数日来、急に冷え込んできました。
鎌倉の紅葉もそろそろ見頃でしょう、と行ってみました。
「北鎌倉」駅のホームから、すでにたくさんの人
「円覚寺」さんの前は、とても綺麗な紅葉☆ でも、すごい人です・・
「浄智寺」さんは、それほど混み合ってはいませんでした。
「曇華殿」を右手に見ながら、階段を上って山道へ
「天柱峰」を越えて・・
葛原岡へ
週末はきっと、紅葉狩りの人達でいっぱいでしょうね☆
16,994歩
「西海子(さいかち)小路」を歩いていると・・
「旧田中光顕氏別邸」
伯爵 田中光顕氏(1843-1939)
元 土佐藩郷士で土佐勤王党の志士。 中岡慎太郎の陸援隊に参加。
維新後は警視総監 貴族院議員。 先述「対潮閣」歌碑の短歌の作者。
広い敷地内には、小田原ゆかりの文学に関わる展示がいろいろあります。
「本館」
1937(昭和12)年 築 登録有形文化財
鉄筋コンクリート3階建ての南欧風洋館で、屋根瓦はスペインから輸入したものとか。
現在は、「小田原文学館」として小田原ゆかりの文学者に関する資料を展示しています。
「別館」
1924(大正13)年 築
木造2階建ての純和風建築で、現在は「白秋童謡館」として
詩人 北原白秋に関する資料が展示されてあります。
白秋の小田原時代の作品「赤い鳥小鳥」の碑。
「北村透谷氏碑」
北村透谷氏(1868-1952)は、小田原藩士の孫として誕生しました。
幼名は「門太郎」。 近代浪漫主義文学の先駆者。 27歳で夭折。
揮毫は、友人であり共に『文学界』を創刊した島崎藤村氏。
「尾崎一雄氏書斎」
尾崎一雄氏(1899-1983)は、小田原出身の芥川賞受賞作家。
昭和20年代初期の建築で、市内にあった旧宅の書斎部分を移築したもの。
8畳・4畳半の和室と書庫など。 机など当時の調度品が置かれてあります。
相模湾に面した御幸の浜を走る 西湘バイパスのすぐ近くに
「川崎長太郎小屋跡」碑
川崎長太郎氏(1901-1985)
徳田秋声に師事し、昭和20年代後半に活躍した小説家。
『裸木』『父島』『抹香町』などの作品を著しました。
昭和13年より海沿いの小屋に寝起きして私小説一筋を貫きました。
‘猫’は、 残念ながら川崎氏の小説というものを読んだことは
ないですが、碑には『抹香町』の一節が刻まれてあるようでした。
小田原には、まだまだ興味深い見どころがいろいろあるようです。
「老欅荘」 「古稀庵」 白秋ゆかりの「伝肇寺」 etc.
機会があれば、また・・☆
小田原には、1889(明治22)年に伊藤博文の別邸「滄浪閣」、
1900年には城跡に御用邸が設けられたことなどが契機となり、
著名な政・財界人や文人の邸宅が数多くあったといわれます。
お城のすぐ近くに、
「清閑亭」
(旧黒田長成氏別邸)
侯爵 黒田長成氏(1867-1944)は、旧福岡藩主の家柄で
貴族院副議長・枢密院顧問官などを務めました。
1906(明治39)年 築
大正初期頃の様式を備えた数寄屋風書院造の母屋と、
海を見下ろす庭園が残されています。 国登録有形文化財。
「対潮閣」跡
(山下亀三郎氏別邸跡)
現在この建物は無く、跡地に一般の住宅が建てられています。
山下亀三郎氏(1867-1944)は、山下汽船(現・商船三井)の創業者。
「対潮閣」には、同郷の海軍中将 秋山真之氏(1868-1918)が度々
訪れ、秋山中将は49歳のとき 盲腸炎悪化のため此処で亡くなった由。
「釣鐘石」と石碑
右の石は対潮閣にあったもので、釣鐘型の空洞があるので
「釣鐘石」と呼ばれていたそうです。 左の石碑には、この石を
賞して田中光顕氏(後述)が詠んだ歌が刻まれてあります。
「うちたたく 人ありてこ曽 よの中に な里もわたらめ つりが年の石」
「諸白(もろはく)小路」
「この地名は、小田原城主 稲葉正則の時代、この地に上方の杜氏を招いて
諸白酒(よく精白した蒸米と麹米で醸造した酒)を造らせたことから生まれた
といわれる。 道の両側は武家地で、中級の藩士が住んでいた。」とあります。
諸白小路の中ほどに
「三好達治旧居」跡
三好達治氏(1900-1964)
大阪出身の詩人。 1939(昭和14)年に鎌倉から移住。
この地を好み、この場所にあった小さな庭のある二階建の
和風家屋に住み、試作に精を出したといわれています。
現在は旧居の跡形なく、ただ石の標柱が立っているだけ。
「静山荘」
(旧望月軍四郎氏別邸)
非公開で鬱蒼たる緑に覆われ、中を窺うことはできません。
望月軍四郎氏(1879-1940)は、1910(明治43)年に証券会社を
設立した実業家。 銀行や保険会社の役員を経て、1930(昭和5)年
京浜湘南鉄道の会長に就任。現・京浜急行(株)の基礎を築きました。
諸白小路とT字に交わる、桜並木の静かな道は
「西海子(さいかち)小路」
昔、サイカチ(マメ科)の木が立っていたことから この名で呼ばれたとか。
江戸時代には両側に武家屋敷が並んでいたそうで、明治以降は別荘地と
して知られていました。 約50本の桜並木が400m程も続く道は、現在も
往時を偲ばせる雰囲気がありますね☆ 有名なお花見スポットのようです。
(続)
海岸や海にそそぐ河口には、いろいろな鳥たちがいます。
せわしなく動き回る鳥、ジッと思索に耽るように動かない鳥、
表情からは窺えない鳥の世界・・見飽きませんね。
カモメ
カモメにもいろいろ種類があるようで、よく見ると
羽や足の色、嘴の形・色などに違いがあるのに気づきます。
これは、オオセグロカモメ・・かな?
トビ
高い空を悠々と滑空している姿には、いつも
「カッコいい~!」と見とれてしまいます。
とても目がいいそうですね。 食べ物を攫われないように・・
ウ
ウミウとカワウは、見分けが難しそうです。
海にいるのはウミウ・・・なんて単純なものではないようで
海岸や河口辺りには、ウミウもカワウもいるということです。
ウミウの方が体が大きいと聞きますが、並んでくれないとねぇ(笑)
よく観察すると、顔の違いなどでも区別できるらしいのですが
近くでじっくり観察するという機会もなかなか無いですし・・・
こちらは、河口にいた鳥です。
カルガモ
嘴の先の色と顔の2本線で、これはすぐにわかりました。
これは?
初めて見ました。
ジッと佇んで、餌を待っているのか水面を見つめています。
散歩中の人達も次々足を止めて、口々に「何の鳥だろうね・・・?」
暫く見ていると、通りかかった男性が「ゴイサギだろう。まだ若いね。」と。
この鳥の名をご存知の方、教えてくださーい!
昨日と打って変わったになりましたね。
気持ちの良いこんな日は、潮風に吹かれてみましょうか☆
ということで、海へ・・
そこそこ風もあるので、今日はたくさん出てますね~
気持ちよさそー!
あっちにも こっちにも・・
14,988歩
先日 小田原へ行った際、おみやげに買ってきました。
小田原名物「ほととぎす巻」
「かながわの名産100選」に選ばれているそうです。
なんでも 明治の初め頃、お酒のツマミに考案されたという
100年余の歴史のある伝承の味。(みのや吉兵衛商店 製)
包装紙のデザインにも、レトロな味がありますね
どういうものかというと;
粉末にした落花生・砂糖・粉辛子・水飴・ゴマを混ぜたものを
シソの葉で3cmくらいの長さに1個1個手巻きしてあります。
1個 口にほうり込むと、最初に 落花生の香りと水飴の甘さ、
後から辛子がツーンときて・・それら全体をシソの酸味が包んで
いるという不思議な食味☆ こんな説明で伝わるかなぁ・・
変わったネーミングの由来が、包装紙に書かれてありました。
食べたあと 辛子の辛さで「ヒィー」となるところが、ホトトギスの
鳴き声に似ていることから、名付けられたそうです(笑)
今回、こよなくサンズイを愛する‘トノ’へのお土産に買ったのですが
結局 下戸の‘猫’の方が何故かハマってしまいました。
数食べたいというのではなく、無いと淋しい味・・って、わかります?
甘くて 辛くてヒィーです(笑)
あ~、食べたくなっちゃったナ・・・また小田原へ行ってこようっと
(もちろん netでも買えますけどね)
郵便受けに、見慣れない封筒の郵便物。
検察審査会制度?
「このたび、あなたは〇〇検察審査会の検察審査員候補者に選ばれ、
検察審査員候補者名簿に記載されましたので、お知らせします・・」って、えっ??
これって、大当たり?
くじ運は弱い方だと思うんだけどナ・・(笑)
検察官が「起訴」して開かれる裁判に、一般から参加するのが「裁判員」で、
「不起訴」になった案件の審査に、一般から参加するのが「審査員」ってことかな。
そんな審査があるの、知らなかった・・・
候補者になっても、実際に審査会議に参加する人は その中から更に抽選で
選ばれ、月に1・2 回審査会議に出席するのだとか。(日当・旅費が支給される)
その確率は約1割で、当たると別途通知を受け取ることになるようだ。
ということは、今回のは、大当たりではなくて 「小当たり」というワケ。
さて、「大当たり」になるかどうか、来年9月ごろまで 楽しみ(?)ができたナ
「板橋見附」交差点から旧道に入って行くと、
交通量も少なくなり、どことなく長閑な街道らしい趣のある道です。
黒っぽい味のある建物は、醤油醸造所のよう。
今も操業しているのかな?
やがて、道の右側の石垣の上に
「宗福院地蔵堂」
「板橋のお地蔵さん」と親しまれている地蔵像は、1569(元禄12)年
香林寺の文察和尚が身丈一丈(約330cm)の大坐像を造り、箱根湯本
宿古堂の延命地蔵尊(弘法大師彫造)を胎内に安置したといわれます。
現在の地蔵堂は黄檗宗慈眼寺仏殿を移築したもので、県指定重要文化財。
外観は二重屋根、堂の四周に裳階をめぐらした造りになっています。
此処の大イチョウも見事ですね~
「復興大黒尊天」
堂前に、天井まで届きそうな巨大な木造の大黒様。
ご利益ありそ~
(左) 一刀流第6代 横田常右衛門豊房・第7代 名坂四郎治政宣の供養碑
(右) 明治の戊辰戦争で亡くなった官軍の13名の名が刻まれた慰霊碑
旧街道らしさの残る道をテクテク・・
「上板橋」交差点で 再びR1に合流します。
左手に「早川」の流れ。
「小田原用水取水口」
小田原用水(早川上水)はこの地で早川の水を取入れ、街道に沿って
城内・城下に流した上水道で小田原北条時代に造られたものです。
江戸時代になっても城下の飲料水として利用されたそうで、我が国の
歴史的価値の高い古水道施設として、今も残されています。
早川に沿って暫くR1を歩いて行くと、観光地らしい賑わいになってきました。
レストランや大きな蒲鉾屋さんが立ち並び、たくさんの人が歩いています。
何だか少しホッとして、‘猫’も観光気分になり・・・
だいぶ陽が傾いてきました。 西に向かって歩いているので、眩しい~
日本橋から87km
箱根登山鉄道「風祭」駅に着きました☆
が、
もう少し先まで歩いてみようと、また旧道に入って行きました。
本日の‘猫’は、結構ガンバってます!
「風祭」駅前を過ぎて暫く行くと、右手に
「風祭一里塚」跡
江戸から21番目の一里塚があった場所です。
『新編相模国風土記稿』には、「東海道側に双堠あり 高各一丈 塚上に
榎樹あり 囲各八九尺 東方小田原宿 西方湯本茶屋の里堠に続けり」と。
暮れ始めないうちに・・・と 次第に足が速くなり、どんどん進んで行くと 右手に
「長興山 紹太寺」の参道入口
以前に訪ねたとき、美しい枝垂桜をご紹介しましたね。
で、今回はスルーして・・
箱根登山鉄道「入生田」駅に到着です。
今回は、ここをゴールといたしましょう。 お疲れサマ~~!
24,730歩
R1沿いに宿内の中心部を散策し、「早川口」までやってきました。
「早川口」交差点から、JR東海道線の線路に沿って左折。
暫く行って道標に従い もう一度左折すると、住宅地の中に
「早川口遺構」
1590(天正18)年 秀吉との小田原合戦に備えて造られた
土塁と堀からなる大外郭「総構」の一部が残されています。
「早川口」は総構の南西に位置する虎口(城の出入口)で、その遺構は
二重戸張と呼ばれる土塁と堀を二重に配した構造になっています。
明治以降 屋敷の庭園になり かなり改変されてしまいましたが、外側の
高さ2.8m程の土塁や堀状の窪地に当時の面影が残っています。
「早川口」交差点まで戻り、東海道線のガードをくぐってR1を進みます。
ほどなく 左側に
「寶聚山 随心院 大久寺」
日蓮宗のお寺。
創立: 1591(天正19)年
開山: 自得院日英
開基: 大久保七郎忠世
大久保忠世が小田原合戦の論功行賞により小田原城4万5千石を
与えられて建立したお寺で、大久保家の菩提寺となりました。
大久保家の家紋
「大久保一族墓所」
初代 忠世・二代 忠隣など7基の墓石が並んでいます。
R1を挟んで、大久寺のほぼ向かいに
「居神(いがみ)神社」
祭神:三浦荒次郎義意
木花咲耶姫命・火之加具土神
伊勢新九郎(早雲)に攻め滅ぼされた三浦氏当主 義意は、父 義同と共に自刃。
首が当所の松樹に晒されましたが、3年間瞑目せず通行人を睨み恐れられて
いました。 久野総世寺の忠室存孝和尚が松の下で読経し、「うつつとも夢とも
知らず一眠り 浮世の隙を曙の空」と詠むと、怨霊は成仏し「我これより当所の
守り神にならん」との声がしたので、社を建立して祀ったと伝えられています。
ちょっとコワいお話・・
社殿左奥に、石碑が並んでいます。
鎌倉時代末期の作といわれ、市重要文化財に指定されています。
居神神社の少し先に、
「寂静山 光円寺」
浄土真宗のお寺。
今から約750年ほど前に、僧 頼賢が「実相院」を開いたのに始まり
その後廃寺となりましたが、1633(寛永10)年 城主稲葉丹後守正勝の母
春日局が「実相寺」を建立。 明暦年間(1655~57)に「光円寺」と改称。
境内の大イチョウ
「見附の大イチョウ」として知られています。
このイチョウ、東海道線の車窓からもよく見えます。
「板橋(上方)見附」
この辺りに「板橋(上方)見附」があったようです。
光円寺の大イチョウが、旅人の目印になっていたのでしょうか。
小田原宿とは、ここでお別れです。 振り返って名残の1枚を
「板橋見附」交差点でR1から右へ逸れて、旧道を進みます。
いよいよ箱根に向かって
(続)
お城の「馬出門」を出てR1を跨ぐと、ほどなく・・
「松原神社」
祭神:日本武尊
素戔嗚尊・宇迦之御魂神
由緒や創立年代などは不明
古老の口碑によれば、後醍醐天皇(1318-39)の頃
この地に真鶴が棲み、鶴の森明神と称していたといいます。
天文年間(1532~54)に山王原村松原の海中より十一面観音が出現、
その託宣により本地仏として祀ったことから「松原大明神」と称しました。
小田原北条氏の尊崇篤く、その後も稲葉氏・大久保氏の庇護を受けて
代々小田原宿の総鎮守。 明治初め「松原神社」と改称しました。
「吉兆の大亀」
甲羅を撫でると心願が叶うという亀の石像。
制作年代は不明。 頭部(左側)が欠けています。
言い伝えによれば;
小田原の海岸に大亀が現れ、3代北条氏綱がこれを吉兆であるとして
当社に参詣し舞を奉納したところ、翌年の河越夜戦でわずか8千の
兵で、8万の関東管領上杉軍を破って関八州平定を成し遂げたとか。
通りを隔てて、神社のほぼ向かいの少し奥まった所に
「明治天皇宮ノ前行在所跡」
小田原宿に4軒あった本陣の筆頭 清水金左衛門本陣跡。
明治天皇はこの本陣に、1868(明治元)年の御東行の際を初め
計5回ご宿泊になったそうです。 当時の敷地は約240坪とか。
R1の「本町交差点」角に
「小田原宿なりわい交流舘」
1932(昭和7)年築の旧網問屋を再整備した出し桁造りの建物で、観光客のための
案内所 兼 無料休憩所として、また市民文化活動の場として開放されています。
お茶のサービスもあって、ちょっと一休み
「交流館」から少し浜側へ行った所に
「徳常院」
曹洞宗のお寺。
当寺の地蔵尊は、1713(正徳3)年 江戸・増上寺塔頭の心誉常念が
作らせたという 総身が5mもある青銅製で、もともと箱根芦ノ湖畔の
賽の河原に安置されていましたが、明治の廃仏毀釈で古物商の手に
渡り、東京に運ぼうとしましたが尊体が地を離れず、浜名主の夢枕に
立ったりしたため、有志が募金をして像を買い取り当寺に安置したとか。
また、八百屋お七の供養に恋人の吉三郎が作らせたものだと
いう伝説もあって、「吉三地蔵」とも呼ばれているそうです。
それでは、街道筋(R1)に沿って歩いてみましょう☆
左側に、歴史の趣を感じさせる建物
「済生堂薬局小西本店」
関東大震災で倒壊した明治時代の建物を大正年間に復元したもの。
石造りの薬種蔵を内包しているそうで、純和風の木造建築。
右側に、ひときわ目を引くお城のような建物
「外郎博物館」
中国伝来の小粒の丸薬「ういらう」を、600年来の製法で作り販売しています。
長年愛用しているという知人から、‘猫’も頂いて服用したことがあります。
諸症状に効く万能生薬だそうですが、近年の環境変化により薬材が手に
入りにくくなっているため、1回に買える量に制限があるのだとか。
本日は、残念ながら定休日でした・・・
その先に、若者にも人気の有名店
「柳屋ベーカリー」
小ぶりながら、ずっしり重みのある「薄皮あんぱん」が人気です。
「ちい散歩」の地井さんとか、芸能人も来店しているようですね。
道の左側に
「ちん里う」
明治初期に創業の梅干屋さん。
店先に、様々な種類の梅干や種が展示されています。
思わず酸っぱい唾液が・・・(笑)
またまた買物ツアーになりそうなので、この辺りで・・
日本橋から85km
では、ここで
城内の「郷土文化館」に展示されていた写真をご紹介しましょう。
現在のこの辺りと比較してみると、なかなか興味深いですね☆
江戸末期の小田原宿の様子
オランダ人写真家が撮影したもの。
明治初期の小田原宿の様子
横浜居留地の英字新聞に掲載されたもの。
(続)
では あらためまして、旧東海道ぶらり旅の続きと参りまセウ☆
前回 小田原宿に入ったので、今回はJR「小田原」駅から。
先ずは西口前の早雲さんに敬意を表し・・
「北条早雲公像」
後世「北条早雲」と呼ばれる室町~戦国の武将 伊勢新九郎盛時( ?ー1579)
出自には諸説あるようですが、備中国(現・岡山県)出身といわれます。
小田原は、96年間にわたって繁栄した小田原北条氏の城下町。
銅像は、1990(平成2)年建立。
駅近の史跡と聞いたのですがわかりにくく、のっけからウロウロ・・
「おしゃれ横丁」という路地を入って行った所で、やっと見つけました!
「北条氏政・氏照墓所」
氏照(左)・4代氏政(中央)・氏政夫人(右)の五輪塔
手前に生害石 左に3人の法号を刻んだ笠塔婆型墓碑
1590(天正18)年 秀吉の小田原攻略で城は落ち、5代氏直は高野山に追放。
父 氏政と氏政の弟 氏照は自刃し、此処にあった氏寺の伝心庵に葬られました。
「お堀端通り」を歩いて行くと
国指定史跡 「三の丸土塁跡」
本丸・二の丸を囲むように堀と土塁を廻らして三の丸としていました。
この場所の西側に、三の丸入口の「幸田門」があったようです。
「鐘楼」
大手門跡の石垣には、大正時代に移築された「時の鐘」があり
午前6時・午後6時に鐘を打って時を知らせていました。
現在の鐘は、1953(昭和28)年製とか。
お城に入ってみましょう☆
「小田原城」は15世紀中頃に大森氏が築いた山城が前身で、その後
小田原北条氏の居城となり、秀吉軍22万の攻略に備えて城下を含む
全長9kmに及ぶ「総構え」を築き、最大規模の城郭となりました。
北条氏滅亡後は家康家臣の大久保氏、寛永年間に稲葉氏、その後
再び大久保氏と城主が変わりましたが、元禄大地震で倒壊焼失。
一部再建されて幕末に至り、明治初め廃城となりました。
「銅門」
二の丸の正門にあたり、本丸へと通じる大手筋に設けられています。
渡櫓門・内仕切門・土塀で周囲を囲む枡形門で、渡櫓門の銅板装飾が
その名の由来。 現在の門は、1997(平成9)年に復元されました。
「常盤木門」
本丸正門にあたる門で、最も大きく堅固な造りです。
傍らに立つ巨松に因んで、その名が付けられたとか。
1971(昭和46)年に復興されました。
「天守閣」
江戸時代に再興された際の雛型や引き図を基に、1960(昭和35)年に
市制20周年記念事業として復興。 3重4階の天守に付櫓・渡櫓を付した
鉄筋コンクリート製で、標高60mの最上階からの眺望はなかなか☆
左手遠くに、三浦半島も うっすらと・・
「小峯曲輪北堀」
江戸前期に「雷曲輪」、後期には「小峯曲輪」と呼ばれた曲輪が この
左手にあり、それを囲む堀(土塁と空堀)の北側部分が残っています。
「報徳二宮神社」
二宮尊徳翁が祀られています。
1894(明治27)年 建造。
二宮尊徳(金次郎) 農政家・思想家 (1787-1856)
若い頃、藩家老 服部家に若党(中間)奉公をしており、当時 漢学塾に
通う服部家の若君にお供して、この近くを行き来していたとか。 後に
城主大久保忠真に登用され、諸家・諸領の改革・復興に尽力しました。
では、お城を出て市内の史跡を巡ってみることにしましょう☆
(続)
菊の花が美しい季節ですね☆
今、あちらこちらで菊花展をやっているのを よく目にします。
小田原城の菊花展は、今日が最終日でした。
お城の散策がてら、菊花を楽しむ人達が訪れていました。
ひとくちに菊と言っても、いろいろな色や形の花があるんですね~
見るからに「手がかかっているな~」と思われる花の数々・・
これは 見事な懸崖仕立て☆
変わった菊が目に留まりました。 「古典菊」と呼ばれる種類だそうです。
「丁字菊」 「伊勢菊」
「江戸菊」
菊に彩られたお城の展示も☆
京急線「津久井浜」駅~「三浦海岸」駅の電車の窓から・・
アレっ?
さ・・く・・ら・・並木??
気になったので確かめたくて、次の駅で降りて行ってみました。
この辺りは、ミカンの木がたくさん植えられています。
鈴なり
めざす所も、どうやら観光みかん園の中のようで・・
まだ開園時間前なのか、園内には人影も見当たらず・・・
「立入禁止」のロープぎりぎりの所まで近づいて
みかん泥棒と間違われないように(笑)・・李下に冠を正さず?
これ以上近づくのは やめておきましょう。
諦めて、少し離れた畑の畔から もう1度
近くで畑仕事中だったお爺さんに 尋ねてみました。
「きれいですねぇ!」
「ああ。 何の花だかねぇ」
「桜でしょうか」
「桜じゃねぇよ 冬だもの」
「・・・・・・・・」
失礼しました~(笑)
ゴールの「箱根湿生花園」前に、予定より早く着いたので
バスを待つ間に、園内をぐるっとひと回り。
この季節、さすがに花は少なかったですが・・
「ツリバナ」
ニシキギ科
「ウメバチソウ」
ユキノシタ科
「ツメレンゲ」
ベンケイソウ科
「シンジュノキ」
ツツジ科
そして、ここにも「フデリンドウ」
リンドウ科
見事な紅葉が見られ☆
錦をまとった金時山☆
箱根の秋を満喫しました ♪
22,377歩