仕事の帰りに、ちょっと寄り道をして・・・
小石川後楽園は
1629(寛永6)年 水戸藩主徳川頼房公が江戸の中屋敷として造営し、
2代光圀公の代に完成した庭園で、白壁に囲まれ瓦に葵の御紋付き。
園内には大勢の人達がを手に、散策を楽しんでいました。
「蓬莱島」が浮かぶ大泉水を中心とした回遊式築山泉水庭は
が見頃を迎え、ひときわ華やかに彩られています。
園内を、ひと巡りしてみましょう☆
「小蘆山」
「大堰(おおい)川」
「得仁堂」
光圀公18歳の時、史記「伯夷列伝」に感銘を受けて
伯夷・叔斉の木像を祀った、園内最古のお堂です。
堂名は論語の中にある言葉が由来となっています。
「丸屋」
昔の田舎茶屋の佇まいを再現したあずまや。 1966年に
再建されたものです。 丸みを帯びた茅葺屋根がおもしろい。
「円月橋」
明の儒学者 朱舜水の設計といわれる石橋で、水面に映る
形が満月のようなので、この名称がつけられました。
現在は補強が施されていて、渡ることはできません。
「八卦堂跡」
光圀公が将軍家光公より賜った文昌星像を安置したお堂跡です。
園内の多くの建物と同様に、関東大震災で焼失してしまいました。
「九八(くはち)屋」
江戸時代の酒亭を再現した建物です。1959年再建。
名前の由来は、「酒を飲むに昼は九分、夜は八分にすべし」と
酒飲みならず、万事控えめにすべしという教訓からだとか。
「内庭」
書院があった場所です。 昔は唐門(焼失)によって仕切られた
後園として大泉水とは分けられていました。 後方は東京ドーム。
現在は閉鎖されている「正門」
梅林・枝垂桜・花菖蒲田・稲田と、季節ごとに違った趣が楽しめる庭園は
国の特別史跡・特別名勝に指定されている都心の景勝地です。
鎌倉も綺麗に紅葉してきました。
休日・平日に関わらず、大勢の観光客が訪れています。
長寿寺は、JR「北鎌倉」駅から亀ヶ谷坂切通しに入る角にあるお寺です。
2008年の春から季節・曜日限定で拝観できるようになりました。
(春季4・5・6月と秋季10・11月の金・土・日及び祝日)
‘猫’も幾度も門前を通っていますが、拝観は今回が初めて☆
「宝亀山 長寿寺」
臨済宗のお寺
創建: 1136(建武3)年
開山: 古先印元禅師
開基: 足利尊氏
説明板によると;
足利尊氏が邸跡に創建し、諸山第一位の列に定めたとあります。
1358(延文3)年に京都にて54歳で亡くなった足利尊氏の菩提を
弔うため、第4子基氏により七堂伽藍が建立されたといわれます。
改築成ってまだ新しい本堂に上がって参拝することができました。
正面にご本尊の釈迦如来像、左脇に古先印元禅師像(室町期の作)
右脇に衣冠束帯姿の足利尊氏像が安置されています。
苔庭の中に、茅葺屋根と連子格子が美しい三間四方の「観音堂」
奈良の忍辱山(にんにくせん) 円成(えんじょう)寺にあった多宝塔
(室町後期の建築)を、大正時代に移築、改造したものだとか。
祀られている聖観音立像は、小鳥を手にした優美なお姿です。
観音堂右手から奥へ石段を上ると、やぐらの中に
「足利尊氏墓」
宝筐印塔の下には、遺髪が納められているそうです。
本堂から続く書院・小方丈には緋毛氈が敷かれていて、苔の緑と
最盛期の紅葉のコントラストが美しいお庭を鑑賞することができます。
手入れの行き届いたお庭は広がりがあって、お薄でも頂きながら
ゆっくり鑑賞したいところですが、何しろたくさんの人が訪れていて
人の列が途切れるのを待って、写真を撮るのがやっとでした・・
自分もその列の1人ですし、この時期の鎌倉では仕方ないですね。
春には、ボタン・ツツジ・シャガなどの花が見られるようです。
R207を海に向かって歩き、森戸神社に着きました。
「森戸神社」
ご祭神: 大山祇命 事代主命
もと葉山の総鎮守。
天下を掌握した源頼朝が、自ら信奉する三嶋神社の
分霊を、この地に勧請したことに始まると伝わります。
「東京青山 石工 中村勝三郎」と作者名が刻まれた狛犬さん。
1907(明治40)年の建立。 躍動感のある立派な狛犬さんです。
神社からの景観は、県下有数といわれる美しい眺め。昔から
「森戸の夕照」として「かながわの景勝50選にも選ばれています。
今日は富士山に嫌われてしまいましたねぇ~
「裕次郎像と裕次郎燈台」
デビュー映画「狂った果実」の主題歌の一節が刻まれています。
赤い鳥居があるのは「名島」
「千貫松」
源頼朝が三浦の衣笠城に向かう途中、この地で休息した際に岩上の松を見て
「如何にも珍しき松」と褒めると、出迎えた三浦党の和田義盛が「我らはこれを
千貫の値ありとして、千貫松と呼びて候」と答えたと伝えられています。
現在の松は、きっと何代目かなのでしょうね。
「みそぎ橋」
神社から海辺へ通じる朱塗りの橋。
嘗て海辺で盛んに‘みそぎ’が行われたとか。
みそぎ橋を渡ると、葉山の海と砂浜が広がっています。
森戸神社をあとに、R207を北へ向かって歩きます。
「脇町の庚申塔」
道標付きの庚申塔が、2列目中央に安置されています。
右側に「右みさきみち」、左側に「左うらがみち」とあります。
三崎街道と浦賀道の分岐にあったものを移設したようです。
「龍円山 清浄寺」
浄土宗のお寺です。
創建: 1541(天文10)年
ご本尊: 阿弥陀三尊像
像は衣紋の形式などから、室町前期の作と推察されています。
拝殿内外に、精緻な木彫が施されています。
鮮やかな彩色の格天井
その先の右手、長い石段の上のお社は
「諏訪神社」
創建年代は不詳ですが、江戸時代には祀られてあったようです。
漁業が盛んなこの辺りで漁師の守り神として信仰されたのでしょう。
社前の狛犬さんはちょっとユニークでユーモラス☆
狛犬というより・・‘狛猿’?
海岸沿いを歩くうちに、葉山町から逗子市に入ってきました。
「旗立山」
鉄製階段を上り更に細い坂道を上っていくと、頂上に広場があります。
1180(治承4)年 源頼朝の挙兵に呼応した三浦党が小浜から出港、
帰路 由比ガ浜で畠山軍と小競り合いのとき、旗を立てて気勢を
あげたところからこの名がついたとか。 「軍見山」ともいうそうです。
海を見下ろす広場の片角に小さな塚があります。
「伊東祐親供養塚」
伊東祐親は、源平富士川の合戦で捕らえられましたが
娘婿の三浦義澄の助命嘆願で死を免れ、数年を葉山で
過ごしたのち、此処で自刃したと伝えられています。
伝「六代御前の墓」を見学したあと、JR「逗子」駅に
向かう途中の「清水橋」の傍に
「三浦胤義遺孤碑」
1221(承久3)年 後鳥羽上皇が鎌倉執権北条義時討伐の兵を
あげた「承久の乱」で兄三浦義村は北条方に、弟三浦胤義は
上皇方に分かれて戦いましたが、上皇方が破れ胤義は死亡。
5人の男児のうち4人がここ田越川原で斬られてしまいました。
1225(嘉禄元)年 北条泰時が三浦義村と共に此処を訪れ、
84,000基の石塔を建立して菩提を弔ったといいます。
現在はその跡かたも無く、1923(大正12)年に建立された
石碑が空き地に残っているのみとなっています。
15,334歩
ボランティア・ガイドさんの案内で、
葉山の鎌倉道に残る庚申塔などを見て歩きました。
R27「滝の坂」というバス停から、西へ向かってスタートです。
バス停から旧道へ下りてまもなく、道の右側に
「唐木作庚申塔」
1672(寛文12)年の造立。
「帝釈天塔」と刻まれているのに、青面金剛像で
あるところが珍しいのだそうです。
少し先を右へ上がった所に、石の鳥居と細い石段。
「吾妻神社」
別名は「滝の坂不動」
ご祭神: 日本武尊
日本武尊が東征の途次、此処で休息して湧き出る
霊水で喉を潤したという伝説が伝わっています。
現在も、石段下の湧水は飲むことが出来るそうです。
また毎年、お社横にある井戸(画像右)から汲み上げた霊水に
麦麹を加え、一年後にそれを検して吉凶を占う「世計り神事」が
一色地区にある森山神社で、今も行われているそうです。
因みにその占いで、今年は天候不順と出ていたとか!
来年は・・好転するようですよ♪
R27に沿って旧道を歩いて行きます。
普段車で通る道と違い、見えるものも新鮮に感じますね~
住宅の屋根越しに、葉山の海が見えています。
早朝降っていた雨はすっかりあがり、明るくなってきました。
古道の右側に、庚申塔群がありました。
「一色前田の庚申塔」
邪鬼を踏みつけている一面六臂の青面金剛像は、浦賀道を行く
旅人や牛馬を見守ってきたのでしょう。 1773(安永2)年の造立。
首を横に向けた像がありました。 とても珍しいですね。
この辺りには子産石や馬頭観音もあり、道中の賑わいが窺えます。
一旦 国道に出て、一色小学校前から再び旧道に入ります。
「夜泣石脇の庚申塔」
画像左の2体と同様の地蔵像が、あと4体並んでいます。
この六地蔵、いずれもお首がありません。縁起かつぎに
賭場に持ち込まれたのではないかと言われています。
これが「夜泣石」
夜泣きする子供を連れてお参りすると、泣き止んだとか。
石にも縋りたい気持ち・・ワカルわぁ!
「平松地蔵堂脇の庚申塔」
彫りのしっかりした、保存状態の大変よい庚申塔群です。
「元禄」「元文」などの文字が刻まれてあります。
「平松地蔵尊」
嘗ては、浦賀道の傍の塚上に根上がり松があり
枝が地面に届くほど垂れた見事な大木だったようです。
古松の幹から造られたという30cmほどの地蔵像が、お堂の
中に祀られています。 滝沢馬琴の『玄同放言』によれば、
病気が治ると江戸から詣でる人も多かったそうです。
「葉山消防署前」に出てR134 を暫く歩き、右に入ったところに
「子守地蔵尊と庚申塔」
地蔵像は、放置されていたのを里人が掘り起こして祀ったのだとか。
その左側の地蔵菩薩塔には、「右うら賀 左やま?」と刻まれています。
道中安全と道標を兼ねたものと思われます。 1831(天保2)年造立。
葉山町では町をあげて、こうした石塔などの保存に力を
入れているようで、多くが市指定重要文化財になっています。
歴史文化への意識の高さがうかがえますね・・(羨)
「向原」交差点からR207に入り、「木の下」交差点の少し先に
「白田山 長徳寺」
南北朝時代 南山士雲の開創と伝わる臨済宗のお寺です。
ご本尊の毘沙門天像は行基作で、三浦義澄の守り本尊といわれます。
三浦市慈雲寺の毘沙門堂から盗人が持ち出したものの、あまりの
重さに耐えかねて置き去りにしたものだという伝説があるとか。
このあと、森戸川に架かる亀井戸橋を渡って
海の傍にある「森戸神社」へと向かいます。
(続)
日曜日のちょうどお昼頃のこと
散歩から帰る道々、何やら頭上が騒がしいなぁ・・
と
曇り空を見上げてみると・・・何、あれ・・?
大変! 煙出てるし~ 事故?
いや、廻ってる・・ノカナ?
突然のことで、いや~ビックリした~
後で聞いたら、防衛大学校の開校記念祭で、航空自衛隊の
ブルーインパルスによるアクロバット飛行が披露されたのだそうです。
慌ててを出して撮ったので・・・
実際は、ホントにかっこよかったです!!
北関東の紅葉といえば、此処は外せませんよね!
久慈郡大子町(だいごまち)の「袋田の滝」は、久慈川支流の滝川上流にあり
四段になって岩肌を流れ落ちるところから、「四度の滝」とも呼ばれています。
紅葉の最盛期とあって、駐車場からこの人波
沿道の土産物店には、色とりどりのこんにゃくや鮎の塩焼き・
団子・きのこ類など名物が並んで誘惑しますが
まずは滝、滝!(笑)
行列は、展望台へと続く観瀑トンネル入口(画像の右上)まで途切れません。
1979(昭和54)年に完成した、長さ 276m 高さ3m 幅4mのトンネルの
先に第1展望台、更にその奥のエレベーターで、2008(平成20)年に
新しく完成した第2展望台へと上がることができます。
トンネル内も人・人・人・・
第2展望台へのエレベーターは2台あるようですが、それにも長い列。
なんと、「乗車15分待ち」ですって!
行列が大嫌いな‘猫’は、とてもそんなに待ってはいられませぬ・・
上がるのはやめて、第1展望台からゆっくり滝見物をすることにしました。
「袋田の滝」
全長 120m 幅 73mの優美な滝ですが、近くで見ると結構迫力があります。
華厳の滝(栃木) 那智の滝(和歌山)と並んで「日本三名瀑」と称され、
当然ながら、「日本の滝100選」にも選定されているそうです。
冬季の「氷瀑」も有名ですよね。
トンネルの途中から、右手に出たところに吊橋があります。
吊橋の上からも、滝が見られます。
滝の正面にあるのが、第1展望台の建物。
今日は、とても良いお天気でうれし~
次に向かったのは、車で20分ほどの常磐太田市にある
「竜神大吊橋」
1994(平成6)年に造られた、有料の観光用歩行者専用吊橋です。
トラスト補剛形式を採用し、全長 375m 幅 3m
湖面からの高さは、約100m
見下ろすと、竜神川を堰き止めて造られた「竜神ダム」
ダム建設によりできた「竜神湖」
その名のように、この付近の里には竜神伝説が伝えられているそうです。
ホントに竜神が棲んでいそうな雰囲気がありました・・
吊橋を往復するだけにもかかわらず、ここも大勢の観光客でした。
きっと、紅葉が人々を惹きつけるのでしょう☆
今年の初紅葉は、高萩市の花貫(はなぬき)渓谷です。
花貫川沿いに続く渓谷は、ちょうど紅葉の真っ盛り
渓谷に沿って、2時間ほどの紅葉狩りを楽しみました。
「名馬里(なめり)ヶ淵の伝説」
昔 この川下にある家の雌馬が、いつもこの辺りへ遊びに来ていました。
やがてこの馬が子馬を産むと、不思議なことに子馬は棒の上に寝ていたり
木に登って遊んだりしました。村人達は驚き、子馬はこの淵に住む大蛇の
子に違いないと、淵に沈めてしまいました。 すると俄かに空が暗くなり、
激しい風雨が続いて大洪水となり、村は流されてしまったそうな。
渓谷の途中に、長さ60mの吊橋が架かっています。
「汐見滝吊橋」
揺れる吊橋の上から見下ろすと
「汐見滝」
時折 小雨のぱらつくお天気でしたが、濡れて
色を増した紅葉もまた、溜息を誘う美しさ
紅葉は綺麗でしたが、人も車も多かったです・・(笑)
昨年は13万人余も押し寄せたとか。 今年は、さて・・?
JR「辻堂」駅に降りてみました。
北口駅前は現在、大規模な再開発工事の真っ最中。
どんな街に生まれ変わるのでしょうね。
辻堂駅から東海道線の線路沿いに、ぶらぶらと藤沢駅の方へ歩いて行くと
藤沢市のほぼ中央を南北に貫いている「引地川」に行き当たります。
今日は此処で左折し、川岸を北へ遡って行ってみようと思います。
さて、どの辺りまで歩けるかな?
川沿いは遊歩道になっていて、時折 散歩中の人と行き逢ったりします。
「こんにちは~!」
R1のガードをくぐった先の、左岸にある「柏山公園」の中に
赤い鳥居と、「弁天橋」と書かれた赤い橋。
「厳島千人力弁天社」
1158(保元3)年 大庭景親が大庭城の濠に水を引き込むために
引地川を堰き止める水門を造った場所に水神を祀ったのが
「柏山神社」で、景親が厳島神社を勧請したと伝えられます。
竜神のお告げにより、女人千人で弁天社を建てたとか。
やがて両岸には田畑が広がり、右手奥には緑深い森も見えてきます。
右側の金網に囲われた球技場で、大勢の子供達が野球の練習中。
そのまま進んで行くとまもなく、川に沿って広い芝生の細長い公園。
「引地川親水公園」
旧建設省の「ふるさとの川モデル事業」の指定を受け、
良好な水辺空間の形成を図る目的で整備された公園です。
(藤沢市HPより)
ガマなどの湿生植物が植えられた水辺や芝生の丘があったり
藤棚やあずまや、子供達のための遊具などがあります。
公園隣の山際に、石の鳥居が見えました。
「大庭神社旧跡」
「台谷戸熊野神社」 「大庭権現」、地元では「熊野権現」とも呼ばれているとか。
鳥居の傍らの説明板には、ここが江戸時代に定められた延喜式内社である
大庭神社と書かれていますが、ほかにも諸説あって定かではないようです。
鳥居をくぐり、長い石段を上って行くと
鬱蒼とした木立に囲まれて、鐘楼と社殿。
可愛い子供達が、七五三のお参りに来ていました。
石段を下りて、公園の先で引地川に架かる「天神橋」を渡ります。
欄干には、相撲を取る蛙達のユーモラスな像。
交通量の多いR43 の大通りに出ると、交差点の角に
「舟地蔵」
説明板によると;
台座が舟型になっているところから、舟地蔵と呼ばれています。
その昔 北条早雲が大庭城を攻めたとき、付近一帯が沼地で
なかなか攻め入ることができませんでした。北条方は、沼近くに
住む老婆から引地川の堤を切れば沼は干上がることを聞き出し
ましたが、秘密漏れを防ぐため老婆を切り殺してしまいました。
その結果、北条方は漸く城を攻め落とすことができたそうです。
舟地蔵は、殺された老婆を供養するために立てられました。
そろそろ日が傾いてきたので、今日はここまでとしましょう。
田んぼの道を歩いて、あとはJR「藤沢駅」まで。
31,198歩
(昨日の続き)
畑中の道を抜けると、急に視界が開けます。
目の前に、
「県立 おだわら諏訪の原公園」
市の北西部に位置し、2006(平成18)年に開園しました。
里山の自然や生活文化とのふれあいを通じて、遊びながら学び発見
する喜びを体験できる公園を目指して、まだ整備途上の県立公園です。
芝生が広がり、遊具も多少。 虫や鳥の観察ができる森もあります。
ファミリー・ピクニックには良さそうですね。
園内に鳥居が見えます。
「諏訪神社」
1782(天明2)年の造営と伝わっていますが、関東大震災で
倒壊したため、1926(大正15)年に再建されたものです。
ご祭神: 建御名方神 八坂刀売神
公園に隣接して、
「小田原フラワーガーデン」
園内では大温室のほか、バラや花菖蒲など季節の花々が楽しめます。
敷地の約半分を占めるという梅林は、花の時期には見応えありそう!
フラワーセンターを出て右に進み、市環境事業センター脇を通って
さらに右へ曲がると、あとは一本道のバス通りになります。
やがて道は二股になり、その分かれ目の所に
「阿育王山 総世寺」
曹洞宗小田原三山の一
創建: 1441(嘉吉元)年
開山: 安叟(あんそう)禅師
(小田原城主 大森頼明の子)
開基: 大森信濃守氏頼
(安叟禅師の甥)
1493(明応2)年 三浦一族の相続争いで、三浦同寸が一時
身を隠していたお寺だそうです。 また、1590(天正18)年
小田原戦役の際、豊臣軍司令官 豊臣秀次が陣を張ったとか。
山門近くの境内に、姿の美しい榧(カヤ)の大木
市指定天然記念物で、「かながわの名木100選」にも選ばれています。
樹高: 23m
胸高周囲: 5.3m
推定樹齢: 約250年
お寺の横のバス通りを少し歩いたその先の右側に
人が大勢出入りしている民家があります。
「ざる菊園」
鈴木さんという個人のお宅の庭で、丹精された‘ざる菊’を
無料で見せてくださっているのです。その数約1400株とか。
それはそれは「見事!」としか言いようがありません。
まあ、ご覧くださいな☆
何も説明は要りませんね。
この時期は連日多くの見物人がやって来て、それだけでも大変なのに
来る人来る人にお茶を出してくださったり、気さくにお話してくださったり・・
お花を愛する人はきっと、気持ちにもゆとりがおありになるのでしょう。
色とりどりの菊の花の美しさもさることながら、‘猫’はそのことに
いたく心を打たれたのでした 訪ねて良かったデス!
あとは、お宅前のバス停「ざる菊園前」からJR小田原駅まで。
19,894歩
数日前の新聞で、小田原の見事な‘ざる菊’の写真を見て
これはぜひとも一度見に行かなければ!と思い・・
どうせなら、周辺も少し散歩してみたいじゃない!と、web検索して
ヒットした「気まぐれハイキング」さんの記事を頼りに、出かけました。
小田原駅から伊豆箱根鉄道・大雄山線に乗り、「五百羅漢」駅で下車。
駅前のバス通りを右へ行き、すぐ右側にある踏切を渡ると
前方に、大きなお寺が見えてきます。
「天桂山 玉宝寺」
曹洞宗のお寺です。
1534(天文3)年 後北条氏家臣の垪和伊予守が、母堂追善のために
建立。 お寺の名称は、伊予守と母堂の法名に由来するといいます。
堂内には多数の木造羅漢像(立像36~60cm高、坐像 20cm余高))が
祀られており、市の重要文化財に指定されているそうです。
嘗ては「多古の五百羅漢」と呼ばれ、多くの参詣者が訪れたとか。
「五百羅漢」駅の駅名の由来となったお寺です。
お寺の門前から駅の裏側を通って、小田急線のガードをくぐり
左手の急な舗装の坂道を上って行きます。
所々に道標が立っているので、「久野古墳」の文字を確認しながら・・
坂を上りきって暫く行くと、
やがて、道の右側にこんもりした茂み。 案内板があります。
「久野1号古墳」
説明板によると;
久野諏訪ノ原丘陵には、「久野百家」「久野九十九(つくも)塚」と言われるほど
多くの古墳が点在していました。 その数は120基に及ぶと考えられています。
その中でも一際目を引くのがこの「久野1号古墳」で、直径60mと推定され
「百塚の王」とも称される県下最大級の円墳と言われています。足柄平野を
治めた首長の陵墓らしく、足柄平野を一望できるこの丘陵に築かれています。
以前は、4~5基の陪墳かと思われる小円墳が存在したと言われますが
現在は2基のみ残っています。 本格的な発掘調査は行われていませんが、
6世紀半ばまでには築かれていたものと考えられているようです。
道標に従って、右側にある細い土の道を入って行き
突き当りを左に進むと、まもなく広い舗装道路に出ます。
この諏訪ノ原丘陵一帯では、尾根筋を通る道路の敷設工事の際に
多くの縄文遺跡が発見されたそうです。 「久野一本松遺跡」のある
この辺りでも、10個の埋甕や80軒以上の住居跡が見つかったとか。
日当たりも良く、住みやすい場所だったのかもしれません。
(説明版にあった当時の様子の写真)
やがて右手に「久野2号古墳」の案内板。
どれがその古墳なのかは分かりませんが、2号古墳からは
太刀・玉類・耳環など優れた出土品があったそうです。
気持ちのいい丘陵の道です。
あいにく富士山は見えませんでしたが、ミカン畑の向こうには市街が、その先に
丹沢、反対側には箱根の山々。振り返れば相模湾の眺望を独り占め!
右側のフェンスの中に、2基の石塔。
「六塚供養碑」と読めます。
やがて道の両側に、さまざまな樹木が植えられているのが見られます。
植木の育圃が続きます。 此処までは、たまに地元の軽トラやバイクに
出会うくらいでほとんど人は見かけませんでしたが、この辺りに来ると
ハイカーらしき人たちに何人か出会うようになりました。(ほっ☆)
やがて道の左側に道標。
「久野4号古墳」
反対側に廻ってみると、幅1.5m 長さ7mの
横穴式石室が南向きに開口しています。
説明版によると;
古墳時代後期(6~7世紀)に築かれたもので、直径20m 高さ3.5m。
本来は、お供え餅のような二段式の円墳だったと考えられています。
1951(昭和26)年の発掘調査で多くの副葬品が出土しました。
また、古墳の構築法解明の貴重な資料となったということです。
久野古墳は、いずれもこのような横穴式石室をもつ高塚式円墳だとか。
さらにその先に、また道標発見。 細い道を入ってしばらく行くと
(今回細道を歩いたのは、1号古墳の脇と此処だけでした~)
「久野15号古墳」
説明板によると;
1958(昭和33)年に発掘調査が行われた結果、円型古墳の
代表的骨格を有するものとして、復元・展示されています。
古墳の石組み構造をよく見ることができます。
・・って書いてあるけど・・・
何とも草茫々で、辛うじて石組みの一部が見えるのみ・・(苦笑)
さて、
ここで「気まぐれハイキング」さんのナビによると、舗装路に戻って
少し手前で右に入り、畑の中の道を行くと公園があるようです。
では、その公園で暫時休憩することにしましょうか。
(続)
富塚八幡宮を出て、またR1を西へ歩いていきます。
車の往来が相変わらず多いR1の、沿道の左側に
ファミリーレストランの建物。その入口近くに、
「上方見付跡」
戸塚宿の京都側の入口があった所で、「江戸方見付」からは約2.2km。
ここから西へ、浮世絵などにも登場する長い「大坂」の上りになります。
では、‘猫’もこのファミ・レスでちょっと一服
気合いを入れ直して「大坂」に挑むとしましょう!
「大坂」
約1kmにわたって長い上り坂が続きます。
当時は、今よりずっと急勾配で道幅も狭く、戸塚を過ぎて
次の藤沢宿へ向かう旅人にとっての難所だったようです。
「上方見付」のすぐ先の右側に、赤銅色に光っている鳥居と社殿。
「第六天神社」
鳥居も社殿も境内も、まだ新しいようですが・・
説明板もなく、由緒などは分かりませんでした。
まもなく沿道の右側に、8基の道祖神が並んでいました。
「元禄」「延宝」などといった年代が刻まれています。
左手に高層マンションなどを眺めながら、大坂の坂上に来ました。
天気の良い日に、松並木から素晴らしい富士山が
眺められるところから、多くの浮世絵の画題となりました。
説明板によると;
1932(昭和7)年に坂の改修工事が始まり、頂上を削り下の方は
10mほど土盛りをしてなだらかな坂にしました。現在の大坂に
なるまでには、数回の改修が行われたそうです。
道理で!
スゴい坂だと思って気合いを入れて歩き出したのに、
拍子抜けするほど緩やかで、え、え~っ?という感じだったので。
たしかに、だらだらと続く長~い上り坂でした。
「西国際総合病院前」バス停の左側、石囲いの中に
「お軽勘平戸塚山中道行の場」碑
歌舞伎『仮名手本忠臣蔵』に因んで建てられたものでしょう。
「ここは戸塚の石高山・・・」の旧跡ということでしょうか。
「日本橋から46km」という道標があります。
画像の右手に見える中央分離帯は、当時の松並木の跡だそうです。
が、現在は松の木ではありません。
「原宿第一歩道橋」を過ぎ「吹上」交差点で、右からの横浜新道と合流します。
「吹上」バス停の先、左側に
「原宿一里塚跡」
江戸から11番目の一里塚で、塚の付近に茶店などが
あったので、「原宿」と呼ばれるようになったようです。
塚は、1876(明治9)年に取り払われてしまいました。
やがて、道路の右側に
「浅間神社」
創立は、室町・永禄年間(1558~69)。 当時盛んだった富士信仰を
もとに、村内安全を祈願して勧請された原宿地区の鎮守社です。
「原宿第二歩道橋」の袂に
「大運寺」
安土桃山時代からある、浄土宗のお寺のようです。
閉ざされた門扉には、三つ葉葵の紋どころ。
広い境内といい立派な本堂といい、さだめし由緒のある
お寺なのでしょうが、説明板がなくて分かりませんでした。
「大運寺」のすぐ先が渋滞で有名な、あの「原宿」交差点です。
只今 道路工事中で、一層ゴタゴタしている感じですが
早晩 車の流れももっとスムーズになると思われます。
ちょうど「大船」駅行きの が来たので、今回は此処を終着点としましょう☆
16,007歩
前回は戸塚宿の途中、JR「戸塚」駅まで歩いたので、
今回は、あらためて戸塚駅からスタートです。
改札口を出ると、目の前のフロアに嫌でも目に入る大きな字で
「清源院→」と方向を示してありました。 わかりやす~い!
矢印を辿って歩道橋で駅前を通るR1を横断します。
「清源院入口」の信号の道を入ると、すぐ右側に門がありました。
「南向山 清源院 」
浄土宗のお寺。
徳川家康公の側室 於万の方が、家康公より賜った
仏像を安置するため、創建したお寺だそうです。
「清源院」は、於万の方落飾後の法名とか。
本堂右手の、墓地へ上る石段の脇に2基の句碑。
「栗といふ文字はにしの木と書て 西方にたよりありと
行基菩薩は一生 杖にも柱にも此の木を用給ふとかや
世の人の 見つけぬ花や 軒のくり はせを 」
「井にうかふ 番(つが)ひの果(はて)や 秋の蝶 」
この寺の井戸で心中した若い男女の慰霊に、当院22世が建立。
石段を上った墓地の中に
「於万の方供養碑」
「當山開基清源院殿尊骸火葬之霊迹也」
於万の方は、当院に於いて荼毘に付されたようです。
清源院を出て、R1を西へ向かいます。
戸塚郵便局近くの歩道に
「内田本陣跡」
この辺りに、戸塚宿の2つの本陣のうちの1つがありました。
内田本陣は間口18間(32.8m)、奥行14間(25.5m)、畳数152畳という
規模で、大名・勅使・公卿・宮門跡・公用幕府役人が宿泊・休息しました。
さらに、また少し先にも
「脇本陣跡」
本陣に差支えが生じた際などに利用された施設で、大名などの
宿泊がないときは、一般旅客の宿泊に供することができました。
戸塚宿には、3軒の脇本陣があったそうです。
その先の戸塚消防署の横に
「澤邊本陣跡」
戸塚宿もう1つの本陣跡です。
創設当時の当主 澤邊宗三氏は、戸塚宿の開設に当たり
幕府に強く働きかけた功労者だったそうで、今も「澤邊」の
表札があります。 御子孫がお住まいなのかもしれません。
明治天皇が御東下の際に行在所となり、その碑があります。
門を入った敷地の中に
「羽黒神社」
澤邊河内守信友が、1556(弘治2)年に羽黒大権現を
勧請し祀ったのが始まりと伝えられています。
本陣・脇本陣が並ぶこの辺りが、宿内で最も賑わったのでしょうね。
戸塚消防署を過ぎて行き、右手に入る道の先に
寺門に続く石段と、その脇に石碑が1基。
石碑の文字の一部は、「木食上人」と読めますが・・・?
「海蔵院」
臨済宗のお寺。
ご本尊は、釈迦如来像とか。
とくに説明板などは無く、由来など分かりませんでした。
帰宅後、このお寺に左甚五郎作と伝わる木彫があることを知りました。
ん~、・・・ザンネン!
やがて、「八坂神社前」という信号が見えてきました。
右側に、公孫樹の大木に埋もれるようにして石の鳥居。
鳥居をくぐり、石段を上ると
「八坂神社」
通称「お天王さま」と親しまれる戸塚宿の鎮守さまです。
1572(元亀3)年に郷の庄司 内田兵庫守政親が、牛頭天王社を
勧請したのが始まりといわれます。毎年7月に行われる「お札まき」は
五色のお札を団扇で撒き散らすというもので、市指定無形文化財とか。
「戸塚町」交差点まで来ました。
信号の目の前に、木々に包まれて長い石段。
石段の左脇に歌碑があります。
「鎌倉を 生きて井でけむ 初松魚(はつがつお)」 芭蕉
1849(延久4)年に当地の俳人らにより建立されたものだそうです。
40段ほどの石段を上っていくと
「富塚八幡宮」
源頼義・義家が奥州征討の途中、富塚の森で野営した折に
夢でご神託を受けて戦功をあげたことに感謝し、1072(延久4)年
応神天皇・富属彦命の2柱を祀ったのに始まると伝わります。
現社殿は1840(天保11)年に、拝殿は1934(昭和9)年に再建。
社殿後方の山にある前方後円墳は、富属彦命のお墓といわれ
この「富塚」が、「戸塚」という地名の由来となっているそうです。
上まで行ってみたかったのですが、「スズメバチの巣があります。
ご注意ください。」と、恐ろしいことが書かれてあったので・・
慌てて退散~
(続)
浦賀方面から歩いて観音崎大橋を渡ると
「県立観音崎公園」に入ります。
大橋の途中の左手に、
長い石垣をめぐらした大層立派なお屋敷がありました。
門の正面から、浜へ下りられる石段がついています。
(個人のお宅は憚りがあるので、石垣だけを・・ )
大橋を渡り終えて門前まで行ってみると、説明板がありました。
1810(文化7)年 幕命によって江戸湾の警備に当たるために、
会津藩の人達が大勢移り住むようになりましたが、高橋家は
鴨居にあった会津藩の陣屋の世話をしていた家柄だそうです。
その後も、ご当主は横須賀の政治・経済界で活躍。
市中心部の繁華街 若松町は、当家が海を埋め立て
造成したもので、高橋家の屋号「若松屋」に由来して
町名が「若松町」と名付けられたとか。
1894(明治27)年刊行の「日本博覧図関東編」で
紹介された銅板画にある高橋家
大橋の前方に見える白い建物は、我が国で最初にマダイの養殖に
成功したという、増養殖の研究で知られる「観音崎自然博物館」。
その下に広がっている浜が「たたら浜」です。
そう、あのゴジラが初めて現われた(?)という伝説の浜。
夏には、大勢の海水浴客で賑わいをみせます。
「たたら」という地名は、製鉄と関係の深い場所に多いそうですね。
この浜で砂鉄は取れますが、製鉄が行われていたかどうかは不明とか。
一説には、三浦一族の多々羅氏が治めていたことに由来するとも。
博物館の先にある小高い場所は
「展望園地」
浦賀水道を往来するいろいろな種類の船が一望できます。
双眼鏡を手に船舶ウォッチングを楽しんでいる人たちがいました。
「二十八サンチ榴弾砲(木製模型)」
今から約120年前に製造され、観音崎の第三号砲台に
設置されていたものを模して制作されたものだとか。
道路を挟んで、浜の反対側に広がる芝生広場は
「たたら浜園地」
背後の山中には、7~8世紀頃の墓とされる横穴群があり
土師器や須恵器の食器などが出土しているようです。
東京湾の要衝である観音崎は、明治初期から第二次大戦まで
軍の要塞地帯として一般の立入りが禁止されていたために
豊かな自然環境が守られ、その深い緑の懐の中に
さまざまな歴史が刻まれ静まっているようです。
「ソナレマツムシソウ(磯馴松虫草)」が今、観音崎公園で見頃です☆
高原に秋の訪れを告げる「マツムシソウ(松虫草)」はお馴染みですが
これは「ソナレ」、つまり海岸に咲くマツムシソウなんですね。
太古 地球が冷え込んだ時期に、適所を求めて次第に
低地に下りてきた植物の中には、氷河期が終わっても
そのままその場所に残ったものがあるそうで、この植物も
そうしたものの1つではないかと考えられているようです。
ソナレマツムシソウ
マツムシソウ科マツムシソウ属
草丈25~50cmと低く、枝分かれした茎の先端に
径3~4cmの青紫色の美しい花を付けます。
花期は8~11月。
嘗ては三浦半島の其処此処に、普通に生えていたそうですが
心ない採掘や、護岸工事などで生育地が減少したことにもより
次第に見られなくなり、1995年 県絶滅危惧種に指定されました。
因みに、房総半島の海岸では今でも見られるとか。
「観音崎自然博物館」が、この関東南部の海岸にだけ生育する
可憐な花の保護・増殖を、最初は僅か20粒ほどの種子から始め
多くの人達の協力も得て、現在2000株程までになったそうです。
「観音崎公園ビジターセンター」の周辺で
浜風に揺れながら群生しています。
がんばれよ! ソナレマツムシソウ☆
午前中で雨は止み、午後からは晴れてきました。
で、
大きなも無いし、今日は見えるんじゃないかな? と期待して
マイ 富士見スポットへ行ってみることにしました。
夏以来、久々の夕焼け散歩デス♪
よっ! お久しぶり~!
燃えるような焼け方ではないので
シルエットのように、うっすらと・・
こんな優しい富士山、好きですねぇ
急いでひと廻りして、また来て見ると
今度は、さっきよりくっきりと・・
今日も1日、穏やかに過ごせました
お蔭さま