YRPの水辺公園にやって来ました。
池には、カメやコイたちが たくさんいます。
ハルジオンのお客さんは、ベニシジミ
中央の黄色い部分、これも花だって知ってました?
これ、観察会で仕入れたネタ(笑) ルーペで覗いて「ホントだぁ!」
小さなひとつひとつが、ちゃんと花の形をしていて 感動☆
ヒメコウゾ
(クワ科)
エゴノキ
(エゴノキ科)
白い花の咲くのが 待ち遠し~
このコース、ひと廻りして 本日の歩数ノルマ達成でーす☆
12,199歩
今日は、定番の散策コースを ぐるっとひと廻り
今、いちばん元気に咲いているのは
マルバウツギ
(ユキノシタ科)
ノゲシ
(キク科)
ハルノゲシともいうらしいけど、殆ど一年中 至る所で元気いっぱい!
茎を包み込む葉と、鋭い棘が特徴・・・と、先日の観察会で覚えた(笑)
アメリカフウロ
(フウロソウ科)
目立たないけど、かわいらしい
ウシハコベ
(ナデシコ科)
ルーペで見ると、雄蕊が5裂。
オニタビラコ ケキツネノボタン
(キク科) (キンポウゲ科)
「ボタン」は実の形からだと思っていたけど、葉が牡丹に似ているからだって。
茎が細い毛で覆われているので「ケ」。
コゴメウツギ
(バラ科)
よく見ると、大小の花弁が10枚・・・・に見えるけど
ヘラ形の花弁が5枚、卵形の萼片が5枚だそう。
ナガミヒナゲシ
(ケシ科)
実が長いので「ナガミ」。
キュウリグサ
(ムラサキ科)
ワスレナグサの仲間で、花もそっくり!
葉を揉むと、胡瓜のような青臭い匂いがするとか。
トウダイグサ
(トウダイグサ科)
昔の灯台の 油を入れた皿を連想する?
イヌガヤ
(イヌガヤ科)
見た目と違って、触っても痛くない葉。 誰かさんみたい?
アカメガシワ
(トウダイグサ科)
ヤマフジ
(マメ科)
普段あまり気にしてないけど、春になると あちこちの山でたくさん見かけます。
「ここにいるよ~!」とアピールしているみたい。
わぁ、サクランボ! おいしそ~~
山は、まるで緑のパッチワーク☆
元気をたくさん貰いました~!
GWらしい爽やかな晴天!
そりゃもう、出かけずには いられません・・・(笑)
「花の国」を、ぷらっとひと回りしてきました。
家族連れでいっぱい☆ 駐車待ちの車の列ができていました
シャーレーポピーが、だいぶ咲いてきました☆
これは カリフォルニアポピー
セラスチウム
此処にも ネモフィラ
11,134歩
「ソレイユの丘」でネモフィラが綺麗と聞いたので、「三崎口」へ。
と、駅前に何かすごい人だかり・・何ごと? と野次馬‘猫’が覗いてみると
京急主催ウォーキングイベントの受付をやっていました。
自由歩行・当日申し込みでOKとのこと。
「ソレイユ」もちょうど通り道なので、急遽参加することに☆
受付でルートマップを貰って、いざ出発!
R134 を暫く上り「和田」交差点で左折。 海に向かって歩いて行くと、
「和田城址」碑
和田小太郎義盛16歳の時、父の死を契機に鎌倉・杉本城から
ここ和田の地に移り住み、この辺りに居を構えたといいます。
海岸に出ました。
「長浜海岸」
地元の人達は「ナハマ」と呼んでいます。
全長600mの広々した気持ちのいい砂浜と、磯遊びが楽しい岩場。
テングサ採りかな?
岩場伝いに岬を廻って行くと
「栗谷浜(くればま)漁港」
今が旬のシラスなどを加工・直売している「かねしち丸」。
タタミイワシ、美味しそう~!!
一旦海岸を離れ、足場の悪い細い階段を上って下りて・・再び磯歩きへ。
「荒崎海岸」
白い頁岩(けつがん)と黒い凝灰岩が層を成しています。
「かながわの景勝50選」に選定されているとか。
弁天島
「荒崎公園」でひと息入れて・・長井地区へ。
「熊野神社」
土地の人は「権現さま」と呼んでいるようです。
創建は建久年間(190-1199)といわれ、源義経の家臣 鈴木重家の
長男・家長が 故郷である紀州の熊野権現を勧請したと伝わります。
7月の例祭日には、市指定民俗文化財の「飴屋踊り」が奉納されます。
「ソレイユの丘」
第二次大戦末の飛行場跡地に、2005(平成17)年に開設された
体験型市民公園。 今日も、たくさんのファミリーが休日を楽しんでいました。
公園の人気者?
菜の花畑
そして、ネモフィラ☆
思い出した・・数年前にも同じコースを歩いたっけ
約2時間半の楽しい散策でした☆
21,962歩
そうだ、今年はまだ龍華寺の牡丹を見てなかったナ・・
まだ見られるかな? と思いながら行ってみました。
「牡丹まつり」の幟は立っているけど・・?
よかった、咲いてた☆
昨日の風雨の影響もあるナ・・
散り際の風情
今年は、牡丹も早かったですね。
14,704歩
3日ぶりのです☆
少し風があるけれど、気持ちの良いお散歩日和。
もうそろそろでしょう・・と、「太田和つつじの丘」へ行ってみました。
あずまや周辺は、盛りを少し過ぎたかな・・
わぉ!
奥のオオムラサキは 見事です。
青空によく映えますね~
17,391歩
市博物館主催の「大楠山の春の植物観察会」に参加しました。
参加者20名に交ざって博物館の先生から説明を聞いたり、ルーペで観察したり・・
朝から生憎の空模様 途中からも降ったりやんだりして・・
それに何より‘観察’とメモを取るのに忙しく(笑)、写真を撮る暇がありませんでしたが
何度か登っている馴染みのある山に、こんなにいろいろな植物が・・と驚きました。
ウラシマソウが性転換する話、 カマツカが「牛殺し」と呼ばれる話、
いろいろなシダの見分け方・・etc. 面白い話をたくさん聞けました☆
これまで何度も参加されている方も多く、とても詳しくてそれにも又ビックリ!
興味はあるけど実はよく知らない植物の世界、‘猫’には正にワンダーランド
28,269歩
今日は昨日に比べると、風も寒さも穏やかな一日。
シゴト量が徐々に増えてきて、あまり遠出は出来ませんが・・
まあ、できるだけ時間を見つけて 近場をぼつぼつ歩くことにしましょう!
久しぶりに足湯でも・・と、「遊足里」へ。
道々 花を楽しみながら☆
ポピー・ネモフィラ・シバザクラ・チューリップetc.・・いろいろ咲いてきましたね☆
これは ラミューム(シソ科)
コバノタツナミ(シソ科)
別名:ビロードタツナミ
柔らかい葉がビロードみたいな手触り。
アジュガ(シソ科)
別名:十二単(ジュウニヒトエ)
カレーバイン(ノウゼンカズラ科)
別名:釣鐘葛(ツリガネカズラ)
カレーの色だナ(笑) そういえば香りもカレーのような・・
繁殖力強そう!
ロウバイには、実がたくさん!
足湯のお客さんが、今日はわりに多かったです。
「花の国」を訪れる人も徐々に増えて・・散策に良い季節になりましたね☆
15,030歩
芦ノ湖畔のこの辺りは、「元箱根」と呼ばれます。
朱塗りの大鳥居は、「箱根神社」 一の鳥居。
その袂に、「賽の河原」
地蔵信仰の霊地として、箱根の旅人の信仰を集めた場所で
大小様々な石仏や石塔が並んでいます。 明治の廃仏毀釈に
よって 多くは失われましたが、現在も50数基が残っています。
箱根の山は 東国と西国を分ける境の山、噴煙を上げ 時には霧が
立ち込める荒涼とした光景は、まさに地の果てと思われたのでしょう。
其処には、死者が集まる「賽の河原」があると考えられたのでしょうか。
道を渡って湖の反対側、杉並木に入る手前に
箱根で3ヶ所あった一里塚の最後の1つがあります。
「葭原久保(よしわらくぼ)の一里塚」
江戸から24番目の一里塚です。
左右の塚上には、マユミの木が植えられていたそうです。
一里塚の少し先に、R1と並行して 見事な杉の巨木が立ち並んでいます。
「箱根旧街道の杉並木」
1604(慶長9)年に、江戸幕府の命によって街道に並木が植えられた際、
低温多湿で雨の多い箱根には松は適さず、杉の木が植えられました。現在、
樹齢が最高で400年程の大木が406本、300m余の並木を作っています。
根元にびっしりと苔を纏った老木も・・
これ程のものの維持管理には、並々ならぬご苦労があることでしょうが
これからも、是非とも守り続けて頂きたいと願わずにはいられません。
杉並木の間から、芦ノ湖越しにチラリと富士山も☆
快適な杉並木ウォークを楽しんだ後、もう一度車道を渡って
「箱根恩賜公園」
明治天皇の箱根離宮跡が公園になっています。
桜がとても綺麗に咲いていました
広い公園駐車場の横から、案内板に従って行くと
「箱根関所」
大改修が2004(平成16)年に完成し、きれいになっていました。
2代将軍 徳川秀忠の時 1619(元和5)年に開設されて以来、1869(明治2)年の廃止まで
250年にわたって存続しました。 新居関と並び、調べが非常に厳しい関所だったそうです。
当初は豊臣の残党が江戸へ入るのを防ぐことが主目的でした。 やがて参勤交代制度が
できると、江戸に在住する諸大名の妻子が国元へ逃げるのを防ぐことに重点が置かれ、
所謂「入り鉄砲に出女」・・殊に箱根の関所では、婦女の調べは格別厳しかったようです。
江戸口御門から入って京口御門を抜けると、江戸から10番目の宿場「箱根宿」です。
東海道に伝馬制度が定められてから17年後の1618(元和4)年に設けられました。
箱根宿は 当初は現在の元箱根の辺りに計画されましたが、箱根権現の門前で
あることで反対にあったため、新たに湖畔の原野に隣の小田原宿と三島宿から
各50戸を移住させて造られました。小田原藩と三島代官所の管轄となったため
1つの宿場に2人の領主がいる 「相給(あいきゅう)」と呼ばれる特殊な宿場でした。
旅籠36軒、家屋197戸と東海道中でも小規模の宿場でしたが、逆に本陣6ヶ所は
浜松宿と並ぶ多さでした。 関所を控えた宿場の特殊性によるものと考えられます。
旅人は、江戸から3日目の昼頃に到着。 此処で昼食を済ませると
次の三島へ向かう者が殆どで、宿泊する者は多くはなかったそうです。
「箱根ホテル」の駐車場に、1本の楓の老木があります。
宿場の本陣の1つ 「はふや」の門前に植えられていたものだそうです。
「はふや」は、現ホテルの前身とか。
箱根宿の街路は、楓の並木になっていたようですが、明治の中頃
道路拡張の際 ほかの木は全て切り払われ、1本だけ残ったのだとか。
推定樹齢:400年。 数少ない宿場の生き証人ですね☆
この楓の木を、今回のゴールとしましょう!
近くのバス・ターミナルから、「箱根湯本」駅へ戻ります。
今回は、歩数のわりに疲れを感じました・・・やはり、箱根の山は天下の険だヮ~
18,630歩
茶屋の裏手の旧街道は、暫く林間の平坦な道が続きます。
やがて道の傍らに、小石のたくさん積まれた岩が・・
「於玉坂」
標高:770m
お玉という若い娘が、江戸の奉公先を抜け出し 伊豆の実家に逃げ戻ろうとして
箱根の関所を破り、この辺りで処刑されたという悲しい話が伝わっています。
県道を跨いで、旧街道は杉林の中へ。
また石畳の道になります。
説明板によると;
此処から元箱根に至る約1kmの石畳は、和宮内親王が14代将軍徳川家茂に
嫁ぐにあたり、幕府が1862(文久2)年に改修を行ったものだといわれます。
箱根の二子山から切り出された硬くて粘り気のある安山岩が、平均3.5mの
道幅の中央部 約1.8m幅に敷き詰められたということです。 実際には、
和宮御降嫁の行列が此処を通ることはなかったそうですが・・
「白水(しろみず)坂」
標高:790m
小田原合戦の折、秀吉軍がこの付近で北条方からの石攻めに遭い
城を見ず(=しろみず)に引き返したことから、こう呼ばれたとか。
見事な石畳が続いています。
やがて行く手の道にせり出すように、巨石が見えてきました。
「天ヶ石(てんがいし)坂」
標高:800m
方8尺(2.4m四方)の天蓋石と呼ばれる巨石です。
「於玉観音堂」
先述のお玉を初め、街道沿いや山中で亡くなった多くの人骨を発掘・収集し
供養するため、興福院が建立・管理しているまだ新しい観音堂があります。
此処はまた、「二子山」を展望する絶好の場所☆
箱根火山活動で最後にできた鐘状火山で、江戸時代から「二子石」と
いう安山岩を産出する石切場で、石畳の多くは此処から切り出されました。
現在は、入山が禁止されているそうです。
小田原方面からはお椀を2つ並べて伏せたように見える「二子山」ですが、
此処からは4つの瘤がきれいに並んで見え、「表二子に裏四子」と
呼ばれています。 左が上二子(1,090m) 右が下二子(1,064m)
「天ヶ石坂」の石畳を上り詰めると、道は芦ノ湖に向かって下って行きます。
「権現坂」
標高:805m
箱根権現(箱根神社)への分かれ道があったのが、坂の名の由来。
湖水が見える 道中で最も景色の良い坂で、無事に山を越えて
此処まで辿り着くことができた旅人の安堵の気持ちが想像されます。
安藤広重の浮世絵にも・・ホラ!
権現坂を下る大名行列が描かれています。
「ケンペル・バーニーの碑」
ケンペル氏は、1960(元禄3)年に長崎オランダ商館付の外科医として来日した
ドイツ人の植物学者で、2年の在日中に2回江戸参府に加わり、箱根で芦ノ湖の
魚類や多数の植物を観察。帰国後、箱根の美しさや日本文化を紹介しました。
芦ノ湖畔に別荘を持っていたイギリス人貿易商のバーニー氏は、ケンペル氏の
著書「日本誌」に感銘を受け、箱根の自然保護の思いから左の碑を建立しました。
「芦ノ湖」に到着デス☆ やったゾ~~
富士火山帯のカルデラ湖。 箱根観光のシンボルでもありますね。
湖面の標高: 725m
湖の周囲: 21km
湖の最深部: 43.5m
このあと杉並木を通って、いよいよ箱根宿へと向かいます。
(続)
「山根橋」「甘酒橋」という小橋を過ぎ、一路「元箱根」に向かって歩いて行きます。
この辺りは 道も階段も緩やかで、快適なハイキング気分
山は、緑の濃淡の中に 桜でしょうか・・所々ピンクの彩りが混じり・・
まさに‘箱根の春’ の美しさです!
「猿滑(さるすべり)坂」
標高:640m
『新編相模国風土記稿』に
「 殊に危険 猿猴といえどもたやすく登り得ず よりて名とす」と。
‘猫’も がんばれ~!
「猿滑坂」は県道で分断されています。 県道を渡ると、またキツい階段!
目の前の山は「文庫山」。 路傍には ロウバイがまだ綺麗に咲いています☆
「追込坂」
標高:680m
「親鸞聖人御聖蹟」
やや平坦に拓けたこの辺りは「笈ノ平(おいのたいら)」と呼ばれています。
親鸞聖人が、4人の弟子を伴って関東での布教から京へ向かう途中
残していく性信房・蓮位房と、師弟の別れを惜しんだ場所だそうです。
別れの辛さを刻んだ歌碑
「 やむこをは あすけてかえる旅のやと こころはここにのこしこそすれ 」
( 病む子をば 預けて帰る旅の宿 心は此処に 残しこそすれ )
笈ノ平からものの5分で、県道沿いに藁葺屋根の家屋が見えてきました。
「箱根旧街道資料館」
農家の古い建物を移築したものだそうで、入口に駒繋ぎの柵。
江戸時代の箱根の風俗習慣や旧街道にまつわる伝説などが
当時の雰囲気を体感できるように わざと暗くしてあるという
屋内に、パネルや模型などで展示されてあります。(入場無料)
資料館に隣接して、藁葺屋根の建物がもう1軒。
「甘酒茶屋」
江戸時代は東坂の9ヶ所に13軒の甘酒茶屋があり、旅人の疲れを癒していました。
この地には4軒あったそうですが、現在は2009年に新装なったこの1軒だけ。
屋内に土間と板の間、奥に上がると囲炉裏もありました。
大正時代のこの辺りの様子
(パネルより)
では‘猫’も、甘酒と力餅(鶯きなこ餅と磯辺巻)で
また、元気に歩けそう~!
甘酒¥400 力餅¥450
(続)
さぁ、いよいよ箱根宿が目前です。 張り切って行きましょう!
今日もよく晴れて、絶好のウォーキング日和
今回は「畑宿」までバスで、そこから「箱根東坂」を歩きます。
「畑宿(はたじゅく)」
嘗ては「畑の宿」と呼ばれ、箱根越えをする旅人の休憩地でした。
現在も、木材の色彩を活かした伝統工芸「寄木細工」は有名ですよね。
バス停のすぐ先にあるお店の前から、石畳の道が始まっています☆
当初は箱根竹という細竹を敷き詰めた道でしたが、維持管理が難しく
毎年駆り出される住民の負担も大きかったので、1680(延宝8)年に
江戸幕府が約1,400万両を投じ、石畳に改修したということです。
石畳は 関東大震災(1923年)や北伊豆地震(1930年)など度重なる災害で
大半が崩壊・埋没しましたが、残されていた一部を整備し再現しています。
入口にさっそく、江戸から23番目の一里塚があります。
「畑宿一里塚」
1998(平成10)年に箱根町の保存整備事業の一環として再現されたもので、
直径30尺(約9m)の円形の塚です。 再現前は、右の塚のみが残っていたとか。
左の塚上にケヤキの木 右の塚上にはモミの木
杉林の中の石畳を歩いて行けば、心はいつしか 旅人気分♪
箱根越えは、奈良・平安時代は 箱根山を迂回して足柄峠を越える「足柄道」でしたが
鎌倉時代以降、湯本・湯坂山・鷹巣山・精進池を経て三島に至る近道「湯坂道」を併用。
江戸時代になり、前回歩いた三枚橋から須雲川に沿った谷間の道へと変化していきます。
箱根越えには「東坂」と「西坂」があり、殊に 湯本~箱根宿の「東坂」は
13もの坂があり 標高800mという東海道屈指の難所で‘天下の険’と
恐れられ、また雨の多い気候も旅人を大いに難渋させたといいます。
石畳の排水路
雨水を石畳の外へ追出すための工夫がしてあります。
上流側に小さな石、下流側に大きな石を斜めに敷き詰め
雨水が、大きな石を伝って外へと流れ出るしくみです。
一里塚を過ぎた辺りは緩やかな坂でしたが、R1(箱根新道)を越えて
再び林の中に入っていく辺りから、次第に勾配が増してきました。
「西海子(さいかち)坂」
標高:410m
急勾配が2町余(約220m)も続く 最初の難所です。
「 壁立するがごとく 岩角をよじて上る 一歩誤れば千仭の谷底に落つ 」と。
付近一帯にサイカチの木が茂っていたので、この名がついたそうです。
坂を上りきると、R732(県道湯本元箱根線)に出ました。 この辺りは
R732とR1とが交差しながら クネクネと曲がり曲がって続いている
「箱根七曲り」と呼ばれる所で、10.1%の上り勾配。 旧道はこの七曲りを
跨いでほぼ直登の登り道。 そのキツさといったら半端じゃありません
向こうの尾根が「湯坂道」。 ひぇ~、昔の人は大変だったなぁ!
「橿(かし)の木坂」
標高:500m
『東海道名所日記』には、
「 けわしきこと 道中一番の難所なり。おとこ、かく詠みける。
橿の木のさかをこゆれば くるしくて どんぐりほどの涙こぼれる 」と。
この辺りには、きっと樫の木が多かったのでしょうね。
急階段の途中で左折し進んで行くと、ベンチのある平場。
右手のこれも急な階段の上、県道沿いに「見晴茶屋」があるそうですが、
そこまでは上らず、ベンチに腰を下ろしてひと息入れましょう☆
此処にあった説明板から:
「箱根の雲助」といえば、時代劇に登場して旅人の弱みにつけこむ悪役です
が、実際は問屋場にきちんと登録し、仕事を割り当てられて働く人足達で
悪さをする者はいなかったそうです。 『日本交通史論』という資料によると
簡単になれる職業ではなく、次のような条件をクリアせねばならなかったとか。
1.力が非常に強いこと。(これは仕事の性質上、ぜひ必要でした。)
2.荷造りが優れていること。(荷物を見ると、造り手が分かったとか。
箱根で荷造りされた荷物は、京まで崩れなかったといいます。)
3.歌が上手なこと。(歌が上手くないと、一流の雲助と言われなかったとか。)
さて、元気が出たところで 先を急ぐことにしましょうか。
(続)
陽射しは強いけれど、乾いた風が思いのほか冷たい一日でしたね。
YRP「水辺公園」の奥の池にも 春が来て
オタマジャクシやアメンボ達が 元気に泳いでいます。
ハンゲショウも、もうこんなに育って・・
水辺を散策しながら、いろいろな小さな花を探してみました☆
ウラシマソウ キツネノボタン
シロバナハンショウヅル
ベニバナハンショウヅル
ミツバアケビ ホタルカズラ
ネコノメソウ・・かな?
キブシ クサイチゴ
そして、この時期の此処の主役は・・
ニリンソウの群生
季節は 春から初夏へと、足早に移っていくようです!
13,425歩
正眼寺を後にして、街道を歩いて行くと左手の路傍に
仲睦まじい双体道祖神
江戸時代 この辺りは「湯本茶屋村」といい、
この道祖神は、その村境にあったそうです。
その先の右手、あやうく見過ごすところでした。
「民宿うらしまや」の向かいの植え込みに隠れるように・・
「旧箱根街道一里塚跡」碑
日本橋から22番目の一里塚があった所です。
少し先に、車道から右へ下りて行く道があります。この先に
江戸時代の石畳が残っているというので ・・行ってみまっす!!
坂の入口右側に、これも見落としそうになりましたが・・
「馬の飲み水桶」
「 江戸時代 この辺りは『馬立場』といって 馬子が一休みしたところです。
この桶には 山から引いた水が満々とたたえられ 街道を往来する
馬の飲み水になっていました。 湯本茶屋自治会 」
いよいよ石畳に入って行きます! ワクワク
江戸幕府が1680(延宝8)年に石で舗装した旧街道の
面影が残る道が、約255mにわたって続いています。
以前 「湯坂道」の石畳を歩いた時も思ったのですが、晴れた日ならまだしも
雨で濡れたこの道を草鞋がけで歩くのは、どれほど難儀だったことか・・
と、往時の旅人の姿を想像しつつ、 一歩一歩踏みしめながら歩きます。
「猿橋」という小橋を渡り、「箱根湯本ホテル」の廊下の下を抜けて
石畳はさらに続きます。
石畳の道を出ると、先程歩いてきた街道(車道)につながっていました。
出た所の右側に また下りて行く階段があって、その先に・・
「大慈悲山 福寿院」
通称:箱根観音
曹洞宗のお寺。
本尊: 慈母観音菩薩
江戸時代 山賊に襲われ谷底に落とされた旅人が、観音様のお蔭で
命を救われ、以来この地は観音沢と呼ばれるようになったという
言い伝えに因んで、観音堂が建立されたといわれています。
ご本堂内に円錐型の塔がたくさん並んでいます。光明消災燈というそうで、
以前 タイの仏教寺院で、同じような塔を見たのを思い出しました。
(上の2枚の画像は、福寿院のHPから拝借しました。)
ここから眺める湯坂山は、柔らかな色に包まれて とても美しかったです☆
16,767歩
JR東海道線が 今日は平常運行しているようなので、
昨日取りやめた遠出を 実行することにしよう~!
箱根登山電車で、前回の「入生田」駅の次の「箱根湯本」駅で降り、
「早川」沿いに少し戻ったところにある「三枚橋」から 今回は出発します。
さて、今日はどこまで行けるかナ・・がんばって歩きましょう!
三枚橋から、旧街道はR1と分かれて左へ入って行きます。
橋の名は、嘗ては川幅がもっと広く 2つの中州を結んで「地獄橋・極楽橋・
三昧橋」という3つの橋が架けられていたのに由来し、どんな罪人でも
橋を渡ってその先の「早雲寺」に逃げ込めば 罪を免れられたので、
まさに 地獄と極楽の分かれ目の橋だったのだとか。
橋の近くの路傍に、「矢立杉跡」碑
昔 この付近に「矢立の杉」という老木があったそうで、この杉の木の
下を通る武将達は、戦勝を祈願してこの木に矢を立てたといわれます。
橋を渡り終えると、道は右へカーブしながら上り坂になります。
カーブして直ぐ、右へ入って行くと、左手の階段の先に
「箱根町立郷土資料館」
まずは 箱根温泉郷の歴史をお勉強(?)して、
そのついでに、ガイドマップもGETです☆
街道筋へ戻って、坂をどんどん上って行きます。
「早雲通り」と呼ばれるこの旧街道、11月には「箱根大名行列」が
練り歩いて観光客などで賑うようですが、今日は車の往来はある
ものの人通りは少なく、どこかのんびりした温泉町の風情です。
10分ほども歩いたでしょうか。 通りの左側に玉垣が見えてきました。
「白山神社」
天平年間(729-748年)に関東に疱瘡が大流行した時、加賀から
派遣された浄定という人が白山権現社を建てて十一面観音菩薩を
祀ったところ、山から霊泉が湧き出し病を治したと伝わっている由。
約300年前から 湯本温泉の鎮守。
祭神: 白山比大神=菊理媛命(くくりひめ)
伊奘諾命(いざなぎ)、伊奘冉(いざなみ)命
笑っているような表情の狛犬さん、子供を背に乗せて楽しそう☆
耳がピンと立ってますね。 大正時代の作で、制作者の名も刻まれてあります。
街道を挟んで、神社のほぼ向かい側に
「金湯山 早雲寺」
北条早雲の菩提寺です。
臨済宗のお寺
創建: 1521(大永元)年
開山: 以天宗清(大徳寺第83世)
開基: 北条氏綱
本尊: 釈迦三尊(南北朝時代の作)
嘗て500名を超す僧をかかえる大禅刹として、隆盛を極めました。
秀吉の小田原攻めの際には、豊臣方の本陣ともなりましたが、
その後 後北条氏の滅亡とともに当寺も衰退、縮小したとのこと。
本堂は、寛政年間(1789-1800)建立。 昭和30年代の
改修までは、茅葺寄棟造りであったようです。
鐘楼
惣門・本堂・鐘楼は 箱根町の重要文化財
本堂裏手に 枯山水の庭園
早雲の三男 北条幻庵が作庭したと伝えられます。 銘「香炉峰」
左手の墓地に「北条氏五代の墓」
1672(寛文12)年に、子孫の河内国狭山藩主
北条氏治によって建立された供養墓だそうです。
旅半ばに、ここ湯本で没した室町時代の漂泊の連歌師
飯尾宗祇(1421-1502)の墓や、境内には歌碑もあります。
ほかにも、千利休の高弟で秀吉の怒りを買って殺された 山上宗二の追善碑とか
朝鮮通信使ゆかりの扁額 等々、戦国~江戸期の歴史・文化の流れに関わりの
深いお寺であったらしいことは、 ‘猫’のような素人にも感じられます。
さらに 街道を歩いて行くと、左側に
「放光山 正眼(しょうげん)寺」
臨済宗のお寺。
鎌倉時代、箱根路の旅人の安全を祈る地蔵信仰から建立された
地蔵堂があり、その別当寺だったお寺が1626(寛永3)年に
再興され「正眼寺」となりましたが、その後 山崎の戦で焼失。
現在の本堂は、銀行家 今村繁三氏(1877-1956)の別荘だった建物とか。
本堂左手の石畳を上って行くと
「曽我堂」
あの曽我兄弟が仇討の本懐を願って参籠したといわれる
地蔵堂の近くに、縁者たちによって建立されたといわれます。
木像 伝曽我五郎地蔵菩薩坐像(鎌倉時代)
木像 伝曽我十郎地蔵菩薩坐像(室町時代)
の2体が祀られ、春秋のお彼岸に開帳されるということです。
柔らかな新緑と まだ散らずに残っているしだれ桜が美しい境内で
ちょっとひと息入れるとしましょうか
(続)