スニーカー履いて

‘猫’も歩けば・・・今日はどんな出会いが?

錦屏山 瑞泉寺

2011-02-28 | 鎌倉・逗子・葉山

 


「鎌倉小路歩き」などご報告しているうちに、あっという間の一週間(笑)
その間、本当に大勢の方にご訪問頂き ありがとうございます。
当人 大ビックリ~!!

blogって、毎日更新することが何より重要なんですね~

‘気まま猫’なので、なかなかそうもいかないのですが・・
宜しければ、これからもどうぞご贔屓に
      

さて・・
二階堂川に架かる「通玄橋」を渡り、緩やかに上って行くと
しっとりとした山の気に、全身が包まれるような気がしてきます。

やがて、の寺「瑞泉寺」。
参道は、はらはらとピンクの花吹雪。 あれ、梅はもう・・?
       


ご本堂に至る緩やかな石段。
この雰囲気が好きなので、ゆっくり上っていきましょう。







錦屏山 瑞泉寺

臨済宗のお寺。 

     創建: 1327(嘉禄2)年
開山: 夢窓疎石
       開基: 二階堂貞藤(
道蘊)
   本尊: 釈迦如来像
鎌倉後期の御家人 二階堂氏によって創建され、その後
夢窓疎石に帰依した足利尊氏が「瑞泉寺」と改称しました。
梅や水仙など「花の寺」として、また岩の庭園も有名ですね。



よかった☆ 梅はまだ見られました。

黄梅も、少しは残っていて・・

江戸時代から知られ、花弁がやや退化した花姿。
牧野博士により「黄梅」と命名されたそうです。
鎌倉市の天然記念物に指定されています。

此処の梅こそ、「木を見よ」の古木がたくさん! 
幹に生えたコケも趣を添えています。
      



楽しみは梅の花だけではありません☆



      


小路歩きをつないで「瑞泉寺」まで。
おつきあいくださって、ありがとうございました!



4月のような陽気に誘われて、今回もよく歩きました☆
18,950歩



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二階堂小路

2011-02-27 | 鎌倉・逗子・葉山


鶴岡八幡宮の前を横切る「横大路」を東へ向かって進み、
「岐(わ)かれ道」を100mほど過ぎた所に、石碑があります。

関取場址
      
石碑の横に、市内の小学校の歴史委員による可愛い文字の説明書き。

それによると;
1548(天文17)年 北条氏康が荏柄天神社殿修復の為、此処に関所を設け
通行税を徴収した場所で、「関取場」と呼ばれました。天神社に現存する
掟書には「商人の麻・紙・布などの荷物は3文、馬で参拝する者には10文、
通行のみの僧侶・庶民・里民からは関銭を取らない」と記されているとか。


此処から「永(よう)福寺」への参詣道は「二階堂大路」と呼ばれました。
当時は、「大路」と呼ぶに相応しい広い道だったのでしょうね。
では、ここから「小路」歩きスタートです!



左にマンションを見ながら、小路へ入って行くと
やがて、右側には見上げんばかりに見事なサンゴジュの生垣
      
水分を多く含む常緑樹で、防火の役目も果たしているのでしょうね。



左手に鳥居を見ながら、荏柄天神の参道を突っ切ります。
(余談ですが・・天神社に寄り道して、先日撮り洩らした
「かっぱ筆塚」を撮ったので、UPしておきました)

生垣と竹林に包まれた、広いお屋敷が続いています。



「覚園寺川」沿いの道になりました。 
四つ角を左へ行くと「鎌倉宮」、
右へ行くと「杉本寺」へ。

 四つ角の左側は、ウバメガシの生垣のお屋敷。
立派な屋敷林ですね~☆



この辺りは、大きくて閑静なお屋敷が並んでいます。
いろいろな垣根や塀をウォッチングしながら歩けて、楽しい道デス♪

御簾垣


ひときわ目を引く凝った竹垣!






板塀もバラエティに富み、それぞれ個性がありますね☆










道が山に突き当たった所に、長~い石段。 
柵があって上っていくことはできませんが・・
そのすぐ近くに、石碑があります。

護良親王陵」              「理智光寺址」碑
     

「理智光寺」は、願行上人が創建した真言宗のお寺でした。
建武中興の立役者 護良親王の陵墓を守ってきましたが
明治初年に廃寺となりました。



山沿いに左の方へ歩いて「理智光寺橋」を渡ると

(よう)福寺旧蹟」碑


「永福寺」は、源頼朝が奥州攻めの戦没者慰霊のため、1192(建久3)年に
平泉の大長寿院を模して建立したお寺で、二階大堂を中心として
阿弥陀堂や薬師堂が並ぶ荘厳華麗な大寺でした。 池に船を浮かべて
歌舞音曲の宴を催すなど、幕府の賓客をもてなす場でもあったようです。


「二階堂大路」の名は、永福寺の二階大堂がその由来とか。

鎌倉市は、1967(昭和42)年度から土地買収をおこない
今後は史跡公園とするべく整備を進めているとのことでした。


永福寺跡に沿って左へ行くと、紅葉の名所「獅子舞ヶ谷」、
真直ぐ行って「通玄橋」を渡ると、紅葉ヶ谷の「瑞泉寺」です。

瑞泉寺の梅はまだ咲いているかな?
久しぶりに、ちょっと行ってみることにしましょう!

(続)



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鎌倉・宇津宮辻子

2011-02-26 | 鎌倉・逗子・葉山


大巧寺さんに近い「鎌倉雪ノ下教会」の裏道を歩いています。



若宮大路と並行するこの小路(辻子)は、友人が教えてくれました。
地元の人々が日常行き来する道のようです。


「宇津宮」の名称は、鎌倉幕府の評定衆(幕府重臣)であった
宇津宮朝綱の屋敷がこの辺りにあったことに由来するそうです。
宇津宮氏は藤原道兼の直系で、下野(栃木)の守護職の家柄。
北条氏とは姻戚関係にあり、政争に巻き込まれ失脚したとか。


宇津宮稲荷大明神

創建: 1225(嘉禄元)年
宇津宮氏の屋敷神だったというお稲荷さん。江戸時代以降
家内安全・商売繁盛の地域の守り神として信仰されてきました。


きれいな四つ目垣ですね☆



少し先には、手入れの行き届いた黒竹の生垣☆
    



「清川病院」裏を過ぎて更に行くと、黒板の大和塀が続きます。

佛次郎氏邸

邸内は、只今メンテナンス中のようです。
桜の頃に、お庭を見学したことがありました。

道の反対側のお宅の塀も



美しいカーブを描く大佛邸の塀に沿って行くと、その先に

若宮大路幕府址」碑


将軍御所は尼将軍北条政子の死去により、4代将軍藤原(九条)頼経に
よって大蔵からこの辺りに移されたようです。以降 1333(元弘3)年の
鎌倉幕府崩壊まで、6代にわたり将軍(傀儡)の御所でした。



横大路(R204)を渡り、更に真直ぐ進むと左手に朱塗りのお社。

築山稲荷社

鶴岡八幡宮境内の東南隅に置かれた稲荷社。
八幡宮の四方に夫々あるそうですが、気づきませんでした・・
江戸時代末期の建立とか。


長い竹穂垣の中は、八幡宮の牡丹苑の辺り?



やがて竹垣になりました。 
ケヤキやエノキが並んで枝を広げています。



道の突き当たり、左側に八幡宮流鏑馬道東の赤い鳥居。
右側の角には、石碑があります。

畠山重忠邸址」碑

畠山重忠は、初め平氏方として源頼朝を攻めましたが
のちに源氏方となり、鎌倉幕府設立に貢献しました。
あのひよどり越えで、馬を担いで下りたという逸話の武将ですね。


宇津宮辻子(ずし)歩きは、ここまで。
あと、もう少し先まで歩けそうです~♪

(続)


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鎌倉・大巧寺

2011-02-25 | 鎌倉・逗子・葉山


久しぶりに、「大巧(だいぎょう)寺=おんめさま」に来てみました。
よく手入れされた境内は、いつ来ても綺麗な花が迎えてくれます。


若宮大路に面した朱塗りの門から、いつも入るのですが
本来は、反対のこちら側が正面なのでしょうね。



境内には今、いろいろな椿が花盛りです。

      


名札の付いているのもあります。

これは「ロゼ・フローラ」
まだ咲き始めのようです。蕾がいっぱい!



「緋縮緬」
姿も色も、とても美しい椿です☆
      


「銀閣寺」
端整な、いかにも椿らしい一重咲き。



鮮やかな黄色は、春を呼ぶ福寿草♪



今日は、関東地方に春一番が吹いたようですね。
春は、もうそこまで!

この暖かな陽気につられて・・
これから「鎌倉小路歩き」に出かけてみようと思います!


(続)



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久地梅林公園

2011-02-24 | 東京・川崎


教えて貰ったとおりに「新平瀬橋」でR9を横断し、すぐ先で
左の道へ入って行くと、右側に開放的な明るい雰囲気の公園。

久地梅林公園


「梅林」という名から、梅の古木がたくさんある公園を想像しましたが
子供が駆け回るのにちょうどいい位の広場の周りに、小ぶりの木が
20本ほど。 整備されてまだ日が浅い公園なのかもしれません。




「藤牡丹枝垂」という、欲張った(笑)名の枝垂れ梅
     


「玉光枝垂」                 「青軸枝垂」
     


「十郎」                   「鹿児島紅」
            


白~ピンクに染め分けの「思いのまま」


     


嘗てこの辺りにあった梅林が梅の名所として有名で、近郷近在から
多くの人が梅見に訪れ、屋台も出るにぎわいだったそうです。



「北原白秋歌碑」

白秋が世田谷・砧に住んでいた頃、与謝野鉄幹の還暦祝賀会に
梅を題材にした歌を持ち寄ることになり、 白秋はその朝 此処で
詠んだ9首を贈ったといわれ、その中の1首が刻まれています。

「 君がため 未明(まだき)に起きて 梅のはな 見に来りけり まさやけき花 」


公園の向かいにある大きな長屋門は、「梅屋敷」と
呼ばれている所で、敷地内にたくさんの梅の木☆


梅の名所‘だった’公園だけでなく、この付近一帯の
あちらこちらで綺麗に咲いた梅をたくさん見かけました。






そういえば、ここ高津区の花は「梅」なんだそうですよ。


15,547歩


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川崎・久地円筒分水

2011-02-23 | 東京・川崎


東急線「武蔵溝ノ口」駅を出ると、活気のある商店街。
さーて、どっちに行ってみようかな~?



ごちゃごちゃして分かりにくい所を、テキトーに歩いて
「大山街道」と書かれた道を進んで行くと、小さな石橋が・・

大石橋
     
傍らの説明板によると;
徳川幕府の命を受けた小泉次太夫が、14年に及ぶ難事業で完成した
二ヶ領用水は、川崎のほぼ全域に当たる稲毛・川崎の二ヶ領に通じ、
その本流がここ大石橋で大山街道と交わっています。

そうか~
この流れが「二ヶ領用水」と呼ばれる用水路なんですね。
では、この流れに沿ってちょっと歩いてみることにしましょう☆


時々車が通るけれど、遊歩道もあるし歩きやすい道です。
両岸は枝垂桜の並木。 桜の頃は人で賑わうのだろうな~




看板を発見!

「円筒分水」? 
有形文化財とあります。どんなものかな・・
赤いで力強いアピール。 見に行ってみましょう☆



用水路に沿って歩き、広いバス道に架かる歩道橋を渡った先に
金網に囲われた噴水池のような施設がありました。

久地(くじ)円筒分水

現・高津区のほぼ全域は、多摩川の扇状地で肥沃な土地柄から
昭和初めごろまで稲作を初めとする農業が盛んな地域でした。

説明板によると;
徳川幕府により、1597(慶長2)年~1611(慶長16)年の歳月をかけた
二ヶ領用水が完成すると、米の収穫量は飛躍的に増加しましたが
反面、水をめぐる争いが絶えませんでした。 その後川崎宿の名主
田中休愚が荒れた用水を甦らせ、水争いの解消を図るために
決まった水量に分ける施設として「久地分水樋」を造りました。

現在の施設は、1941(昭和16)年 平賀栄治氏の設計で完成。


多摩川から取水された水をトンネル水路で導き、中央の円筒形の
噴出口からサイフォンの原理で、流水を放射状に均等に吹上げさせ
正確公平な分水比で4方向に分配する構造になっています。
1998(平成10)年に、国登録有形文化財になりました。



思いがけなく、おもしろいものが見られました☆


ベンチにいた人が、この先に梅の名所があると教えてくれました。
やったぁ、‘猫’も歩けばに当たる~

(続)



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風に向かって

2011-02-22 | 散策


今日も強い向かい風・・でも、負けずに歩くぞー
海岸沿いはキツそうなので、遠回りだけどくねくね裏道を。



どこからか良い香り~♪
ジンチョウゲの生垣なんて、いいなぁ☆

裏道には、こういう楽しさがあるんですよね。



「岩船地蔵」
    
貝殻の首飾り(?)を掛け、船型の台座に安置されたお地蔵さま。
漁師さんや地元の人たちに大切にされているのでしょう。


海に向かって建つお寺は

劫山 法蔵院 阿弥陀寺

浄土宗のお寺です。

由緒書きによると;
天台宗のお寺として元久年間(1204~1206年)に明円上人によって
創建され、北条経時の鎌倉・光明寺創建に伴い浄土宗となりました。
安房・里見氏が三浦半島に攻め入り、一帯が戦場となって焼失。
その後、北条氏が学問所として本堂を再建しました。
江戸時代には、相当の寺格・寺勢を誇ったようです。


山門の龍


山門は、嘉永年間(1848~1854年) 光明寺の山門改築の際に譲り受けました。
当時からある木彫は、左甚五郎の手になるものといわれています。

この龍は海が時化(しけ)の夜、房総へ海を渡るという
伝説があり、そのため左目に五寸釘が打たれたと伝わります。



ご本堂

火災や関東大震災などによって幾度か改築されたようです。




どうやら三浦市に入ってきましたね。

所々置かれた無人野菜販売スタンドを覗きながら・・
大体何でも1個(1袋)が¥100也。
     

本日GETの新鮮野菜☆

只今売り出し中の「味いちばん」という大根は
甘味があって、サラダや浅漬けにして頂きます。



大きな長屋門のある家もありました。



最近、垣根ウォッチングにハマっています(笑)
     



海防陣屋跡

1847(弘化4)年 徳川幕府が異国船の渡来に怯え、急ぎ
江戸湾防備に着手した頃、三浦半島警備の命を受けた
井伊掃部頭直弼が、此処に軍政の本拠を置きました。
当時の総面積は9,780坪(32,274㎡) 建物37棟とか。 

1853(嘉永6)年に長州藩に交代、桂小五郎(21歳頃)や
伊藤俊輔(博文・16歳頃)も此処に勤めていたそうです。

現在は、三浦市の活動センターになっているようです。



買った野菜を持って、エッチラオッチラ
今度は、ルートを考えてから買おうよね・・

18,098歩



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三浦の河津桜

2011-02-21 | 花散歩


今日は冷たい風が吹いて寒かったですね。
あまり人はいないだろうな~と思いつつ、行ってみると・・



なんの、なんの、
駅前から、いっぱいの人!

今年は、テントのお店が駅前に並んでいますね。



結局、今年もぞろぞろ行列して・・・


     

すっかり見応えのある桜並木になりました☆


「小松が池」にも行ってみました。








青空が見えなくて残念だけど・・・花はばっちり!
キレイでした~

去年の様子


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2011年の椿 3

2011-02-20 | 花散歩


「はなの国」の椿たち、その第3弾。


「花富貴」

明るい桃紅色の、ステキな八重咲き中輪種。


「初瀬山」                   「絵日傘」
     
「初瀬山」は淡紅色、「絵日傘」は白地でどちらも濃い紅色縦絞り模様。


「春曙光(しゅんしょこう)」
     
夢見るような桃色の、半八重咲き中輪種。


「式部」                    「黒龍」
          
個性的な唐子咲きの中輪種。 「黒龍」は八重咲きで黒味がかっています。
 

「風折(かざおれ)」             「遠房(とおぶさ)」
     
「風折」は大輪一重咲き。 先日の雪で花びらが傷んで・・
「遠房」は大輪の八重咲きで、牡丹の花のようにあでやか。


「桜葉源氏椿」

葉の縁に、桜の葉のようなギザギザがあります。


「中部白鶴」                 「白玉絞り」
     
「中部白鶴」は、本来はふっくらした大輪の花ですが・・
「白玉絞り」も大輪種で、白色地や紅色地やいろいろ。


「百路」
     
桃色地に紅色の斑模様が入った、中輪種の八重咲き。


「スプリング・ソネット」
     
中心の白から、外へ向かって次第にピンクのグラデーション。
半八重咲きの海外系品種です。


ほかにもたくさん咲いていたのですが、痛んだ花が多くて・・・
自然の厳しさというものでしょう。

けなげに咲いている椿たちに



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足跡

2011-02-19 | 散策


やっとが顔を見せてくれました。 


ポカポカ陽射しに誘われて、今日は海岸の散歩コース☆



ハイ、廻れ右!
砂浜に残る自分の足跡を見て・・

歩き方チェック(笑)

オバサン歩きになっていないかな。 
ちゃんと蹴り出してる? 歩幅は
? 

海辺で、自分の足跡をしげしげと見つめる 
ヘンなおばさん・・




公園のアイスチューリップが笑ってます



散歩の友は、ジョウビタキ・・・かな



今日は、目標歩数達成できました~

15,273歩

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雨上がりの散歩道

2011-02-18 | 散策


ゆうべからの雨は上がりました。
今日は、友達と山登りの約束があったのですが・・
ズルズル道で転びたくないので、やむなく・・・
 

ということで、ちょっと軽~くお散歩。



いつもの里山道は



白梅が満開☆



早咲きの桜もこんなに!






陽射しはないけれど、寒くはないですね。
きのうの雨のお蔭でしょう。 

今日の里山は、木々の葉も艶々と光って
温かみのある春の気が感じられます。









かなり軽めの散歩で・・
6, 
492歩


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藤沢・常立寺の枝垂れ梅

2011-02-16 | 花散歩


この時期になると、決まって訪れたくなるお寺があります。
今年も、そろそろかな~?と狙いを定めて・・・



山門までの参道も梅の香り♪



龍口山 常立(じょうりゅう)

日蓮宗のお寺です。
創建・開基: 不明
以前「江ノ島道」を歩いた際、此処をご紹介したことがありましたね。


ここを訪ねる目的は、境内にあるみごとな紅白の枝垂れ梅☆
ちょうど見頃のようです



     





もともと当山は、ここ龍ノ口で処刑された罪人を弔う為のお寺でした。

蒙古軍が対馬・隠岐を襲い、博多湾に迫った「文永の役」の
翌年、降伏を求めて元の国史が来日した際、断固抗戦を決意した
執権 北条時宗は、この国使ら5名を龍ノ口において処刑しました。
その後 1281(弘安4)年、2度目の元寇「弘安の役」となる訳ですが・・

5名の使者は当山に埋葬され、供養の五輪塔5基が建立されました。


境内の左手に、お題目が刻まれた大きな石碑があります。
手前の香炉に「誰姿森」と並んで「元使塚」と刻まれています。

石碑の足元に、モンゴルでは英雄への敬意を表すという
青布が結びつけられた小さな五輪塔が5基、安置されています。
     
平成17年に朝青龍らモンゴル出身力士が参拝、以降 巡業(藤沢)の
たびにモンゴル出身力士の参拝が行われているそうですが、今年は・・・




数年前まではまだ「知る人ぞ知る」で、比較的静かでしたが
次々とたくさんの人が訪れる梅の名所になったようですね。



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起きてみたら・・

2011-02-15 | 散策


あれぇ、昨夜はあんなに降っていたのに・・・
ガッカリ~

何でも、3年ぶりの積雪だとか


ガレージの屋根には、まだ・・



でも、庭の方はすでに・・



どんどん融けてきた・・・




里山には、まだ残ってる所もあったけど・・





への影響はなかったようだから
ま、良かったのかな。
  
でも・・・・
期待した分、やっぱりちょっと残念~

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早春の浦賀街道2

2011-02-13 | 横須賀・三浦


嘗て「浦賀奉行所」があったという場所に行ってみましょう。



18世紀に入る頃から国内で生活物資の生産量が拡大し、
従来の関西方面からだけでなく、各地から江戸へ
大量の物資が入ってくるようになったので、江戸への
物品や人の出入を厳しく管理する為、1720(享保5)年に
下田から浦賀の地へ奉行所が移されてきました。

「浦賀奉行所」は、1720(享保5)年~1869(慶応4)年の約150年の
あいだ続き、この間に1人または2人の奉行 計54人が務めました。
奉行の下に与力・同心が配され、当初の与力10騎、同心50人から
のちにはその倍の人員が、船改め・海難救助・海防などのほか
警察・裁判所・地方役所としての任務に当たっていました。

復元図

規模は東西45間、南北40間。
周囲に堀をめぐらし、港に向かって正門がありました。
(説明板より)


浦賀奉行所跡


現在 其処にはみごとなほど何も無く、ただわずかに
敷地を囲んでいた堀の石垣と、正門前の石橋のみ・・



浦賀湾の入口に「船番所」があり、江戸に出入する船の
積荷などを厳しく検査する「船改め」を行っていました。

空模様が、
ますますアヤしくなってきましたね・・



このあと、「歴史資料館」へ寄ってみました。
当時の様子のジオラマや模型などが展示されていました。

通りには民家が軒を並べ、あちこちに蔵もたくさん!
     

奉行所


ペリーさんの黒船「サスケハナ号」

1850年進水 外輪式スチーム・スループ 木骨板 一部鉄材
総トン数 2,450t 排水量 3,824t 速力 12,5ノット
長さ 257ft(約78,4m) 幅 3,824ft(約13,7m) 
砲 16門 乗組員(平時)230人 (戦時)306人





「咸臨丸」

幕府が海軍創設のためオランダに発注した木造軍艦。
長さ 約48.8m 幅 約7.8m 砲 12門 3本マスト
日米修好条約批准交換使節随行艦として、我が国の
軍艦で初めて太平洋を渡りました。

「鳳凰丸」

外国からの技術指導もなく、造船書だけを頼りに
1854(嘉永7)年に建造された
初めての国産洋式軍艦。
長さ 20間(約36m) 幅 5間(約9m) 排水量 約600t 砲 10門



浦賀の町並みは、日本が海外へと目覚めた頃の熱気を
懐深くに秘めて、ひっそり静まりかえっているようでした。


やっぱり降りだしました・・・大急ぎで撤収~

19,651歩



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早春の浦賀街道1

2011-02-12 | 横須賀・三浦


やっと聞こえてきた春の足音も、昨日今日は少し足踏みですね。

今日も夕方から雨になるとの予報・・
空模様をにらみながら、少し歩いてきましょう!


JR「久里浜」駅のすぐ前を流れるのは「平作(ひらさく)川」。
駅前から500mほど下流に行ったところで、橋を渡ります。

夫婦(めおと)


1660(万治3)年~1668(寛文7)年に新田開発工事が行われました。
海に近く、海水の逆流を防ぐために造られた水門が橋の始まりで
当初は中央に中洲があり、2つの橋が架けられていたので、この名。

開発は難工事で、完成時 神仏の加護への感謝の
思いが刻まれた碑が橋の袂に建立されています。
(碑文は殆ど読めませんが・・)

内川新田開発記念碑




橋を渡ってほどなく
左手の細い路地を入ったところに、

真宝山 慶西(けいさい)院 宗円寺

浄土宗のお寺です。
 
 創建: 1549(天文18)年
開基: 臼井惣右衛門
本尊: 阿弥陀三尊像

境内左手の石造りの棚に、自然石が並んでいます。

「両面地蔵」

失明した武士が彫ったものだそうです。

後三年の役で、目に矢が刺さり失明した鎌倉権五郎が
来世の光明を願って石に地蔵を手彫りした故事に倣って
眼病平癒を祈願して像を刻み、奉納したのかもしれません。
     



バス道を、浦賀へ向かって歩いて行きます。

「浦賀道」は、江戸時代に幕府と浦賀奉行所を結ぶ重要路でした。

幕府が1800(寛政12)年に作成した測量図「浦賀道見取絵図」に
よると、東海道戸塚宿から鎌倉・葉山を通るルートと、保土ヶ谷宿
から金沢町屋を経て浦賀に到るという、2つのルートがありました。
 
武蔵・相模の国境(現・追浜)を過ぎると、峠越えや尾根道の難所が
続いた為、金沢からは陸路より早くて楽な海路も利用されたといいます。


幕末期 ペリーの黒船来航の際は、大勢の武士や見物人が
この浦賀道を通ったものと考えられています。


道の左側に石碑が2基。

浦賀道拓道碑
     
右の碑には、江戸末期に江戸で財を成した峯島茂兵衛という人が
1871(明治4)年に独力で久里浜坂を切り拓いた経緯が記されています。
左の碑には、関東大震災で倒壊した碑を1925(大正14)年に子孫の方が
祖先の追善に修復したと記されています。 横須賀市指定市民文化遺産。


干鰯をはじめ多くの物品を全国に売り捌いていた浦賀の町には
その繁栄を今に伝える蔵が、今でも15棟ほど残っています。
漆喰塗り土蔵(江戸末期)と、石蔵(幕末~明治)が混在しています。

石造りの蔵


こちらは土蔵
(保護のため、外側がトタン張りですが
) 
 



公孫樹の古木が迎えてくれるお寺がありました。
     

放光山 延寿院 常福寺

浄土宗のお寺です。 創建は文明年間(1469~1489)。
浦賀に奉行所が出来てからは、本陣(御田寺院)の役割を担い
奉行交代の儀式を執り行った場所でもあります。

ご本堂は藤沢・龍口寺本堂として中世末の建築で、その後
鎌倉・本覚寺に移築。 1922(大正11)年火災で本堂を
焼失していた当山へ移築されたものだそうです。 

墓地には奉行所与力の墓や、洗濯屋(遊女屋)を廃業して
遊女達を解放したのち出家した江戸屋半五郎の墓があります。

「本堂内脇厨子」
(市指定重要文化財)
     
禅宗様式を踏襲したもので、右が室町末期の様式(市内最古)、
左が近世初期の造立と考えられています。 (説明板より)



旧街道に沿って、またお寺があります。

延命山 東福寺

曹洞宗のお寺。
幕府から御朱印地2石を賜り、歴代の浦賀奉行が
就任すると必ず参拝に訪れたという、格式あるお寺です。
三浦33観音第13番札所になっています。

ご本堂正面欄間の色鏝絵を、以前ご紹介したことがありましたね。


ご本堂裏手の墓地から、浦賀湾が一望☆


時々が出てきました。
もう少し歩いても、大丈夫そうですね♪

(続)



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