4~5年前に 一度来たことのある「高根森林公園」。
あのときは、運良く きれいなカワセミに出会えたけれど
今回は どんな出会いがあるかな?
ハクモクレンが ちょうど花盛りで、あちらこちらに咲いています。
まだ花は少ないけれど、それでも・・
ニリンソウ ムラサキケマン
レンギョウが 咲きだしています。
あ、初レンゲ
芝生の広場で、「ふれあいまつり」が開催されていました。
草笛の演奏
吹き方の指導もして貰いました。
丁寧に教えてくださったんだけど・・・ ‘猫’は「ピ」とも鳴らせず
「1か月も練習すれば、出来るようになるわよ」と励まされました~(苦笑)
こちらでは、折り紙の講習
これならダイジョウブでしょう。
完成!
ツバキの隣にいるバッタは シュロの葉製。
草笛に悪戦苦闘しているとき、見かねた(?)方がプレゼントしてくれました
ほかにも、熱々の味噌汁をご馳走になったり・・
あれやこれやで童心に帰って、楽しい時間を過ごしました♪
「二ヶ領用水」
1611(慶長16)年から16年の歳月を費やし、農業灌漑用に造られた水路で
稲毛領から川崎領(現 多摩区~川崎区)の二ヶ領にわたるので、この名。
当時 工事を指揮監督した小泉次太夫の名に因んで、「次太夫堀」とも。
玉川絵図
享保~宝暦頃のものといわれます。
(パネルより)
全長 約32mの県下最大規模の用水路は、現代もソメイヨシノの
美しい人気スポットとして、多くの人に親しまれています。
満開の花の下、水辺の遊歩道を歩きました~☆
所々にシートが敷かれ・・ お花見場所の確保かな?
夜桜も きっと綺麗なんでしょうね!
列島各地から、次々と ソメイヨシノ開花の情報☆
そんな季節が やって来ましたよ
開花状況を探索しながら、近くをひと巡りしてみました。
校庭のさくらは もうかなり咲いてますが
「花の国」公園前の桜並木は、まだ こんな感じで
木全体が色づいて、ぽつぽつ咲いている木もあります。
3分咲き というところかな~ もうすぐです!
もう少ししたら、また 見に来てみることにしましょう
14,032歩
暖かさが続くようになりましたね!
いろんな花が一斉に咲きだして、どうやら やっと春本番☆
「花の国」の正面花壇には、早くもポピーが咲き始めています。
ハナモモ
ナノハナ
ベニジウム
(和名は「ジャノメギク」)
カンヒザクラ
ハクモクレン
これが咲くと、いよいよソメイヨシノの開花情報が
ミッキーマウスノキ
ナスタチウム
散歩が楽しみな季節の到来デス
16,265歩
以前 大磯の「六所神社」を訪ねた際に、こんな話を聞きました;
大化の改新後 地方に‘国’が整い、新たに赴任した国司は任地に着くと
まず巡拝と称してその国の有力大社を参拝するという制度がありました。
しかし、
巡拝に費やす日数・費用・人員確保が大変であることから、国府に近い所に
各神社の分霊を合わせ祀る総社が造られ、各神社から集まった神輿(分霊)が
納められた総社に 国司は参拝し、国家安泰を祈願するようになりました。
現在も、
毎年5月5日に行われている祭礼「相模国府祭(さがみこうのまち)」で
相模国一之宮「寒川神社」・二之宮「川勾神社」・三之宮「比々多神社」・
四之宮「前鳥神社」・平塚八幡宮・総社「六所神社」の六社の神輿が
大磯の斎場に集結して、国家安泰・五穀豊穣を祈念するのだとか。
さて、
前置きが長くなりましたが・・・そんなワケで、
今回 阿夫利神社下社でツアー解散のあと、せっかくなので
その相模国三之宮「比々多神社」を訪ねてみようと思いました。
ツアーのガイドさんにおおよその道筋を聞き、あとは道々尋ねながら
行くことにして・・・「石倉橋」バス停から、独り 歩き始めました。
「石倉橋」から 右の方へ下っていく広い道を歩いて行くと、何と
行けども行けども 人に会いません。 人が1人も歩いていない~
これは迷子になったら大変だゾ! と、あらためて気を引き締めて
‘猫’の「カンピューター」が 正常に作動することを願いつつ・・・
ガイドさんの話では、1kmちょっとある ということでしたが。
「関東ふれあいの道」の道標がありました☆
「比々多神社」と書かれてありましたっ!
この道でいいのね(ホッ)
面白い名前のバス停が・・
バスは、1時間に1本。
ガイドさんの言葉を反芻しながら、ちょっとした山道(?)に入ります。
相変わらず誰にも出会わず、いい道なんだけど ちょっと寂しい感じ・・・
尤も こんな道で誰かに出会ったら、却って ドキドキかもねぇ。
やっと、畑と人家のある所に出てきました
立派な石垣を巡らした家の石段に、腰を下ろしている年配の女性を発見☆
道をお尋ねしたら、話し好きな方だったようで 暫し立ち話になり・・(笑)
こういうことも、散歩の楽しみのひとつですもんね
道を確認することができて、元気も層倍!
歩き始めて30分ほどで、無事 神社に到着することができました。
「比々多神社」
主祭神: 豊斟渟尊(とよくむぬのみこと) ・稚日女尊(わかひるめのみこと)
天明玉命(あめのあかるたまのみこと) ・日本武尊(やまとたけるのみこと)
相殿神: 大酒解神(おおさかとけのかみ)=大山祇神 ・小酒解神=木花咲耶姫
神社の歴史は大変に古く、社伝によれば、紀元前655年(神武天皇6年)に
国土創造の神を祀り 国土安泰を祈ったのが創起とされています。
昭和初期に 神社周辺から360基の古墳が発見されたそうで、境内にある
「郷土資料館」には、縄文~近世の遺物・資料約2,000点が収められているとか。
時間の余裕がなく、残念ながら見学はできませんでしたが。
社務所におられた方が 駅までの道を丁寧に教えてくださり、
迷子にならずに、無事 家に帰ることができました。
お世話になった皆さま、大変ありがとうございました!
「女坂」は、緩やかな階段道で始まりました。
これなら ラク勝でしょう~
関東大震災による地形変化やケーブル開通で環境が変わるまでは、独楽・盆などを作る
木地屋や重箱・針箱・箸などを作る箱屋などの店が並ぶ門前町として賑わっていたそうです。
行く先各所に「女坂の七不思議」というものがあるようです。
見つけながら歩いて行けば、いつの間にか神社にたどり着くという仕掛けかな
まずは「弘法の水」
大山寺三世弘法大師が金剛杖で突いた所に水が湧き出し
爾来 夏の盛りにも枯れることがないといわれています。
紅葉橋を渡った所に「子育て地蔵」
普通のお顔のお地蔵様が、いつしか幼な顔に変わったそうで、
童顔のお地蔵様は、子供の健康と成長を守ってくださるとか。
女坂七丁目に、「爪切り地蔵」
弘法大師が一夜のうちに爪で彫ったといわれる山中第一の磨崖仏。
1652年頃に彫られた大師像であるともいわれています。
続いて、「逆さ菩提樹」
根本が細く、上に行く程太くなっている菩提樹で、逆さに生えて
いるように見えるので、この名とか。 2代目の木のようです。
古いお堂が見えてきました。 無住寺?
「前不動明王」の扁額が掲げられてあります。
柱には「宝珠山 来迎院」と。
お堂の左手にある朱塗りの小さいお堂は「龍神堂(八大堂)」。
説明板によると、良弁僧正が大山の竜神を感得し、大山の守護神「八大龍王」として
祀ったお堂が二重滝にあり、1641(寛永18)年 徳川家光の寄進で此処に再建したもの。
さらに登って行くと、見上げるような長い石段!
「雨降山 大山寺」
真言宗
創建: 775(勝宝7)年
開山: 良弁(東大寺別当)
本尊: 不動明王
良弁僧正(大山寺第二世)が、父母の孝養のために建立。 師に深く帰依した
聖武天皇により勅願寺となりました。 その後いくたびかの災厄に遭いましたが
鎌倉・足利・徳川幕府の庇護を受けて、その都度再建されてきたといいます。
「本尊 不動明王像」
鉄の不動明王像(97.7cm)と両脇侍の制吁迦(せいたか)童子・
矜羯羅(こんから)童子の三尊像。 国指定重要文化財。
大山中興の祖 願行上人が、文永年間(1270年頃)に鋳造したと伝わります。
本堂左手に青銅製の宝篋印塔
高さ11m
1795(寛政7)年に建立されたものは 明治の廃仏毀釈により
破壊されましたが、1914(大正3)年再建されました。
礼拝し、周囲を右回りに3回廻るとご利益があるそうですよ。
本堂右手から、さらに登り道は続いています。
朱塗りの「無明橋」 傍らに芭蕉の句碑
橋の途中で口をきくと、落とし物や忘れ物をするという言い伝えがあるとか。
参詣者を飽きさせない工夫ですかね。 では、お喋りはやめて渡りましょう。
句碑には「 山寒し 心の底や 水の月 」 とあるらしいですが・・・・
そのすぐ先に、「潮音洞」
四角の窟に近づき耳を澄ますと、潮騒が聞こえてくるといわれますが・・?
七不思議の最後は「眼形石」
自然の石の突起が、人の目(蛙の目?)に見えなくもないですね~
其処に触れて祈ると、目の病気が治るといわれているそうです。
緩やかな女坂ならラク勝~と思っていたら、何の何の・・・
最後の登り階段は、そんな‘猫’を嘲笑うかのように結構な難所。
ゴロゴロした石段の幅が狭い上に段差もあり、とてもお上品には登れませぬ~
時々上から下りてくる人に出会うけれど、これを下るのは・・・上りの方がまだマシだよ。
「女坂」だからとて 侮ってはいけませんゾ!
最後の石段を上って ゴールだ~
「大山阿夫利神社下社」
権田直助像
(1809 - 1887)
江戸幕末・明治初期の国学者・医者・神道家。
1873(明治6)年 大山阿夫利神社の祠官となる。
「大天狗之碑」
高さ3mの小松石
1957(昭和32)年 天狗講初代総講元 小生夢坊が民族融合と平和を
祈念し発願、各界700人超が呼び掛けに応じて建立されたものとか。
ご神水を頂きながら、ゆっくりと眺望を楽しみました☆
「雨降山」に、雨が降らなくてよかった~
19,682歩
今回は、前回のゴール「三の鳥居」からのスタートです。
山道もあるので、折よくみつけたウォーキングツアーに参加して☆
「三の鳥居」から先が門前町になります。
鳥居を過ぎた所に、「二つ橋」
嘗ては2枚の板を渡した橋で、この辺りは大変賑わっていたそうです。
江戸時代、此処は高札場であったといわれています。
門前町に入ると、「〇〇坊」「先導師△△太夫」などの看板や講名を
刻んだ玉垣を巡らした 歴史を感じる構えの宿坊が建ち並んでいます。
江戸時代には、宿の玄関先に講名を記した「板まねき」や
「布まねき」が掲げられて、大変な活気を呈していたそうです。
玄関の軒に江戸時代の駕籠があったり・・ 奉納された獅子の石像(坂東三獅子の1つ)
先導師はもともと大山で修行をしていた修験者で、戦国時代には後北条氏と結び付き
僧兵の性格を持っていたため、その力を危惧した徳川家康に下山を命じられました。
山を下りた修験者たちは全国各地を歩き大山講を作り、御師(おし)となって盛んに
大山詣を勧めました。 それが江戸時代の大山詣の隆盛に繋がっているようです。
御師らが参拝者のために設けた宿坊が、現在の旅館のルーツといわれています。
「阿夫利神社社務局」
大山寺別当八大坊の下屋敷跡で、司法行政を行った場所です。
毎年8月末に行われる秋季例大祭では、阿夫利神社下社から社務局へ神霊を
神輿で担ぎ下ろす遷幸祭(「お下り」)と 下社へ戻す還幸祭(「お上り」)が行われ、
神楽舞(倭舞・巫女舞)が奉納されます。
(パネルより)
10月の火祭薪能では、300年の伝統を誇る「大山能」「大山狂言」が行われます。
(パネルより)
「勝海舟神社」
戦後 東京・洗足の海舟別邸「洗足軒」内の祠が道路改修で撤去されるに当たり、
阿夫利神社祇官 権田直助と嘗て交流があった縁で 此処に遷されたとか。
「あたご滝」バス停の近くに、「愛宕社&愛宕滝」
1717(享保2)年 永福町の鎮守として祀られたお社。
滝は、元滝・大滝・良弁滝と並ぶ禊の滝です。
沿道の左右に、大山講の歴史を感じながら・・
「良弁滝」バス停の近くに「開山堂&良弁滝」
「開山堂」は、大山を開いた良弁僧正ゆかりの御堂です。
堂内の正面に43歳の良弁僧正坐像、右に猿が金鷲童子を抱いた像、
左に姥大日如来像が安置されているそうです。
高さ3m94cmの滝は、入山した良弁僧正が最初に水垢離を行った場所とか。
「大山良弁図(部分)」
五雲亭貞秀 筆
バス道に沿って左の細い道が、嘗ての参道。
「豆腐坂」
暑い盛りに、参拝者たちが豆腐を掌にのせて歩きながら食べ
喉を潤したことから、「豆腐坂」と呼ばれるようになったといいます。
舗装されてはいますが、往時の雰囲気が感じられるいい道です。
「市営第二駐車場」を過ぎて、
右は階段道の「こま参道」、左は川沿いの「紅葉坂」。
「紅葉坂」の途中で、左手の橋を渡ると
「涅槃寺(茶湯寺)」
浄土宗
故人が成仏したことへの御礼として、没後101日目に家族や親族が当寺に
参拝するという民間信仰「百一日参り」が伝わっており、この茶湯供養を行うと
死者の霊に会えるといわれています。 また、この百一日参りの道筋で
故人に似た人に会ったり似た声を聞いたりするという言い伝えがあるとか。
本尊は釈迦涅槃像で、茨城・大洗海岸で漁師の網にかかったと
伝わる身丈164.5cmの寄木造の御像。 江戸時代の作。
境内の地蔵尊像
光背に十字が刻まれているように見えるところから
隠れ切支丹ゆかりの像かといわれているそうです。
見たところ はっきりとはわかりませんでしたが・・
合流した「こま参道」を歩いて行くと、
「八意思兼神社(追分社)」
祭神は思想・思考・知恵を司る思兼(おもいかね)神で、記紀神話の高皇産霊神の子。
天照大神を岩戸の外に誘い出すための知恵を授けた神さまだそうです。
江戸時代には前不動堂があり、この先は女人禁制だった(日中に限り大山寺まで許された)とか。
ここからの参道が 右手の男坂と左手の女坂に分かれるところから、「追分社」とも称されます。
「女坂」 「男坂」
ここから、いよいよ山道に入りますが、一応女子ですから・・
当然 「女坂」を登って行きま~す☆
(続)
ここは、日本橋本町の「あじさい通り」。
今まさに満開の桜が、20数本並んで植えられています
「オカメザクラ」
マメザクラと カンヒザクラの交配種だそう。
濃いピンク色の小さな花が、塊状になって咲いています。
高いビルの陰になっている木は 少し可哀想だけど・・・
陽があたっている木は、ひときわ色鮮やかで 綺麗!
7~8年前から植樹が始まった桜並木だそうです。
ひと足お先の お花見ができちゃった~
今日はお彼岸の入り。
お墓詣りを済ませて・・さぁ お昼は何にしましょ!?
で、
近頃ウワサの、日本橋のあの店へ行ってみました。
午後1時過ぎ
聞いていたとおり、30人以上の長~~い列ができていました。
行列大キライの‘猫’だけど、今日は同行者とお喋りしながら・・・
ヒマなので(笑)写真を撮ってみたりして・・・待つこと1時間40分ほど
やっと 店内の2階席へ案内され・・
出すのは天丼のみというシンプルさに加えて
並んでいる間に人数を聞いてあったからでしょう、
席に座ると、わりとすぐに 熱々が出てきました。
アナゴ・エビ・イカのかき揚げ・シシトウ・海苔
それから中身とろとろの卵の天ぷらもあったナ。(どうやって揚げるんだろ?)
すごいボリュームに見えますけど・・・
器が上げ底になっていて、見かけほどのボリュームではありません。
(ご飯の量は、注文時に 少なめ・普通・大盛の別を指定)
これで ¥880(味噌汁はプラス¥120)は、場所柄かなり良心的ですよね☆
満腹&満足
(でも、やっぱり行列はねぇ・・・)
自由につまめる常備の「がりごぼう(生姜と牛蒡の甘酢漬け)」も おいしかった!
これは今度 家でも作ってみようっと☆
鎌倉で梅といえば、‘猫’のなかでは やっぱり此処だな
紅葉ヶ谷の「瑞泉寺」
天然記念物の黄梅が咲いていました☆
苔むした梅の古木がたくさんある 梅の寺です。
黒椿や
三椏も
福寿草の群生☆
境内にはまた、鎌倉ゆかりの文化人の碑が点在しています。
「 死をいとい 生をもおそれ 人間のゆれ定まらぬこころ 知るのみ 」
吉野 秀雄
「 手の平に 豆腐をのせて いそいそと いつもの角を 曲がりて帰る 」
山崎 方代(ほうだい)
「 いつぬれし 松の根方ぞ 春しぐれ 」
久保田 万太郎
「 男の顔は 履歴書である 」
大宅 壮一
駐車場前の梅林☆
足のむくまま、気ままにぶら~り ひとめぐりして・・
13,164歩
3月に入っても冷たい北風が・・記録的な寒い弥生の空
元気出して、春を探しに行こうゼ~ィ!
里山道は お気に入りの散歩コース☆
日蔭には霜柱が立っているけど・・・
わぁ おいしそ~!
これはウメ
これは?
サクランボの木(桜桃)です まさに満開!
花は白いんだね
モモも かなり咲いてきました☆
今日は陽だまり散歩で 9,450歩
今回は、小田急線「伊勢原」駅からスタートします。
今日も、写真を撮りながら 元気に歩いて行きましょう!
駅から200mほど北の「伊勢原小学校入口」信号近く
右側の少し奥まった所にお堂があります。
「火伏不動堂」
お堂には、高さ52cmの黒っぽい不動明王坐像が祀られています。
作者・年代は不明ですが、嘗てこの町にあった「大覚院」という
修験道のお寺の守り本尊を遷座したものと伝わっています。
1816(文化13)年 伊勢原全町に広がった大火事が、この不動堂で
止まったことから、火伏不動と呼ばれて信仰されているそうです。
信号まで戻り、街道を跨いで小路へ入って行くと
「千手山 慈眼院 大宝寺」
浄土宗
創建:1645(正保2)年
開山: 往誉達道上人
本尊: 阿弥陀如来
伊勢原は もと「千手原」と呼ばれ、その千手窪の土中から
掘り出された千手観音像(45cm)が安置されています。
嘗て千手原にあり廃寺となった古寺の御像といわれます。
女中観音像
1723(享保8)年 造立
伊勢原の宿場で働く女中衆が講を作って、亡くなった
仲間達の供養に建立したものと伝えられています。
「田廣山 景勝院 大福寺」
浄土宗
創建:1620(元和6)年
開山: 性蓮社榮誉空華
門内には入れませんが、外から 見事な根張りの木が目を引きます。
推定樹齢350年の大楠だそうです。
目通り7m 根回り12m 高さ30m 県指定天然記念物
伊勢原開拓当時に植えられたとされ、「かながわ名木100選」にも指定。
R61「田村道」に戻って歩いて行くと、「大神宮前」交差点の右側に
「伊勢原大神宮」
正面が「内宮」、その右に「外宮」。
祭神:天照大神(内宮)
豊受姫大神(外宮)
創建:元和年間(1615~1624)
説明板によると、1620(元和5)年 伊勢国の山田曽右衛門という人が
大山参詣の途中 千手原で水音を聞いて、開墾可能な土地であると悟り
許可を得て開墾に着手。 次第に人が集まり、町が形成されたといいます。
鎮守を故郷の伊勢神宮から勧請奉祀。 地名「伊勢原」の由来。
ここは豪族の墳墓(前方後円墳)で、富士山噴火の降砂が集められたとも。
神社の先でR246を横切り、300mほど行くと「片町」交差点。
右側に「片町不動尊」
東名高速道路の少し手前 「〆引(しめびき)」バス停前に
「五霊神社」
祭神:天穂日命 ( あめのほひのみこと )・少名彦命 ( すくなひこなのみこと )
大己貴命 ( おおなむちのみこと )・三穂津姫命 ( みほつひめのみこと )
事代主命 ( ことしろぬしのみこと )・太田三徳命 ( =太田道灌 )
もとは相模国府の五霊社(怨霊を鎮め国家安泰を祈る国府の社)。
1494(明応元)年 北条早雲が知友太田道灌の死を悼み、道灌の
甲冑を納め、太田三徳命として五霊社に合祀したといいます。
東名道路のガードをくぐると、すぐ先で左からR611が合流します。
「二の鳥居」
大山が とてもよく見えています☆
1851(嘉永4)年 五霊神社前に建立されましたが関東大震災で倒壊。
再建された鳥居もクレーン車接触事故で破損。 1928(昭和3)年に
再々建。 1991(平成3)年 道路拡幅のため現在地に移動されました。
来た道の少し手前 右側に
「山口家(雨岳文庫)」
江戸中期から上糟屋で名主を務め、大山入山料徴収の任を担ってきた旧家。
1864(元治元)年より旗本 間宮氏の地代官所となり、1869(明治2)年
石倉にあった住居を現在地に曳家してきたものだそうです。
1834(天保5)年築の主屋と明治に建てられた離れは、国登録有形文化財。
宮家の接待・宿泊用の離れ
敷地内の米蔵を改装した「雨岳文庫」には、さまざまな歴史資料が
保管・展示されています。 「雨岳」は8代目当主 左七郎氏の雅号で
大山のこと。 左七郎氏は自由民権運動に力を注ぎ、結社「湘南社」を
結成した神奈川県の民権運動の指導者として著名な方だそうです。
文庫前に、旧二の鳥居の扁額。
石尊大権現は、降雨・豊作・豊漁・商売繁盛の神さまだそうです。
屋敷裏にある 花盛りの広い梅林を抜けて・・
民家の間を清らかに流れる「千石堰用水路」
500年ほど前に上杉舘が立原にあった頃、有事に備えて
空堀へ水を満たすために造られた用水路といわれます。
その後は 下糟屋の渋田川に流れ込む灌漑用水に使われ
水路沿いの道は、大山参詣の旅人達で賑わったようです。
道の傍に 庚申塔と道標
道標正面に「上り 大山道」 右側に「下り 戸田道厚木道」
1799(寛政11)年 造立
R611「石倉橋」交差点にやって来ました。
此処は、各地からの大山道が集まる場所だそうですが、現在
大規模な県道整備工事と、それに伴う埋蔵文化財の発掘調査が
続けられていて、あちこち工事中・・・従来あった道標なども移動し
別の場所に仮設置されているような状況です。
少し先のお堂に
「腰掛不動明王像」
不動明王の半跏像で、「腰掛不動」と呼ばれています。
像高 約50cm 玉眼寄木造 黒漆塗 江戸時代の作とか。
お堂近くに、庚申塔や石像などが並んでいます。
厳しいお顔のこの像も不動明王?
鈴川のほとりにある道標も、仮設されているようです。
「右 い世原 田むら 江乃島道」 「左 戸田 あつぎ 青山道」
「此方 ひらつかみち」 「此方 はたのみち」
大山に参詣を済ませた人達のための帰り道の道しるべのようです。
「子易(こやす)明神 比々多神社」
祭神:木花咲耶姫命
天平年間(729~748)に当国の守護 染谷太郎時忠が
勧請。 後醍醐天皇の勅願寺となったと伝わっています。
現在の社殿は、1717(享保2)年に再建されたもの。
古来安産の神様として信仰され、神社向拝の柱を削って
持ち帰り飲むと安産できるといわれてきたそうで、殊に
左側の柱は、男児出生を願う人の削り跡が甚だしく・・・
現在の柱は、3代目だそうです。
拝殿内に 奉納された「美人図絵馬」
厚木出身の浮世絵師 歌川国経(1777-1808)作画。
117.5cm×83.0cm 県指定重要文化財
神社から300mほど先に
「一道山 易往(いおう)寺」
浄土宗
879(元慶3)年の大地震で大山寺が破壊され、別当 弁真上人が
この地に「易往寺地蔵院」を建立し、ここに移ったといいます。
(大山寺は、安然上人により890年に再建されたとか。)
寺伝によると、日本廻国の志を立てる前の木喰行道が当寺に
居住していたそうで、六字名号塔が建てられてあります。
「這子坂」
急な坂道なので こう呼ばれたのでしょうか。
嘗ては本道でしたが、現在は脇道になっています。
旧街道の雰囲気が感じられる、なかなかいい感じの道☆
「三の鳥居」
めでたく今回のゴールに到着で~す
この鳥居から上が、大山の門前町になります。
『新編相模国風土記稿』に「坂本村小名新町に銅の鳥居あり
これ当山の入口なり」と。 江戸時代にはたいそう賑わった所で
鳥居は、江戸火消し「せ組」の鳥居ともいわれています。
現在の鳥居は、1986(昭和61)年の建造。
次回は、いよいよ阿夫利神社参拝です!
16,649歩
「相模川」を渡り切り、土手の上を川下へ向かって数10m行った所に
「田村の渡し場跡」碑
渡し場は現在の橋際辺りにあったようで、渡船4艘が
船賃10文で往来し、収入は両岸の3村で分配したそうです。
田村の地は 古くから坂上田村麻呂ゆかりの地と伝えられ、渡しは
江戸への脇往還である「中原街道」と「大山参詣道」の渡しでした。
「相州大山道田村渡之景」 歌川国芳
田村は この2つの往還と平塚から厚木への「八王子道」が交差する
要の地で「田村の宿」とも呼ばれ、旅籠屋・茶店などもあり賑わいました。
大山・箱根・富士山も眺望できる景勝地としても有名だったようです。
「 阿夫利嶺を まともに仰ぎ 旅人ら 声あげにけむ ここの渡しに 」
橋の袂まで戻って、R44の下をくぐれば
「田村八坂神社」
古くは「牛頭天王社」と称し、田村の庄の鎮守でした。
神社に伝わる祭囃子「田村ばやし」は、鎌倉時代の豪族 三浦義村の
舘に招かれた京都の楽人が伝えたものに始まるといわれています。
この神社の境内にも、鐘楼&梵鐘があります。
神社前の道を進むと、「八坂神社入口」交差点でR44に合流します。
その信号を左に入って行くと、市営アパートの前に
「三浦義村舘跡」碑
三浦義村の舘がこの付近にあったということです。
義村については、三浦「岩浦山 福寿寺」を訪ねた際 ご紹介しましたね。
R44に戻って、街道歩きを続けましょう。
「旧田村十字路」交差点の右側に
「十王堂跡」碑
江戸時代 此処に十王堂があったそうです。伝承によると、1537(天文6)年に
後北条氏が川越の上杉氏を攻撃の際、相模川の合戦で多くの戦死者が出たので
近隣の「妙楽寺」住職が供養のお堂を建立したそうで、大正初期まであったそうです。
傍らにある大山道の道標は、1759(宝暦9)年の建立。
風化が激しく文字は判読困難ですが、正面に「大山みち」、右面は「ふじさわ
江のしま 加満くら」、裏面には「右 大いそ道」と刻まれてあるとのことです。
街道の路傍に、地蔵像や道祖神などが並んでいたりします。
大きい地蔵像は、1727(享保12)年の造立。
平塚・須賀湊と伊勢原・下糟谷を結ぶ糟谷通り大山道は、車の往来が激しく
狭い歩道を歩かねばなりませんが、真正面に大きな富士山がよく見えます☆
やがて 右側に、鳥居と長い参道
「御霊神社」
主祭神:崇道天皇
光仁天皇の第三皇子早良(さわら)親王は淡路島へ配流の
途次ご逝去。15年後に崇道(すどう)天皇と追称されました。
社伝によると、坂上田村麻呂が奥州の帰途 ここ「横内」に
京都「御霊神社」より天皇の霊を勧請祭祀したのに始まると。
渋田川に架かる「土安(どあん)橋」を渡って暫く歩き
「下谷」交差点で街道の車の往来を避けて、左の農道へ。
この辺りは嘗ては海だったそうで、広々と田畑が広がっています。
前方正面に大山、左前方に富士山を眺めながら、陽射しの中をの~んびり♪
遠くの富士山より、大山の方がでっかい山に見えるな~
この辺りには時折 チョウゲンボウが飛来するらしく、その姿を撮ろうと
カメラマンが大砲のような(笑)カメラを構え、何人も待機していました。
のどかな風景を楽しんだ後、また大山道に戻り
「小田原厚木自動車道」を越えて「伊勢原インター入口」信号の傍に
「長堤山 東円寺」
臨済宗のお寺
開山:帰山光一禅師
本尊: 地蔵菩薩
標高10m以下という低地に接する高所にある このお寺の境内には
嘗て「舟繋ぎ松」と呼ばれる 樹齢約500年の松の木があり、寺の前から
城島(きじま)の浮島まで、沼を舟で往来する「こがの渡し」があったとか。
境内に「舟つなぎ松跡」碑
「 舟つなぐ 松がゆかりの 東円寺 」
さらに街道を歩き、「平間自治会館」バス停のある所に
「長安山 三観寺」
この地には珍しい黄檗宗のお寺。
街道に同宗の寺院は9ヶ寺あるそうですが、伊勢原は当寺だけ。
開山は、黄檗第4代の高僧 濁湛性瑩(どくたんしょうけい)師。
現在は無住とのことです。
本堂前に、宝篋印塔
1763(宝暦13)年 造立
高さ2.8m
「八坂神社」
(天王社・祇園社)
主祭神:素戔嗚尊
創建: 年代不詳
1200~1300年頃 京都祇園の牛頭天王社を信仰する者が
この地に分社を勧請したものと考えられています。
『新編相模国風土記稿』によれば、ご神体は約47cmの木像で行基作。
境内の銅鐘
「応永十年(1403年)」銘 県指定重要文化財
説明板によると、作者 和泉権守恒光は 相模鋳物師である 物部氏の
後継者的存在である清原氏の一族であろうと考えられています。
「天王松」
嘗て ご神木として道行く人々の道しるべともなっていた
樹齢600余年の松の巨大な根。 圧倒される迫力です!
神社の鳥居前に、庚申塔を兼ねた道標。
左面に「左 たむら道」、右面に「右 大いそ道」。
もともと 此処より北西の「日向(ひなた)道」に建てられていたものといわれます。
「日向道」は「日向薬師」に行く道。 「日向薬師」と呼ばれる寺院は、716(霊亀2)年
行基によって開山された嘗ての「日向山 霊山寺」の子院「日向山 宝城坊」のこと。
この「日向道」も、もし機会があれば 一度は歩いてみたいナ☆
日向道との分岐「沼目団地入口」交差点に、道標。
正面に「左 大山道 右 日向道」
1739(元文4)年の造立
もちろん左へ向かいます。
人家が多くなってきました。 伊勢原市街に入ってきたようです。
「九品山 善光院 三福寺」
浄土宗
開山:南蓮社忍譽西光上人北海慧慶大和尚
創建:1555(建久9)年
本尊:善光寺(阿弥陀)如来
『善光寺縁起』によれば、本尊は1195(建久6)年 尾張の僧 定尊が
夢で阿弥陀如来のお告げを受け、69,000人の職人と共に1か月で
鋳造した 長野善光寺如来の分身仏48体のうちの1体といわれます。
境内には、数鉢の「大賀ハス」が育てられています。
大賀一郎博士から長野・善光寺に贈られたハスを当寺に分けて
貰ったもので、例年7月中旬~8月下旬ごろ開花するそうです。
山門前に、「六字名号塔」
そして「子(ね)の権現社」も。
足腰の健康と旅をつかさどる権現様。
奉納されたたくさんの草鞋が下がっています。
此処から 小田急線「伊勢原」駅はあと少しです。
寒川から伊勢原まで、今日はかなり頑張りました!
足が、もうヨレヨレ~
28,597歩