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真実を知りたい-NO2                  林 俊嶺

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日本人戦犯自筆供述書 第59師団師団長 藤田茂 N01

2014年09月10日 | 国際・政治
 先だって、中国は日本人戦犯裁判における旧日本軍軍人や旧満州国官吏たちの供述書をネット上に公開したことが伝えられた。その後、さらに「抗日戦勝記念日」を制定し、盧溝橋の「中国人民抗日戦争記念館」で献花式典を開いたという事実も報道された。習近平国家主席以下、中国共産党最高指導部の全メンバーが参列し、全国各地の政府や軍、学校などでも関連の集まりがあったという。日中関係の今後を考えると、大変なことであると思う。

 中国は、日本で勢いを増しつつある安倍自民党政権を中心とする歴史修正主義的な人たちの言動が受け入れがたいのだろうと思う。ここでは、「軍の関与と命令-戦犯の供述」(34)ですでに取り上げたことのある「第59師団師団長 藤田茂」の供述調書を、再度、その内容を追加して取り上げることにした。同じ「侵略の証言 中国における日本人戦犯自筆供述書」新井利男・藤原彰編(岩波書店)からの抜粋である。下記のような自筆供述書の記述を、中国関係者の「洗脳」や「マインドコントロール」によるものであり、事実ではないとして否定したり、無視してよいとは思えないからである。

 中国の指摘が全て正しいわけではないであろうが、「自虐史観から脱皮する教育を進める」という安倍自民党政権やその支持者の「歴史認識」には、明らかに問題があると思う。不都合な事実をなかったことにしようとする側面を見逃すことはできない。

 藤田茂師団長も、抗日軍兵士のみならず、多数の住民の殺害や情報収集のための拷問、住民を追い出しての住宅の占拠、糧食の掠奪を認めている。また、「兵を戦場に慣れしむる為には殺人が早い方法である。即ち度胸試しである。之には俘虜を使用すればよい。4月には初年兵が補充される予定であるからなるべく早く此機会を作って初年兵を戦場に慣れしめ強くしなければならない」」「此には銃殺より刺殺が効果的である」と捕虜の「刺突訓練」を指示したという。

 師団長のこうした供述が、中国による「洗脳」の結果であるとは思えない。「罪を認めれば寛大な処置が受けられ、罪を認めなければ厳しい処置を受けなければならない」というような中国の主張に屈服し、生きて日本に帰りたい一心で、軍のエリートである師団長が、やってもいない事実を認め、恥を晒して、罪のない配下の多数の日本の兵を残虐非道行為の実行者にするとは考えられない。師団長ともなれば、自らが事実を偽ると、配下の日本の兵のみならず、日本という国にも多大の影響があることを知らないわけはないであろう。そんなことまでして、師団長が敗戦国日本に生きて帰りたかったのかどうか…。

 また、藤田茂師団長のこうした供述を否定するのであれば、それなりの検証可能な文書資料を示したり、供述と矛盾する事実や証言を具体的に示す必要がある。気持ちは分からではないが、日本に不都合な事実を否定するため、中国による「洗脳」を持ち出す議論は、世界に通用しない。住民殺害や「刺突訓練」などについては、中国人はもちろん、中国には拘留されていない日本人の証言もある。  

 但し、文中の”ママ”と注のある「水迫め」は「水責め」に、「感念」は「観念」に、「強迫」は「脅迫」に、「所調」は「所謂」に改めた。また、「犯罪事実 (注1)」は、いずれも第20師団の騎兵第28聯隊長時代のもので、1938年末から1939年にかけてのものであるという。
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             第1章 日本軍は何をしたか
筆供自述                               第59師団師団長・陸軍中将 藤田茂

  犯罪事実(注1)

 (一)三路李村攻撃 私は11月5日史村に於て牛島師団長より次の命令をうけました。「騎兵第28聯隊は明11月6日三路李村(運城東北40K)附近にある抗日軍を攻撃すべし。砲兵2中隊を配属す」。私は此の命令に依り11月5日午後8時史村を出発し11月6日午前5時三路李村南方3K畑道を前進中射撃をうけました。私は全部徒歩展開三路李村中央南入口に向て攻撃し午前7時其北端に進出した時北方3Kの高地を北方に移動中の抗日軍約10を発見し直ちに砲兵中隊射撃を命じました。午前8時頃私は第1、第2中隊長に対し「第1中隊は三路李村の西半部、第2中隊は東半部の抗日軍を徹底的に捜索すべし」と命令しました。此命令に依り両中隊は午前10時に至る間捜索を実施しました。私は午前9時頃其東部に放火一件を三路李村に於て目撃しました。

 此の捜索に於て三路李村住民を多数しました。之の事実は11月6日史村に帰り入浴中私の当番兵南岡上等兵の「今日三路李村で随分人民を殺したそうです」の談話を聞きました。この談話と放火とに依り証明されます。
 
 之は私が午前8時の捜査命令でを実行したものであります。


 (二)~ (三) 略

 (四)情報の蒐集。私は12月中旬張良村に於て情報係森戸中尉に対して「三路李村附近にある八路軍の兵力及行動状況を偵知すべし」と命令しました。森戸中尉は12月中旬より1月下旬に亘り将校斥候の逮捕せる中国人民16(後記)自ら逮捕せる人民14、以上を尋問して情報を蒐集し1月30日私に次の報告をしました。「三路李村附近にある八路軍の根拠地は三路李村北方約10Kの高地帯で其兵力は約200名。又行動地域は張良村北方20K東西に流るる小流以北の地域であります」此情報は森戸中尉が12月中旬私から受けた命令に依り逮捕人民を尋問するに方り拷問し殺害して得たものであります。

 之の事実は私が1月中旬の昼食後張良村聯隊本部裏庭の小部屋で森戸中尉が逮捕人民1名を水責めの拷問実施中を目撃し又同日夕食事「今日水責めにした人民はどうしたか」と私は森戸中尉に対し問ひましたら森戸中尉は「殺して裏門外の古井戸に投げ入れました」と報告しましたことに依り逮捕人民1名以上を拷問殺害しことを証明するものであります。之は私が8月3日河津に於て森戸中尉に与えし指示及12月中旬私が森戸中尉に対する命令で拷問殺害をしたものであります。

 被害状況、中国人民30の逮捕、拷問及1名以上の殺人。


 (五)鉄道警戒間の射殺。私は12月29日張良村に於て岡中尉に対し「岡中尉は部下小隊を指揮し12月30日より1月5日迄張良村駅に位置し張良村駅東方3K鉄道橋より張良村駅西方12K鉄道橋に至る間の鉄道を警戒すべし」岡中尉は任務服務中1月3日午前2時頃約20名の抗日軍の張良村駅東方3K鉄道橋破壊中なるを発見し直に之を攻撃し南方に退避せしむ。
 被害状況、抗日軍戦士2戦場射殺。押収兵器、小銃2、爆薬80㎏、
        電気発火器1、十字鍬1


 (六)俘虜殺害の教育指示。私は1月中旬将校全員昼食後張良村で次の如く談話し教育しました。「兵を戦場に慣れしむる為には殺人が早い方法である。即ち度胸試しである。之には俘虜を使用すればよい。4月には初年兵が補充される予定であるからなるべく早く此機会を作って初年兵を戦場に慣れしめ強くしなければならない」「此には銃殺より刺殺が効果的である」此の教育は私の当時最も大なる誤れる観念で此観念が終始私が厳重なる中国人民に対する罪行を犯した基因の一をなしたものであります。

 (七)~(十一)略  

 (十二)住宅の侵佔。10月13日及11月22日の第20師団長の蟠居命令に依り史村に於て40日間張良村に於て181日間の宿営の為私は住宅各各20棟を侵佔しました。
 (十三)糧食の掠奪。10月13日の第20師団長の命令「糧食は主食は師団貨物廠より補給を受くべし其他は現地調果に依るべし」此命令に依り私は偽村長を脅迫し糧食を供出せしめ所謂「軍票」に依り不等価支払いをしました。之は掠奪と同様のものであります。
 史村張良村蟠居間の掠奪せる糧食は次の通りであります。(日数221日。人420。馬420として最低量をもって計算す)
 肉類18.6噸。野菜55.7噸。薪123.8噸。馬糧185.6噸。


 (十四)人民の使役。炊事、水汲み、入浴場雑役として史村及張良村蟠居間中国人民を1日15名延3515名を使役しました。

 (十五)掠奪・強姦。張良村蟠居間糧食の受領のため大行李を使用す。大行李の特務兵(50名)は運城─張良村の往復間に於て家財掠奪、強姦の行為あることは特務兵の年齢35才以上なること、大部素質不良なる大阪附近の出身なること、常時賭博を実施しあることは之を証明します。之は私の糧食運搬の日々命令に依り実行せしめたものであります。

 ・・・以下略


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