スニーカー履いて

‘猫’も歩けば・・・今日はどんな出会いが?

旧東海道・二宮~国府津②

2012-04-30 | 旧東海道


連休を楽しんでいらっしゃいますか~
後半は天候が・・・ま、それなりに楽しみましょうね!


さて、旧東海道ぶらり旅の続きと参りましょう☆
 相も変わらず、あっちやらこっちやら気の向くままに
道草しながら

吾妻山を下り、あらためて旧街道の分岐点にある
「約250m先 等覚院(藤棚)」の道標に従って歩いて行くと・・


梅澤山 等覚院 藤巻寺

真言宗のお寺で、相模新西国三十三所観音霊場第一番札所。


件の白藤が、満開とまではいきませんがだいぶ咲いていました。

樹齢 約400年 樹高 約240cmで、町の天然記念物となっています。
1263(元和9)年 将軍家光公ご上洛の折には、駕籠を停めてご覧になったとか。
また
寛文の頃、仁和寺宮が関東下向の折にもご覧になったとか。

有名な藤のようです。




町指定文化財の梵鐘には、「寛文八年」の刻銘が
あり、町内に現存する最古の鐘だそうです。

何しろ 藤棚の辺りには、体長2cmほどもあろうかという大きな黒い蜂が
何匹もブンブン飛び回っていて、過去に2度も蜂に刺された経験の
ある‘猫’は・・・長居は無用! 退散~~




旧街道がR1に合流する「山西」五叉路に、石塔や道祖神。



供花もあり、お守りなさる方がおいでのようです。




「日本橋から75km」



「山西」の信号から400~500mぐらい歩いた所で
今度は左に旧道が分岐しています。 その分岐点に、

東海道一里塚の碑
       
江戸から18番目の一里塚がありました。 
この辺りは大磯宿とこの先の小田原宿との中間にあたり、周辺には旅人目当ての
茶屋や商店が軒を連ね、「梅沢の立場」と呼ばれて大層賑っていたそうです。

この先の
「川勾神社入口」信号で、右折の広い道があります。
歩道橋を渡って、その道へ入ってみることにしました。

すぐ右手に、赤い屋根のお堂。

薬師堂


お堂正面上部の壁に、鏝絵の「龍」を発見!


左右には・・何の「鳥」かな?
       
うっすらと赤みが見られます。 彩色が施されていたようですね。

堂前には、石塔がずらり・・




JRの線路を越えた先に、

川匂山 密厳院

真言宗のお寺のようです。




人家と畑が混在するのどかな道を、新緑を目の保養に てくてくと
15分も行くと、突き当たりに大きな石の鳥居が見えてきました。



石段を上り、左側に「櫛盤間戸命(くしいわまどのみこと)」、 右側に
「豊盤間戸命(とよいわまどのみこと)」の木像を祀った門を通って・・



川勾(かわわ)神社

延喜式内社 相模国二之宮
「二宮」の地名の由来である由緒ある神社です。

祭神:大名貴命(おおなむじのみこと)・大物忌命(おおものいみのみこと)
  級津彦命(しなつひこのみこと)・級津姫命(しなつひめのみこと)・
衣通姫命(そとほりひめのみこと)

神社の縁起書によると;
垂仁天皇の頃、磯長国(しながのくに)国宰の阿屋葉造(あやはのみやつこ)が
勅命によって創建したと伝わっているとか。 とにかく古い歴史の神社なのデス!
現社殿は、1951(昭和26)年に完成されたものだということです。


まったく人影のない境内ですが、ひと休みできるようにとのご配慮でしょう。
長椅子と、紙コップを添えた冷たい麦茶のポットが備えられてありました☆
感謝して喉を潤しながら、木々を渡る風と鶯の声音に暫し耳を澄ませ・・


(続) 





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旧東海道・二宮~国府津①

2012-04-29 | 旧東海道


前回のゴール、JR「二宮」駅からスタートします。
二宮駅には数回降りたことがあるけれど、海側は初めてだな・・

駅前に 「ガラスのうさぎ像

高木敏子さんの自伝的小説『ガラスのうさぎ』は
ここ、二宮が舞台でしたね。




駅前からR1を歩いて行くと、所々に松の木が並んでいたりします。
マンホールの蓋のデザインは・・ツバキ?
       


700~800m行くと、「吾妻神社入口」信号の手前で右へ分岐する道。
「旧東海道の名残」の道標があるので、これが旧街道のようです。




旧道に入ってすぐ右側に、石の鳥居。
左右に、「吾妻神社」と刻まれた立派な石碑もあります。

以前、駅の北口側から訪ねて行ったことがあるのですが
お天気も良いことだし、今回はこちらから上ってみましょうかね☆



鳥居を抜けて行くと、じきにJR東海道線の線路に突き当たります。
嘗ては先程の鳥居から続いていた参道が、鉄道で分断されたのでしょう。
傍らの歩道橋で線路を越えると、道を隔てて「梅沢登り口」の鳥居。



新緑の中を、緩やかな勾配の登りやすい階段がジグザグと続きます。
       

10分ばかり上ると、

吾妻神社

創建は、第12代景行天皇の頃といわれているそうです。 祭神は
弟橘媛命(おとたちばなひめのみこと)で、日本武尊(やまとたけるのみこと)を配祀。

弟橘媛命入水の7日後に海岸に漂着した櫛を埋めた地を「埋沢(梅沢)」、
小袖が漂っていた磯辺を「袖ヶ浦海岸」と呼ぶようになったと伝わっています。



ここまで上ってきたので、まだタイムには早いけれど
すぐ上にある山頂広場で一休みしていきましょう☆


標高136mの山頂は、休日を楽しむ人達が大勢。



相模湾や



箱根・丹沢の山々も一望☆



草はらに寝転んで、ひと眠りしたくなってしまう・・



歩きはじめから、早々とマッタリ休憩してしまった・・・
先が思いやられますぅ~


(続)




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牡丹を見に・・

2012-04-28 | 花散歩


金沢区の「龍華寺」さんで「牡丹まつり」開催中です☆
4月29日(日) 16時まで



約160株の牡丹が、今年もあでやかに咲き揃いました









       







       







たくさんの人が 次々と・・




牡丹だけじゃありません ほかにも・・
























愛染明王を拝観して お薄のご接待まで・・


とても贅沢なひととき



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名残の桜

2012-04-25 | 花散歩


桜の季節も、もうそろそろ終わりですね・・

こんな光景も もうあまり見られなくなりました




散歩コースにある公園は 今は八重桜☆



ぼってりと重たげな花
      



小学校の校門脇には、卒業生が植えた記念樹
ウコン桜でしょうか


今年もがんばってよく咲いてくれたね☆
来年も 楽しみにしてるよ~!




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鎌倉・百八やぐら

2012-04-21 | 鎌倉・逗子・葉山


「やぐら」というのは、丘陵の岩を穿って造られた横穴墳墓のことで
小面積の場所に造ることが可能なところから、三方を山に囲まれて
平地の少ない鎌倉地方に特に多く見られる、とされてきました。

が、
1996(平成8)年の調査によって、房総半島にも500基以上の
やぐらが存在することが分かり、鎌倉特有のものでもなく、また
平地が少ないことが理由でもないことが証明されたようです。

「やぐら」=「矢倉」つまり、元々は武器保管の岩窟を指していた名称が
こうした墳墓にも使われるようになったのでは・・・と、ガイドさんの説明。 



百八やぐら」は、覚園寺裏山の山腹に177穴も(200~250とも)
集まっている鎌倉でも最大規模のやぐら群で、鎌倉~室町時代の
武士や僧侶の墳墓と、供養のための施設であろうといわれています。


たくさんの「やぐら」が、7階層になって広がっています。









内部には・・

仏像や


五輪塔が並んでいたり



壁面にも、さまざまな浮彫が・・

五輪塔や


仏像や



梵字も
      

このやぐら群では、鎌倉にあるほぼ全てのやぐらの形式が見られるそうです。
いにしえ人の祈りの声が聞こえてきそう・・・


今回はいつも見慣れた場所とはひと味違う、deepな鎌倉を興味深く歩きました☆




これは駅への帰り道のオマケ・・(笑)



山を下った所に、「永福寺跡



「永福寺」は、
鶴岡八幡宮・勝長寿院とともに、源頼朝が建立した3大寺院のひとつでした。
      
復元模型図 (説明パネルより)

1189(文治5)年に奥州藤原氏を攻めた頼朝は、平泉の中尊寺や毛越寺に
感銘を受け、源義経・藤原泰衡をはじめ多くの死者の霊を供養するために寺の
建立を思い立った・・とは表向きで、権勢を誇示する狙いがあったといわれます。

1191(建久2)年に着工し、翌年にはほぼ完成した壮麗な伽藍は
1405(応永12)年に焼失、室町時代に廃絶してしまいました。

近年まで長い間、オギが茂るばかりの場所でしたが、1967(昭和42)年度より
市による土地買収が進められ、史跡公園として生まれ変わろうとしています。

ウ~ン、‘猫’は前のままの方がよかったな・・・




21,804歩 




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鎌倉・吉沢川を遡って

2012-04-20 | 鎌倉・逗子・葉山


今回は、独りではとても行けそうもない鎌倉の‘秘境’を歩きました。
もちろん、ガイドさんに案内していただいて・・


先ずは、神社にご挨拶してから。
今日も楽しく、無事に歩き通せますように!


十二所神社

          祭神: 天神七柱(あまつかみななはしら)
              地神五柱(くにつかみいつはしら)
創建: 1278(弘安元)年

もと「光触寺」にあった村の鎮守 熊野十二所権現社からと伝わり、
12の神々を祀るところから「十二所神社」と称します。
1838(天保9)年に現在地に移転、明王院の所管となりました。

境内には、山の神・疱瘡神・宇佐八幡・地主神のお社があります。

社殿向拝の彫刻は、「うさぎ」。
お釈迦様の使者とも化身ともいわれるそうで・・




では、これから神社の近くを流れる「吉沢川」沿いに遡って行きます。


吉沢川
鎌倉最大の川、
全長5.6kmの 「滑川(なめりがわ)」の
源流の一つといわれています。



最初は川沿いに立ち並ぶ民家の間を歩いて行きますが、ほどなく山道になり
やがて次第にけもの道のように細くなり、途中で藪こぎしたり流れを渡ったり・・

                            ロープを伝って流れに下り・・
                           ↓
      
「童心に帰るね~」と、メンバーはすっかり〇〇探検隊の気分
トレッキングシューズ履いてきて良かったね~


だんだん‘秘境’らしい雰囲気に・・


凝灰砂岩の川底を、滑るように水が流れて行きます。
「滑川」の名を実感する光景☆



鶯の歌声をBGMに、美しいモミジの若葉の下を
「寿命が延びるよね~」と口々に言い合いながら

1時間ほどの、本当に楽しい‘探検’でした


そして、「天園」に到着。
今にも泣きだしそうな空模様ですが・・・ 柔らかな木々の色☆



腹時計は、ジャスト正午  
鎌倉の最高峰、標高159mの「大平山」の上で  タイム~


午後からは、「覚園寺」の方へ下りて行きます。

(続)





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旧東海道・大磯~二宮②

2012-04-18 | 旧東海道


城山公園でエネルギー・チャージして、元気百倍



「本郷橋」を渡って、住宅街へと
入って行くと、
左側に、

国府山 宝前院

真言宗のお寺だそうです。

説明板のようなものは見当たらず、ひと気もありませんが
境内には、見事なイチョウ・
クスノキの巨木といろいろな花々が・・





住宅街を進んで行くと、
やがて、左側のR1と並行する松並木の道になりました。
      


国府本郷一里塚」の標柱

日本橋から17番目の一里塚が、国府本郷内の此処から
約200m手前にあったことを記した説明板があります。

旧道はやがて、「国府新宿」交差点でR1に合流します。


少し先の「六所神社入口」交差点の右側に、
朱塗りの大鳥居と「相模国総社六所神社」の石柱。
神社の参道のようですね。 行ってみましょう☆



まもなく、右手にお寺があります。

寶積院

真言宗のお寺。

町最古の「国府新宿梵鐘」には、1631(寛永8)年の銘と
銘文中に、国衙(国府の政庁)の役人の「在張(庁)」の陰刻。
      
                            (説明パネルより)

お寺の入口に、大きく枝を広げたカヤの木が立っています。
樹高 15mと町内最大級の大木で、推定樹齢 300年以上とか

      


JR東海道線の下をくぐる「六所架道橋」を抜けると、長い参道の先に
社殿が見えてきました。 左手に、樹齢700年の大ケヤキ。
 


六所(ろくしょ)神社

主祭神: 櫛稲田姫命(くしなだひめのみこと)
相殿に祀られる分霊: 寒川神社・川勾神社・比々多神社・前島神社・平塚八幡宮

社伝によると;
崇神天皇の頃、出雲国から移住した柳田氏が当地を開拓し、「柳田大神」を
祀ったのに始まり、718(養老2)年 現在地に遷座して「六所神社」となりました。

『吾妻鏡』には、1186(文治2)年 源頼朝が社殿を造営、1192(建久3)年には
  政子の安産を祈願して神馬を奉納しています。 また、1252(建長4)年には
第6代征夷大将軍となった宗尊親王が、幣帛神馬を奉納したと記されています。

現社殿は、永正年間(1501-20)に北条氏綱が造営、氏政が修復したものとか。

      

古来 都から各国(地方)に派遣された国司は、先ずその国の主要大社を巡拝する
ことになっていましたが、それには多くの日数・費用・人員を要したために、やがて
各社の分霊を国府近くの神社に合わせ祀って「総社」と称し、参拝するようになりました。

「相模国府祭(さがみこうのまち)」
 一之宮「寒川神社」(寒川町)・二之宮「川勾(かわわ)神社」(二宮町)・
三之宮「比々多神社」(伊勢原市)・四之宮「前鳥(さきとり)神社」(平塚市)・
「平塚八幡宮」(平塚市)の各神社から、毎年5月5日に分霊が総社である
「六所神社」に集まり、国家安泰・五穀豊穣などを祈念する祭典が行われます。





R1に戻って、西へと進みます。

「変電所入口」の信号を右折し、「JR二宮変電所」の前を過ぎて・・

日吉山 蓮花院

真言宗のお寺で、相模新西国観音霊場第5番札所です。

本尊の「木造 聖観世音菩薩 及び 二天立像」は町指定有形文化財。
3体のうち、中央の像高35.5cmの観音像は平安後期の作と推定
され、二天像は観音像とは別作で江戸時代の作とされています。

(説明パネルより)




R1に戻ります。
「二宮町」に入って来ました。



塩海橋
      
傍らに「塩海の名残り」の標柱が立っていますが、何を指しているのか・・?
この付近の浜では、塩が製造されていたのでしょうか。

ほどなく、右手に入った所がJR「二宮」駅。
今回のゴールといたしまセウ☆



先述の六所神社で頂いた「湯津爪櫛(ゆつつまぐし)御守」


今さら‘良縁’は望みませんが(笑)、女性の災禍除けのお守りとか。
櫛稲田姫命のご神徳に守られて、この先も楽しく旅が続けられますよう・・


今回は、25,803歩




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旧東海道・大磯~二宮①

2012-04-17 | 旧東海道


なかなか更新が進みませんねェ・・・
がんばりまっす!


左手に、石造りの鳥居と可愛らしいお社。

八阪神社
      
とくに説明書きはありませんが、何でも京都・八坂神社の末社のようです。
牛頭天王を祀り、疫病退散・五穀豊穣のご神徳があるとか。
 タイムにちょうどいいナ・・と思ったら、先客アリ。
やっぱり皆さん、思うことは一緒のようです(笑)
では、‘猫’はもう少し先まで




「小磯幼稚園入口」信号の右側に、

西国三十三所巡礼供養塔





道の反対側に、標柱が見えます。
「日本橋から70km」





やがて、小さな「切通し橋」を渡ります。
下を流れる細い川は、何とも物騒な名の「血洗川」

その先で道は左右に分かれます。 
右が旧街道とか。


分岐の手前、左側の門は吉田 茂邸

総檜造りのお屋敷を、いつか機会があったら見学したいと
思っていたけれど・・・焼けてしまったんですよね、残念!!


分岐のすぐ先、左手奥に

西長寺
      
                            (説明パネルより)          

説明板によると;
ご本尊の「地蔵菩薩立像」は、像高148.7cmの石像で頸と胸に
継目があり、行基作といわれて 市の有形文化財になっています。
元は、近くの切通しの岩窟の中に祀られていたといいます。

1191(建久2)年 源頼朝の行列が鶴岡八幡宮で襲撃されたとき、
梶原景時の家臣 悪太郎義景が疑われ、畠山重忠に切られましたが
義景は刀傷ひとつ負わず、代わりに日頃信仰していたこの地蔵尊の
肩に刀痕ができていたと言われています。 このようなことから人々は
お堂を建て、「身代わり地蔵尊」として祀ったと伝えられています。



街道の右側に、

県立 城山(じょうやま)公園

室町時代に、「小磯城」が築かれていたといいます。
1477(文明9)年には太田道灌が、この城に立て籠もる長尾景春の
被官 越後五郎四郎を破ったという記録が残されているそうです。

1898(明治31)年 三井財閥が別荘を構え、7haもの敷地が整備され
庭園内には、織田有楽斎建立の茶室「如庵」(国宝)などもありました。
1990(平成2)年 公園として開園し、多くの人が訪れています。

三井別邸当時の様子

(説明パネルより)

緩やかな坂を上っていくと


展望台があります。


快晴なら富士山が大きく見えるのですが、今日は・・・
それでも、見下ろせばこの眺め☆

ここでゆっくり  タイム~♪


広い園内には、縄文時代の横穴墓群や郷土資料館
茶室「城山庵」・芝生広場などのほか、

「不動滝」


「不動池」


緑豊かな園内をゆっくり散策して、午後からの‘元気’ をチャージ!


(続)



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旧東海道・大磯宿②

2012-04-16 | 旧東海道


R1を西へ向かって歩いていきます。


 
街道の左側に、

鴫立庵


「こころなき 身にもあはれは 知られけり 鴫立つ沢の 秋の夕暮れ」と
いう西行法師の歌で名高いこの地に、1664(寛文4)年 小田原の
崇雪という人が草庵を結んだのに始まり、1695(元禄8)年に俳人の
大淀三千風が入庵し、第1世庵主となりました。 現在は落柿舎(京都)・
無名庵(滋賀)とともに、我が国の三大俳諧道場の1つとされています。

敷地内は、あちらにもこちらにも句碑の数々・・


庵の少し手前に、

湘南発祥之地 大磯」碑

崇雪が大磯の景勝を讃え、中国の湘南に似ているとして
「著盡(ああ)湘南清絶地」と刻んだ標石を建立したことから
「湘南」という呼び名が始まったといわれています。


湘南・大磯には、明治になって元勲や財閥
の邸宅・別荘が立ち並びました。
現「大磯町役場」は、山内容堂(豊信)の子息 山之内豊景邸の跡地。

その横の道を入った所にある、石垣も立派な巨大マンションは
日清戦争で使われた村田銃の発明者 村田経芳男爵と、日立製作所の
礎を作った実業家 久原房之助氏の邸宅があった場所だそうです。






鴫立庵の向かい側に説明板がありました。

高札場跡

高さ約3m 幅約5mほどもあり、幕府の権威を示すために
見上げるように作られていたといいます。




R1を暫く歩き、「統監道」バス停を少し過ぎた左側に

京方見附跡

街道を挟んだ両側に、台形状に高さ1.6mほどの石垣が積まれ
その上に竹矢来が組まれていたそうです。 平塚の江戸見附跡
見た、アレと同じようなものがこの辺りにあったわけですね。
旅人に宿場の出入り口を標示する「御料傍示杭」が立っていました。

大磯宿とは、早くもここでお別れということになりますが
まだまだ歩いて行けそうですよ



山形有朋邸跡地にある「大磯中学校」の辺りから
東海道の面影をとどめる松並木が続きます。
(歩道橋の上から  )


幹周り約4.3m 樹齢約300年の一番太い木から、まだ可愛い若木まで
形も大きさもさまざまなクロマツが、濃い緑蔭を形成しています。
      


1994(平成6)年 マツクイムシの被害に遭って倒れた
樹齢217年の松の切り株には、年輪の所々に年号と
当時の出来事が記されていますが・・・もう判読できません。


左側に、長~い石塀が続きます。


陸奥宗光邸・大隈重信邸があった所で、現在は古河電工の寮とか。



その先に、「伊藤公 滄浪閣跡」

伊藤博文邸の跡地です。

そういえばこの辺りも、以前歩いてご紹介したことがありましたよね。


小路を挟んで隣接する「旧西園寺公望邸」

現在は、企業の所有になっているとか。






滄浪閣と、R1を隔てて対面にある鳥居は・・

宇賀神社

      
「宇賀」さんといえば、たしか蛇身の神様ですよね・・
赤い鳥居といい、たくさん奉納されているお狐さんの石像といい、
お稲荷さんでは?と思うのですが・・・稲荷神社ではないのですかね。
とくに説明書きもないし、その方面の知識がないのでわかりませんが
そのせいか、何かミステリアスな感じのする神社でした。


(続)

 

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旧東海道・大磯宿①

2012-04-15 | 旧東海道


前回に続き、JR「大磯」駅からスタートします。


駅前広場左の観光案内所でマップをGETし、坂を下って行くと
R1(旧東海道)に出ました。 さっそく道路沿いの左側に、

神明神社
      
祭神: 天照大神
古来 紅葉山神明台に祀られていたものが、享保年間(1716-35)に
神明森に移された後、現在地に遷座されたと伝えられています。
神明造りの現社殿は、1930(昭和5)年に再建されたものとか。

1868(明治元)年 明治天皇が初めて京都を発って東京へ行幸の途次
大磯宿小島本陣に御宿泊の際、ヤタノカガミを祀る「内侍所御羽車」が
奉安されたことを記した石碑(昭和5年建立)が建っています。
因みに、東幸費用は77万両(約50億円)だったそうです。




秋葉神社

1762(宝暦12)年の大火で、宿場の殆どが焼失したため
遠州・秋葉神社を勧請し、大運寺内に社を建立したのが始まり。
1918(大正7)年に現在地に遷座されました。


秋葉神社から坂を下ったところに、お寺の山門。

宮経山 延台寺

日蓮宗のお寺。

創建: 1599(慶長4)年
開山: 法雲院日道上人
        (身延山第19代法主)
曽我十郎の想い人 虎御前が、剃髪して結んだ庵の跡ともいわれます。

このお寺は、以前にご紹介したことがありました。

虎御前

十郎の死後 19歳で剃髪し、生涯その菩提を弔って過ごしたとか。
「 露とのみ 消えにしあとを 来てみれば 尾花が末に 秋風ぞ吹く 」

境内には、虎御前に所縁のものがいろいろ・・
「法虎庵曽我堂」


堂内にある「虎御石」は、錦に覆われていました。


虎御前供養塔                 祈願した竜神
      




街道の右側に

北組問屋場跡」の説明板

全国各地からの書状や荷物の継ぎ立てを行う場所で、
大磯宿は、北と南の2か所に人足・馬が準備されていました。

大磯~小田原 お定め賃金(正徳元年)
 乗掛荷人共(人と荷20貫まで) 185文
 軽尻馬壱疋(人と荷5貫まで)  124文
人足壱人     (荷5貫まで)  90文 



創業100年という蕎麦処「古伊勢屋」の傍に

小島本陣跡
      
1803(享保3)年頃の大磯宿には、小島(建坪246坪)・尾上(238坪)・
石井(235坪)という3つの本陣があったそうです。



右手の少し奥に、

船附山 地福寺

真言宗のお寺。 境内に、島崎藤村夫妻のお墓があります。
ここもご紹介済みなので、説明は割愛




街道の左側を入って行ったところに、

船附山 薬王寺 東光院
 
真言宗のお寺だそうです。
本尊: 薬師如来
くわしいことはわかりません。 境内の桜がとても綺麗でした。





「日本橋から68km」

「照ヶ崎海岸入口」の信号で二股になっています。
左が旧街道筋、右がR1ですが、この先でまた合流します。


突き当たりの緑陰には・・

「新島襄終焉之地」碑

47歳の若すぎる死・・・


この辺りに「南組問屋場」があったようです。



左側に大きな石柱。 この先は、どうやら海のよう
「大磯照ヶ崎海岸海水浴場」と刻まれています。
      


右側に、右書き看板の和菓子のお店
「新杵」

大磯で有名なお店です。
島崎藤村や吉田茂氏もご贔屓だったとか。

‘猫’も大好き  「西行饅頭」



旧道を行くと、ほどなく

「真壁豆腐店」                   「井上蒲鉾店」
      
創業明治37年                  創業明治11年
豆の味が濃いお豆腐・厚揚げ・生湯葉・・   はんぺんが絶品!午前中に売り切れます。

グルメ・リポートになってきた・・(笑)
こうした昔からのお店に、今日もお客さんがひっきりなし・・
さすが
大磯だなぁ!

(続)


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吉高の大桜

2012-04-15 | 花散歩


印旛の畑の中に立つ大桜が、今年も満開になりました☆
早速、知人のKさんご夫妻から画像が届きました。


樹齢300~400年といわれるヤマザクラです。
‘猫’も数年前に見に行きましたが、その時と変わらぬ見事な花姿  

「 年年歳歳 花相似 歳歳年年 人不同 」 劉 廷芝
「年々歳々花相似たり 歳々年々人同じからず」・・とか。

この花を来年もまた見られるという保証は、誰にもありません。
毎年見に行かれるというKさんご夫妻も、「来年もこうして一緒に」と
いう思いで、お二人仲良く出かけていらっしゃるのかもしれませんね。

Kさんご夫妻、画像をありがとう!
また1年、元気にがんばりましょう~ 



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富岡辺り②

2012-04-14 | 横浜


「長昌寺」を出て、もう少し足を伸ばしてみました。



横浜市立 富岡総合公園


昭和初期から海岸線を埋め立て、1936(昭和11)年 横浜海軍航空隊の
基地が開設されました。 戦後 米軍による接収を経て、1975(昭和50)年
市立公園として開園され、現在 アーチェリーやテニスなどの運動施設のほか
芝生広場・牡丹園などいろいろな施設があります。 総面積 約21.9万㎡。






あ、あの木は・・?



去年初めて見た、あの横浜緋桜」でした☆
1本だけだけど、此処にもあったんだ~




富岡公園といえば、お花見の名所。
満開のソメイヨシノを目当てに、毎年たくさんの人が訪れます。








木々に埋もれるように・・

浜空神社
      
嘗て、横浜海軍航空隊の守護神として造営されたそうです。

「元横浜海軍航空隊隊門」



この見事な桜並木も、いわばその時代の遺産とか・・



15,939歩



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横浜・富岡辺り①

2012-04-13 | 横浜


久しぶりに、富岡の辺りを歩いてみようと思います。
数年前に歩いたことがあるので、地図がなくても大丈夫!・・・かな?


京急線「京急富岡」駅からR16を左に暫く歩き、右側に
「富岡八幡宮→」の看板がある道へと入って行きます。
住宅街の中を歩いて行くと、やがて右手奥に・・




赤い鳥居脇の狛犬さんには「天保六年」の刻銘。
      

緩やかな長い石段を上って行くと・・

富岡八幡宮

建久年間(1190-99)に、源頼朝が摂津国の蛭子(恵比寿)神を勧請して創建。
安貞年間(1227-29)に、八幡神が合祀されたといわれます。
主祭神:八幡大神 蛭子神 天照大神

1311(応長元)年に一帯を襲った「応長の大津波」の際、八幡宮の山に守られ
富岡は被害を免れたことから、「波除け八幡」と呼ばれ篤く崇敬されてきました。


徳川家光が江戸・深川の埋め立てをおこなった際 、高波で工事が難航したので
波除け八幡に祈願し、分霊を祀って工事を無事完成させることができたといいます。
深川の「富岡八幡宮(深川八幡)」は、此処の分社に当たるというわけですね。
嘗ては江戸からの参詣者も多く、奉納品が多数遺されているとのことです。


八幡宮の山の下に、緑豊かな公園があります。

富岡八幡公園
      

山を取り巻くように木立の多い緑地が広がり、散策する人やゲートボールを
楽しむグループなど、近隣の人々の憩いの場となっているようです。





公園を出て、真直ぐ北の方へ歩いていくと左手に


前回ご紹介した「孫文先生上陸之碑」とお寺の山門。


花翁山 慶珊寺

真言宗のお寺です。

    創建:1624(寛永元)年
 開山: 伝栄上人
      開基: 豊島信満・明重
 本尊: 大日如来
伝栄上人が開いた不動院宝龍寺という古寺を受け継ぐ形で
豊島明重が、両親の菩提を弔うために建立しました。
山号は父の、寺号は母の法名から付けられたといいます。

よく手入れされた植栽が美しい境内
      

本堂の右手から、裏の墓地に行ってみると・・

「豊島明重父子供養塔」

豊島(としま)一族は、武蔵国に一大勢力を誇った豪族でした。
室町時代に菅原道真に敗れ所領を失い没落しましたが、のちに
関東入り間もない徳川家康に召し出され、旗本に列せられました。

ところが、まとめた縁談を一方的に破棄され面目を失った明重が

1628(寛永5)年 江戸城内で老中 井上主計頭を殺害。 明重は
その場で自害、子の吉継も連座して切腹しました。 この、江戸城
三大刃傷といわれる最初の事件により、豊島家は断絶しました。
供養塔は、のちに明重の姉が建立したものだそうです。



慶珊寺の横の坂道を上って行くと、



直木三十五文学碑

「 芸術は短く 貧乏は長し 」


前回のときは、碑の隣にあった旧直木邸が・・・更地になっていました
跡地にあった説明板から
「旧直木邸書斎」

書斎からは、海が大変よく見えたそうです。

今は・・





坂を下り、慶珊寺前の道の先にある広い車道を渡って
そのまま真直ぐ進んで行くと、左手に

富岡山 長昌寺


臨済宗のお寺。

     創建:天正年間(1578-92)
開山: 仙渓和尚
 開基: 柳下豊後守
本尊: 釈迦如来
小田原北条氏の家臣といわれる柳下豊後守が、亡妻の供養のために
建立した「長昌庵」に始まり、その子息が寺としたと伝わっています。
寺号は亡妻の法名に因むとか。

本堂前に、すばらしい柏槇の古木☆ 推定樹齢800年とか。
すばらし過ぎて、画像1枚に収まりませんでした~

      


本堂の裏手にまわると・・

「瑚林慶珊大姉墓所」

豊島明重の御母堂のお墓だそうです。
手前の像は、「金沢七福神」の布袋像。


「芋観音堂」

疱瘡に霊験あらたかという楊柳観音(芋観音)が祀られています。
もとは鳥見塚という別の場所にありましたが、1936(昭和11)年
横浜海軍航空隊の開設により、当寺に移されたものだそうです。

其処には、冬でも枯れることのない霊芋の生えた池があり
その池の中から観音様が現われたと言い伝えられています。

(これは
10倍の模刻像だそうです)

江戸時代の『耳袋』という書物にも書かれているように、当時大変流行した
疱瘡に池の水がよく効くというので、江戸からも多くの人が訪れたといいます。
以前 旧東海道保土ヶ谷宿を歩いたとき、金沢横町の道標にも
「富岡山芋大明神之道」と刻まれてありました。 有名な観音さまなんですね。

お堂前の立派な狛犬さんにも「願主 日本橋 三舛屋」の刻銘が・・
      




お堂の横手に 直木三十五氏(右)と、
氏に心酔していたという
直木賞作家 胡桃沢耕史氏のお墓(左)が仲良く並んでいます。




(続)


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百花園の春の花

2012-04-11 | 花散歩


「向島百花園」で出会った花たちです。


 アマナ(山慈姑)
ユリ科アマナ属
      
山地や野原などに生育する多年草で、春 地下茎からニラのような葉を出し
葉間から出た花茎に、6弁で外面に紫色の繊条紋がある白い花が咲きます。

「 消え残る 雪かとみれば アマナかな 」  流水


 イワヤツデ
ユキノシタ科イワヤツデ属
      
中国原産。 渓谷の岩場などに生育します。 葉の形がヤツデに
似ているというので、この名。 別名:タンチョウソウ(丹頂草) 


 ウグイスカグラ(鶯神楽)
スイカズラ科スイカズラ属
      
我が国固有種。 3~4月に淡紅色の花が咲きます。 5~6月に熟す赤い
実は食べられます。 鶯がついばむ様を神楽を舞う様子に例えて、この名。



 オキナグサ(翁草)
キンポウゲ科キンポウゲ属




昔は、野原などでよく見られたようです。 4~5月に下向きの花が咲きます。
花後 銀白の長い毛が出るので、この名。 花弁に見えるのは萼片だそう。
別名:ネコバナ(猫花)・ネコグサ(猫草)

「 のどけさや 翁草咲く 磯のやま 」  紫泉 



 キブシ(木五倍子)
キブシ科キブシ属
      
雌雄異株。 3~4月に葉に先立ち総状花序が下垂して淡黄色の花が咲きます。
実をフシ(五倍子)の代用として染料に使ったところから、この名。



 サンシュユ(山茱萸)
ミズキ科サンシュユ属
      
中国原産で、江戸時代に薬用としてもたらされました。 2~4月に枝先の
散形花序に黄色い花が咲きます。 赤く熟した実が漢方薬になります。

「 枝ながら 黄に揺れてをり 谷のしも 遠く目立つは 山茱萸の花か 」  釈 迢空



 ショウジョウバカマ(猩々袴)
ユリ科ショウジョウバカマ属
      
草丈10~30cmほどで、山地の湿った場所を好みます。 4~7月頃
茎の先に咲く花色には、ピンク・淡黄色・濃紫色などがあります。
花を赤い顔の猩々、葉を袴に見立てて、この名。 



 ゼンマイ(薇)
ゼンマイ科ゼンマイ属

山地のやや湿り気のある場所に生育します。
4~5月頃に芽吹く若芽は白い毛で覆われています。

「 ぜんまいの すらりと伸びて 春の行く 」  村老



 ニワウメ(庭梅)
バラ科サクラ属

中国原産。 3~4月に淡紅色や白の花が咲きます。 
7~8月頃に熟す赤い実は食べられます。



 フリソデヤナギ(振袖柳)
ヤナギ科ヤナギ属

ネコヤナギとヤマネコヤナギの雑種だそうです。
ふわふわしていて、つい触ってみたくなりますね。



 ボケ(木瓜)
バラ科ボケ属

中国原産。 渡来したのは平安時代という古い歴史をもっています。
3~4月頃に、白・紅色・淡紅色などの花が咲きます。

「 ゆく春の 木瓜は葉ふかく 燃えまさり 」  皆吉 爽雨



 ミスミソウ(三角草)
キンポウゲ科ミスミソウ属
      
落葉樹林の中などに生育します。 3~4月頃に咲く 花と見えるのは萼片で
草丈10~15cm。 切れ込んだ葉の形から、この名。 別名:ユキワリソウ(雪割草)

「 清澄の 山あいに採りし 三角草 今年も咲いて 春たけにけり 」  松田 光子



 ミツバアケビ(三葉木通)
アケビ科アケビ属

4~5月頃 濃赤紫色の花が咲きます。 実は食用に、
新芽は山菜として、蔓は工芸品などに使われます。



 ミツバツチグリ(三葉土栗)
バラ科キジムシロ属
      
山地の日当たりのよい場所に生育します。 匍匐枝を出して広がり
4~5月頃に、鮮やかな黄色の小さい花をたくさん付けます。



 ミツバツツジ(三葉躑躅)
ツツジ科ツツジ属

4~6月頃 葉に先がけて紅紫色の花を咲かせます。
枝先に葉が3個輪生するところから、この名。



 ヤマザクラ(山桜)
バラ科サクラ属
      

「 薄紅に 葉はいち早く 萌え出て 咲かむとすなり 山桜花 」  牧水



 ヤマブキ(山吹)
バラ科ヤマブキ属

4~5月頃 鮮やかな黄色(山吹色)の花を咲かせます。細くしなやかな
枝が風に揺れる様から「山振り」→「ヤマブキ」となったといわれます。

「 山吹の 映りて黄なる 泉かな 」  嵐雪 


 ユスラウメ(桜桃)
バラ科サクラ属
      
中国原産で、江戸時代に渡来しました。 花色は、白または淡紅色。

「 ゆすら梅 まばらに咲いて やさしけれ 」  松葉女



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墨田区・向島百花園

2012-04-10 | 花散歩



当ブログ2度目の登場の「向島百花園」です。


前回は「萩のトンネル」を見に来たので、秋でした。
季節が違うと、園内の雰囲気もだいぶ違って見えますね~


入口のすぐ左に、芭蕉の句碑

「 春もやや けしきととのふ 月と梅    はせを 」
此処は、梅の名所。 たくさんの古木があります。
 
この碑を含め、園内にはいろいろな方の歌碑が29基もあります。
どれも大変立派なもので、探しながら歩くのも楽しいですよ♪


「路地琴」

路地琴プロジェクトが開発したという、据え置き型の水琴窟。
柄杓ですくった水を小石の上に流して竹筒に耳を寄せると、
カランコロンと涼やかな澄んだ音色が楽しめます。


「福禄寿尊堂」

「隅田川七福神」の1つ。


ソメイヨシノが満開で~す




これは 源平モモ



















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