スニーカー履いて

‘猫’も歩けば・・・今日はどんな出会いが?

暑さに負けず

2012-07-29 | 花散歩


今日も蒸し蒸しと暑い一日でしたね

「寒」と「暑」ではどちらがいいか究極の選択を、といわれたら・・「暑」かな。
でもカーッと暑いならまだしも、こう蒸し暑いと・・・ちょっとねぇ


こんな日には、いくら‘フ-テン猫’でも さすがに
遠出はしたくないですぅ~
軽~くひと回りするにとどめましょうか。




こう暑くちゃ・・と期待もせずに出かけてみたら、
思いのほか いろいろな花に出会うことができましたよ☆










ギボウシ                      エノテラ
        
エノテラの和名は、「昼咲桃色月見草」。



チコリ




ブラックベリー                   ヤブミョウガ
        



トチノミ




セイヨウニンジンボク
        
葉・花・実に香りがあって、昔は胡椒の代用品として用いられたとか。



ベトニー  

ハーブティにどうぞ!



アーティチョーク
        
別名は、
「チョウセンアザミ」というようです。



タンジー

別名 「ヨモギギク」の強い香りは防虫効果。



日陰には、まだアガパンサスの花☆




13,827歩 









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海へ

2012-07-28 | 散策


海の方から風が吹いてきました~  


此処の海は遊泳禁止ですが、磯遊びの家族連れや



週末はマリンスポーツを楽しむ人たちも・・




暑さに負けず、元気デス!

ハマナス(ハマナシ)の実



ハマボウ



ハマユウ




やっぱり 海はいいな~!



12,650歩





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夏支度

2012-07-26 | 雑記


いや~、今日は本当に暑い一日でしたねぇ!
        
皆々さま、今日一日お変わりなくお元気でしたか?


比較的風通しのい
い‘猫’の部屋も、今日はめちゃくちゃジットリ暑かったです。
室内の気温でさえ30.1℃ 湿度が72%  ふぅ・・

で、ついに
今夏初めて扇風機を出しました。
(冷房は
嫌で例年使用するのはひと夏にせいぜい2・3回
程度ですが、さ~今年はどうなることでしょう・・?)

壁に向かって風を送り、室内の空気が流れるようにしたら


ん~、カ・イ・テ・キ~~!

これで断然、お仕事もはかどることでしょう

扇風機サン、この夏もお世話になりまーす



陽が落ちてから、漸く涼しい風が吹き始めました~



今夜からは、「竹シーツ」で寝ることにしました☆

ちょっとひんやりして、結構気持ちがいいんですよ。
もう、何年来の夏の友!?
今年もこれが、超クラシック(笑)な‘猫’の暑さ対策デス。



いよいよ猛暑到来ですね・・
皆々さま、どうぞくれぐれもご自愛を!





 

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四万の甌穴

2012-07-18 | 他県


中之条から四万温泉に入る少し手前、四万川の流れの途中に「甌穴(おうけつ)」があります。 
川の渦流によって川底の石が同じ場所でくるくると回転し続け、数万年の歳月のうちに
凝灰岩の岩盤に穴を穿ったもので、此処には大小8個あるそうです。 「甌」は「甕」の意味。


河原への階段を下りて行くと、




速い流れが段差のある岩を、白い飛沫をあげて下りてきます。



流れが渦を巻いて・・



甌穴を形成しています☆







頭上の道路を行く車の音までも、消してしまうような水音と
冷たい川水のミストを浴びながら、時間も暑さも忘れていました・・


10,422歩






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いい湯だな~

2012-07-17 | 他県


JR吾妻線「中之条」駅から関越交通バスで約30~40分、
群馬北西部 「四万川」沿いにある「四万(しま)温泉」にやって来ました


ナトリウム・カルシウム・塩化物硫酸塩の湯は、四万もの効能が
あるそうで、特に胃腸病など消化器系疾患に飲んで効くといわれ、
1954(昭和29)年 「国民保養温泉地」第1号に指定された名湯です。

温泉の起源には諸説あるようで、坂上田村麻呂が蝦夷征伐の途中で
立ち寄り発見したとも、また源頼光の家臣 碓井日向守貞光が発見した
とも伝わっていますが、いずれにしても平安中期頃のことのようです。




温泉街を歩いてみると、特徴のある旅館を目にします。

「四万たむら」

坂を上ったところにある大きな茅葺屋根の旅館は、創業500年。
室町時代から続くという、四万で最古の湯宿だそうです。


「積善館」

1691(元禄4)年の
創業だそうです。
説明板によると、赤い橋の下を流れる新湯(あらゆ)川の
川底に源泉があり、毎分900Lの湯が湧出しているとか。

木造3階建ての本館は、現役の温泉建築としては我が国最古の
建物といわれ、県の重要文化財になっています。 アニメ映画の
「千と千尋の神隠し」に出てくる湯屋のモデルだそうですよ。







「落合橋」の上から


今日も、炎天下をよく歩きました~
硫酸塩泉の「美肌の湯」に浸かって、の~んびりしましょ  
        


16,492歩  




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群馬・中之条町

2012-07-17 | 他県


JR
吾妻(あがつま)線「中之条」駅で降りると、今日もギラギラ~
暑い~~!!


が、
調べたい事があるという‘トノ’に お付き合いして

中之条町 歴史と民俗の博物館

建物は、1883(明治16)年に当時の金額で5,200円余をかけて建築されたという
旧吾妻第三小学校」校舎で、外観は洋風、内部は和風の木造建築は県指定重要
文化財になっています。 当時の人々の教育にかけた情熱が伝わってくるようですね!

館内には中之条町を中心に、吾妻地域一帯の歴史的資料などが展示されています。


歴史にはと~んと疎い‘猫’ですが、地域柄当然「武田VS上杉」に関する資料もあり
真田氏なども登場してきて、子供の頃に熱中?した忍者ごっこを思い出したり(笑)
予想外におもしろく見てまわりました。  さて、‘トノ’の方は収穫があったのカナ・・?


1階に、小学校の教室が再現されてありました。
        


足踏式のオルガン☆




博物館を出て、町なかを少しだけ歩いてみました。


町田家

唐破風造りの玄関が目を引く屋敷構えです。 国登録重要文化財。
町田家は町内屈指の旧家で、代々名主を務めた格式ある家柄だそうで
1873(明治11)年から10年ほどは、吾妻郡役所としても使われていたとか。



立派な山門を見かけたので、行ってみると・・

寶満山 白雲院 林昌寺
        
曹洞宗のお寺です。
文安年間(1444~49) 天台宗の僧 長馨(ちょうどん)師が創建。
その後荒廃しましたが、真田幸隆の弟 矢沢薩摩守頼綱によって
再興され、沼田 真田氏の庇護を受けて寺勢を伸ばしたといいます。

山門と本堂の屋根には、「六文銭」の紋どころ☆
境内のしだれ桜は、町の天然記念物に指定されているとか。




市街の北に聳え立つ、特異な形をした岩山は・・

(たけ)
 
嶽山・岳山・武山とも書き、和利(わり)嶽・見付山などと呼ばれて古くから祖霊を祀る
霊山として信仰されてきた、中之条町のシンボルの山だそうです。 標高789m。

室町時代中期に嵩山城が造られ、戦国時代には上杉謙信が沼田城攻略のため
最重要視していた岩櫃(いわびつ)城の出城でした。 1565(永禄8)年 嵩山城の
斉藤憲宗・城虎丸率いる斉藤軍(上杉方)は、真田幸隆率いる真田軍(武田方)の
調略・猛攻を受けて落城。斉藤一族は自決し滅亡しました。(嵩山合戦)


嵩山の南麓に、立派な社殿が建っています。

親都(ちかと)神社

祭神: 須佐之男命
      配祀: 品陀(ほんだ)和気命
現在の社殿は、1677(元禄12)年大風で大破したあと修復したもの。

境内には杉・ケヤキなどの大木が56本もあって、神社の森を形成しています。
神社周辺は、その昔「ちかと千軒」といわれる大集落があり賑っていたといわれ
南北朝の頃に編纂された『神道集』にその名が見られるということです。

ご神木の大ケヤキ

社殿鬼門に当たる所にあり、県指定天然記念物。
樹齢 約700年  樹高 約15m  目通り 9.7m




「中之条」駅の近くから見た「嵩山」

一見してすぐそれとわかる、本当に特徴のある形ですね。





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長野・山田温泉

2012-07-16 | 他県


上高井郡高山村の山あいにある温泉群は、「信州高山温泉郷」と呼ばれます。
今回訪ねた「山田温泉」もその1つで、JR「長野」駅から長野電鉄に乗り換え
「須坂」駅で下車し、バスなら約30分。 水量豊かな松川渓谷に沿って
9軒ほどの宿が並び、ひなびた山里の風情が残る静かな温泉地です


泉質は硫黄を含み、ナトリウム・カルシウム・硫化水素の湯は50~70℃ 。


温泉の発見は今から800年も昔といわれ、200年ほど前 現在の地に引湯されたとか。
嘗て 一茶・山頭火・鴎外・鉄幹&晶子夫妻・牧水など、多くの文人も訪れたようで
あちらこちらに、碑が建てられてあります。 その一部をご紹介しますね。


「 此のゆふへ 外山をこゆる 秋かぜに 椎もくぬぎも 音立てにけり 」
太田水穂(1876-1955)は、歌人で国文学者。



牛窪(牛久保)神社」                  
        
社殿は1859(安政6)年建立。 祭神は大己貴命。
参道の傍らに、明治27年建立の小林一茶の句碑がありました。
「 梅が香よ 湯の香よさては 三日(みか)の月 」 一茶



大正13年 建立
「 おなじ名に なりてたかるる 落葉哉 」 笠山



薬師堂

1828(文政11)年 建立。 高山村指定有形文化財。

境内に、種田山頭火の句碑

「霧の底にて 啼くは筒鳥」 山頭火 



大湯

山田温泉のシンボル的な建物の共同浴場  ¥300  
傍らに、足湯もありますよ~


滝の湯

宿泊客と地元の人専用の共同浴場




温泉街の坂道を上って行ってみました。

遠くの山々が顔を覗かせています。 あれは・・「飯綱山」 「戸隠山」?






松川の向かいの山壁に、何段にもなって落ちる滝が見えます。

八滝(やたき)」
        
展望台から見る、8つの滝壷をもつ落差180mの豪快な滝です。




(かみなり)
松川の奔流が轟音を立てて落下する音から、こう呼ばれています。
落差 30m  幅 29m  岸壁の高さ 約40m
        

滝の裏側を通って見ることができるので、別名「裏見の滝」とも。


温泉街から雷滝まで、車も通る舗装路を上ること1時間余。
ちょうどいい運動になりました~

この後 宿に戻って一風呂浴びたら、
さぞさぞ美味しいことでしょうね~
 


14,248歩 



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長野・須坂の蔵めぐり

2012-07-16 | 他県


須坂市は明治時代以降、近代製糸業の発展に伴い 「須坂・横浜・ヨーロッパ」と
いう言葉が生まれるほど、時代の最先端をゆく繁栄を見せていた町で、
今でも多くの土蔵造りの建物が残っている「豪商の町・蔵の町」です。



そんな須坂の町を、‘野次馬猫’の目で所々見学しながら散策しました。



須坂クラシック美術館

旧 牧新七氏邸
製糸業が発展を始めた明治10年代に建てられた製糸家の住居兼店舗。
当時としては貴重な輸入材が使われた主屋など、典型的な大規模町屋です。
現在は、古民芸や着物などを展示する美術館になっています。


自然石の形を活かしながら接着面のみを平らに加工して積んでいく
ぼたもち石積み」というもので、1つ積むのに数日も要するという
高度で手間のかかる工法のため、現在は受け継がれていないとか。
豪商の裕福さの一端が偲ばれるものですね。



ふれあい舘 まゆぐら

旧田尻製糸所の3階建の繭貯蔵庫を、現在地まで‘曳船’移転し修復した建物。
養蚕・製糸に関するさまざまな資料・器材が展示されていて、おもしろかったです。

蚕棚                        給桑台
        

回転桑刻器


足踏式座繰機




墨坂神社(芝宮)」

祭神: 墨坂神 建御名方命

673(白鳳2)年に、大和国・墨坂神の分霊を勧請したのに始まるという古社です。
平安時代の延喜式神名帳に記載のある所謂式内社で、市内小山にも「墨坂神社」が
あるため、地元では鎮座地の名から「芝宮(しばみや)」と呼ばれているようです。
広い境内、石造りの太鼓橋、蚕を祀った境内社など。  説明書きでもあれば・・・




笠鉾会館

墨坂神社の夏の祭礼「祇園祭」で披露される笠鉾11基と
屋台4台、その他祭礼に関する文物が展示されています。










宇治乃園茶舗

100数十年続く老舗のお茶屋さんだそうで、
漆喰大壁造り3階建て望楼つきの堂々たる店構え。



旧越家

製糸王と呼ばれた越寿三郎氏ゆかりの建物。
氏創業の「山丸組」は、最盛時 従業員8,000人の国内屈指の企業だったとか。
畳数36畳に及ぶという、豊かな暮らしぶりが想像される邸宅です。
主屋と2つの土蔵は、国登録有形文化財になっています。



ふれあい舘 しらふじ


須坂藩で要職を務めた浦野家が、藩邸の西隅を固めるように建てたもので
大壁造りの長屋門や3階建ての土蔵、ぼたもち石積みなどに風格を感じます。


庭内には、樹齢100年を超すという、みごとな白藤の老木。
        



旧上高井郡役所

1917(大正6)年に建てられた木造瓦葺で、下見板張り壁・上げ下げ窓の洋風建築で
1926(大正15)年まで郡役所として使用されていたそうです。


ほかにも「田中本家博物館」や「塩屋味噌蔵」などなど、見学したい所があったのですが
とても数時間では廻りきれませんでした。 また機会があれば、もう少しじっくり見学したいな・・






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港区・旧芝離宮恩賜庭園

2012-07-15 | 花散歩


JR「浜松町」駅北口を出ると、すぐ右手に濃い緑が広がっています。

旧芝離宮恩賜庭園

開園面積 約43,175㎡

この辺りはその昔 海でしたが、明暦の頃(1655~58年)に埋立てられ
1678(延宝6)年に老中 大久保加賀守忠朝の邸地となりました。

1686(貞享3)年 邸内に作庭された「楽寿園」は、海水を取り入れた
大池を中心とする回遊式泉水庭園で、大久保氏の領地 駿府・根府川の
石を配し、潮の干満による景観の変化を楽しむ典型的な大名庭園でした。
築山の上から海を行き交う船の白帆や富士山の眺望が楽しめたそうです。


その後 数氏の所有を経て 幕末には紀州徳川家の御屋敷となり、さらに
有栖川宮家を経て、1876(明治9)年には宮内省の「芝離宮」となりました。

関東大震災被災の翌年 1924(大正13)年に昭和天皇ご成婚記念に
東京市に下賜され、「旧芝離宮恩賜庭園」として一般公開されました。


明治初めから外国貴賓接待の場だった浜離宮「延遼舘」の老朽化に伴い、
その代替として此処に、明治23~
24年 木造二階建洋館が建てられて
迎賓館の役目を果たしていましたが、震災で灰燼に帰してしまいました。

(パネルより)

レンガ基礎と装飾彫刻の大理石の一部がわずかに残っています。





池の周りを一巡りしてみました。



雪見燈籠

黒ずんでいるのは、震災時に焼けたためとか。


茶室の石柱

小田原北条氏に仕えた武将 松田憲秀旧邸の門柱だったものを
茶室の柱に使うために運ばせたものだそうです。
(こんなゴツい柱を茶室に・・!?)



枯滝石組

山渓を流れ落ちる滝を、縦置きの石で表現しているそうです。


西湖の堤

中国・杭州西湖の「蘇堤」を模したものだそうです。
(かなりの縮尺版ではありますが・・)


中島

これも中国趣味を取り入れ、仙人が住むという蓬莱山をイメージした
もので、当時の石組みがそのまま残っているといいます。


九尺台

海の波打際に造られた高台
明治天皇行幸の折、此処から海の眺望や漁民達の漁の様子を楽しまれたとか。


根府川山

忠朝公が、領地根府川から運ばせた根府川石の豪壮な石組み。


海水取入口跡

水路の石垣や鋼鉄製の水門の遺構が見られます。



        




花の少ないこの時期ですが、所々でノカンゾウ・ウズアジサイ・
ムクゲ・キキョウなどの鮮やかな色が、濃い緑と美しく調和していました。


12,018歩  



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新宿・夏目坂

2012-07-14 | 東京・川崎


地下鉄東西線「早稲田」駅から地上に出ると、R25の通称「早稲田通り」。
その「早稲田駅前」交差点から南へ上がっていく坂が「夏目坂」。

坂下にある酒屋さん「KOKURAYA」

格別変わったところもない町の酒屋さんのようですが・・
聞くところによると創業約300年の老舗で、高田馬場の仇討で
名高いあの堀部安兵衛さんゆかりのお店だそうです。

その日、仇討の場に向かう安兵衛さんが 景気づけに升酒をひっかけたという
そのお店なんだそうで、その時の升が今も残されているとか・・?


酒屋さんの隣に、あまり目立たないけど立派な碑があります。

「夏目漱石誕生之地」碑
        
牛込馬場下横町周辺11ヶ町を束ねる名主の、5男3女の末子として
生まれた夏目漱石(1867-1916)の生家が此処にあったそうです。
碑は、生誕100年記念に建立。 揮毫は、漱石の弟子 安倍能成氏。


緩やかな坂を上ります。

夏目坂

(坂下へふり返ったところ)
「 夏目漱石の随筆『硝子戸の中』(大正四年)によると、漱石の父でこの辺りの
名主であった夏目小兵衛直克が、自分の姓を名付けて呼んでいたものが
人々に広まり、やがてこう呼ばれ、地図にものるようになった。 」とあります。


碑のある坂下から、R433「若松町」交差点へかけて上っていく道が
「夏目坂通り」




この辺りにはお寺が多く、それに関連する石材店や生花店に
並んで、昔ながらの料理屋などもお店を構えています。

        
嘗ては、文豪も訪ねたりすることがあったのでしょうかね・・?



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三崎ぶらぶら②

2012-07-12 | 横須賀・三浦


三崎の町の商店街は、近づく夏祭りを待つ雰囲気☆

        






その商店街の途中にある長い石段を上って行くと・・
        

海光山 本瑞寺

曹洞宗のお寺で、三浦三十八地蔵尊第15番御札所。
本尊: 延命地蔵尊

建久年間(1190年代)、源頼朝の3御所のひとつ「桜の御所」が設けられました。
多くの桜樹が植えられ、併せて城ケ島の桜をも望見する観桜の宴がしばしば催され
第2代 頼家・第3代 実朝も、此処を訪れたと伝わっています。

三浦荒次郎義意が建立した三浦氏の菩提寺だった当寺が、三浦氏滅亡後に
新井城の支城「三崎城」があったというこの地に移され、今日に至っています。

享保年間の建立と伝わる立派な寺門


境内は綺麗に掃き清められ、墓地には俳人 松本たかし氏など
著名人の立派なお墓もあり、風格が感じられる高台のお寺でした。

「 ただひとり 帽子被らず 足袋穿かず 桜の御所を さまよいて泣く 」 白秋




三崎の町は、其処此処に昭和の香りが残っています。
そんな路地歩きを楽しみながら・・




紫陽山 見桃寺

臨済宗のお寺で、三十三観音第2番御札所。
三浦七福神 布袋尊のお寺としても知られています。
本尊: 聖観世音菩薩

嘗て 源頼朝の3御所のひとつ「桃の御所」が設けられていました。
1616(元和2)年 江戸幕府船手奉行 向井兵庫頭政綱が、駿河国興津の
「清見寺」の僧 白室玄虎和尚を迎えて此処に開山したと伝わっています。

1913(大正2)年 最初の住まい「異人館」を出た白秋夫妻が、
当寺の一室を借りて住んだそうです。 


境内に、白秋の歌碑があります。

1941(昭和16)年 56歳のご当人も出席して碑の除幕式が行われ、
その日からちょうど1年後の同じ日に、白秋は長逝したということです。



「 さびしさに 秋成が書 読みさして 庭に出でたり 白菊の花 」 白秋

上田秋成の『雨月物語』を読みふけり、「菊花の約」の節に及んでいたく胸を打たれ
庭に出たところ、咲いていた白菊の花に心を動かされて詠んだといわれます。

白秋が三崎に住んだのはほんの短い期間でしたが、自身の歌集『雲母集』の余言で
9ケ月間の田園生活は極めて短日月であったが、私の一生涯中最も重要なる一転機を
画したものと自信する。 初めて心霊が甦り、新生是より創った。」 と述べています。

白秋が絶望の淵から立ち直り再び歩み始めたその過程を、この町は見守ってきたのでしょう。


17,859歩




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三崎ぶらぶら①

2012-07-11 | 横須賀・三浦


城ケ島から大橋を渡って、三崎にやってきました。






向ヶ崎公園」(白秋旧居跡 )
        
三崎に移ってきた白秋一家が最初に住んだのは、「向ヶ崎の異人舘」と呼ばれる
以前 長崎
領事だった老フランス人が住んでいた家で、この辺りにあったそうです。

和風の建物でしたが 玄関や廊下の欄間に色ガラスが嵌め込まれ、芝生の庭は
広く目の前に城ケ島が横たわり、海峡を往来する大小の船の彼方に房州を望む
という住まいの様子についての記述が、歌集『雲母(きらら)集』に残っています。
「 赤硝子 山を透かせば 山赤し 海を透かせば 海また赤し 」
「 石崖に こども七人 腰かけて 河豚を釣り居り 夕焼小焼 」

この家は、1917(大正6)年に高潮の被害を受けて取り壊されたそうで
現在は、滑り台などが置かれた町の小公園になっています。


公園の裏手に廻ってみると、目の前に城ケ島☆





金剛山 大椿(だいちん)
        
臨済宗のお寺で、三浦観音第4番御札所。

     創建:1199(元治元)年
         1230(寛喜2)年とも
 開山:旭永和尚
   本尊:十一面観音菩薩
源頼朝が三浦の地に設けた3つの御所のひとつ「椿の御所」跡。
当時この御所には頼朝の側室が住み、庭内は椿の花で埋まるほどだったといわれます。
側室は頼朝没後 落飾して妙悟尼と称し、頼朝の菩提を弔い30余年をここで過ごしたとか。

近くに住んでいた白秋は、当寺をよく散歩で訪れたそうです。
「 大きなる 椿の樹あり あかあかと ひとつも花を 落とさざりけり 」
「 山椿 照りしずもれる 真昼どき 小僧むっつりと 坂下り来も 」

三崎を去った白秋が、10年後に前田夕暮とこの寺を再訪したときの一首。
「 この寺が 大椿寺ぞと 入りきて 寂しと出でぬ 日暮を二人 」




通り矢

油壷の新井城が落城し三浦氏が滅亡した後、北条早雲の支配となりましたが
その後 安房の里見義弘が良港の三崎を得んと来襲。 その時、里見の兵の矢が
海峡を射通したので「通り矢」の名がついたとも、また一説には、源頼朝が遊覧に
訪れた際、小笠懸の矢が通ったので地名になったともいわれます。 

「通り矢」は白秋にとって朝夕の散歩道で、スケッチを描いたりもしているようです。
「 通り矢と 城ケ島辺に 降る雨の あひの入り海 舟わかれゆく 」
「 しみじみと 海に雨降り 澪の雨 利休ねずみと なりにけるかも 」




「北条湾」の縁をぐるりとまわって、向こう側へ・・



渡船場」跡

1960(昭和35)年に城ケ島大橋が開通するまでは、
島への往来は此処からの渡し船に頼っていました。
「 おまへ渡海舟か 帆に帆を下げて 知らぬふりかよ 目の前を 」

三崎と東京を結ぶ連絡船「三盛丸」を詠んだ歌も。
「 おまへ三盛丸 霊岸島がよひ いつも夜出て 昼帰る 」


‘猫’の母の昔語りを、つい思い出してしまいました。
「娘の頃 城ケ島に遊びに行ったとき、つい遊び過ぎて帰りの船賃が足りなくなり
島の土産物店にワケを話して買ったお土産を返し、やっと船に乗れたのよ」と・・




(続)




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城ケ島へ

2012-07-10 | 横須賀・三浦


潮の香に誘われて、城ケ島にやって来ました。



彫像「島の娘」 小川清彦氏 作



城ケ島大橋」の上から



下に目をやると・・
白秋の歌碑の前に、人が集まっています。

行ってみましょうか☆


「みさき白秋まつり」で、碑前祭が行われていたようです。





白秋の筆になる歌碑

「 雨は降る降る 城ケ島の磯に 利休ねずみの 雨がふる 」  白秋



大橋の下にある「白秋記念舘

白秋の遺墨など、ゆかりの資料が展示されています。
(館内は撮影禁止でした)


1913(大正2)年28歳のとき 東京から移り住んだ白秋が、
死を見つめる
日々から新生への道を辿った軌跡が、三浦三崎に残されているといいます。
そんな三崎の町を、少し歩いてみようと思います☆

(続)






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咲きました☆

2012-07-08 | 花散歩


2012年の我が家の初‘美人’です☆



昨年 我が家は‘美人’の当たり年だったとみえて、数鉢ある月下美人が
次から次へと蕾をつけ、ひと夏で30個余りも花を見ることができました。

その後 伸び過ぎていた枝を大胆に切りつめて植替えをし、ご近所さんにお嫁入り
させたりして大分様子が変わったので、今年の花はあまり期待していませんでした。

だから、一輪だけど咲いてくれてとてもうれし~




          




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鎌倉・妙本寺

2012-07-07 | 鎌倉・逗子・葉山


鎌倉の有名なアジサイ処の賑いは、どうやら終息に向かったようですが
妙本寺」の紫陽花は、まだまだ綺麗でした☆






濃さを増した緑に包まれて・・



        



方丈門の前を左に入って
        


石段を上って行くと、最奥に

蛇苦止(じゃくし)明神

1203(建仁3)年 「比企の乱」で北条義時らに攻められた際、比企能員の娘で
源頼家の側室だった若狭局(讃岐局とも?)は、井戸に身を投げたといわれます。

『吾妻鏡』によると;
そののち、北条政村の娘が物の怪に憑かれてもの狂いとなりました。
物の怪の
正体は局の霊だったので、早速 鶴岡八幡宮別当の隆弁が導師となって
加持祈祷を行うと、娘は我に立ち返り祟りから醒めたということです。

局の弟 比企能本の依頼を受けた日蓮上人が、法華経の功徳により
局の霊を鎮め、「蛇苦止明神」として祀ったと伝えられています。




境内には、局が投身したと伝えらえられる井戸もあり・・・


15,678歩  





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