スニーカー履いて

‘猫’も歩けば・・・今日はどんな出会いが?

魚荷道を行く②

2014-09-27 | 鎌倉・逗子・葉山



山越えの道を歩いて、逗子市から横須賀市へと入っていきます。



途中から、「鷹取山」のハイキングのときに通った道になりました。
その道をどんどん進み、道標に従って追浜方面へ下っていきます。




高台から眼下に長浦港を眺めながら、「浜見台」の住宅地を過ぎて・・



梅田隧道記念之碑」 
          
1882(明治15)年 海軍水雷艇基地などの建設のため、周辺の港が軍用と
なったため、漁民たちは軍の工場で働くようになりました。しかし、通勤には
険しい山坂を越えねばならず難渋していました。 そこで土地の有志達が出資、
2年の難工事の末に、すべて民間人の手によるトンネルが1888(明治21)年
完成しました。 軍用以外では、市内で最初に建設されたトンネルだそうです。
碑の題字は、樺山資紀氏(海軍大臣)。 碑文は、田辺新之助氏。





楽浦山 能永寺

市内唯一の時宗のお寺。
1276(建治2)年 一遍上人が開いたといわれます。
本尊:阿弥陀如来



本堂は1843(天保14)年 築

ご本尊のほか、観音菩薩像・勢至菩薩像・胎蔵地蔵尊像など。
寺裏の「榎戸貝塚」からは、縄文期の骨角器が出土しています。

地蔵十王図掛軸
(画像は市HPより)

画幅:141cm × 47cm 市指定重要文化財
寺伝では中国画家 陸信忠の筆といわれますが、中国画の強い影響を
受けた室町中期の日本の画家の筆によるものと考えられています。





「浦郷公園」を通り抜けて、「深浦湾」に到着☆


嘗ては「能永寺」門前辺りまでが海で、「榎戸湊(えのきどみなと)」と呼ばれる
海上交通の要衝でした。 逗子から運ばれてきた魚は、此処から船で江戸へと
運ばれたのです。 現在ではすっかり埋立てられ、往時の面影はありません・・


魚荷道を辿って、逗子の田越から横須賀の深浦まで
今回も よく歩きました~☆

24,610歩



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魚荷道を行く①

2014-09-27 | 鎌倉・逗子・葉山


「魚荷(うおに)」とは、文字通り魚を運ぶ荷駄のこと。
江戸文政の頃、相模湾で獲れた生魚を江戸・日本橋の魚河岸まで届けるため
逗子の田越から桜山・沼間を経て 横須賀の榎戸湊まで、馬で荷を運んだ「魚荷道」を
ガイドさんの案内で 途中の山越えも楽しみながら、周辺の寺社を訪ねて歩きました。


伊豆や真鶴で獲れた魚は、相模湾から逗子市内を流れる「田越川」を舟で運び、名主 石渡家の
屋敷の前で荷揚げして馬の背に積み替え、榎戸まで運んだのち 海路を江戸に向かいました。

荷揚場跡

道路沿いにある長い塀の邸宅が「石渡家」。 
中世からの土豪で「
神武寺」の筆頭檀家。 江戸時代後期、屋敷の前で
舟を停めて荷揚げし、馬に積み替えて榎戸まで運び、海路にて江戸まで
運ぶ差配をしていました。 川に面した石垣に、荷揚場の跡が残っています。



笹の葉を敷き生魚を入れた籠を、馬の背に左右5籠ずつ積んで
さぁ、ここから魚荷道のスタートです☆
ほどなく右手に

海向山 宗泰寺

真言宗のお寺で、通称「さくら山寺」。
本尊: 阿弥陀如来
以前訪ねたとき、ご紹介しましたね。

「木造十王像」と「奪衣婆坐像」が市の重要文化財になっています。


        
(画像は逗子市HPより)
十王像は、1685(貞享2)年 鎌倉扇ガ谷の加賀仏師の作といわれます。



住宅街の道が右へ緩やかにカーブしていくと、変わった外観のお寺が・・
茅葺屋根のお堂が建て替えられ、近代的な建物になりました。

恵日山 金剛寺

真言宗
創建: 18世紀ごろ
本尊: 阿弥陀如来
阿弥陀如来像は江戸初期の作。 建物左端のガラス戸越しに拝観。 
他に十一面観音坐像・不動三尊像。 


 

R24 (逗子大師通り)に出ました。 
横須賀方面へ進み 消防署前辺りで右へ入って行くと、山裾に石の鳥居。
そこから、長い石段をひたすら上ってゆきます
          

桜山大神宮

祭神: 天照大神
桜山地区の総鎮守。 一説に、神武寺の山王社ともいわれます。
「神明社」と書かれた扁額は、東郷吉太郎中将(東郷元帥の甥)の筆。






R24 沿いの「福祉会館入口」交差点右に、たくさんの石塔が並んでいます。
嘗て周辺に祀られていたものが集められたのでしょうか。

桜山石塔群


地蔵・馬頭観音・堅牢地神塔・庚申塔・徳本塔など。

          
激しく風化した地蔵像は「疣(いぼ)地蔵」と呼ばれ、弘法大師の作と伝わります。





R24 「警察署入口」交差点向かいの路地を奥へと入って行くと、
覆屋に卵塔が1基祀られてあり、「入定さま」と呼ばれています。


この辺りは 廃仏毀釈で廃寺となった「地蔵院」の境内で、円求という法師が
諸国行脚の末 此処で地下に掘った穴に入り、竹筒で呼吸を補いながら
食を断ち、鐘を鳴らし念仏を唱え続けて 7日後に入定されたと・・



R24を進んで また右の道に入ると、奥に 直登する急勾配の石段。

蓮沼山 観蔵院

天台宗
開山は724(神亀元) 1716(正徳6)
年 中興
本尊: 十一面観世音菩薩
御像は7年毎に行われる祭の際に開扉されるとか。
三浦三十三観音第十三番御札所

境内の一隅、覆屋に赤い前垂をした石像が祀られてありました。
地蔵様かと思ってよく見ると、頭に馬の顔を乗せた馬頭観音でした。




「火の見下」の交番前の信号右側 大樹の根元に石塔群。

火の見下石塔群

「宝暦四年」と刻銘がある宝篋印陀羅尼塔は、
中に経文が入っていたといわれています。


反対側の金網の中に並んだ石塔も、庚申塔のようです。




五霊神社

沼間地区の鎮守
祭神: 天手力男命
源義朝が、沼浜の舘の守護神として勧請したのが始まりと。
此処も
以前ご紹介したことがありましたね。

「かながわの名木100選」に選ばれている境内の大イチョウの巨木から
落ちたギンナンの匂いが境内中にただよい、拾う人の姿もちらほら


住宅街を過ぎ、やがて横横自動車道路のガードをくぐった辺りから
次第に人家がなくなり、山道へと入って行きます。
横須賀はこの山越えのあと・・



(続)



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総帆展帆&満船飾

2014-09-23 | 横浜



みなとみらいの「日本丸」
今日こそは、
前回以上に絶好の展帆日和!

今回は‘総帆展帆’に加えて、‘満船飾’も見られたよ~


お祝いのときに、船の全ての国際信号旗を掲揚するのが‘満船飾’。
船首から各マストの頂きを経て船尾まで、色とりどりの旗で飾られました☆




左舷用プロペラ(予備)の展示

日本丸は、ディーゼル主機関を右舷と左舷に備えています。
右舷用・左舷用の回転方向は、互いに外回りで前進力を出します。




ため息が出るほどに美しい‘太平洋の白鳥’です




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中央区・佃

2014-09-22 | 東京・川崎



佃島
本能寺の変の際、急な出水で難儀していた徳川家康の一行を援けた 摂津国・
佃村の漁師達が、1590(天正18)年 関東に下向した家康に招かれて江戸に移り
埋立てて築いた島を故郷に因んで「佃嶋」と命名し、定住したのに始まるといいます。

明治時代になって更に埋立て造成が進み、国の富国強兵策に沿って発展し
「石川島造船所(現IHI)」など近代的造船業や鉄工業地帯が形成されました。

現在はその跡地に超高層マンションビルが林立し、関東大震災や戦災を
免れた 昔ながらの町並みとの対比が、独特の景観をつくっています。




佃大橋」から。
上流の優美な橋は、「中央大橋」。


その先に・・あ、スカイツリーだ!






佃1丁目辺りには、昔ながらの街の雰囲気が残っています。


          


船溜まりの向こうに、赤い「佃小橋」が見えます。




住吉神社


額(陶製)の文字は 有栖川宮幟仁親王。


手水舎の彫刻には、佃の漁師の姿





祭神: 底筒之男命・中筒之男命・表筒之男命(住吉三神)
     息長足姫命(神宮皇后) 東照御親命(徳川家康)

江戸に移った漁師達と摂津・住吉神社(田蓑神社)の神職が、奉戴した
分神霊を1640(正保3)年 此処に祭祀したのが起源と伝わります。
海上安全・航行安全の守護神  地域の産土神




佃島渡船跡」碑                   「石川島灯台跡
          
1866(慶應2)年 石川島人足寄場奉行が、船舶の安全航行のため
人足らを使い、油絞りで得た収入で 六角二層の常夜灯を築かせました。
現在、
公園の一角に 灯台を再現したモニュメントが建てられています。 




「中央大橋」を歩いて、対岸に渡ります。

上流に見える「永代橋」は、1926(大正15)年に
ドイツの橋をモデルに架けられました。




霊岸島水位観測所
          
日本の近代測量は明治初期に始まり、主要河川の河口部に水位を測る「量水標」が
設けられ、隅田川には1873(明治6)年 此処より約36m下流に設置されました。

その後 測量技術の進歩などに伴って、平均海面データが統一され
当観測所の平均水位が 全国の水準点の基になったそうです。


だいぶ日が傾いて、川風が冷たくなってきました。
もう少しゆっくり 街を歩いてみたかったけど・・・機会があれば、また☆
築地から月島・佃界隈を 半日歩いて

19,653歩



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中央区・月島

2014-09-22 | 東京・川崎



勝鬨(かちどき)

長さ: 246m  幅: 22m  可動部: 51.6m
1940(昭和15)年 完成。


1905(明治38)年 日露戦争旅順陥落祝勝記念に 渡し船が設置され
「勝鬨の渡し」と呼ばれたのに始まります。 橋の設計施工はすべて
日本人の手で行われ、当時としては東洋一の可動橋と言われました。
 

隅田川に架かる全国でも数少ない可動橋ですが、1970(昭和45)年を
最後に開閉が停止されています。 復旧を望む根強い声は絶えないそう
ですが、交通量が多く、また多大な費用が必要なため 実現困難のよう・・

橋の中央部分(開閉の境目?)



橋の上から、下流右岸に「築地市場」が見えます。

後方には、「東京タワー」も。




勝鬨橋を渡りきると、「月島」。
明治時代中期に 隅田川から流出し東京湾に堆積した大量の土砂を浚渫し
埋立造成され、殖産興国という国策に沿って重工業地帯として発展しました。
 現在、川と運河に囲まれ下町の風情が残る街を訪ねる観光客が増加中☆


月島川に架かる「月島橋」の上から

隅田川へ通る水門                 川沿いの三五稲荷
          
「三五稲荷神社」 
祭神: 倉稲魂(うかのみたま)神
1904(明治37)年 京都・伏見稲荷神社を勧請。 主に米穀などの
農作物を管理した勝鬨河岸倉庫地区の守護神として祀られました。




「月島橋」を渡り、下町情緒の柳並木から‘もんじゃ通り’へ☆



「月島西仲通り商店街」1~4番街の 通称‘もんじゃ通り’には
新旧 約70軒のもんじゃ焼などの飲食店が並んでいます。


昔 駄菓子屋の熱した鉄板の上で、水で溶いた小麦粉を薄く焼き
醤油や蜜をつけて食べた「文字焼」
が原形といわれる ‘もんじゃ焼’。
1980年代後半のブームで広く知られるようになり、現在でも
店独自のいろいろな具が 工夫され続けているようです。




通りの途中 左側にある ビルの1階奥に、「月島開運観音
          
1951(昭和26)年に 商店街有志の発願で、信州・善光寺より
一光三尊善光寺菩薩・開運観世音菩薩を奉還し、創設されました。


路地にも、下町らしい雰囲気☆



西仲通交番

1921(大正10)年に設置された時は木造でしたが、
1926(大正15)年 現在の鉄筋コンクリート造りに。
それでも、じつにいい味出していますよね~☆
警視庁で最古の現役交番だそうです。 ご苦労さん!




R473の高架をくぐると、いよいよ「佃島」になります



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中央区・築地

2014-09-22 | 東京・川崎

「銀座4丁目」交差点から、「晴海通り」を海の方へぶら~り☆




「三原橋」を過ぎ、「万年橋」を過ぎた辺りから「築地」になります。
「築地4丁目」交差点の左側に

築地本願寺

浄土真宗本願寺派の直轄寺院
本尊: 阿弥陀如来
1617(元和13)年 京都・西本願寺の別院として浅草に建立されました。
1657(明暦3)年の明暦大火で焼失したため、代替地の海を埋立てて
1679(延宝7)年に「築地御坊」を再建。 その後、1923(大正12)年の
関東大震災で焼失。 1934(昭和9)年に現本堂が再建されました。



          



建築家 伊東忠太氏の設計による古代インド仏教様式。
2011(平成23)年 国登録有形文化財となりました。

今回初めて本堂内を拝観しましたが、外観から想像していたのと違い
思いのほか明るくて、 荘厳さの中にも 親しみやすさを感じました。




晴海通りを挟んで、向かい側は「東京都中央卸売市場」の築地場外市場。
いつも人でいっぱいです!

人気飲食店の店先には、行列ができてます。


以前は‘猫’も飲食や買い物に来たりしたものですが、できれば
ゆっくり静かに楽しみたいと段々思うようになってからは・・・

この熱気には、只々圧倒されるのみ


1935(昭和10)年 「東京市中央卸売市場」開場から約80年。 
世界最大規模といわれるこの築地市場は 建物の老朽化が進み、
2001(平成3)年 都議会で豊洲への移転が決定しました。




このまま晴海通りを進んで行くと、やがて隅田川。
「勝鬨橋」が見えてきます。




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コスモス駅

2014-09-21 | 散策



駅前に 一面のコスモス☆



朝は、まだ曇り空で・・・


青い空の下だと、もうちょっとキレイに撮ってあげられたかもナ~
「花の国」のコスモスは 例年此処よりも遅いので、月があらたまったら行ってみましょう。


12,418歩



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秋色の鎌倉②

2014-09-20 | 花散歩



海蔵寺」にもたくさんの人!





コムラサキ



ホトトギス



シュウカイドウ



タマアジサイ




そして、
ハギの・・滝!!


スゴ~い



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秋色の鎌倉①

2014-09-19 | 花散歩


鎌倉・扇ガ谷の「英勝寺




今年も、ヒガンバナが咲き始めました☆




            







カリガネソウが咲いています



 
ショウジョウソウ(猩々草)
トウダイグサ科
         
大きなカメラを持った男性から、名前を教えてもらいました。
黄緑色の葉に、橙色の苞葉が花みたい☆



ハギも とても綺麗に☆


次々と、たくさんの人が訪れていました。
鎌倉の秋が始まりましたね




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神奈川県庁本庁舎②

2014-09-18 | 横浜



3階には、ほかにも重要な部屋があります。

「知事室」

窓から横浜港が一望の部屋。  壁面の書は、ご本人の筆とか。
執務机で、こちらに手を挙げる 笑顔の知事さん・・人型のパネルです(笑)

明るさのなかにも、落ち着いた雰囲気があります。
          



4階

陛下の御真影が飾られていたという旧正庁の
前廊下には、陶製タイルの大きな「宝相華」。








最後に、屋上へ上がってみました。

キングの塔

塔の高さ: 46.80m
屋上庭園を目指してる? 何だか草茫々の感じですが・・・

でも、眺望はサイコー!

クイーンの塔や赤レンガ倉庫などがよく見えます。


小尾氏の設計案は、先端部分が仏像のような姿だったとか。



          




当初 建物の軒を飾っていた外装用のテラコッタ。
     
安全上の理由から1963(昭和38)年に取り外され、現在は青銅製に。





お天気よくて、とても爽快な気分~




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神奈川県庁本庁舎①

2014-09-17 | 横浜



神奈川県庁本庁舎

建坪: 3,070㎡  鉄骨鉄筋コンクリート造り  地上5階地下1階
竣工: 1928(昭和3)年  総工費: 275万円
国登録有形文化財

初代の庁舎は1867(慶應3)年 築。神奈川奉行所横浜役所の建物を継承
した和洋折衷の「擬洋風建築」でしたが、1882(明治15)年に焼失。 2代目は
横浜税関から譲り受けた 居留地のアメリカ人建築家 リチャード・P.ブリジェンスが

設計した木骨石造り3階建の建物を、1883~1909年まで県庁舎として使用。
3代目は、1913(大正2)年 明治を代表する建築家 片山東熊らの設計による
煉瓦造り地上3階地下1階で尖塔をもつネオ・バロック様式の荘重な建物でしたが
1923(大正12)年の関東大震災によって内部を全焼し、取り壊されました。


現庁舎は、設計案を公募するコンペにより選ばれた小尾嘉郎(おびかろう)氏の
案をもとに設計され、1927年起工 翌1928年に完成した4代目の建物です。

外観は、大谷石の第1層・スクラッチタイルの第2層・塔屋の第3層からなり、
内部全体はアールデコ調で、‘和’の要素が随所に取り入れられています。



では、中へ入ってみましょう☆

第3日曜は一般公開されているので、たくさん見学の人がいます。

さっそく、ホールの装飾や照明に キョロキョロ



寺院に見られるような和風の装飾。



階段手すりの装飾や 階段親柱の陶製装飾灯の花模様の飾りは、極楽浄土に
咲くという幻の花「宝相華」の文様で、この後も さまざまな場所で見かけました。
          



3階に上がっていきます。


「大会議室」
(竣工当時は県議会議場)

折上げ格天井に豪華なシャンデリア☆  舞踏会が似合いそう!


金沢翔子さんの作品展が開催されていました。


竣工当時の議場の様子(パネルより)





「第3応接室」
(竣工当時は貴賓室)

天皇の御座所としても使用された部屋だそうです。  菊紋の銅板飾りが
付いた格天井や現存の家具調度にも格式が感じられ、落ち着いた雰囲気。
飾り戸棚の白い取っ手は象牙で、中の置物は真葛焼だそうです。

「宝相華」の装飾


照明にも



黒大理石の暖炉の上の錦絵はゴブラン織り。



入口扉上部には、菱格子に 京都御所と同様に「左近の桜 右近の橘」の装飾。
          


入口扉(内側)は重厚なクロス貼りで、 菱型飾り銅板に「宝相華」。
          


掛け時計の文字盤にも「宝相華」。 文字横の赤い石はルビー?
       



(続)



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県立歴史博物館

2014-09-14 | 横浜



神奈川県立歴史博物館」は、「旧横浜正金銀行」本館の建物です。

建坪: 2,156㎡  補強煉瓦造・石造  地上3階地下1階建
1904(明治37)年竣工  総工費110万円  国指定重要文化財・史跡


正面玄関上の三角ペディメント(三角破風)



大オーダーの柱頭飾り
          
1~3階を貫く角柱が等間隔に並ぶ外観が
威厳に満ちています。
このように 複数階を貫く柱を「大オーダー」といい、コリント式と
呼ばれる柱頭飾りは、アカンサスの葉と蔓がモチーフ。



此処は何度か訪れているのですが、今回初めて建物内部の見学会に参加しました。
普段見られない場所も見学できるというので、すっごーく楽しみ! 
わくわく

受付で、見学証と資料を受け取って・・

最初に 地下会議室で説明を受け、地下1階・1階展示室・
屋上ドームなどを 案内して頂きながら見学して廻りました。


起工から5年をかけて完成したという建物は、一見 石造りのようですが
外壁に茨城県産の花崗岩と神奈川県産の安山岩を使用し、内側は
煉瓦壁に「碇聯(ていれん)鉄構法」による補強鉄材を使用した造り。
その煉瓦壁の一部は、1階展示室に残っています。(通常は非公開)

設計者 妻木頼黄(よりなか)工学博士は この建物以外にも、横浜
赤レンガ倉庫掃部山公園の井伊直弼像台座の設計・東京日本橋
意匠設計なども手掛けた 明治時代を代表する建築家の一人です。



1923(大正12)年の関東大震災で、1~3階の内装は焼失しましたが
地下1階 金庫室の白釉の耐火煉瓦仕上げの壁は残っています。
壁に金庫や万一の際のマンホールもありましたが、撮影不可で・・

(このあと訪ねた県庁舎にあった展示パネルより)

1階の旧第一営業室は コリント式の列柱に囲まれ、明かり取りの
大きな天窓が設けられた吹き抜けの構造になっていたそうです。

1階 現在の常設展示室の復元された壁面



2階には、回廊を持つ営業室と中央客室があったそうです。

2階へ通じる階段(復元)は、賓客用でしょうか
細かな装飾が施されています。



エレベーターで屋上へ上がると、目の前に
エースのドーム(復元)

直径: 約12m  高さ: 9.5m  尖頭飾り: 9.5m
鉄骨組み木材造り銅板葺

          
厳めしい顔をしたシャチホコのような飾りは、ドルフィンだそう。



震災後 復元されないままになっていたドームは、1967(昭和42)年に復元完成。
「エース」という呼び名は、広く親しみをもってもらうために最近付けられたようで
たぶん キング・クイーン・ジャックの三塔を意識したネーミングでしょうね。
今回の案内係の人も「ぜひ広めていただければ・・」と。


内部は、がらんどうで広々しています。



このあと、日本大通りにある「神奈川県庁」の建物も案内して頂きました。

(続) 






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ぶらり横須賀②

2014-09-13 | 横須賀・三浦



「西来寺」前のバス道を どんどん道なりに歩いて行くと、左側に

旧横須賀重砲兵連隊営門
(坂本中学校・桜小学校校門)

連隊が
1890(明治23)年 此処に設置されました。
1907(明治40)年 竣工当時の正門が、現在も小・中学校共通の
校門として使われています。 58cm角の門柱は、高さが324cm。

門柱に連なるイギリス積みの煉瓦塀も残っています。

高さ約180cm  1891(明治24)年 完成
門・塀共に、市内で数少ない明治の遺産として市民文化資産に指定されています。




県道の「坂本坂上」交差点に出ました。
右手の坂を下って、京急「汐入」駅の方へ進みます。


信号を渡ってすぐ左側に、石の社標と長~い石段。
          

大六天神社

祭神: 大山祇命
1246(寛元4)年に勧請された 坂本の総鎮守。
現社殿は1913(大正2)年の造営。

本殿の掃除をしていた女性に声をかけられ、説明していただきました。
お話の様子から、当社の神官かお身内の方とお見受けしましたが。

第27代首相(ライオン宰相)浜口雄幸氏の筆になる扁額



車通りの多い県道(横須賀池上葉山線)の長い下り坂です。

(途中でふり返って )
途中に立つ標柱の説明によると、この道は 江戸と
浦賀を結ぶ「うらが道」の枝道だったそうです。

往時 この坂はとても急で、上り下りの人や荷馬車は難儀をしたようです。

坂の途中 右側に、「馬頭観音

ここで倒れた馬を供養し 道中の安全を祈ったのでしょうね。




坂を下りきると、道路の左右に
出し桁造りや看板建築など 味のある構えの家が点在しています。
子之神通り




やがて、道路沿いの左側に石の鳥居。


子之(ねの)神社

祭神: 大己貴(おおなむち)命
1220(承久2)年勧請と伝わる 長い歴史のある神社です。
元々は楠ヶ浦の沖にあった波島にありましたが、2度の
移転を経て1898(明治31)年 現在地に遷座されました。

こうして歩いてみると横須賀では、軍施設のために元々の土地から
移転しなければならなかった寺社が本当に多いことが分かります。




汐入の商店街に入って来ました。
アーケード街を左に入った所に、お堂と赤い幟旗。

「子育地蔵尊」

昔 この辺りは田畑が広がっており、その畑から掘り出された
地蔵さまを祀ったところ、長く子宝に恵まれなかった夫婦に
子供が2人も授かったことから、参拝する人が増えたとか。

隣の長い長い石段を上って行くと
高尾山 長光寺
          
「汐入不動尊」として親しまれるお寺で、三浦28不動第5番御札所。
毎年5月に行われる「大根加持」にも、多くの善男善女が訪れます。
真言宗




京急「汐入」駅を過ぎ、ドブ板通りを抜けて・・

散策の最後に訪ねたのは、先刻「大六天神社」の女性から「市内で
最も社格の高い神社だから 是非参拝なさい」と教えられた神社です。

諏訪大神(すわおおかみ)



                    




祭神: 建御名方命 事代主命
        相殿: 倉稲魂(うずのみたま)命 誉田別命
                 白日(ひらひ)命 大己貴命 賀夜奈留美命


1380(康暦
2)年 横須賀城主三浦(横須賀)貞宗が、この地の総鎮守として
城の入口に当たる古谷山(現・八幡山)に信濃国の諏訪明神を勧請しました。

          

覆殿

境内6社(伊勢皇大神宮・東照宮・天王宮・大鳥神社・
天満宮・稲荷社)が収められています。
 
          
刻銘は見当たらないけれど、なんとも味のある狛犬さん☆

          
これは、稲荷社が祀られているからでしょう。


鳥居下の石段の脇に こんなものが・・




このように、
「諏訪神社」に始まり「諏訪大神社」に終わった 今回の横須賀ぶらり散歩でした。

14,603歩  




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ぶらり横須賀①

2014-09-12 | 横須賀・三浦


青い空と潮風が似合うYOKOSUKAもいいけれど、
今回は、横文字ではない「横須賀」を 辿ってみようと思います☆




先ずは、京急「横須賀中央」駅の間近にある

諏訪神社

祭神: 建御名方命
1573(天正元)年 信濃国諏訪明神を勧請して創建したと伝わります。
当初 江戸湾一望の地にあったことから、漁業の守護神として崇敬を
集めてきましたが、明治初め 軍港建設に伴い現在地に移転しました。

          
          


境内にある「大鷲(おおとり)神社

毎年11月に催される 半島唯一の「酉の市」は
多くの市民に広く親しまれ、大変な賑いをみせます。




商店が続く坂道を上って・・
体育館・プール・陸上競技場・テニスコートなどの施設がある
「不入斗(いりやまず)総合運動公園」の向かい側に

大雄山 慈眼寺

門標に「大雄山最乗寺 横須賀別院」とあります。



曹洞宗  小田原・道了尊最乗寺の末寺
本尊: 十一面観世音菩薩

応永年間(1394~1427) 最乗寺開祖 了庵慧明禅師の妹 華綾慧春尼が開創。
明治時代になって、道了講先達から僧侶となった雄暁光道師が再興しました。




信号の先に、大きなお寺がありました。


山門扉の木彫装飾が目を引きます☆
          


大塚山 西来寺

浄土真宗
本尊: 阿弥陀如来
弘仁年間(810~823)に、定相律師が天台宗寺院「一乗寺」を創建。
1246(寛元4)年 当時の住職が、関東から帰洛途次 国府津に滞在中の
親鸞聖人の教化を受けて改宗、寺名も「西来寺」と改称されました。

その後、一向一揆の勢いを恐れた相模国領主北条氏によって放逐されましたが
北条氏滅亡後に 寺を再興。 また2度火災に遭うなどの波乱を経て今日に至るとか。



「元禄九年(1696年)」の刻銘があり、作者は「江戸深川住 藤原正次」と。
戦中の供出を免れ、現存の市内最古の梵鐘として市指定市民文化資産に。


寺前の駐車場に、ひっそりとある地蔵堂。
爪彫(つめほり)地蔵尊

          
古くから、弘法大師が爪で彫った地蔵さまと伝えられています。
祀られた石をよーく見ると、かすかにお顔らしきものが見えるかも・・

元々は別の場所にありましたが、1890(明治23)
年 陸軍重砲兵連隊用地となったため
西来寺境内に移されました。 1943(昭和28)年になり、阿弥陀一仏を信仰する
浄土真宗寺院の境内に祀るのは不可という理由で 現在地に安置されたそうです。
お地蔵さまもご苦労なさったのですねぇ・・



町内会館横から テニスコートの脇を通っていくと、
右手石段のさきに石の鳥居。


御嶽神社

祭神: 天香護山(あめのかごやま)命

1689(元禄2)年 奈良・吉野山の蔵五権現を勧請し創建。
1898(明治31)年 市内別の場所からこの地に移転されました。
本殿は1830(文政13)年、拝殿は1801(享和元)年の造営。

地元のご婦人でしょうか、とても長いことお参りなさっておいででした。
大きな神社ではありませんが、きっと地元の方達の心のよりどころに
なっている神社なのだろうな と思いました。


(続)


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秋の味覚

2014-09-11 | 雑記



我が家に ‘秋’がやって来た~!







皮剥きは 面倒なひと仕事・・・でも






‘秋’といえば、やっぱコレでしょ!


おいしい‘秋’を いただきま~~す  

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