浪士・微賤(ビセン)の身(わたしは在野の身分の低い人間ーー引用者)なれども、神国(日本)が夷狄に汚されるを見るに忍びず、尊攘の大義に基づき、身命をなげうち、くくの微衷(ビチュウ)(わずかな真心)を以ていささか国恩の万一に報いんとす。もしこの一挙が他日外人掃攘(放逐)の端緒ともなり叡慮(天子の考え)を始め奉り、台慮(タイリョ)(政府?)をも安んじ得れば、無上の光栄である」とあった文面の翻訳(イギリス公使館のマイバーグ医師やフランス公使館のブレックマンらが訳したもの)を読み、また同書簡に明記されている襲撃者(有賀、岡見、前木、森、榊、木村、イシカワ(石井?)・キンシロー、矢沢、渡辺、古川、山崎、中村、小堀、カラサワ・ゴロ)の名前を知ると、公使館への討ち入りは鎖港(鎖国)の旧習に基づく一事象と理解し、また幕府も迅速に下手人の追捕に努め、品川の妓楼虎屋に再び寄った浪士四名(うち三人は自殺)を捕らえたので、ヒュースケンの殺害事件のときのように、英仏公使は江戸を退去するようなことはなかった。

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 第二次東禅寺事件
 東禅寺が襲撃されてから一周年にあたる文久二年五月二十九日(1862・6・26)の深夜、第二の事件がまたもや公使館内で起こった。イギリス公使オールコックは同年二月に休暇を得て本国に帰国し、四月には代理公使として陸軍中佐エドワ-ド・セント・ジョン・ニール(?~1866)が清国より来日し、しばらく横浜で暮らしたのち、五月十五日(6・12)館員やイギリス軍艦レナード号の海兵隊員三十名と共に東禅寺に入った。当時イギリス公使館の護衛の任にあたったのは、幕府別手組のほか戸田采女正・松平丹波守・岡部筑前守らの家臣535名である。ニールによると、五月十五日の晩から事件が起こった同月二十九日(6・26)にかけて、何ら危険な徴候は見られなかったという。
 文久二年五月二十九日の十二時半頃、館員らはすべて床についた。起きているのは建物の周囲に間隔を置いて警備についているレナード号の見張り(歩哨)数名だけである。ニールはベッドの中に入ってはいたが、まだ眠ってはいなかった。すると突然、かれの寝室に隣接する縁側の見張りが誰何(スイカ)するのを耳にした。返事の合いことばは、間違いのないものであったが、その見張りは縁側から降りて近づいて来る者の方に三、四歩進んだ。ニールは何か異様な感じがしたので、ベッドの上で身を起こすと、成り行きを見守った。突如、ひじょうな苦痛の叫びがし、次いで何かに切りつけるような音がしたが、そのつど苦悶の叫びが上がった。一瞬沈黙が支配し、そのあと高台(寺院の裏手の丘陵)の方で太鼓を打つ音がしたかと思ったら、日本人の衛士らが集まって来た。ニールはベッドから飛び起きると、居間と食堂を横切り、護衛兵の部屋に入った。見張り(チャールズ・スイート)はその部屋の床に横たわり、今にも死にそうな様子だった。体には無数の刀傷や槍傷がみられた。館員と護衛兵全員が起こされ、寺院内のいちばん大きな部屋に集まると、襲撃者に備えた。
 しばらくすると、海兵隊のクリンプス伍長の姿が見えないことがわかったので、アプリン大尉が部下を何名か連れて探しに出かけたところ、クリンプスがニールの寝室に接している縁側の戸口の所でたおれて死んでいるのがわかった。かれは刀傷や槍傷を無数に受けていたが、ピストルを一発発射していた。
 見張りのチャールズ・スウィートの手当てをした公使館付のジェンキンズとウィリスの両医師は、虫の息のスウィート(翌朝死亡)から聞き出したところでは、大きな池の上に渡してある丸木橋を通って誰かが近づいて来るようだったので、誰何すると、合いことばを返してよこした。暗闇のため、相手の姿がよく見えなかったので、スウィートはその者のほうに進み寄った。そのとき橋のはずれの所に四つんばいになっていた別の男が急に躍り出ると、槍で突きかけられ、さらに刀でマスケット銃をもっていた手を切られた。かれはクリンプス伍長がその場にやって来るまで無数の傷を受けた。
 クリンプスはニ十歩ほど離れた芝生のはしの縁側の所にいたのだが、スウィートの救助にやって来たところ、襲われた。ピストルを一発撃っただけで斬りたおされた。襲撃者は一人だったのか、複数であったのか定かでないが、戦っているうちにニール中佐の部屋に通じる階段の所あたりまで来たとき、槍傷を受けた。このことから縁側の下にもう一人別な襲撃者がいたのではないかと疑われた。日本の衛士は何の役にも立たず、スウィートが襲われたとき、すぐに逃げ出したという。
 ともあれ、この深夜の襲撃で、見張りについていた
  チャールズ・スウィート Charles Sweet (レナード号水夫、年齢不詳)
  リチャード・クリンプス Richard Crimps (レナード号伍長、年齢不詳)
の二名は死亡した。スウィートはロンドンのオルダースゲートに母を一人残し、またクリンプスはデヴォン州ダートマス(港町)に両親を、さらに妻グレース(住所不明)を残して逝った(ジェンキンズ医師のメモによる)。
 ・・・
 この事件は偶発的なものではなく計画的なものであったことは、公使館側もうすうすわかっていたようである。第一補助官兼会計官のアベル・A・J・ガウアは、襲撃の翌日、信頼すべき日本人から聞いた話として、伊東軍兵衛は昨年東禅寺を襲撃中に亡くなった仲間の仇討をするつもりであること、その血祭として公使を殺すつもりである、と語っていたという話を伝えている。フランス公使のベルクールが個人的にある日本人から聞いた話では、事件当夜、高台のほうから四、五名下りて来る者がいたということである。またガウアとフォン・シーボルト(特別通訳官)は、事件当夜の九時頃、公館の側から天空にのろしがあがるのを目撃している。事件の数日前から、日本人の召使いらは館内で休むことを嫌がり、中には襲撃を恐れている者もいたということである。
  ニールがこれらの事実やうわさに接した感触では、日本人の護衛兵のすべてがこの事件に関与していないにしても、襲撃のことは知っていたはずだ、とするものであった。 

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