真実を知りたい-NO2                  林 俊嶺

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南京事件 陣中日記 日本兵加害の記録 NO1

2015年03月16日 | 国際・政治

 下記は、南京戦に関わった第13師団山田支隊の兵士の手帳などに書き留められた陣中日記、戦闘日誌、陣中メモ、出征日誌、軍事郵便(戦地から親戚や 知人宛に送られたもの)など19人の記録から、7人の記録(1~7)の、それもごく一部を抜粋したものである。南京陥落後の投降兵・捕虜の「処分」(殺害)やその死体処理に関する部分を中心に「南京大虐殺を記録した皇軍兵士たち 第十三師団山田支隊兵士人陣中日記」小野賢二・藤原彰・本多勝一編(大月書店)から抜粋した。

 これらの資料収集に当たった小野賢二氏は同書の「あとがき」に、

 俺 は「6[宮本省吾]陣中日記」入手をキッカケに、これでもう調査をやめようと決心した。何故なら、この日記は、証言ではすでにわかっていたが、まだ発表さ れていなかった2日連続捕虜虐殺をはじめて記述した陣中日記だったし、それまでの調査が、俺にとってはあまりにもキツかったからに他ならない。電話で怒鳴 られ、玄関払いをくらい、調査依頼の手紙をそのまま返却される。しかも、当事者と向き合う緊張感に耐えられなくなっていたのだ。…

と 書いている。南京戦に関わった元日本兵が、なぜ電話で怒鳴るのか、なぜ玄関払いするのか、なぜ調査依頼の手紙をそのまま返却するのか、と疑問に思う。もち ろん「辛い過去を思い出したくない」ということはあるだろう。でも、そうであるのなら、何も怒鳴る必要はない。門前払いや調査依頼の手紙をそのまま送り返 すこともない。気持ちを伝えて断ればよいことである。だから、なぜ、と考えさせられるのである。

 『南京戦 閉ざされた記憶を尋ねて 元兵士102人の証言』(社会評論社)の編著者、松岡環氏 も、南京戦に関わった元日本兵を尋ねて歩き、小野賢二氏と同じような経験をした事実について書いている。そうした元日本兵の反応は、やはり、軍命に従って 命をかけて戦った辛く苦しい戦争経験を、残虐だとか、戦争犯罪だとかいうことで敗戦後に批判され、その責任を問い詰められるようなことが受け入れがたいか らではないか、と思う。しかしながら、根底には略奪や強姦、捕虜虐殺というような戦争犯罪に加担し、惨酷なことをしたというような後ろめたい気持ちがあるからこその反応ではないか、と思う。もし、南京で日本兵がほんとうに歓喜をもって迎えられ、南京大虐殺が単なる「まぼろし」であるのなら、そうした反応は考えにくい。

 「再現 南京戦」(草思社)の著者東中野修道氏は、

”逃走中の中国兵は日本軍に対する好機を狙っていた。日本軍への反撃を狙って、被拘束兵が幕府山で故意に火を放った。会津若松65連隊はいつ襲われてもおかしくない戦闘中にあったのである。

 ちなみに、ハーグ陸戦法規は第8条の「処罰」において、「総テ不従順ノ行為アルトキハ、俘虜ニ対シ必要ナル厳重手段ヲ施スコトヲ得」と謳っている。従って戦闘下にあるこの処刑は合法であった。

と書いている。下記のような会津若松第65連隊の兵の記録を読むと、そういう解釈が可能であるとはとても思えない。投降兵・捕虜の処分(殺害)は明らかに計画的である。日本軍兵士に犠牲者が出たという[宮本省吾]陣中日記の記録ついても、捕虜殺害にあたって失態があり、犠牲者が出たということであって、捕虜に「不従順ノ行為」があり犠牲者がでたから、捕虜を殺害したという記録ではない。すなわち、戦闘行為による殺害で、合法であるとは受け止められないものである。

 なお、抜粋にあたって、漢数字を半角算用数字にしたり、明らかに誤字と思われるため、正しいと思われる文字が示されているものは、その文字に変えたりした。また、所属や階級、入手経緯、日記の態様とともに示されている住所や職業は省略した。 (並べかえ編集3/21)
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1 [斎藤次郎]陣中日記

所属:歩兵第65連隊本部通信班小行李・編成
階級:輜重特務兵(1938年1月一等兵に進級)
入手経緯:遺族より
日記の態様:縦約11.5センチ×横約7.5センチの「川崎汽船株式会社」の社名入り手帳。縦書き。以下略

12月17日 晴
 今日は南京入城式があるので各班は勤務者以外は参列する事にする。小行李では折半して自分と××、武田、岡本の三君が勤務する事にして残の諸君が午前8時出発する、午前中当番を残し馬糧を徴発して来る、我が飛行機十数機が入城式に参加して爆音勇ましく我等の上空を翼を並べて飛んで居る様は勇壮だ、今日は旧の油しめ15日だとて乗馬の××××君と合して5人で砂糖小豆をしてたべながら「内地に居るとなあー」と焚き火を囲んで雑談に耽る、我等も近々に揚子江対岸にあがり10余里行軍して守備につくらしい話し向きがある、避難民の有様を見たが実に哀な状態だ、どんな事をしても敗残国になりたくないものと思った、夕刻補充部隊が150名到着した、×の安藤房雄君や橋本佐武郎君に会ひ金吉君の消息なども聴く、残留部隊になつて居るそうだ。

12月18日 曇、寒
 午前零時敗残兵の死体かたづけに出動の命令が出る、小行李全部が出発する、途中死屍累々として其の数を知れぬ敵兵の中を行く、吹いて来る一陣の風もなまぐさく何んとなく殺気だつて居る、揚子江岸で捕虜○○○名銃殺する、昨日まで月光コウコウとして居つたのが今夜は曇り、薄明い位、霧のような雨がチラチラ降つてきた、寒い北風が耳を切るようだ、捕虜銃殺に行つた十二中隊の戦友が流弾に腹部を貫通され死に近い断末魔のうめき声が身を切る様に聞え悲哀の情がみなぎる午前3時帰営、就寝、朝はゆつくり起床、朝の礼拝をして朝食用意をして××、岡本、××の三君と南京見学に行く、都市を囲んで居る城壁の構造の広大なるのに一驚する、城壁の高さ約3丈乃至4丈幅約14、5間南京市内も焼け又は破壊され見るかげもない惨憺たる有様だ、敵兵の死体やら武装解除された品々が路傍に沢山ある、帰途は夕刻近く9時就寝する。
〔欄外記事〕銃殺捕虜の死体処理(18日0時)

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2 [堀越文男]陣中日記

所属:歩兵第65連隊本部通信班(有線分隊長)・編成
階級:伍長
入手経緯:遺族より
日記の態様:縦約18.5センチ×横約12.5センチのノート。縦書き。・・・

12月14日
 未明油座君支那の工兵大尉を一人とらえへ来る。
 年、25才なりと、R本部は5時出発、吾は第5有線班の撤収をまちて8時半出発。
 午後1時40分敗残兵を一人銃殺。
 敵の銃をひろひて撃てるものなり。
 第一大隊は1万4千余人の捕虜を道上にカンシしあり(午前)天気よし、彼の工兵大尉に車をひかせて南京へ向ふ、鹵獲銃は道路に打ちくだく。
 一丘をこえて南京の城壁間近に見ゆ。
 城壁1千米手前にて彼の工兵大尉を切る、沈着従容たり、時午後4時也。
 後5時半、R本部に至るも、本部未着6時40分頃着す。

12月15日
 午前9時朝食、10時頃より×××伍長と二人して徴発に出かける、何もなし、唐詩300首、一冊を得てかへる、すでに5時なり。
 揚子江岸に捕虜の銃殺を見る、3、40名づゝ一度に行ふものなり。

12月16日
 東京日々の記者の托便で稲田さんよりハガキをもらふ、内地は雪とのこと、去月28日歌会ありと。
 一日なすこともなし、×××伍長以下2ヶ有線班南京見物にゆく。

12月17日
 午前8時整列、山霧ながるゝ枯葉の道を下つて南京城へ向ふ、午前9時30分和平門より入城、松井石根大将(軍司令官)、朝香宮、長谷川第三艦隊司令官等の閲兵あり。
 午後2時20分国民政府楼上に国旗掲揚式を見る、故国の空に万才の三唱あり、正に劇的の一シーンなり、軍事ユービン局にハガキを出す。
〔欄外に発信一覧──省略〕

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3 [遠藤重太郎]陣中日記

所属:歩兵第65連隊第Ⅰ大隊本部・大行李・編成
階級:輜重特務兵(1938年1月に一等兵に進級)
入手経緯:遺族より
日記の態様:縦約10.5センチ×横約6.5センチの手帳。縦書き。南京事件にかかわる部分は、手帳の2頁分が破かれている。

10月3日
 ・・・
 小生は其所から呉淞の第一兵站病馬廠に行つて22日間行李長馬看ご、其の内に我大行李は前進したので我等残留部隊は後続して行つた、馬家宅、老陸宅、新木橋の戦争は我65の一番の戦績があつた、其の後我等は羅店鎮から軍行路嘉定城を通過、無錫に到着、軍の通信に依り江陰県の江陰鎮に着いて我本隊に到達した、其所に来る迄に我六十五聯隊は4ヶ所ばかりの戦斗があつて江陰に入城、一番乗は三大隊十二中隊、××君の名誉の働きをしたのは江陰の手前だ。
 江陰から鎮江に着く迄××君と2日一緒に行軍した、銃と背のう持ってくれた、私が馬がない為に足もいたいので自転車なり。

 江陰を出発して5日目、鎮江に到着、鎮江は電気もついて居つた上海の様でした、其所へ一宿又進軍、烏龍山砲台に向つた所はやくも我が六十五の一中隊と仙台騎兵とで占領してしまつたので又南京北方の砲台に向つたら南京敗残兵が白旗をかゝげ掲げて来たので捕虜2万
宗形君は12月17日夜10時戦死。

10月19日
 明20日揚子江を渡り北にすすむ、滁県に向ふ、南京城見たのは12月17日であつた。

12月20日
 揚子江を渡り西北方に進む。

12月21日
 七里行事、敵の姿も見えず敵の陣地もない、只所々の橋を破壊して逃げたので我軍の行軍はひまとれる。

12月22日
 我六十五聯隊はもくてき地に到着したのは午後5時、敵は退却して敵兵一人も居ない。
 南京北方一里の幕府山砲台一帯で捕虜した敵兵のしまつは実に我々特務兵に取つてわすれる事の出来ない感を一寸記す。

 幕府山に着く日の朝5時出発、一里も行軍しない内、まだくらいのに敵兵は白旗を立て、我軍に服して来た、見れば皆支那兵、服装は四分五裂これでも皇軍に抵抗したのかとびつくり驚いた、そこで一大隊は千八百名武器から馬から皆せんりょうした、二大隊も三大隊も皆

〔このあと2頁分破られて欠〕

 それから私と×××君と××君と3人で英れいを拝し火葬後骨をおさめて我隊に帰つた、誠に残念であつた。そして19日休んで又12月20日そこを出発したのであつた。

 南京から揚子江を渡り浦口に上陸、南京のすぐ向ひ、それから2日がかりで全椒に着いたのは12月22日午後5時であつた、市民は皇軍を迎へて日章旗を立てゝ迎へた、此所で我隊は警備に付くらしい。

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4 [伊藤喜八]陣中日記

所属:歩兵第65連隊第1中隊・編成
階級:上等兵
入手経緯:本人から贈与
日記の態様:縦約11.5センチ×横約7.5センチの手帳。縦書き。
 
12月17日
 午前8時出発、湯山鎮から自動車にて途中軍官学校、総理の墓、色々と戦友の墓など思ひもくたう(黙祷)して南京中山門通過、我部隊に復帰出来るだろう、午前10時到着。
 門内、励志社、陸軍軍官学校、警護司令部などあった。
 午後1時から南京入城式。
 夕方は大隊と一緒の処で四中隊で一泊した。
 その夜は敵のほりょ2万人ばかり銃殺した。

12月18日
 大隊本部に行った、そして午后銃殺場所見学した。実にひどい惨状でした。
 我軍に戦死10名、負傷者を出した。
 夕方中隊の自動車にて宇立山砲台警備の処に復帰致して安心した。

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5 [中野政夫]陣中日記

所属:歩兵第65連隊第1中隊・第3次補充
階級:上等兵
入手経緯:遺族より
日記の態様:縦約15センチ×横約8.5センチの手帳。縦書き。主としてカタカナ書きの文中にひらがなが混じっているが、原文どおりにした。

12月14日 晴
 警備。
 敗残兵掃蕩ノタメ中隊長准尉ノ一分隊と我四分隊トデ砲台ニ行ク。
 幾名トモ知レズ射殺ス。

12月15日 晴
 敗残兵数百投降シ来ルトノ報ニ一同出動、約2千名。
 山中ニ小銃約百丁、チェック4、銃重機2其ノ他多数ノ弾薬ヲ置キ逃走。
 右武器ヲ前日占領ノ自動車ニテ中隊ニ運ブ。

12月16日 晴
 警備。
 攻撃部隊ハ南京入城。
 中隊ハ砲台警備ヲ命ゼラル

12月17日
 警備。
 小隊員中××××、××××ノ両名歩哨服ム中、敵敗残兵ノタメ手榴弾ヲナゲツケラレ負傷ス。
 毎日敗残兵ノ銃殺幾名トモ知レズ。

12月18日
 警備。(大隊ニ於テハ1万7千ノ捕虜ヲ処分ス)
 変リタル事モナシ。

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6 [宮本省吾]陣中日記

所属:歩兵第65連隊第4中隊・第3次補充
階級:少尉
入手経緯:遺族より
日記の態様:縦9.5センチ×横6センチの手帳。縦書き。…11月3日までは主としてカタカナ書き、11月4日以降はひらがな書きとなっている。

〔12月〕15日
 一昨日来の疲れのため下士官に警戒をたのみ睡眠す、本日も出発の様子なく警戒に任ず。
 中隊は衛兵を多数出し又自分は巡察将校を命ぜられ全く警戒のため非常に疲労す。
 夕方より一部食事をやる、兵へも食糧配給出来ざる様にて、捕虜兵の給食は勿論容易なものでない。

〔12月〕16日

 警戒の厳重は益々加はりそれでも午前10時に第2中隊と衛兵を交代し一安心す、しかし其れも束の間で午食事中俄に火災起り非常なる騒ぎとなり三分の一程延焼す、午后3時大隊は最後の取るべき手段を決し、捕虜兵約3千を揚子江岸に引率し之を射殺す、戦場ならでは出来ず又見れぬ光景である。

〔12月〕17日 (小雪)

 本日は一部南京入場式に参加、大部は捕虜兵の処分に任ず、小官は8時半出発南京に行軍、午后晴れの南京入城式に参加、荘厳なる史的光景を目のあたり見る事が出来た。
 夕方漸く帰り直ちに捕虜兵の処分に加わり出発す、2万以上の事とて終に大失態に会ひ友軍にも多数死傷者を出してしまつた。
 中隊死者1傷者2に達す。

〔12月〕18日 曇

 昨日来の出来事にて暁方漸く寝に付く、起床する間もなく昼食をとる様である。
 午后敵死体の片付をなす、暗くなるも終らず、明日又なす事にして引上ぐ、風寒し。

〔12月〕19日 

 昨日に引続き早朝より死体の処分に従事す、午后4時迄かゝる。
 夕方又捕虜の衣類の始末につき火災起る、少しで宿舎に延焼せんとしたが引留む事が出来た、明日は愈々渡河の予定にて兵は其の準備に晩く迄かゝる、牛肉の油揚迄作り、米、味噌の久しぶりの配給、明日の食料の準備をなす、風寒く揚子江畔も漸く冬らしくなる。
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7 [杉内俊雄]陣中日記

所属:歩兵第65連隊第7中隊・編成
階級:少尉
入手経緯:遺族より
日記の態様:縦約11.5センチ×横約7.5センチの手帳。縦書き。カタカナとひらがなが混じっているが原文のままとして。

12月14日
 5時出発、一路南京へ進撃急なり、南京城外約6粁バクウ(幕府)山麓附近にて敗残兵捕虜スル事約壱万7千、武装解除ス、第Ⅲ大隊収容隊トナル、第7中隊軍旗護衛為南京城外城元門に午後6時20分ニ着、支那海軍学校宿営ス。

12月15日 晴天
 中隊主力(×小隊欠)残敵掃蕩為出動、小隊軍旗護衛為待機。

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OCNブログ人がサービスを終了するとのことなので、2014年10月12日、こちらに引っ越しました”http://hide20.web.fc2.com” に それぞれの記事にリンクさせた、投稿記事一覧表があります。青字が書名や抜粋部分です。ところどころ空行を挿入しています。「・・・」や「…」は省略を意 味します。漢数字はその一部を算用数字に 変更しています。また、明らかに誤字と考えられ、正しい文字が示されているものは、正しい文字にしました。 (HAYASHI SYUNREI) (アクセスカウンター0から再スタート:ブログ人アクセス503801)

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