スニーカー履いて

‘猫’も歩けば・・・今日はどんな出会いが?

横須賀・御滝神社

2011-05-31 | 横須賀・三浦


まだ其処此処に水田が広がる久村(くむら)の里に
神社がひっそり静まり返ってありました。

御滝神社

創建: 文治年間(1185~90)
   祭神: 瀧口五郎盛定  水速男命
社殿は数十年前、氏子達が手弁当で集まり
長い間かかって建て替えたものだそうです。

狛犬さんには、「文政五年(1822)」の銘
      

説明板によると;
ご祭神の瀧口盛定は、民部大輔藤原盛重の子で白河天皇に仕え
その後 高野山に上って入道しました。 後三浦党の幕賓と
なってこの辺りに居住しておりました。

その郎党 捨平は、盛定が高野山・神護寺に参詣の帰途
拾われて養育されていましたが、成長するにともない
慢心がつのって主人に逆らい、手打ちになるところを
雲海和尚に救われ、伴われて久村に戻り修行しました。


或る時 捨平が老桜に絡んでいる蔓を抜き取ると、忽然
清泉が湧き出し滝となって流れ落ちてきて、それまで
水不足に苦しめられてきた久村の人々
を救ったのです。

滝の水で新田を開発した捨平は、名主に挙げられ
瀧本盛兼と名乗るようになりました。


清泉のご神木の老桜が枯れると、盛兼はその木で
恩主 盛定の像を刻み、祠を建て水神として祀りました。



境内奥に、ずらり並んだ庚申塔


庚申塔に「三猿」はよく見かける図柄ですが
縦に並んだ三猿だけというのは、初めて☆
どこかユーモラスで可愛らしいですね!
     




谷戸一帯に清水を供給し豊作をもたらした滝は、水量こそ減りましたが
現在も湧き出ていて、傍らに「滝不動」が祀られています。

高さ40cmほどの不動像は、万延元年(1860)の造立。
      

かつてはかなりの水量があったようで、水田のほか 100坪ほどの
アユの養殖場もあったそうですが、現在は埋め立てられてありません。

今もこの水を管理されているお宅は、その屋号が「滝本」というそうです。


人の暮らしと水との関わりを、今に伝えている神社です。



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幸か不幸か・・?

2011-05-31 | 雑記


今日の午後 散歩の途中で、ふと空を見上げたら

向こうの山の上に・・


彩雲? 
何かいいことあるかな~ と思いながら


帰宅してからweb検索してみると、彩雲とは似て非なる現象で
「環水平アーク」と呼ばれるものではないかと思えてきました。

大気中の氷の粒に太陽光が屈折して出来るもので、昼間 太陽の下方に
やや上向きに反った水平な虹色の弧が現われる・・・って、まさしくそうじゃん!


ところが・・・
気になることも書かれてあったん
ですゥ

環水平アークは、地震の前兆とも言われるようで
東日本大震災の際にも、2008年 中国・四川大地震の際も
数日前にこの現象が現われていたとか。
科学的に証明されているワケではないようですが・・

さ~、今回はどうでしょうねぇ?
瑞兆か  はたまた地震の予兆なのか
時期が時期だけに、ちょっと気になりますね~



それはさておき、何しろとっても綺麗なものでしたよ☆





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こんにゃくの日

2011-05-29 | 雑記


529日は「こんにゃくの日」だそうです。
ご存知でした?


お馴染み「こんにゃく」は、おでんなど和食の定番食材。
さらに近年は、食物繊維が豊富でカロリーは極めて低い
究極のダイエット食品としても人気がありますよね。

                

こんにゃくの種類といえば、主に白と黒。
黒こんにゃくは生芋を皮ごと使うので黒く、白こんにゃくは
乾燥させた粉末(精粉)を使うので白い・・と聞いていましたが
この頃の黒こんにゃくは、精粉にヒジキ・アラメなど海藻の
粉末を加えて色をつけているのだそうです。
()日本こんにゃく協会のページより>


先年 滋賀・近江八幡を旅行したとき、ご当地名物「赤こんにゃく」を
初めて目にして、ビックリ!  一見レバーかと思いましたよ。
お味は普通のこんにゃくと変わりませんが、三二酸化鉄という
食品添加物を加えて赤くするので、鉄分の補給になるとか。


原材料のコンニャクイモ(サトイモ科)は、インドシナが原産。
日本国内では、殆どすべてが北関東で栽培されているそうです。
なかでも「下仁田こんにゃく」で有名な群馬県が最も収穫量が多いとか。



「コンニャク」で思い出すのは、昨年夏の東京・小石川植物園。
ショクダイオオコンニャクの花の話題で、連日熱かったですね!
食材のコンニャクイモの花も、強い匂いがするらしいですが
‘猫’はイモと葉は見ましたが、花は見たことがありません。
きっと、あれに似た姿の花が咲くのでしょうね・・


ところで・・
なぜ、529日が「こんにゃくの日」なのか分かります?
「5(こん)2(にゃ)9(く)」の語呂合わせですって。
そういうの、多いなー


「こんにゃくの日」に因み、つれづれ思いつくままに・・



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入梅

2011-05-28 | 雑記

 

関東・甲信越・東海地方が、早くも一気に梅雨入りとか。




今年の梅雨入りは、例年より10日余も早いそうですね。 
その分早く明けてくれる・・ってことはないのかな?

雨の日の散歩は嫌いじゃなかったけれど
今年は、あまり濡れたくは・・・




果皮にえぐみがあって、喉を刺激するから「エゴノキ」とか?

「風のある 日が続きつつ いつよりか えごの梢の 花開き初む」
                                石川 不二子


メマツヨイグサ
      











色づいてきましたね☆

「紫陽花や 都を雨の 木の間より」     士朗







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お庭拝見☆

2011-05-26 | 雑記


梅雨入り間近の午後のひととき、友人宅のお庭を見学☆
ズボラ‘猫’んちと違い、いつも綺麗なお花がいっぱいです


このホタルブクロ、よく見ると花弁が二重になってました
            


白いクレマチス



こんなクレマチスもあるんですねぇ
      



今年も、丹精のいろいろなバラが綺麗に咲きました☆



お馴染みの「ピエール・ド・ロンサール」



「バレリーナ」という名の元気なバラは、主役級の存在感



「シャンテ・ロゼ・ミサト」            「メアリー・ローズ」            
      


お気に入りの「ニュードーン」


まだまだいろいろたくさん咲いていて、撮りきれません~


お部屋の中も、花の香りがいっぱい☆
      


優雅なティータイムのあとは・


お喋りも・・・満開! (笑)
     


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金沢道をゆく ③

2011-05-25 | 横浜


能見堂の先も、ハイキングコースは緑の中を歩きます。

このまま歩き続けると、鎌倉・天園から瑞泉寺まで行けるのですが
今日は「かねさわ道」なので、鎌倉へ戻っちゃダメですね(笑)



途中から、能見台住宅街へ下りて行きます。
能見台北公園の前を通って金沢区から磯子区に入り、
氷取沢(ひとりざわ)高等学校のグランド脇を上って行くと
峠道の左側に小さな赤いお堂。

岩船地蔵

船酔いや航海安全にご利益があるというお地蔵様。
旅人の道中を見守ってこられたお地蔵様なのでしょう。
「享保4年 中里村同行八人」と刻まれてあります。
今も、お花がたくさん供えられていますね。



峠を下り、車の道を横断して更に進んで行くと
次第に古道の雰囲気を残す川沿いの道になってきます。


大岡川と高い崖に挟まれた静かな道です。
崖の下に、水の出ている所があります。

一杯水

昔からの湧水だそうです。
旅人の渇きを癒した恵みの水だったのでしょうか。
コンクリートで固められた崖の上は、住宅が
建ち並んでいるようなので、多分 今は・・・


古道の雰囲気が残る切通しも・・☆


江戸時代には、寺社への参詣や鎌倉・江ノ島遊覧の人々で
この道は賑わっていたようです。また、黒船来航で騒然とした
幕末には飛脚や沿岸警備の武士が頻繁に往来した道でした。


向坂庚申塔

右へ行く道は「杉田道」。 「かねさわ道」は左へ。


庚申塔には「正徳3年」「享保元年」の銘。

右から2番目は中里念仏講中の碑。
「左 新まち*」 「右 杉田みち」と読めます。




R22(笹下・釜利谷道路)へ出て、「栗木」交差点を過ぎた先の
「栗木町」バス停から右に入り、川沿いの道を歩きます。

やがて、右側にお寺へ上がる石段があります。
途中の左に、「享保十八年」銘の庚申塔。
      

常林山 妙蓮寺

日蓮宗のお寺のようです。
ガラス張りのご本堂が、深い緑の中に静まっていました。



古道は、「新川橋」の信号でR22に合流します。
ここから「関ノ下」交差点まで、この道を歩きます。

まもなく、環状2号線と立体交差の「打越」交差点を過ぎると・・



右側の柵の中に、

鰻の井戸」。

説明板によると;
文永年間(1264~75) 北条実時が六浦荘金沢の居館で病に倒れ
日頃信仰する紀伊国那智山の如意輪観音に祈念したところ、
「西北にある腐れ井戸の水を飲めば快復する」とお告げがありました。

使者がこの井戸水を汲もうとすると、2匹の鰻が浮かび出て水を飲んだ
とか。この水を館に持ち帰り、実時が一盃飲むと一夜で全快したので
「鰻の井戸」と名付けられました。その後評判が諸国に流布し、人々が
水を汲んで病を癒しましたが、実時死後 鰻は姿を消してしまいましたトサ



右手の奥まった所に

関宮山 東樹院

真言宗のお寺です。

ご本堂の横に、大きな狸の置物。

言い伝えによると;
ある寒い夜 住職が1人の美女に宿を貸したところ、数日後に
その美女がやって来て先日のお礼にと茶釜を差し出しました。
住職の勧めで、美女はそれからお寺に滞在することになりました。
ある晩のこと、村の近くで犬に噛み殺された1匹の狸が美女と
同じ着物を着ており、以来2度と美女の姿は見られなかったそうな・・
 
住職は狸を懇ろに葬り、茶釜と美女が描いた絵を寺宝にしました。
その後 火災で絵は焼失しましたが、茶釜は今でもあるそうです。

この焼物は「横浜焼」といって、明治時代 主に海外輸出用に作られ
一時期は窯・製陶所など横浜焼に携わる人は数百名いたといわれますが、
関東大震災や横浜大空襲などでその歴史は途絶えてしまったそうです。



街道に戻って進むと、左手の広い敷地にきれいな建物。

横浜刑務所



やがて、
「関ノ下」交差点でR21(現・鎌倉街道)に交わります。



交差点を右へ行くと、京急線「上大岡」駅です。
今回は、此処をゴールといたしまセウ☆

また機会があれば、次は保土ヶ谷まで・・・行けるカナ~?

28,915歩



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金沢道をゆく ②

2011-05-24 | 横浜


平潟湾沿いの道を「洲崎町」交差点で左折し、
まっ直ぐ進んで行くと、正面にお社がありました


洲崎神社

主祭神:誉田別命
もとは長浜にありましたが、1211(応長元)年の大津波と
さらに道路改修のため、2度にわたる移転後 この地に再建。
明治初めの神仏混交廃止により、洲崎神社となりました。


神社に沿って左へ行くと、右側の
長い参道の先に立派な山門


知足山 弥勒院 龍華寺

真言宗の準別格本山です。

     創建:1189(文治5)年
  開山: 文覚上人
開基: 源頼朝
   本尊: 大日如来
頼朝が文覚上人と共に瀬戸神社の別当寺として建立した
「浄願寺」が始まりといわれます。その後戦乱や火災で荒廃
しましたが、1499(明応8)年融弁上人が兼務していた別寺と
合併して現在地に移築。 「龍華(りゅうげ)寺」となりました。

天平時代の作と伝わる脱活乾漆造りの菩薩坐像や
金沢で新田開発に尽力した永島一族の墓所などが有名。
また、境内いっぱいに咲くボタンの花が美しいお寺です。

 

梵鐘には、「天文十年(室町時代)」の銘がありますが
その作風から、鎌倉時代の作だと考えられています。



さらに行くと、、「右 史蹟称名寺」の道標。
此処から右へ行けば、金沢北条氏の菩提寺「称名寺」へ。 
そして横断歩道の先に、石の鳥居。

金沢八幡神社

主祭神:応神天皇
金沢文庫の古文書の記載から、鎌倉時代には
存在していたとされています。 金沢北条氏から
篤い崇敬を受けた神社であったようです。

街道筋には今も、やはり多くの寺社が建ち並んでいますね。



京急線「金沢文庫」駅前を過ぎ、その先左手の踏み切りを渡って
舗装路を暫く歩いて行くと、住宅地の最奥に山道に入る階段。

「能見(のうけん)堂緑地」入口


緑がだいぶ濃くなってきたハイキングコースを歩きます。
数年前まで、気の合うウォーキングの相棒と何度も歩いた所です。
その相棒も去年突然に、遠い遠い所に行ってしまい・・
あれこれ思い出しながら、
久しぶりの道を歩きます。

草地の広場に着きました。

能見堂跡

「能見堂」は寛文年間(1661~73)に、当時の領主 久世大和守広之が
芝増上寺の子院を移設して、地蔵菩薩像を祀った蔵院でした。

昔の金沢は内海がこの下まで入り込み、能見堂からの眺望は素晴らしく
東に房総・江戸湾、南に三浦半島、西方には富士山まで一望できたとか。

江戸元禄の頃、明の渡来僧 心越禅師が此処を訪ね、故国の瀟湘八景を
偲んで詠んだ漢詩から、「金沢八景」が定まったといわれています。

その後 広重など多くの絵師や文人墨客らによって紹介され、
此処は一大観光地となって多くの旅人で賑わったそうです。

嘉永6年 広重が描いた眺望  (説明板より)
猿島・夏島・烏帽子岩・野島・瀬戸橋・筆捨松※などが描かれています。
※筆捨松=平安初期の宮廷絵師 巨勢金岡(こせのかなおか)が、変化に
富んだ絶景に筆が進まず、絵筆を根元に投げ捨てたという故事に因む松。


「金沢八景根元地碑」

1803(享和3)年 江戸庶民百数十名によって建てられたものとか。
この地がいかに広く知られ、多くの人に愛されたかが偲ばれます。


多くの絵師が八景を描いた中で、やはり広重の作品は人気があったようです。

「小泉夜雨」
穫り入れも終わった淋しい田んぼの坂に吹き付ける雨風。
力を入れて上る姿と対照的に、風雨に押されて下りてくる人。


「瀬戸秋月」
小夜更けて冴え渡る月に、浮かび上がる瀬戸橋を渡る人影。


「洲崎晴嵐」
潮の流れが人家を巡り、静かな佇まいの洲崎の村落。


「内川暮雪」
湾の海水は暗く沈み、陸は白一色。道も堤も白く埋まり、
蓑笠姿で膝まで埋もれて行きなやむ旅人の姿。


「平潟落雁」
引き潮で現れた洲浜で、老若男女が裾をからげて貝漁り。
静かな海の彼方に落ちていく雁の列。


「野島夕照」
八景見物の遊覧客を乗せた屋形舟の向こうに、静かな夕凪の漁村。
烏帽子岩や遠く沖合いに浮かぶ夏島の姿。


「乙舳(おつとも)帰帆」
次々に帰ってくる白帆の漁船の左手には、柴の岬。
松並木の海岸の路上で、老いた漁師に道を問う旅人の姿。


「称名晩鐘」
内海に柴舟と子供が艪を漕ぐ網舟。のどかな岸辺の家々。
夕靄に浮かび上がる称名寺から、鳴り響く暮れの鐘声。




現在の「能見堂跡」は、生い茂る樹木に眺望が遮られ・・・
それでも、葉陰を渡る風の音と小鳥の声に包まれて
元気印だった相棒を偲びながら、ティーブレイクの‘猫’でした


(続)



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金沢道をゆく ①

2011-05-23 | 横浜


鎌倉時代 幕府のある鎌倉から朝比奈切通しを抜けて房総へ
到る街道(鎌倉道)の途中で、金沢から分岐して保土ヶ谷へと
向かう道があり、「金沢(かねさわ)道」と呼ばれていました。


その起点である六浦の「米倉陣屋」は、甲斐武田家の一族を先祖とし
徳川家康に仕えた横浜で唯一の大名(一万五千石) 米倉丹後守の
陣屋で、今の京急線「金沢八景」駅の周辺一帯
にありました。

現在は静かな住宅街で陣屋の面影は殆どありませんが、今も
通称「御屋敷」と呼ばれる谷戸には、ご子孫がお住まいのようです。


朝比奈切通しを出たR23沿いに、

六浦山 上行(じょうぎょう)

日蓮宗のお寺。
もとは鎌倉時代初期の創建と伝わる「金勝寺」という真言宗の
お寺で、下総中山の領主 富木五郎胤継の祈願所でした。


説明板によると;
1254(建長6)年 富木氏が鎌倉参勤の帰途 日蓮上人と同船し
仏法論を戦わせた結果帰伏。 当寺も日蓮宗となりました。
その後 第3代日佑上人のとき、寺名を「上行寺」と改めました。

境内に、船中問答の船を繋いだという松(代替わり)と碑があります。
      

当寺の妙法というお坊さんが霊夢を見、隣郷にある称名寺山門の
仁王尊が「われを身延山へ連れ行け」と言ったので、この言葉に従い
称名寺にかけ合ったところ、一旦は断られたものの賭け囲碁の末に
2体の仁王像を譲り受け、像を背負って身延山まで3日3晩歩き通し
無事に納めて「日荷」の法号を与えられたと伝わっています。

境内に、その際に持ち帰ったという3本の榧(かや)の1本があり
樹下に日荷上人が眠っておいでです。 榧は樹齢700年とか。
     


境内の左手奥に、宝筐印塔が1基。

高さ 297.8cm
南北朝時代のもの
説明板によると;
この塔は特定の一結衆だけでなく、牛馬六畜のためにも
供養するという趣旨の銘文が刻まれており、ここ六浦周辺の
当時の交通とも関係が深いものと推測されています。

また背後の山上には、50歳頃の吉田兼好が数年間
住んだという草庵の跡があるということです。
いろいろな逸話が残る興味深いお寺です。



お寺の横の急な階段を上ると


上行寺東遺跡」(復元)
遺構の一部が、「造形保存」という方法で実物と同じ形態に
復元され、遺跡に近い現在地に移され保存されています。

説明板によると;
この近くの海を見下ろす小高い丘陵にあった遺跡は
2度にわたる発掘調査の結果、鎌倉~室町初期の‘やぐら群’と
‘建物跡群’を主体とした遺跡であることが明らかになりました。
念仏堂の建物や池のあるやぐら群は、ほかに類例がないそうです。



遺構は上・中・下段に分かれ、‘やぐら’43基 建物跡7基などが
発見され、多量の陶磁器・石塔・古銭・銅製品なども出土しました。




京急線に沿って左折し、R16を進んで行くと

瀬戸神社

創建: 1180(治承4)年
源頼朝が戦勝を祈願し伊豆三嶋明神を勧請したのに始まります。
北条政子が奉納した舞楽面などがあるということです。
以前ご紹介したことがあるので、説明は割愛。



神社前から、平潟湾に沿って暫く海へ向かう道を歩きます。
道沿いの左手にある「憲法草創之碑」も、以前ご紹介しました。


説明は省略して、「金沢道」の先を急ぐことにしましょう。


(続)



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アロエ・スザンナエ

2011-05-21 | 花散歩


「アロエ・スザンナエ」
アロエ科
マダガスカル南部乾燥地に自生

「くりはまはなの国」ハーブ園の温室に生育するこの植物は
世界的にも非常に個体数の少ない稀少品種のアロエだそうです。

閉鎖された横浜プリンスホテル内の温室から、5年前に
こちらに移植されたもので、花が咲くのは今回が初めてとか。

上の画像は、噂を聞いて5月初めに来てみたときのものです。
株の中央から2mほどに伸びた長い花穂全体に、
1,500個ほどの蕾がびっしりついていました。
      



そして、これが今回の様子
      
蕾は一斉に開花するのではなく、穂の下の方から咲いていくようです。
ですから、もう枯れてしまった花もあり、まだ蕾の状態のもあり・・

淡いクリーム色の小さな花は、花弁の先がくるりと反り返って
よく見るととても愛らしい形で、黄色い雄蕊を長く伸ばしています。


説明書きには、メロンのような香りがすると書かれて
いましたが、‘猫’はあまり感じることができませんでした。

花は、5月いっぱいは見られるだろうとのことです。


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ポピー満開☆

2011-05-20 | 花散歩


「くりはまはなの国」の正面大花壇では、
100万本のシャーレー・ポピーが、風に揺れていました。








花を見下ろしながら、右手の坂を上っていくと
ハナチルサトのある広場

雪を被ったように真っ白だった若葉が
だいぶ緑がかってきました。



‘猫’の好きなゆりのきの花も、
高い枝でひっそり咲いています。




あ、こんな所にもいましたね☆
小さな池に、準絶滅危惧種のアサザ数輪。



絶滅危惧といえば、園内の温室にちょうど今
そんな珍しい花が咲いているようです。

では、ちょっと見に行ってみましょう!



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横須賀・神明公園

2011-05-19 | 花散歩


「くりはまはなの国」の近くにある「神明公園」です。
面積は、25,240㎡

この時期の「はなの国」はポピー見物の人たちで
賑わっていますが、こちらはうって変わった静けさで・・


この公園の両端には幼児のための遊具広場と、少年野球やゲートボールなどが
できるグランドもありますが、中央部分は樹木の多い芝生広場になっています。



此処は、昔「蓼原遺跡」があった場所だそうです。
1936(昭和11)年に貝塚が発見されたのに始まり、1979(昭和54)年の
本格的な調査では、6世紀後半のものと推定される前方後円墳とともに
琴を弾く男性の埴輪や須恵器などの貴重な遺物も出土しているとか。





この豊かな緑陰が、とても
気に入っているんです☆



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花散歩39

2011-05-18 | 花散歩


2ヶ月ぶりですね~ 「花散歩」です


クレマチス・アルマンディ
キンポウゲ科センニンソウ属
中国原産
つる性で、近くの樹木などによじ登って生育します。
春に白~淡いピンク色の芳香のある花が咲きます。
これは、‘アップル・ブロッサム’という園芸種のようです。
      


キランソウ
シソ科キランソウ属
    別名: ジゴクノカマノフタ(地獄の釜の蓋)  
  コウボウソウ(弘法草)
茎が地面を這うように広がり、3~5月頃紫色の花が咲きます。
古くから漢方薬として、咳止めや健胃に用いられてきました。
花言葉は、「追憶の日々」
      


バイモユリ(貝母百合)
ユリ科バイモ属
中国原産
淡緑色の花弁の内側に紫色の網目模様があるところから、
別名:アミガサユリ(編笠百合)
花言葉は、「威厳」
      


イキシア
アヤメ科イキシア属
南アフリカ原産
春から初夏にかけてピンク・白・紫色などの花が咲きます。
細い葉を槍に見立てて、別名:ヤリズイセン(槍水仙)
花言葉は、「君を離さない」
      


ヒメヒオウギアヤメ(姫桧扇菖蒲)
アヤメ科アノマテカ属
南アフリカ原産
6~
8枚ある花弁の下側の3枚は付け根に色の濃い部分があります。
花色はオレンジ・ピンク・白色などがあります。
別名:アノマテカ
花言葉は、「歓喜」
      


ベニバナトチノキ(紅花栃の木)
トチノキ科トチノキ属
英名:Red horsechestnut
セイヨウトチノキ(マロニエ)と
アカバナアメリカトチノキとの交雑種。
街路樹や公園で、3~5月頃淡赤色の花が咲いて人目をひきます。
      


この花は?

ツリガネズイセン(釣鐘水仙)に似てますが・・
他所様の玄関先の鉢植えを
        



これも・・??
道端に咲いていましたが、誰方かが植えられたもののようでした。
      

花名をご存知でしたら、お教えくださいマセ!     



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旧東伏見宮別邸

2011-05-15 | 横浜


2008年に営業を終了した磯子の丘の横浜プリンスホテルの
跡地に残る貴賓館の建物は、旧東伏見宮邦英伯爵別邸です。

この歴史的建物が1日限定で一般公開されると聞いて行ってみました。



が・・
のんびり‘猫’が、えっちらおっちら坂道を上って行くと
もう、上から次々と人が下りてくるので・・ヤバい!?

やはり予感は当たってしまった・・・
坂の途中から、すでに長~い長い人の列。

係りの人の話では
「100人ずつ入場して貰っていますが、あと1時間か、それ以上・・」とか。
さっき下りて来た人達は、公開開始時間前から並んだのかな?

残念だけど、今日はそんなに時間がありません。
止む無し・・では、外観だけ見てきましょう。


長い列の横を上っていくと、海が見えてきます。

ホテルに宿泊する機会はなかったけれど、食事に行ったり
ショッピングしたりと、何度か訪れたことを思い出しながら・・


そして、建物に到着☆

1937(昭和12)年築の3階建ては、市の歴史的建造物に認定されています。
内部のアールデコ調の装飾に興味のある方は、こちら

ホテル跡地は、まもなくマンションの土地造成が始まるようで
この建物は保存されレストランになる予定があるとか、無いとか?


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友人のおさらい会へ

2011-05-15 | 雑記


招待状を頂いて、友人の日本舞踊の会へ行きました。



次々と繰り広げられる盛りだくさんで華やかな舞台に
慌しい日常も暫し忘れて、夢の世界にどっぷり浸りました。

お名取さんである友人の舞は、さすが研鑽10年の貫禄☆
恋に燃える娘心のなかに、凛とした彼女らしさも垣間見え
とても華やかで見応えのある、ウットリの20分間でした。

何でもやってみたがりの‘猫’などは、思わず
「私も習いた~い」と手をあげたくなって・・(苦笑)
舞姿に太極拳と通じる点もあって、勉強になりました~


場内撮影ができなかったので、ロビーで
      


伝統芸能って、やっぱりいいですねぇ!
お招き頂いて ありがとう~~☆





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三浦半島の鎌倉道 ③

2011-05-12 | 横須賀・三浦


大津諏訪神社を後に、R134を跨いだ先に

「大津公園」

通年 花で彩られ様々な運動施設もある市民公園ですが
江戸後期には此処に 江戸湾警固のための「大津陣屋」がありました。

幕命によって1843(天保14)年に設置され、約9,800坪の敷地に
年代により川越・肥後・佐倉の各藩が駐在し、任務に当たっていました。
明治になって新政府に引き渡された後、建物が撤去されました。



公園を抜けて行くと、
葉山・鎌倉方面へ向かう古道が続いています。
天神坂

嘗て坂の途中に天神社があったことからこう呼ばれています。
以前は、今よりもっと急な坂だったようです。

傍らに庚申塔群

狛犬は天神社当時のものかもしれません。

坂の右手の小高い丘の上に
愛染稲荷社
      
1817(文化14)年 七兵衛という人が付近の住民を代表し、稲の豊作を願って
当時 稲荷総本宮であった江戸・愛染寺の許可を得て建立したものです。
住民によって今も大切に守られ、毎年1度稲荷講が行われているとか。

祠堂の後ろに
1本のクロガネモチが、堂守のようにすっくりと立っています。
推定樹齢400年。 「鎌倉・三浦の古木名木50選」に選定されています。



天神坂を越えて、古道は続きます。

根岸庚申塔群

10基余の石塔がズラリと並んでいます。
周辺に建てられていたものが集められたのでしょう。
最古の「天明」のものから、新しい「平成八年」のものまで
あって、庚申講がずっと行われてきたことがわかります。



公卿(くごう)という町に入ってきました。

神金山 妙真寺

日蓮宗のお寺です。
創建: 応永年間(1394~2428)
  開基: 妙浄入道(石渡左衛門則次)
本尊: 日蓮上人坐像(江戸時代)

木造の立派なご本堂は、2008年再建されたばかりですが
内部欄間には、創建当時のものが使われています。


当寺に伝わる鰐口は、市重要文化財に指定されています。

直径27.5cm  厚さ7.5cm
「駿河国富士下方和田寺・・・ 応永三年・・」の銘
静岡県の和田寺(廃寺)から、何らかのいきさつで当寺に
伝えられたらしいのですが、詳細は不明だそうです。

境内の立派な石碑は、
「妙真寺保存金
并 神金里共有金碑」

ここ神金(かりがね)地区の豪農 石渡賢素が、1754(宝暦2)年に
篤志家の献金を元に寺金(保存金)を創設し、必要な人に低利で
融通しその金利で寺の維持費を賄いました。更に里人に毎晩1束の
縄をなわせてこれを集め、売ったお金を10年間蓄えて里の共有金を
設立。里の葬祭・屋根の葺き替え・出征の餞別などに使い、江戸~
明治まで続いて里人が助かったというので、創始者を顕彰した碑です。
今でいう協同組合のような仕組みだったのでしょうか。



「県立横須賀高等学校」の裏を過ぎて行くと、右手の先に

東光山 曹源寺



曹洞宗のお寺。
   創建: 奈良時代末
開山: 行基上人
奈良・平安時代にあった「宗元寺」の薬師堂跡に、江戸初頭に
代官の長谷川長綱が再建したと伝えられます。鎌倉時代には
源頼朝が妻政子の安産を祈願した15大寺に選ばれたそうです。

寺宝「十二神将像」の内
巳神将像




今ツアーのゴールも近くなってきました。
住宅地の路地のような古道を抜けて行くと・・
      


法塔十字路

地元の人に「法塔十字路」と呼ばれている辻に、2基の石塔。
左は「日蓮大菩薩発願霊場」、右は「高祖大士行法霊地碑」とあります。

右の碑は、1781(天明元)年日蓮五百年遠忌に建立されたもので
台座には「東 浦賀 南 三崎 西 鎌倉 北 横須賀」 と刻まれて
いるところから、道標の役目も兼ねていたものだとわかります。


十字路の少し先の右奥に

楠箇山 長峰院 光心寺

浄土宗のお寺。
創建年代などは不明
本堂内の厨子に、夢想国師護持仏 十一面観音菩薩像が祀られています。
境内には、戦艦「比叡」戦没者慰霊碑や日清戦争戦病死者の祠堂など。
内部の拝観はできませんが、聖域にふさわしい雰囲気が漂うお寺です。

此処が、今回のゴールです。
続きのツアーが、また開催される予定とのことなので
もし時間が許せば、参加してみたいと思っています。

25,604歩


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