スニーカー履いて

‘猫’も歩けば・・・今日はどんな出会いが?

今年の椿Ⅴ

2010-03-31 | 花散歩


椿の季節もそろそろおしまいですね。
今シーズン最後の花たちです。


「衆芳唐子」                  「羽衣」
     
「衆芳唐子」:朱紅色で唐子咲きの中輪種。明るい感じの椿です。
「羽衣」:白に近い淡桃色で大輪の八重咲き。花びらが散ります。


「さかさ富士」                「鶏の子」
    
「さかさ富士」:鴇色で一重の花びらが長く、ユリのように咲きます。
「鶏の子」:桃色地に紅色縦絞り。枝が細いので花が俯いています。


「絵日傘」                  「蝦夷錦」
    
「絵日傘」:白地に濃紅色の縦絞りで八重咲き。葉が波打っています。
「蝦夷錦」:淡紅色地に濃紅色の縦絞り。枝変わりで違う色も咲きます。


「白玉」                   「乱拍子」
    
「白玉」:白色で一重の中輪咲き。蕾は丸くて可愛らしいです。
「乱拍子」:江戸時代からある品種。紫がかった紅色に白斑。


「宝合わせ」


    
大輪の八重咲き。白色・紅色・桃色・絞りと変化に富んだ花が咲きます。


「袖隠し」                   「崑崙黒」
    
「袖隠し」:純白で極大輪の八重咲き。その美しさは今回のイチオシ!
「崑崙黒」:黒味がかった紅色で大輪の千重咲き。光沢があります。


「天人松島」                   「老松」
    
「天人松島」:淡紅色に紅色縦絞り。大輪の一重咲き。
「老松」:紅色地に白い雲のような模様が入っています。


「菊更紗」                 「桜葉源氏椿」
    
「菊更紗」:淡桃色に紫紅色の縦絞り模様や紅色の千種咲き中輪種。
「桜葉源氏椿」:桃色地に紅色縦絞り。稀に紅色花。葉の縁がギザギザ。


「飛龍」

赤地に白い大きな斑模様入りの一重咲き大輪種。
晩秋から春まで咲き続けます。   


「エリー・ルベンソーン」            「エースオブハーツ」
        
「エリー・ルベンソーン」:濃洋紅色の極大輪で牡丹のような八重咲きです。
「エースオブハーツ」:濃紅赤色の中~大輪種。花びらが3,4層に重なります。


「スプリング・ソネット」           「フォーティナイナー」
    
「スプリング・ソネット」:中心が白く、外に向かってピンク色が濃くなります。
「フォーティナイナー」:濃紅色で大輪の八重咲き。牡丹のようなあでやかさ。


「クレイマーズシュープリーム」            「ロブ・ロイ」
    
「クレイマーズシュープリーム」:光沢のある特上の大輪八重咲き種。
「ロブ・ロイ」:薄~濃桃色の八重咲き。中心の花びらが波打っています。


「レディカトラー」               「グランドスラム」
    
「レディカトラー」:藤桃色の大輪八重咲き。花びらはハート型です。
「グランドスラム」:黒味を帯びた紅色で妖艶な大輪の八重咲きです。


「ゲストオブオーナー」           「バレーニュードセン」
    
「ゲストオブオーナー」:藤紅色半八重咲きの牡丹のような豪華な極大輪種。
「バレーニュードセン」:濃いシクラメンピンク色の豪華な八重咲き極大輪種。


「ドーネーション」

ほのぼのした藤紫色の半八重咲き中輪種で、花びらが散るタイプ。
世界各国に愛好者が大変多い品種だそうです。


長い期間、たくさんの花を楽しませて貰いました。
来年もまた、きれいに咲いてね~!

 

コメント (4)

小田原の史跡をたずねて

2010-03-27 | 神奈川


小田原歴史探訪ツアーに参加しました。

JR「小田原」駅からバスに乗り、「米神」という所から歩き始めました。
JR東海道線のガードを潜って山側に入り、上って行きます。

周囲にはミカン(オレンジ)畑が広がっています。


あらら、川にもいっぱい・・・



1180(治承4)年 源頼朝が以仁王の遺命を受け、300の兵で
平家討伐の狼煙をあげた石橋山合戦の古戦場はこの辺りです。

佐奈田霊社

頼朝軍は大庭景親以下3,000の平家勢に苦戦しますが、
ここには、戦で先陣を務め戦死した25歳の真田与一義忠が
祀られています。同じく戦死した与一の郎党文三家安を
祀る「文三堂」とともに、県の史跡に指定されています。

霊社下の畑は「ねじり畑」と呼ばれ、畑の作物が
すべてねじれてしまうといわれています。


大分高い所へ上ってきました。
相模湾を右に見下ろしながら、快適なウォーキング


あ、新幹線☆



階段や坂を上ったり下ったり、
スタートから約1時間ほどで次の目的地へ到着。

石垣山一夜城歴史公園


1590(天正18)年 豊臣秀吉が15万の大軍を率いて小田原北条氏を
攻撃した小田原合戦のとき、本営として総石垣の城を築いた所です。
前もって林の中で密かに築城を進め、完成と同時に前面の木立を
伐採し、一夜にして出来たと小田原方に思わせ戦意を失わせたとか。

秀吉は滞在した100日の間に天皇の勅使を迎えたり、また千利休や
能役者などを呼び寄せ、自らも淀君ら側室を呼び参陣した諸大名にも
これにならうように勧め威信を示したりして、長期戦に備えたそうです。

石積み
近江穴太衆による野面積みと呼ばれるものとか。




つわもの達の夢のあとも、今は広々した解放的な公園です。
ランチタイムにうってつけの芝生広場は、
「二の丸跡」


「南曲輪跡」


展望台からの眺めもなかなか



エネルギー補給完了☆
さあ、最後の目的地までがんばっていきましょう!

広い舗装道路をだらだら下り、太閤橋を渡ってモダンな外観の
「県立生命の星・地球博物館」の前を通過すると、
やがて箱根登山鉄道の「入生田」駅です。


そこから、人も車も急に多くなって、一気に‘観光地’の賑わい
です。左右に地場産のいろいろな野菜やフルーツ・手作りの
甘味などを売る店が並んでいる道を歩いて行くと、

長興山 紹太寺

黄檗宗のお寺で、稲葉一族の菩提寺です。
開山:鉄牛和尚

稲葉氏は1632(寛永9)~1685(貞享2)年の53年の間
正勝・正則・正通の3代にわたって小田原城主でした。
徳川家光公の乳母 春日局は、正勝の生母になります。

2代正則が1635(寛永12)年父母の追福のため、当初
城下の別の場所にあった菩提寺を現在の場所に移建。
鉄牛和尚を迎えて「長興山紹太寺」と称しました。

当初は、東西14町70間、南北10町16間という広大な
寺域に、七堂伽藍が立ち並んでいましたが、幕末の
火災で焼失し、今は1堂を残すのみとなっています。


茅葺の本堂を出て橋を渡り、石段と石畳の道を上っていきます。
ファイト~!
    

約360段を上りきると、奥まった一段高いところに
「稲葉一族の墓所」

8基の墓のうち7基は五輪塔で、中央の少し大きいのが
春日局のもの。左端の正則のものだけ位牌型。正則と
夫人のは本墓、ほかは供養塔で本墓ではないそうです。


さらに杉林の中を進んで行った所に、
「鉄牛和尚の寿塔」


1687(貞享4)年に60歳を迎えた和尚の長寿を
願って、2世の超宗和尚が建立したものとか。


最後は、
歴史探訪ウォークの華やかなフィナーレ☆

ほとんど満開で、見頃のしだれ桜

稲葉正則がこのお寺を建立した際に植えられたもので、
樹高13m、樹齢は330年以上といわれています。
県下最大のしだれ桜として「神奈川の名木100選」に
選ばれ、また市の天然記念物に指定されています。


歩き疲れも一気に吹き飛ぶようないいものを
最後に見ることができました。 しあわせ~

25,113歩

コメント

横須賀・等覚寺のしだれ桜

2010-03-26 | 花散歩


去年に続き、今年も見に行ってきました。

先週 友達が「まだ3分咲きよ」と言っていたので、
もうそろそろかな~、と思って行ったのですが・・・



ん?
    

綺麗は綺麗だけど、去年と比べると・・
まだ満開じゃないみたい・・・ちょっと早かったなぁ、残念!


それにしても、花付きが少なくはないですか?
木全体に何だか勢いが足りない気がするのは私だけかな・・

 

コメント

神田川に沿って

2010-03-25 | 東京・川崎


傘を片手に、ひと足早いお花見を楽しんでいます

高田馬場~江戸橋の約2kmは両岸の桜が川面に枝を伸ばし
満開になると人であふれかえる遊歩道も、今日はまだ静かです。





かぐや姫の「神田川」を口ずさんだりしながら・・
窓の下に神田川が見える三畳の下宿って、この辺りのことかなぁ
    

神田川は、江戸時代の六上水(神田・玉川・本所・青山・三田・千川)の1つ。

神田上水は、1590(天正18)年 家康公の命で大久保藤五郎により
開設された小石川上水が原型だということです。1629(寛永6)年に
設備が拡張され、大滝橋辺りに堰を築き水位を上げて上水を
水戸屋敷に入れ、樋で地下を通して神田・日本橋方面に流したとか。
その改修工事に、あの松尾芭蕉も関わっていたそうです。


左側に長い塀が現れました。 塀に沿って左へ歩いて行くと、

新江戸川公園


旧熊本藩下屋敷の庭園を利用した公園です。
入口左手の建物は、旧藩主細川家の学問所(大正時代築)でした。




公園は、池を中心とした回遊式泉水庭園になっています。






永青文庫
左手高台の木立の中に、細川家家政所(事務所)だった建物。
1950(昭和25)年に第16代細川護立氏が設立した美術館で、
主に東洋古美術を中心に保存・展示しています。「永青」は、
細川家菩提寺正伝永源院と居城の青葉城から1字ずつとか。






公園を出ると、長~い石段が続いています。
下の神田川に架かる駒塚橋から目白台へ上がる階段で、その名も
胸突坂
    
たしかに「胸突」! 上がるときはかもしれません。

坂を下ったすぐ右側に、2本の大銀杏と小さな祠。
(すい)神社
    
夢枕に立った水神を、お告げに従い祀ったという神田上水の守護神です。
それにしても、スゴい巨木☆  倒れないでがんばってね~!

昔この辺りは関口村と呼ばれていました。奥州街道の
関所があったからとも、上水に堰が設けられていたから
ともいわれ、昭和の頃まで「関口」の地名が残っていたとか。


坂下左側にある引き戸の中は、
関口芭蕉庵
    

上水改修工事に加わった松尾芭蕉が、1677(延宝5)年~
1679年の3年間住まいにしていたという「龍穏庵」跡です。


細長い池を中心とした庭の其処此処に、翁を偲ぶ歌碑があります。

伊藤松宇の句碑            松尾芭蕉の句碑
「真中に 富士聳えたり 国の春」   「古池や 蛙跳びこむ 水の音」
    



さみだれ塚
1750(寛延3)年に宗瑞・馬光ら俳人が、
芭蕉真筆の短冊を埋めて墓としたもの。
「五月雨に かくれぬものや 瀬田の橋」 


芭蕉堂
1726(享保11)年 33回忌に翁の木像が造られ
堂内に安置されたということです。(非公開)


川沿いには立派な門





と、こんな具合に
あちらこちら寄り道をしながら歩くうちに、いつの間にか
夕方に近くなってきました。音羽通り「群林堂」の大きな
豆大福も、多分もう売り切れてしまったのでは・・
またのお楽しみといたしまセウ・・

未練たらたら・・・(笑)
17,473歩

 

コメント

新宿・山吹の里

2010-03-24 | 東京・川崎


お彼岸の最終日は冷たい雨の
1日となりました。
お参りを済ませ、足の向く儘に早稲田の辺りを歩いてみました。


早稲田大学大隈講堂の近くに


珍しいお店を発見☆
「角帽」って、最近被っているのを見ないけれど・・
    



路地を歩いていると、
 あ、しだれ桜! 満開です


甘泉園公園
    

此処は、元 徳川御三卿の1つ清水家の下屋敷跡で
邸内の庭園の湧水がお茶に適すると評判であった
ところから、「甘泉園」と呼ばれていたそうです。

その後 相馬子爵家、早稲田大学の所有を経て都に売却され、
改修が加えられて公園となりました。現在は区の管轄。



傾斜地の高低差を活かし、泉水を引いた池を巡る庭園になっています。



公園を出た所に、立派な石碑が建っていました。

堀部武庸加功之遺跡碑

あの堀部安兵衛の武勇を顕彰した碑のようです。

「武庸」は通称安兵衛。越後新発田の出身で江戸に遊学。
叔父 菅野六郎左衛門が同僚の村上庄左衛門と高田馬場で
決闘した際、叔父に加勢し唯一生き残って有名になりました。
その武勇に感じ入った赤穂藩士 堀部金丸に懇請されて
養子となり、後に赤穂浪士として仇討に参加しました。

別の話として、堀部氏の娘が母と雑司が谷の鬼子母神に
参詣の帰途に高田馬場で件の事件に遭遇。安兵衛に
襷が無いのを見て自らのシゴキを解いて渡し、それが縁で
安兵衛が堀部家に婿入りしたとも伝わっています。


碑からもう少し奥まった場所に鳥居が見えます。


水稲荷神社


社伝によると;
941(天慶4)年 藤原秀郷の勧請で「富塚稲荷」が建立され、
中世後期には戸塚村一帯の鎮守でした。ご神木の根元から
湧き出た水で眼病が治ると評判を呼び、1702(元禄15)年に
「水稲荷神社」と改称。 1963(昭和38)年に早稲田大学との
土地交換によって、現在地に遷座されました。

境内には、
金銀融通の神 大黒さま         太田道灌の駒繋ぎ松
    

‘徳川家の遺構’と説明書きのある茶室「聴松亭」などがあります。




新目白通りに出てきました。
早稲田~三ノ輪を結ぶ路面電車が走っています。


始発駅「早稲田」の次の駅は「面影橋」。
通りに沿って流れる神田川に架かる橋の名です。

面影橋


目白台から続く鎌倉街道と推定される古い街道沿いにあり、
「姿見の橋」ともいわれていたそうです。その名の由来は
諸説あり、在原業平が鏡のような水面に自分の姿を映した
ためとも、また将軍家光公が鷹狩りのとき、この辺りで鷹を
見つけて命名したともいわれているそうです。




新宿区山吹町から西方の甘泉園、面影橋一帯は、江戸
時代中頃から、太田道灌の山吹の故事(言い伝え)に
因んで、「山吹の里」と呼ばれているそうです。
(ほかの場所という説もあるようですが・・)


橋の近くに、「山吹の里碑

神田川改修工事以前は橋の袂にあったそうです。
碑面に細かく刻まれた文字から、1686(貞享3)年建立の
供養塔を転用したものであることがわかりました。


神田川両岸の桜が、咲き始めています。


雨は止みそうもありませんが、桜の下を少し歩いてみました。
春ですね~

コメント

旧東海道・生麦

2010-03-23 | 旧東海道


旧東海道は

JR鶴見線「国道」駅のガードをくぐり、生麦地区に入ります。

この辺りは「生麦魚河岸通り」、魚や貝を扱う店・寿司屋さんが
たくさんあります。江戸時代は、幕府に魚を献上していたとか。


魚河岸通りの中ほど、右手に赤い鳥居が並んでいます。
道念稲荷社
    
ここ本宮(もとみや)で、毎年6月第1日曜日に「蛇も蚊も(じゃもかも)」と
いう行事が行われます。約300年前に悪疫が流行したとき
萱で作った蛇体に悪霊を封じ込め海に流したことに始まるという
行事で、市無形民俗文化財に指定されています。

萱で作った20mもある大蛇を若者や子どもが担ぎ、「蛇も蚊も出たけ、
日和の雨け、出たけ、出たけ」と大声で唱えながら町内をまわるそうです。



さらにどんどん歩いていくと、普通の民家の塀に
生麦事件発生現場」のパネルが掛けられてありました。

絵とカナ混じりの漢文ですが、事件の生々しさがうかがえます。

文久二年八月二十一日辛未晴天
島津三郎様御上リ異人四人内女壱人横浜
(?)来リ
本宮町勘左衛門前ニ而行逢下馬不致候哉異人被切付直ニ
跡ヘ逃去候処追被欠壱人松原ニ而即死外三人ハ神奈川ヘ
疵之儘逃去候ニ付御役人様方桐屋ヘ御出当村役人一同
桐屋ヘ詰ル右異人死骸ハ外異人大勢来リ引取申候
生麦村名主 関口日記ヨリ


此処が事件の現場だったんですねぇ・・


もう1箇所「蛇も蚊も」の神社を発見☆

原 神明社

さっきと同じ内容のパネルが掲げてありました。
こちらでも同様の行事が行われるようです。



だいぶ歩いてきました。
暫く何もないと、「この道でいいのかな~?」と思ったりしますが、
民家の庭や沿道の花を見たりすると、また元気が出てきます♪

これは見事な!
早咲きの桜かな?
    



道の左側、広い敷地に大きな建物が続いています。
キリンビール(株)横浜工場

横浜は、ビール発祥の地だそうです。
1885(明治18)年 横浜山手にジャパン・ブルワリー社が設立され、
その後関東大震災で倒壊したので、此処へ移転したそうです。
「麒麟麦酒(株)」となったのは、1907(明治40)年とか。
   
工場内にあるビア・ビレッジのレストランもお馴染みですね。


すぐ近くに
生麦事件之跡
    
事件について説明したパネルが掲げられてあります;

朝廷は幕府に攘夷断行を求め、江戸に赴く大原勅使の護衛として薩摩の
島津久光が同行し、その帰途、文久2年(
1862
)8月21日(旧暦9月14日)
午後2時、行列を横切ろうとし たイギリス人一行を生麦で殺傷しました。
この事件を土地に因んで生麦事件といい、薩英戦争の契機となりました。
明治16年、鶴見の人、黒川荘三が中村敬字の撲文を得て、イギリ ス
商人リチャードソン落命の地に、遭難の碑を私費で建立したものです。



そろそろお腹が空いてきました~
このあたりで本日の道中はおしまいにしましょう。
続きは、機会があればまた!

20,670歩

 

コメント

旧東海道・鶴見②

2010-03-22 | 旧東海道


車がひっきりなしに通る

R14を渡って間もなく、右手に
鋭角に少し戻る感じの道が「鶴見神社」の参道です。

鶴見神社

元 杉山大明神 
推古帝の頃(約1,400年前)の創建と伝わる、横浜で最古の社です。
『続日本紀』(833年)にも、都築郡杉山の社との記載があるとか。

    

参道を戻り、さっきの広い通りに出た所に立つ案内板によると;
立場として賑わった鶴見村で、最も大きな茶店「信楽茶屋」が
この辺りにあり、『江戸名所図会』にも描かれているといいます。


その案内板の目の前に、何とその名も「らーめん信楽茶屋」。
往時の茶店の繁盛ぶりにあやかろうとのネーミング?




京急「鶴見」駅前の商店街が旧街道筋らしいので、歩いていると
右側の洒落た店構えのパン屋さん?(開店前だったので)の前に、
まだ新しい御影石の石碑が、さりげなく建てられてありました。 
思いがけない場所だったので、あやうく見過ごすところでした・・・

旧東海道鶴見 覇王樹(さぼてん)茶屋跡
    
「みぎひだり つのを出して 世の中を 見るもおかし さぼてんの茶屋」
サボテンは、当時としては物珍しかったのかもしれません。
旅人の目をひいて、繁盛した茶屋があったのでしょう。



鶴見といえば、やはり外せないのが「総持寺」でしょう。
道を右に曲がって、全長60mの通称「開かずの踏切」の上、
計11本の線路を見下ろしながら歩道橋を渡り、総持寺の門前へ。


諸嶽山 総持寺
言わずと知れた曹洞宗の大本山です。

石川県に行基上人が建立したと伝わる律宗寺院「諸岳院」を
1321(元亨元)
年 瑩山紹瑾師に帰依した住持の定賢律師が寄進。
以来、瑩山紹瑾師を開祖として寺号を総持寺としました。
1615(
元和元)
永平寺と並び曹洞宗の大本山となりましたが
1898(明治
31)
年に
火災で消失。1991年現在地に遷されました。

50万㎡の広大な敷地の緑陰に、たくさんの伽藍が点在しています。
とても説明しきれないので、ざっとしかご紹介できませんが・・


最初の門は「三松関」


次の門は、巨大仁王像が睨みを利かす「三門」


扉に菊御紋が付いた桃山式唐破風造りの「向唐門」(勅使門)


禅寺らしい雰囲気が漂う長廊


ご本尊を祀る仏殿「大雅宝殿」


太祖を祀る最大伽藍「瑞応殿」


総檜造りの大書院「紫雲台」


尾張徳川家の書院を移築したという「待鳳館」


などなど・・


また旧街道に戻り、もう少し先まで行ってみようと思います。

(続)

コメント

旧東海道・鶴見①

2010-03-21 | 旧東海道


昨年、品川宿を歩いたときは八丁畷が終着点でしたが
今回はその先を歩いてみようと思います。
さて、どこまで行けるかな?


京急「八丁畷」駅前の踏切を渡ります。
前回、道の両側で金色の実をたくさん実らせていたカリンの並木は
今は、枝いっぱいに可愛らしいピンク色の蕾を付けています。
そろそろ咲き始めている木も・・
    
何だか今日も、元気に歩けそうな気がしてきました


川崎市から横浜市に入りました。
商店街を抜けても「八丁畷」の名のとおり、みごとなほどに
一直線の道が続きます。たまに、年代を感じる建物があったり・・



沿道の右側に「熊野神社


ご祭神:国常立尊(くにのとこたちのみこと)
   伊邪奈岐命(いざなぎのみこと)
   伊邪奈美命(いざなみのみこと)
弘仁年間(810~824)に、紀州熊野神社の別当の
勧請と伝えられます。元々は別の場所にありましたが、
明治になって東海道線敷設の際、此処に遷されました。

「慶應二年」と銘のある貫禄ある狛犬さん
    

支えられて頑張っている石灯籠は「慶應三年」
    

嘗てこの辺りは海辺で、天文年間(1532~1555)にはこの辺りで
魚介の市が開かれていたところから、「市場村」と呼ばれていました。


さらに先へ行くと、左側に
市場村一里塚跡


1604(慶長9)年 街道筋に一里塚の設置が定められたときに築かれた
もので江戸・日本橋から5里(5番目)の一里塚です。嘗ては塚が道の
両側にあり、塚の上に植えられた大榎が昭和初期まであったそうです。
明治初期に右側の塚が取り壊され、その後風雨に晒されていましたが
1950(昭和25)年 地元有志の手で左の塚に大谷石の土留めが施され、
1933(昭和8)年には「市場村一里塚」の碑が建立されました。



庚申塔が、立派なお堂に大切に祀られていました。




さらに10分くらい歩くと、大きな橋に突き当たりました。
鶴見川橋

1996(平成8)年竣工という、なかなかカッコいい橋です。
下を流れるのは、全長42.5kmの一級河川 「鶴見川」。

最初に架けられたのは江戸初期で、「鶴見橋」と呼ばれました。
江戸から街道を下る旅人が最初に出会う大きな橋でしたが、
鶴見川は度々氾濫したため、何度も架け替えられたようです。


鶴見村は、川崎宿~保土ヶ谷宿間の立場(たてば)として
茶店が何軒も立ち並び、大いに賑わっていたようです。
左手に海、右手に富士山を眺めて名物の米(よね)饅頭を
頬張りながら、この辺りでひと息入れたのでしょうね。


橋を渡った少し先の左側に
鶴見橋関門旧跡
    

1859(安政6)年横浜港開港に伴い、神奈川奉行は外国人に危害が
加えられるのを防ぐために、要所に関門や番所を設け横浜に入る
者を厳しく取り締まりました。 1862(文久2)年の生麦事件の後、
川崎~保土ヶ谷間には20箇所の見張り番所が設置されました。
明治に入り世情が安定し、1871(明治4)年廃止されたそうです。


鶴見図書館の前を過ぎ、繁華街に入ってゆきます。
沿道の桜も、間もなく咲きそうな気配


(続)

コメント

花散歩28

2010-03-18 | 花散歩


ずいぶん久しぶりの「花散歩」です・・
大変! いつの間にか画像がにたまっていました~


マーガレット
キク科キク属
カナリヤ諸島原産  明治時代に渡来しました。
和名「モクシュンギク(木春菊)」は、茎の基部が木化するところから。
花言葉は、「秘めたる愛」
    
花色は多色です



クレマチス・アンシュネンシス
キンポウゲ科センニンソウ属
中国雲南省原産
別名:フユザキ(冬咲き)クレマチス
センニンソウの仲間で、つる性。 花後はご覧のように立派なおヒゲ。
それにしても、覚えるのに苦労する名前!
    


カンヒザクラ(寒緋桜)
バラ科サクラ属
中国南部・台湾~琉球列島に分布
鮮やかな緋色の花が下向きに咲きます。
英名:Taiwan cherry
    

フキ(蕗)
キク科フキ属
花芽のフキノトウ(蕗の薹)は、
代表的な春の山菜ですね。
我が家でも、毎年味噌和えなどにしていただきます。
「もう春だねぇ」などと言いながら、炊きたてのご飯と・・
    
蕗の薹 おもひおもひの 夕汽笛」   汀女
「酒いたく 呑みておかしや 蕗の薹 」 召波


ベンケイソウ(弁慶草)
ベンケイソウ科ムラサキベンケイソウ属
丈夫な性質を弁慶にたとえて、この名。 別名:イキクサ(活き草)
先日up したシコロベンケイもこの仲間です。
    
「花の名の 弁慶草の 強さかな」  一水


ヤエムグラ(八重葎)

アカネ科ヤエムグラ属
道端に生え、茎・葉・実に密生した細かい棘が衣服や動物の
毛に付着します。 4~5月に白っぽい小さな花を咲かせます。
百人一首を覚えたての頃、どんな植物か興味をもちましたが
古歌に出てくるのはカナムグラのことらしく・・・?
    
「八重葎繁れる宿の寂しさに 人こそ見えね 秋は来にけり」 恵慶法師
「思ふ人来むと知りせば 八重葎おほへる庭に 珠敷かましを」 万葉集


ジンチョウゲ(沈丁花)
ジンチョウゲ科ジンチョウゲ属
中国原産  室町時代に渡来しました。
沈香のような香りと丁子のような花から、この名。
白い花弁と見えるのは萼だそうです。
花言葉は「永遠」
    
「沈丁花青くかをれり すさみゆく若きいのちの なつかしき夕べ」 牧水 
「沈丁の 咲き始めたる 白さかな」  立子


カレンデュラ
キク科カレンデュラ属
原産は地中海沿岸
  高さ20~30cmで、キンセンカの仲間です。
別名:フユシラズ(冬知らず)は、真冬の寒さにも負けず
次々と咲くから。日が出ると咲き、夕方には閉じます。



温室内で咲いている花もありました。

ストロビランテス・アニソフィルス
キツネノマゴ科イセハナビ属
インド原産
葉は黒紫色で、冬~初夏にかけて薄紫色の花をいっぱい咲かせます。
別名:ランプの妖精 花の形がランプのようだから。
ステキな別名の方なら覚えられそうです。
    


フブキソウ(吹雪草)
シソ科イボサ属
南アフリカ原産
高さ1~2mの木に2~3月頃、ピンクがかった無数の小さな花が咲きます。
別名:フブキバナ(吹雪花)も、その花の様子からでしょう。
    

コメント (2)

阿部倉の里

2010-03-17 | 横須賀・三浦


大楠山の麓

阿部倉には、昔ながらの素朴な風景の中に
歴史ある温泉や寺社・古い言い伝えなどが今も残っています。


ボランティア・ガイドさんに案内して頂きました。


平作山 大光寺
    
日蓮宗のお寺です。
開山:摩訶一院日院上人
創建:  1322(元享元)年
ご本尊:木造三宝本尊(鎌倉時代)
ご本堂内に、使用されていた駕籠2丁が保存されて
おり、「かご寺」としての格式をもったお寺です。


三浦枕状溶岩
(枠内の黒い部分)

枕状溶岩は、太平洋深海にある海底火山から流出して出来た
もので、ここまでプレートに乗って運ばれ堆積したものといわれます。
三浦半島最古(約4500万年前)の岩石で、市指定天然記念物。


諏訪神社(諏訪明神)」

ご祭神:建御名方命(たけみなかたのみこと)
阿部倉の鎮守で、明治時代までは祭礼のとき境内で
奉納相撲や芝居興行が行われ、大変賑わったといいます。

    
境内に「阿部倉の七不思議」の1つ「明神の相生松」があります。
古い松は枯れてしまい、1979(昭和54)年に植えられた3代目のまだ若木。


阿部倉七不思議碑
(右から2番目)

碑文は風化して判読できませんが・・

少し先に、こんな看板がありました。

「阿部倉の七不思議」は、江戸の昔からこの里に言い伝えられてきました。
信州 諏訪大社に伝わる七不思議伝説に倣って作られたものではないかと
いわれています。 さしずめ、現代で言うところの観光PR用キャッチコピー?
村の為に知恵を絞って考える人の様子を想像して・・・おもしろいですね!

相州三浦郡 阿部倉村七不思議
1 明神の相生松 (諏訪神社の境内の松は必ず相生になるという)
1 向山の南面の月 (向山山上に出る月は必ず南から昇るという)
1 湯本の朝けむり (湯の沢には四季を通じ濃い朝霧が出るという)
1 湯の沢の蛍   (湯の沢では昼でも光るホタルが飛び交うという)
1 萩野の勝手水 (萩野では春夏に水が湧き秋冬に涸れるという)
1 湯本の陰陽石 (湯の沢の夫婦石に願うと子宝が授かるという)
1 平山の片葉の葦 (平山地区の葦は片側だけに葉が出るという)


「明神の相生松」以外に、今でも見られるものはあるのでしょうか?
「大きな期待はしないで」とガイドさんは言いましたが・・・

「萩野の勝手水」             「平山の片葉の葦」
    
「勝手水」・・今はポンプで汲み上げているので、涸れることはないそうです。
「片葉の葦」・・この季節は枯れていてわかりませんね。年々減っているとか。

「湯本の陰陽石」

湯の沢の小さな橋の下に、一抱えの丸い「陽石」。そこから少し
上流に「陰石」がありますが、うんと崖に寄って木の枝の間から
チラリと半分ほどしか見えないので、写真は撮れませんでした。
その先に堰堤が出来たために流れが穏やかになり、今のように
離れ離れのままになってしまったのだとか。 可哀想にね・・


阿部倉温泉
奈良時代、行基上人が此処の湯で足の傷を治したと伝わります。
また三浦一族の隠し湯であったという説もあるとか
。近くにある
諏訪神社に詣でる人々が利用したので、「諏訪の湯」とも。

天然の単純硫黄冷鉱泉を加熱しています。神経痛・胃腸病・
皮膚疾患のほか、接骨後の療養にも効果があるそうです。


山中の一軒宿「湯の沢旅館」は、TVの旅番組などでも度々紹介され
隠れ家的雰囲気に惹かれてか、各地から訪れる人がいるようです。

湯の沢では、硫黄成分で湯の花が出来
硫黄のにおいがする所もあります。


天保年間に編纂された『新編相模国風土記稿』には、源泉について

「湯の沢に直径90cm、深さ60cmほどの水溜りがあり、硫黄の気があって
その辺りを『権現』という。ここは昔、湯の沢権現があったあとである。」
という内容が記されてあります。(『横須賀子ども風土記』より



その「湯の沢権現
今回は行きませんでしたが、5年くらい前に訪ねたことがあります。
沢に架かる小さな石橋から水辺に下りて流れを渡り、土手を登って
木の根を踏み分けながら入っていくと、微かに硫黄のにおいがして
崖の途中の茂みを拓いた場所に、銅板葺屋根の祠があります。
(これはそのときに撮った写真)

2体の石像が祀られてありました。
先述の『横須賀子ども風土記』によると;
「1体は薬壷を持った薬師如来か。もう1体は諏訪明神か。鉱泉が
絶えず湧き出て人々の病を治すように祀られたものか。」と。


現代より遥かに篤い信仰心を持った昔の人々の、
熱い願いが伝わってくるような気がしました。

コメント

大楠平の菜の花

2010-03-16 | 横須賀・三浦


毎年この季節になると、大楠山に登りたくなります。
今年も、菜の花はきれいに咲いているかな?



三浦半島の最高峰 標高242mの大楠山へのハイキング・
コースは、塚山・阿部倉・芦名口・前田川と4つありますが
今日は阿部倉から、湯ノ沢沿いに登ります。


JR「衣笠」駅をスタートして「しょうぶ園」の前を過ぎ、
阿部倉ハイキング・コースに入りました。

のどかな春の景色を眺めながら上って行くと


やがて、沢沿いの山道に



土手には、愛らしい春の花たち
スミレ                    ヒメウズ
    

イワボタン               シロバナタンポポ
    


頂上まであとひといきです!



最後の急な階段を上って・・・山頂に到着☆

快晴なら、此処から富士山が見えると聞いていますが
行いが悪くて、まだ1度もお目にかかっていません
今日も・・・



いいサっ、目的は此処だもん!

一面の菜の花を見ながら ランチタイム~♪



そろそろ下りましょうか
下りは得意じゃないので、ゆっくりペースで



衣笠城址搦め手口の方へ下りてきました

「旗立て岩」

1180(治承4)年の衣笠合戦で、太田和三郎義久と長江太郎義景が
中陣を敷き、この岩の上に旗を立てたと伝えられています
祠は、三浦義澄が父義明の霊を祀って建てたものとか

滝が尻と呼ばれる辺り
往時は、湧水が城内を豊かに潤し溢れていたそうです
此処ももう、すっかり春ですね☆


今回も富士山にキラわれて・・(笑)
29,208歩

コメント (2)

視神経乳頭陥凹?

2010-03-15 | 雑記

先月末の健康診断の結果が、先週郵送されてきました。
幸い特段の異常は見つからなかったようですが、

ん? 
眼底検査の結果が「要再検査」に・・「視神経乳頭陥凹の疑い」と。


「視神経乳頭」って何だろ? さっそくweb検索してみると
視神経乳頭は、眼球の奥の方にあるもののようです。
陥凹には、生理的・萎縮性・緑内障性の3種あるとか。

え、「緑内障」?
大変! 緑内障は日本人の失明原因第二位で、
症状は自覚しにくいと聞いたことがあります。  
目は大切な商売道具。でも、つい酷使してしまっていたかも・・

ということで、
慌てて(というか、しぶしぶ・・)眼科へ視野検査に行きました。
「視野検査」なるもの、もちろん初体験!

病院慣れしていない‘猫’は、受付から既にキンチョー気味
名前を呼ばれ、暗幕で仕切られた場所に入ります。

片目に目隠しの絆創膏を貼られて、眼前にある直径50cm程の
白いお椀を90°手前に倒したような
ドーム型の機器に向かうと
ドーム中央の小さなオレンジ色の光を見つめるように言われ
「視線を動かさないように」と念を押されて、検査開始。

ドームのあちこちに、不定期に次々と小さな光の点が出るので
その光が見えたところで、手元の確認ボタンを押していきます。
チカッ チカッ チカッ 一瞬の光は濃かったり薄かったり・・
全神経を目に集中しているので、かなり疲れます!

だんだん疲れてきて、しまいにはチカチカしているのが光なのか
それとも自分の目なのか、よく分からなくなってきました(笑)
実際は短い時間なのでしょうが、片目20分位に感じました。


両目の検査がやっと済んで暫く待ったあと、再び名前が呼ばれ
診察室に入っていくと、先生から結果を告げられました。
「異常ありません」 ヤッタ~
      

先生のお話では、近視の場合陥凹と見られる症状が出やすいとのこと。
緑内障はシロと言って頂けたので、まず今回は一安心でした。


今後も、年1度の眼底検査は続けた方が良さそうですね。
とっても とおーってもお疲れサマ!の1日でした~

コメント (2)

保土ヶ谷探訪③

2010-03-14 | 横浜


1

号線「権太坂上」交差点から、再び旧東海道の道へ向かいます。



権太坂
お正月恒例「箱根駅伝」でお馴染みの坂ですが、
旧東海道の権太坂は、1号線の西側を通っていました。

江戸から保土ヶ谷宿までは、ほぼ江戸湾沿いの平坦地でしたが
元町橋を渡ったあたりから長く険しい坂道となる東海道中最初の
難所とされ、ここで命を落とした旅人も少なくなかったそうです。

坂の名の由来は、坂の改修工事を指揮した藤田権左衛門の
名が訛ったものとも、また旅人に坂の名を尋ねられた耳の遠い
老人が、聞き間違えて自分の名を答えたからともいわれています。



境木(さかいぎ)立場
「立場(たてば)」は旅の途中の休憩所のこと。
「境木立場」は、保土ヶ谷宿と戸塚宿の中間地点にありました。


この境木立場では、権太坂・焼餅坂・品濃(しなの)坂と
難所が続くなか、見晴らしの良い高台で西に富士山、
東に江戸湾を望む素晴らしい景観を眺めながら、
名物の牡丹餅を食べてひと息ついたのでしょうか。

境木立場を代々営んでいた若林家(立場屋)


相模・武蔵両国の境の杭が立てられていたことが「境木」と
いう地名の由来。 交差点横にそのレプリカがありました。
    

「境木」交差点横にあるのは、
良翁院地蔵堂

創建: 1659(万治2)年
地蔵像がいつ頃のものかは不明だそうですが、昔 鎌倉腰越の
浜にあがった地蔵像が複数の漁師の夢枕に立ち、そのお告げに
従って江戸へ運ぶ途中、この地で牛車が動かなくなったそうです。
地元の人々がお堂を建てて祀ったところ、この地が栄えたとか。
以来、金運のご利益を求め参拝する人で大いに賑わったそうです。

ご本堂は改修工事中でした。




境木交差点から、左手の坂を戸塚方面へと下ります。

焼餅坂
坂の傍らの茶店で、旅人を目当てに焼餅を売っていたのが名の由来とか。

    
比較的最近まで、木々が鬱蒼と繁り旧街道の面影が残って
いたそうですが、住宅やマンションが建てられ・・・



それでもまだ、どことなく昔が偲ばれる道を歩いて行きます。


江戸幕府は五街道を整備し宿場を設けると同時に、それまで
曖昧だった駄賃銭を決めるのに必要な里程標を設置して
1里毎に
5間(約9m)四方の塚を築き、榎や松を植えました。

品濃一里塚跡


「品濃一里塚」は江戸から9里(約36km)、つまり9番目の一里塚です。
道を挟んで両側に2つの塚があり、県内で唯一ほぼ完全な形で残る
一里塚として、1996(昭和41)年に県の史跡として指定されました。

公園になっている右の塚の上に上ってみました。


ガイドブックの写真を見て、いつか行ってみたいと思っていたので
想像とは少し違っていたもののそれはそれ、歩けたことに大満足です
ガイドのYさん、多謝了!

昔の旅人の難儀には程遠いですが(笑)
今日もよく歩きました。
24,442歩

コメント

保土ヶ谷探訪②

2010-03-13 | 横浜


旧保土ヶ谷宿から暫し離れて、狩場に広がる緑の中にやってきました。

環境活動支援センター
(旧 横浜市緑化センター)

此処は農業技術・緑化技術の指導を目的として1971(昭和46)年に
発足し、2000(平成12)年に「農と緑のふれあいセンター」と改称。
2005(平成17)年より現在の「環境活動支援センター」となっています。

だれでも自由に入って見学(散策)できるようです。 (入場無料)
静かな散策路のそこここに、いろいろな春の花が咲いていました。

サンシュユ                 白モクレン
    

ミツマタ


    
とても静かで、心落ち着ける良い雰囲気の場所でした


隣接してあるのは、「こども植物園

子供達に、植物に接し自然に親しみながら植物の知識を広め
思いやりの心を培ってもらうことを目的に、普及教育活動を
行っているそうです。 国際児童年の1981(昭和56)年に開園。

日本を代表する植物遺伝学者 木原 均(ひとし)氏の記念碑。

木原 均氏 (1893-1986)
コムギの祖先を発見・ゲノムの提唱など多くの功績を残され、
あの種無しスイカの開発者としても知られています。

此処でも、いろいろな花が見られました。

カンヒザクラ                オカメザクラ
    

シナマンサク


野草園


 

少し離れた所に「英連邦戦死者墓地




日本国政府の厚意によって提供されたこの土地には、英連邦諸国、
アメリカ合衆国、オランダ王国の各国民で祖国の為に生命をささげた
人々が葬られています。この墓地の維持管理は英連邦戦死者墓地
委員会が英国、カナダ、オーストラリア、ニュージーランド、南アフリカ
共和国、インド、パキスタンの諸国に代わって行っています。
参観時間は、8:00AM~5:00PMとなっています。
英連邦戦死者墓地委員会


素晴らしく手入れの行き届いた広い芝生に、整然と墓標が並んでいます。
来日されたエリザベス女王、ダイアナ妃、サッチャー首相も訪れたとか。



此処にこのような場所があることを初めて知りました。


さて、次回は再び 旧保土ヶ谷宿に戻ります。

(続)

コメント (2)

横浜・保土ヶ谷探訪①

2010-03-11 | 横浜


保土ヶ谷を歩くのは初めてですが、地元の友人Yさんが
案内してくれるというので、今日は楽ちんでーす☆
さて、どんな出会いがあるでしょう?


JR「保土ヶ谷」駅を出て、国道1号線を西へ向かいます。


ほどなく、こんな案内板がありました。


案内板の角を曲がって、「いわな(石難)坂」を上ってみました。
この道は金沢(横浜)~鎌倉を結び、浦賀道へもつながる古道です。


坂の途中、左手の長い石段の先に
無量山 福聚(ふくじゅ)
    
臨済宗のお寺です。
創立: 1335(建武2)年
開基: 古先印元禅師
現在のお堂は、1985(昭和60)年に改修されたものとか。
境内に湧水があり、お墓の水として使われているそうです。


もう少し坂を上って行くと、右手に
御所台の井戸

源頼朝公の妻 政子夫人が此処を通りかかった際
この井戸の水を汲んで化粧に使用したと伝わり、
「政子の井戸」と呼ばれています。
江戸時代は、保土ヶ谷宿・本陣にて将軍休息の折
此処の水が御膳水として使われたということです。

更に坂を上って行くと「北向地蔵」という史蹟がありますが
私たちはこの辺りで引き返し、1号線に戻って先へ進みます。



保土ヶ谷橋交差点を過ぎると、1号線が旧東海道の道筋です。

1601(慶長6)年 東海道に伝馬制度が定められ、
保土ヶ谷は江戸日本橋から4番目の宿駅となりました。



交差点からほどなく、左側に
苅部本陣跡

塀の内側でよく見えませんが、現存するのは門だけのようです。


参勤交代の大名や幕府役人、公家などが宿泊したのが本陣で
保土ヶ谷宿本陣は建坪270坪、部屋数も18を数え、東海道の
本陣中十指に入る規模だったとか。本陣を務めていた苅部家は
小田原北条氏の家臣を祖とする家柄で、明治になって軽部姓に
改姓されましたが、現在も子孫の方がお住まいのようでした。


脇本陣跡
    
保土ヶ谷宿には、藤屋・水屋・大金子屋という3軒の脇本陣があり
本陣が混雑したときに宿泊を受け入れていたそうです。
現在は、上のような標柱が立っているだけです。


旅籠 本金子屋跡

敷地内には本格的な日本庭園(非公開)があり、
大正天皇がお忍びの旅の途中に休息されたこともあるとか。

建物は1869(明治2)年に建て替えられたものだそうですが、
往時の旅籠の面影が残るたたずまいですね。




少し先から、今井川に沿って進みます。歩く道は、まだ新しい
「今井川プロムナード」という遊歩道になっています。

川のそばに
外川神社

宿内の清宮與市が出羽三山の霊場を参拝、1869(明治2)年
羽黒山麓の外川仙人大権現の分霊をこの地に勧請しましたが
神仏分離令の発布により祭神を日本武尊とし、外川神社と
改称しました。虫封じや航海安全にご利益があるそうです。

一里塚跡

この辺りに一里塚があったそうで、説明板が立てられています。
このように、保土ヶ谷宿は町並みや史蹟などは殆ど残っておらず
案内板や標柱にある説明で宿場の様子を偲ぶことしか出来ません。
残念ですがこれも時の流れ、仕方のないことでしょう。


この先、ちょっと寄り道するようですよ。
どんな所へ行くのかな・・ワクワク

(続)


コメント