スニーカー履いて

‘猫’も歩けば・・・今日はどんな出会いが?

箱根東坂④

2013-04-16 | 旧東海道



芦ノ湖畔のこの辺りは、
「元箱根」と呼ばれます。

朱塗りの大鳥居は、「箱根神社」 一の鳥居。



その袂に、「賽の河原

地蔵信仰の霊地として、箱根の旅人の信仰を集めた場所で
大小様々な石仏や石塔が並んでいます。 明治の廃仏毀釈に
よって 多くは失われましたが、現在も50数基が残っています。

箱根の山は 東国と西国を分ける境の山、噴煙を上げ 時には霧が
立ち込める荒涼とした光景は、まさに地の果てと思われたのでしょう。
其処には、死者が集まる「賽の河原」があると考えられたのでしょうか。


道を渡って湖の反対側、杉並木に入る手前に
箱根で3ヶ所あった一里塚の最後の1つがあります。

葭原久保(よしわらくぼ)の一里塚

江戸から24番目の一里塚です。
左右の塚上には、マユミの木が植えられていたそうです。


一里塚の少し先に、R1と並行して 見事な杉の巨木が立ち並んでいます。

箱根旧街道の杉並木

1604(慶長9)年に、
江戸幕府の命によって街道に並木が植えられた際、
低温多湿で雨の多い箱根には松は適さず、杉の木が植えられました。現在、
樹齢が最高で400年程の大木が406本、300m余の並木を作っています。



根元にびっしりと苔を纏った老木も・・

これ程のものの維持管理には、並々ならぬご苦労があることでしょうが
これからも、是非とも守り続けて頂きたいと願わずにはいられません。

杉並木の間から、芦ノ湖越しにチラリと富士山も☆




快適な杉並木ウォークを楽しんだ後、もう一度車道を渡って

箱根恩賜公園

明治天皇の箱根離宮跡が公園になっています。
がとても綺麗に咲いていました



広い公園駐車場の横から、案内板に従って行くと

箱根関所

大改修が2004(平成16)年に完成し、きれいになっていました。

2代将軍 徳川秀忠の時 1619(元和5)年に開設されて以来、1869(明治2)年の廃止まで
250年にわたって存続しました。 新居関と並び、調べが非常に厳しい関所だったそうです。


当初は豊臣の残党が江戸へ入るのを防ぐことが主目的でした。 やがて参勤交代制度が
できると、江戸に在住する諸大名の妻子が国元へ逃げるのを防ぐことに重点が置かれ、
所謂「入り鉄砲に出女」・・殊に箱根の関所では、婦女の調べは格別厳しかったようです。






江戸口御門から入って京口御門を抜けると、江戸から10番目の宿場「箱根宿」です。
東海道に伝馬制度が定められてから17年後の1618(元和4)年に設けられました。

箱根宿は 当初は現在の元箱根の辺りに計画されましたが、箱根権現の門前で
あることで反対にあったため、新たに湖畔の原野に隣の小田原宿と三島宿から
各50戸を移住させて造られました。小田原藩と三島代官所の管轄となったため
1つの宿場に2人の領主がいる 「相給(あいきゅう)」と呼ばれる特殊な宿場でした。


旅籠36軒、家屋197戸と東海道中でも小規模の宿場でしたが、逆に本陣6ヶ所は
浜松宿と並ぶ多さでした。 関所を控えた宿場の特殊性によるものと考えられます。


旅人は、江戸から3日目の昼頃に到着。 此処で昼食を済ませると
次の三島へ向かう者が殆どで、宿泊する者は多くはなかったそうです。


「箱根ホテル」の駐車場に、1本の楓の老木があります。
          
宿場の本陣の1つ 「はふや」の門前に植えられていたものだそうです。
「はふや」は、現ホテルの前身とか。

箱根宿の街路は、楓の並木になっていたようですが、明治の中頃
道路拡張の際 ほかの木は全て切り払われ、1本だけ残ったのだとか。
推定樹齢:400年。 数少ない宿場の生き証人ですね☆

この楓の木を、今回のゴールとしましょう!
近くのバス・ターミナルから、「箱根湯本」駅へ戻ります。

今回は、歩数のわりに疲れを感じました・・・やはり、箱根の山は天下の険だヮ~
18,630歩


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箱根東坂③

2013-04-15 | 旧東海道


茶屋の裏手の旧街道は、暫く林間の平坦な道が続きます。


やがて道の傍らに、小石のたくさん積まれた岩が・・

於玉坂
標高:770m

お玉という若い娘が、江戸の奉公先を抜け出し 伊豆の実家に逃げ戻ろうとして
箱根の関所を破り、この辺りで処刑されたという悲しい話が伝わっています。



県道を跨いで、旧街道は杉林の中へ。
また石畳の道になります。

説明板によると;
此処から元箱根に至る約1kmの石畳は、和宮内親王が14代将軍徳川家茂に
嫁ぐにあたり、幕府が1862(文久2)年に改修を行ったものだといわれます。
箱根の二子山から切り出された硬くて粘り気のある安山岩が、平均3.5mの
道幅の中央部 約1.8m幅に
敷き詰められたということです。  実際には、
和宮御降嫁の行列が此処を通ることはなかったそうですが・・




白水(しろみず)
標高:790m

小田原合戦の折、秀吉軍がこの付近で北条方からの石攻めに遭い
城を見ず(=しろみず)に引き返したことから、こう呼ばれたとか。


見事な石畳が続いています。
やがて行く手の道にせり出すように、
巨石が見えてきました。

天ヶ石(てんがいし)
標高:800m

方8尺(2.4m四方)の天蓋石と呼ばれる巨石です。


於玉観音堂

先述のお玉を初め、街道沿いや山中で亡くなった多くの人骨を発掘・収集し
供養するため、興福院が建立・管理しているまだ新しい観音堂があります。

此処はまた、「二子山」を展望する絶好の場所☆

箱根火山活動で最後にできた鐘状火山で、江戸時代から「二子石」と
いう安山岩を産出する石切場で、石畳の多くは此処から切り出されました。
現在は、入山が禁止されているそうです。

小田原方面からはお椀を2つ並べて伏せたように見える「二子山」ですが、
此処からは4つの瘤がきれいに並んで見え、「表二子に裏四子」と
呼ばれています。 左が上二子(1,090m) 右が下二子(1,064m)




「天ヶ石坂」の石畳を上り詰めると、道は芦ノ湖に向かって下って行きます。

権現坂
標高:805m


箱根権現(箱根神社)への分かれ道があったのが、坂の名の由来。

湖水が見える 道中で最も景色の良い坂で、無事に山を越えて
此処まで辿り着くことができた旅人の安堵の気持ちが想像されます。



安藤広重の浮世絵にも・・ホラ!

権現坂を下る大名行列が描かれています。


ケンペル・バーニーの碑

ケンペル氏は、1960(元禄3)年に長崎オランダ商館付の外科医として来日した
ドイツ人の植物学者で、2年の在日中に2回江戸参府に加わり、箱根で芦ノ湖の
魚類や多数の植物を観察。帰国後、箱根の美しさや日本文化を紹介しました。

芦ノ湖畔に別荘を持っていたイギリス人貿易商のバーニー氏は、ケンペル氏の
著書「日本誌」に感銘を受け、箱根の自然保護の思いから左の碑を建立しました。


 「芦ノ湖」に到着デス☆ やったゾ~~

富士火山帯のカルデラ湖。 箱根観光のシンボルでもありますね。
  湖面の標高: 725m
 湖の周囲: 21km
   湖の最深部: 43.5m

このあと杉並木を通って、いよいよ箱根宿へと向かいます。


(続)



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箱根東坂②

2013-04-14 | 旧東海道


山根橋」「甘酒橋」という小橋を過ぎ、一路「元箱根」に向かって歩いて行きます。

この辺りは 道も階段も緩やかで、快適なハイキング気分

          

山は、緑の濃淡の中に 桜でしょうか・・所々ピンクの彩りが混じり・・
まさに‘箱根の春’
美しさです!





猿滑(さるすべり)
標高:640m

『新編相模国風土記稿』に
「 殊に危険  猿猴といえどもたやすく登り得ず よりて名とす」と。
‘猫’も がんばれ~!

「猿滑坂」は県道で分断されています。 県道を渡ると、またキツい階段!
目の前の山は「文庫山」。 路傍には ロウバイがまだ綺麗に咲いています☆
          




追込坂
標高:680m


「親鸞聖人御聖蹟」
やや平坦に拓けたこの辺りは「笈ノ平(おいのたいら)」と呼ばれています。
親鸞聖人が、4人の弟子を伴って関東での布教から京へ向かう途中
残していく性信房・蓮位房と、師弟の別れを惜しんだ場所だそうです。
別れの辛さを刻んだ歌碑

「 やむこをは あすけてかえる旅のやと こころはここにのこしこそすれ 」
( 病む子をば 預けて帰る旅の宿 心は此処に 残しこそすれ )  


笈ノ平からものの5分で、県道沿いに藁葺屋根の家屋が見えてきました。

箱根旧街道資料館

          
農家の古い建物を移築したものだそうで、入口に駒繋ぎの柵。
江戸時代の箱根の風俗習慣や旧街道にまつわる伝説などが
当時の雰囲気を体感できるように わざと暗くしてあるという
屋内に、
パネルや模型などで展示されてあります。(入場無料)


資料館に隣接して、藁葺屋根の建物がもう1軒。

甘酒茶屋

江戸時代は東坂の9ヶ所に13軒の甘酒茶屋があり、旅人の疲れを癒していました。
この地には4軒あったそうですが、現在は2009年に新装なったこの1軒だけ。
屋内に土間と板の間、奥に上がると囲炉裏もありました。

大正時代のこの辺りの様子

(パネルより)

では‘猫’も、甘酒と力餅(鶯きなこ餅と磯辺巻)で
また、元気に歩けそう~!

甘酒¥400  力餅¥450


(続)



          

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旧東海道・箱根東坂①

2013-04-13 | 旧東海道


さぁ、いよいよ箱根宿が目前です。 張り切って行きましょう!

今日もよく晴れて、絶好のウォーキング日和
今回は「畑宿」までバスで、そこから「箱根東坂」を歩きます。



畑宿(はたじゅく)」

嘗ては「畑の宿」と呼ばれ、箱根越えをする旅人の休憩地でした。
現在も、木材の色彩を活かした伝統工芸「寄木細工」は有名ですよね。


バス停のすぐ先にあるお店の前から、石畳の道が始まっています☆

当初は箱根竹という細竹を敷き詰めた道でしたが、維持管理が難しく
毎年駆り出される住民の負担も大きかったので、1680(延宝8)年に
江戸幕府が約1,400万両を投じ、石畳に改修したということです。

石畳は 関東大震災(1923年)や北伊豆地震(1930年)など度重なる災害で
大半が崩壊・埋没しましたが、残されていた一部を整備し再現しています。


入口にさっそく、江戸から23番目の一里塚があります。

畑宿一里塚
1998(平成10)年に箱根町の保存整備事業の一環として再現されたもので、
直径30尺(約9m)の円形の塚です。 再現前は、右の塚のみが残っていたとか。

左の塚上にケヤキの木              右の塚上にはモミの木
          




杉林の中の石畳を歩いて行けば、心はいつしか 旅人気分♪


箱根越えは、奈良・平安時代は 箱根山を迂回して足柄峠を越える「足柄道」でしたが
鎌倉時代以降、湯本・湯坂山・鷹巣山・精進池を経て三島に至る近道「湯坂道」を併用。
江戸時代になり、前回歩いた三枚橋から須雲川に沿った谷間の道へと変化していきます。


箱根越えには「東坂」と「西坂」があり、殊に 湯本~箱根宿の「東坂」は
13もの坂があり 標高800mという東海道屈指の難所で‘天下の険’と
恐れられ、また雨の多い気候も旅人を大いに難渋させたといいます。


石畳の排水路

雨水を石畳の外へ追出すための工夫がしてあります。
上流側に小さな石、下流側に大きな石を斜めに敷き詰め
雨水が、大きな石を伝って外へと流れ出るしくみです。




一里塚を過ぎた辺りは緩やかな坂でしたが、R1(箱根新道)を越えて
再び林の中に入っていく辺りから、次第に勾配が増してきました。

西海子(さいかち)
標高:410m

急勾配が2町余(約220m)も続く 最初の難所です。
「 壁立するがごとく 岩角をよじ
て上る 一歩誤れば千仭の谷底に落つ 」と。
付近一帯にサイカチの木が茂っていたので、こ
の名がついたそうです。




坂を上りきると、R732(県道湯本元箱根線)に出ました。 この辺りは
R732とR1とが交差しながら クネクネと曲がり曲がって続いている
「箱根七曲り」と呼ばれる所で、10.1%の上り勾配。 旧道はこの七曲りを
跨いでほぼ直登の登り道。 そのキツさといったら半端じゃありません

向こうの尾根が「湯坂道」。  ひぇ~、昔の人は大変だったなぁ!


橿(かし)の木坂
標高:500m
          
『東海道名所日記』には、
「 けわしきこと 道中一番の難所なり。おとこ、かく詠みける。
橿の木のさかをこゆれば くるしくて どんぐりほどの涙こぼれる 」と。
この辺りには、きっと樫の木が多かったのでしょうね。


急階段の途中で左折し進んで行くと、ベンチのある平場。
右手のこれも急な階段の上、県道沿いに「見晴茶屋」があるそうですが、
そこまでは上らず、ベンチに腰を下ろしてひと息入れましょう☆
 


此処にあった説明板から:
「箱根の雲助」といえば、時代劇に登場して旅人の弱みにつけこむ悪役です
が、実際は問屋場にきちんと登録し、仕事を割り当てられて働く人足達で
悪さをする者はいなかったそうです。 『日本交通史論』という資料によると
簡単になれる職業ではなく、次のような条件をクリアせねばならなかったとか。
 1.力が非常に強いこと。(これは仕事の性質上、ぜひ必要でした。)
 2.荷造りが優れていること。(荷物を見ると、造り手が分かったとか。
     箱根で荷造りされた荷物は、京まで崩れなかったといいます。)
       3.歌が上手なこと。(歌が上手くないと、一流の雲助と言われなかったとか。)


さて、元気が出たところで 先を急ぐことにしましょうか。

(続)



 

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箱根湯本②

2013-04-10 | 旧東海道


正眼寺を後にして、街道を歩いて行くと左手の路傍に

仲睦まじい双体道祖神

江戸時代 この辺りは「湯本茶屋村」といい、
この道祖神は、その村境にあったそうです。


その先の右手、あやうく見過ごすところでした。
「民宿うらしまや」の向かいの植え込みに隠れるように・・

旧箱根街道一里塚跡」碑

日本橋から22番目の一里塚があった所です。


少し先に、車道から右へ下りて行く道があります。この先に
江戸時代の石畳が残っているというので ・・行ってみまっす!!



坂の入口右側に、これも見落としそうになりましたが・・
「馬の飲み水桶」
          
「 江戸時代 この辺りは『馬立場』といって 馬子が一休みしたところです。
この桶には 山から引いた水が満々とたたえられ 街道を往来する
馬の飲み水になっていました。  湯本茶屋自治会 」
 

いよいよ石畳に入って行きます! ワクワク



          
江戸幕府が1680(延宝8)年に石で舗装した旧街道の
面影が残る道が、約255mにわたって続いています。

以前 「湯坂道」の石畳を歩いた時も思ったのですが、晴れた日ならまだしも
雨で濡れたこの道を草鞋がけで歩くのは、どれほど難儀だったことか・・
と、往時の旅人の姿を想像しつつ、 一歩一歩踏みしめながら歩きます。


「猿橋」という小橋を渡り、「箱根湯本ホテル」の廊下の下を抜けて
石畳はさらに続きます。
          


石畳の道を出ると、先程歩いてきた街道(車道)につながっていました。
出た所の右側に また下りて行く階段があって、その先に・・

大慈悲山 福寿院
通称:箱根観音

曹洞宗のお寺。
本尊: 慈母観音菩薩
江戸時代 山賊に襲われ谷底に落とされた旅人が、観音様のお蔭で
命を救われ、以来この地は観音沢と呼ばれるようになったという
言い伝えに因んで、観音堂が建立されたといわれています。

ご本堂内に円錐型の塔がたくさん並んでいます。光明消災燈というそうで、
以前 タイの仏教寺院で、同じような塔を見たのを思い出しました。

(上の2枚の画像は、福寿院のHPから拝借しました。)


ここから眺める湯坂山は、柔らかな色に包まれて とても
美しかったです☆



16,767歩



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旧東海道・箱根湯本

2013-04-09 | 旧東海道


JR東海道線が 今日は平常運行しているようなので、
昨日取りやめた遠出を 実行することにしよう~



箱根登山電車で、前回の「入生田」駅の次の「箱根湯本」駅で降り、
「早川」沿いに少し戻ったところにある「三枚橋」から 今回は出発します。

さて、今日はどこまで行けるかナ・・がんばって歩きましょう!


三枚橋から、旧街道はR1と分かれて左へ入って行きます。

橋の名は、嘗ては川幅がもっと広く 2つの中州を結んで「地獄橋・極楽橋・
三昧橋」という3つの橋が架けられていたのに由来し、どんな罪人でも
橋を渡ってその先の「早雲寺」に逃げ込めば 罪を免れられたので、
まさに 地獄と極楽の分かれ目の橋だったのだとか。

橋の近くの路傍に、「矢立杉跡」碑
昔 この付近に「矢立の杉」という老木があったそうで、この杉の木の
下を通る武将達は、戦勝を祈願してこの木に矢を立てたといわれます。


橋を渡り終えると、道は右へカーブしながら上り坂になります。
カーブして直ぐ、右へ入って行くと、左手の階段の先に

箱根町立郷土資料館

まずは 箱根温泉郷の歴史をお勉強(?)して、
そのついでに、ガイドマップもGETです☆


街道筋へ戻って、坂をどんどん上って行きます。

「早雲通り」と呼ばれるこの旧街道、11月には「箱根大名行列」が
練り歩いて観光客などで賑うようですが、今日は車の往来はある
ものの人通りは少なく、どこかのんびりした温泉町の風情です。




10分ほども歩いたでしょうか。 通りの左側に玉垣が見えてきました。

白山神社

天平年間(729-748年)に関東に疱瘡が大流行した時、加賀から
派遣された浄定という人が白山権現社を建てて十一面観音菩薩を
祀ったところ、山から霊泉が湧き出し病を治したと伝わっている由。


約300年前から 湯本温泉の鎮守。
      祭神: 白山比大神=菊理媛命(くくりひめ)
              伊奘諾命(いざなぎ)、伊奘冉(いざなみ)命

笑っているような表情の狛犬さん、子供を背に乗せて楽しそう☆
耳がピンと立ってますね。 大正時代の作で、制作者の名も刻まれてあります。
          



街道を挟んで、神社のほぼ向かい側に

金湯山 早雲寺

北条早雲の菩提寺です。



臨済宗のお寺

     創建: 1521(大永元)年
           開山:
以天宗清(大徳寺第83世)
開基: 北条氏綱
                        本尊: 釈迦三尊(南北朝時代の作)
嘗て500名を超す僧をかかえる大禅刹として、隆盛を極めました。
秀吉の小田原攻めの際には、豊臣方の本陣ともなりましたが、
その後 後北条氏の滅亡とともに当寺も衰退、縮小したとのこと。

本堂は、寛政年間(1789-1800)建立。 昭和30年代の
改修までは、茅葺寄棟造りであったようです。


鐘楼

惣門・本堂・鐘楼は 箱根町の重要文化財


本堂裏手に 枯山水の庭園

早雲の三男 北条幻庵が作庭したと伝えられます。 銘「香炉峰」


左手の墓地に「北条氏五代の墓」

1672(寛文12)年に、子孫の河内国狭山藩主
北条氏治によって建立された供養墓だそうです。 


旅半ばに、ここ湯本で没した室町時代の漂泊の連歌師
飯尾宗祇(1421-1502)の墓や、境内には歌碑もあります。
          

ほかにも、千利休の高弟で秀吉の怒りを買って殺された 山上宗二の追善碑とか
朝鮮通信使ゆかりの扁額 等々、戦国~江戸期の歴史・文化の流れに関わりの
深いお寺であったらしいことは、
‘猫’のような素人にも感じられます。




さらに 街道を歩いて行くと、左側に

放光山 正眼(しょうげん)

臨済宗のお寺。
鎌倉時代、箱根路の旅人の安全を祈る地蔵信仰から建立された
地蔵堂があり、その別当寺だったお寺が1626(寛永3)年に
再興され「正眼寺」となりましたが、その後 山崎の戦で焼失。

現在の本堂は、銀行家 今村繁三氏(1877-1956)の別荘だった建物とか。


本堂左手の石畳を上って行くと


「曽我堂」

あの曽我兄弟が仇討の本懐を願って参籠したといわれる
地蔵堂の近くに、縁者たちによって建立されたといわれます。
木像 伝曽我五郎地蔵菩薩坐像(鎌倉時代)
木像 伝曽我十郎地蔵菩薩坐像(室町時代)
の2体が祀られ、春秋のお彼岸に開帳されるということです。


柔らかな新緑と まだ散らずに残っているしだれ桜が美しい境内で
ちょっとひと息入れるとしましょうか



(続)         



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旧東海道・小田原~箱根

2012-11-19 | 旧東海道


「板橋見附」交差点から旧道に入って行くと、
交通量も少なくなり、どことなく長閑な街道らしい趣のある道です。


黒っぽい味のある建物は、醤油醸造所のよう。
今も操業しているのかな?




やがて、道の右側の石垣の上に

宗福院地蔵堂

「板橋のお地蔵さん」と親しまれている地蔵像は、1569(元禄12)年
香林寺の文察和尚が身丈一丈(約330cm)の大坐像を造り、箱根湯本
宿古堂の延命地蔵尊(弘法大師彫造)を胎内に安置したといわれます。

現在の地蔵堂は黄檗宗慈眼寺仏殿を移築したもので、県指定重要文化財。
外観は二重屋根、堂の四周に裳階をめぐらした造りになっています。
此処の大イチョウも見事ですね~

「復興大黒尊天」

堂前に、天井まで届きそうな巨大な木造の大黒様。
ご利益ありそ~

          
  (左) 一刀流第6代 横田常右衛門豊房・第7代 名坂四郎治政宣の供養碑
(右) 明治の戊辰戦争で亡くなった官軍の13名の名が刻まれた慰霊碑




旧街道らしさの残る道をテクテク・・



「上板橋」交差点で 再びR1に合流します。
左手に「早川」の流れ。

小田原用水取水口

小田原用水(早川上水)はこの地で早川の水を取入れ、街道に沿って
城内・城下に流した上水道で小田原北条時代に造られたものです。
江戸時代になっても城下の飲料水として利用されたそうで、我が国の
歴史的価値の高い古水道施設として、今も残されています。




早川に沿って暫くR1を歩いて行くと、観光地らしい賑わいになってきました。
レストランや大きな蒲鉾屋さんが立ち並び、たくさんの人が歩いています。
何だか少しホッとして、‘猫’も観光気分になり・・・


だいぶ陽が傾いてきました。 西に向かって歩いているので、眩しい~
日本橋から87km




箱根登山鉄道「風祭」駅に着きました☆
が、
もう少し先まで歩いてみようと、また旧道に入って行きました。
本日の‘猫’は、結構ガンバってます!




「風祭」駅前を過ぎて暫く行くと、右手に

風祭一里塚」跡

江戸から21番目の一里塚があった場所です。
『新編相模国風土記稿』には、「東海道側に双堠あり 高各一丈 塚上に
榎樹あり 囲各八九尺 東方小田原宿 西方湯本茶屋の里堠に続けり」と。




暮れ始めないうちに・・・と 次第に足が速くなり、
どんどん進んで行くと 右手に

長興山 紹太寺」の参道入口

以前に訪ねたとき、美しい枝垂桜をご紹介しましたね。
で、今回はスルーして・・





箱根登山鉄道「入生田」駅に到着です。
今回は、ここをゴールといたしましょう。  お疲れサマ~~!



24,730歩




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小田原宿③

2012-11-18 | 旧東海道


R1沿いに宿内の中心部を散策し、「早川口」までやってきました。



「早川口」交差点から、JR東海道線の線路に沿って左折。
暫く行って道標に従い もう一度左折すると、住宅地の中に

早川口遺構

1590(天正18)年 秀吉との小田原合戦に備えて造られた
土塁と堀からなる大外郭「総構」の一部が残されています。

「早川口」は総構の南西に位置する虎口(城の出入口)で、その遺構は
二重戸張と呼ばれる土塁と堀を二重に配した構造になっています。
明治以降 屋敷の庭園になり かなり改変されてしまいましたが、外側の
高さ2.8m程の土塁や堀状の窪地に当時の面影が残っています。




「早川口」交差点まで戻り、東海道線のガードをくぐってR1を進みます。

ほどなく 左側に

寶聚山 随心院 大久寺




日蓮宗のお寺。
   創立: 1591(天正19)年
開山: 自得院日英
   開基: 大久保七郎忠世

大久保忠世が小田原合戦の論功行賞により小田原城4万5千石を
与えられて建立したお寺で、大久保家の菩提寺となりました。

大久保家の家紋



大久保一族墓所

初代 忠世・二代 忠隣など7基の墓石が並んでいます。



R1を挟んで、大久寺のほぼ向かいに

居神(いがみ)神社




祭神:三浦荒次郎義意
            木花咲耶姫命・火之加具土神

伊勢新九郎(早雲)に攻め滅ぼされた三浦氏当主 義意は、父 義同と共に自刃。
首が当所の松樹に晒されましたが、3年間瞑目せず通行人を睨み恐れられて
いました。 久野総世寺の忠室存孝和尚が松の下で読経し、「うつつとも夢とも
知らず一眠り 浮世の隙を曙の空」と詠むと、怨霊は成仏し「我これより当所の
守り神にならん」との
声がしたので、社を建立して祀ったと伝えられています。
ちょっとコワいお話・・


社殿左奥に、石碑が並んでいます。


        


鎌倉時代末期の作といわれ、市重要文化財に指定されています。 



居神神社の少し先に、

寂静山 光円寺

浄土真宗のお寺。
今から約750年ほど前に、僧 頼賢が「実相院」を開いたのに始まり
その後廃寺となりましたが、1633(寛永10)年 城主稲葉丹後守正勝の母
春日局が「実相寺」を建立。 明暦年間(1655~57)に「光円寺」と改称。

境内の大イチョウ

「見附の大イチョウ」として知られています。
このイチョウ、東海道線の車窓からもよく見えます。



板橋(上方)見附

この辺りに「板橋(上方)見附」があったようです。
光円寺の大イチョウが、旅人の目印になっていたのでしょうか。
小田原宿とは、ここでお別れです。 振り返って名残の1枚を  




「板橋見附」交差点でR1から右へ逸れて、旧道を進みます。
いよいよ箱根に向かって
 

(続)



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小田原宿②

2012-11-17 | 旧東海道


お城の「馬出門」を出てR1を跨ぐと、ほどなく・・

松原神社

祭神:日本武尊
              素戔嗚尊・宇迦之御魂神
        由緒や創立年代などは不明

古老の口碑によれば、後醍醐天皇(1318-39)の頃
この地に真鶴が棲み、鶴の森明神と称していたといいます。
天文年間(1532~54)に山王原村松原の海中より十一面観音が出現、
その託宣により本地仏として祀ったことから「松原大明神」と称しました。

小田原北条氏の尊崇篤く、その後も稲葉氏・大久保氏の庇護を受けて
代々小田原宿の総鎮守。 明治初め「松原神社」と改称しました。

「吉兆の大亀」

甲羅を撫でると心願が叶うという亀の石像。
制作年代は不明。 頭部(左側)が欠けています。
言い伝えによれば;
小田原の海岸に大亀が現れ、3代北条氏綱がこれを吉兆であるとして
当社に参詣し舞を奉納したところ、翌年の河越夜戦でわずか8千の
兵で、8万の関東管領上杉軍
を破って関八州平定を成し遂げたとか。



通りを隔てて、神社のほぼ向かいの少し奥まった所に

明治天皇宮ノ前行在所跡

小田原宿に4軒あった本陣の筆頭 清水金左衛門本陣跡。
明治天皇はこの本陣に、1868(明治元)年の御東行の際を初め
計5回ご宿泊になったそうです。 当時の敷地は約240坪とか。


R1の「本町交差点」角に

小田原宿なりわい交流舘

1932(昭和7)年築の旧網問屋を再整備した出し桁造りの建物で、観光客のための
案内所 兼 無料休憩所として、また市民文化活動の場として開放されています。


お茶のサービスもあって、ちょっと一休み




「交流館」から少し浜側へ行った所に

徳常院

曹洞宗のお寺。
当寺の地蔵尊は、1713(正徳3)年 江戸・増上寺塔頭の心誉常念が
作らせたという 総身が5mもある青銅製で、もともと
箱根芦ノ湖畔の
賽の河原に安置されていましたが、明治の廃仏毀釈で古物商の手に
渡り、東京に運ぼうとしましたが尊体が地を離れず、浜名主の夢枕に
立ったりしたため、有志が募金をして像を買い取り当寺に安置したとか。

また、八百屋お七の供養に恋人の吉三郎が作らせたものだと
いう伝説もあって、「吉三地蔵」とも呼ばれているそうです。




それでは、街道筋(R1)に沿って歩いてみましょう☆


左側に、歴史の趣を感じさせる建物

済生堂薬局小西本店

関東大震災で倒壊した明治時代の建物を大正年間に復元したもの。
石造りの薬種蔵を内包しているそうで、純和風の木造建築。


右側に、ひときわ目を引くお城のような建物

外郎博物館

中国伝来の小粒の丸薬「ういらう」を、600年来の製法で作り販売しています。
長年愛用しているという知人から
、‘猫’も頂いて服用したことがあります。
諸症状に効く万能生薬だそうですが、近年の環境変化により薬材が手に
入りにくくなっているため、1回に買える量に制限があるのだとか。
本日は、残念ながら定休日でした・・・


その先に、若者にも人気の有名店

柳屋ベーカリー


小ぶりながら、ずっしり重みのある「薄皮あんぱん」が人気です。 
「ちい散歩」の地井さんとか、芸能人も来店しているようですね。



道の左側に

ちん里う

明治初期に創業の梅干屋さん。
店先に、様々な種類の梅干や種が展示されています。
思わず酸っぱい唾液が・・・(笑)

またまた買物ツアーになりそうなので、この辺りで・・

日本橋から85km




では、ここで
城内の「郷土文化館」に展示されていた写真をご紹介しましょう。
現在のこの辺りと比較してみると、なかなか興味深いですね☆

江戸末期の小田原宿の様子

オランダ人写真家が撮影したもの。


明治初期の小田原宿の様子

横浜居留地の英字新聞に掲載されたもの。


(続)





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旧東海道・小田原宿①

2012-11-16 | 旧東海道


では あらためまして、旧東海道ぶらり旅の続きと参りまセウ



前回 小田原宿に入ったので、今回はJR「小田原」駅から。



先ずは西口前の早雲さんに敬意を表し・・

北条早雲公像

後世「北条早雲」と呼ばれる室町~戦国の武将 伊勢新九郎盛時( ?ー1579)
出自には諸説あるようですが、備中国(現・岡山県)出身といわれます。
小田原は、96年間にわたって繁栄した小田原北条氏の城下町。
銅像は、1990(平成2)年建立。




駅近の史跡と聞いたのですがわかりにくく、のっけからウロウロ・・
「おしゃれ横丁」という路地を入って行った所で、やっと見つけました!
        

北条氏政・氏照墓所

氏照(左)・4代氏政(中央)・氏政夫人(右)の五輪塔
手前に生害石  左に3人の法号を刻んだ笠塔婆型墓碑

1590(天正18)年 秀吉の小田原攻略で城は落ち、5代氏直は高野山に追放。
父 氏政と氏政の弟 氏照は自刃し、此処にあった氏寺の伝心庵に葬られました。




「お堀端通り」を歩いて行くと

国指定史跡 「三の丸土塁跡
          
 本丸・二の丸を囲むように堀と土塁を廻らして三の丸としていました。
この場所の西側に、三の丸入口の「幸田門」があったようです。
 

鐘楼

大手門跡の石垣には、大正時代に移築された「時の鐘」があり
午前6時・午後6時に鐘を打って時を知らせていました。
現在の鐘は、1953(昭和28)年製とか。



お城に入ってみましょう☆

「小田原城」は15世紀中頃に大森氏が築いた山城が前身で、その後
小田原北条氏の居城となり、秀吉軍22万の攻略に備えて城下を含む
全長9kmに及ぶ「総構え」を築き、最大規模の城郭となりました。

北条氏滅亡後は家康家臣の大久保氏、寛永年間に稲葉氏、その後
再び大久保氏と城主が変わりましたが、元禄大地震で倒壊焼失。
一部再建されて幕末に至り、明治初め廃城となりました。


銅門

二の丸の正門にあたり、本丸へと通じる大手筋に設けられています。
渡櫓門・内仕切門・土塀で周囲を囲む枡形門で、渡櫓門の銅板装飾が
その名の由来。  現在の門は、1997(平成9)年に復元されました。


常盤木門

本丸正門にあたる門で、最も大きく堅固な造りです。
傍らに立つ巨松に因んで、その名が付けられたとか。
1971(昭和46)年に復興されました。


天守閣

江戸時代に再興された際の雛型や引き図を基に、1960(昭和35)年に
市制20周年記念事業として復興。 3重4階の天守に付櫓・渡櫓を付した
鉄筋コンクリート製で、標高60mの最上階からの眺望はなかなか☆



左手遠くに、三浦半島も うっすらと・・




小峯曲輪北堀

江戸前期に「雷曲輪」、後期には「小峯曲輪」と呼ばれた曲輪が この
左手にあり、それを囲む堀(土塁と空堀)の北側部分が残っています。


報徳二宮神社

二宮尊徳翁が祀られています。 
1894(明治27)年 建造。

          
二宮尊徳(金次郎) 農政家・思想家 (1787-1856)
若い頃、藩家老 服部家に若党(中間)奉公をしており、当時 漢学塾に
通う服部家の若君にお供して、この近くを行き来していたとか。 後に 
城主大久保忠真に登用され、諸家・諸領の改革・復興に尽力しました。


では、お城を出て市内の史跡を巡ってみることにしましょう☆

(続)



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旧東海道・小田原宿

2012-09-13 | 旧東海道


酒匂橋を渡りきって、その先の「ビジネス高校入口」交差点を左折。
突当たりにある案内図に従って進み、駐車場横の細い道を入って行くと・・




新田義貞公首塚

小さな児童公園の奥にありました。 ( 画像右手の石塔 )

建武中興の柱石 新田義貞は、1338(延元3)年 越前国(福井県)藤島で討死。
足利尊氏によって晒されていた首級を家臣の宇都宮泰藤が奪い、義貞の本国
上野国(群馬県)に葬るため東海道を下りましたが、不幸にもこの地で病に倒れ
やむなくこの地に首級を埋葬し、自身も此処で没したと伝えられています。





R1に戻って旅の続きを歩きます。
やがて「山王橋」を渡ると、橋のすぐ右側に

山王神社

祭神: 大山祇(づみ)命 少彦名命 大山咋(くい)命

もとは海辺近くにありましたが、暴風の高波で社殿が全壊したため
1613(慶長18)年 現在地に遷座されたということです。

「星月夜の井戸」

社殿の移転に伴って移され、再現されたもの。

奥に見えるのは、「林羅山歌碑」






神社でひと休みしてからまた歩いて行くと、道沿いに

        
「山王口は『江戸口見附』とも呼ばれ、小田原城から江戸に向かう出入り口で
あるとされています。 また、ここは東海道小田原宿の入口でもあり、江戸
日本橋から山王口までは、約83kmの距離となっています。」と。


「浜町二丁目歩道橋」袂の左側に

江戸口見附並一里塚址」の標柱

(歩道橋からパチリ  と ・・)

歩道橋を渡った右側に
        
小田原城江戸口見附であり、また江戸から20番目の一里塚でもありました。

『相模国風土記稿』には;
「江戸口の外南側にあり 高六尺五寸 幅五間ばかり 塚上に榎樹ありしが
中古槁(か)れ 今は松の小樹を植ゆ 古は双堠なりしに今隻堠となれり
けだし海道の革(あらた)まりし頃 一堠は海中に入しならん 」と。

1590(天正18)年 豊臣vs北条の小田原合戦の際は、町全体を約9kmの
堀や土塁で囲う総構えと呼ばれる戦国最大級の城郭が築かれていました。
この付近はその最南部にあたり、合戦の時 徳川家康は山王川の対岸に
陣を張っていたといいます。 江戸時代になって総構えは壊されましたが
東海道の東の出入り口として、重要な役割を担っていました。


(パネルの写真)





そのままR1を進み「新宿」交差点で左折、さらに右折していくと

「万町(よろっちょう)」
        
「町名は古くから『よろっちょう』と呼ばれ、町内には七里役所と
いう紀州(和歌山)藩の飛脚継立所があった。江戸時代末期には
旅籠が五軒あり、小田原提灯つくりの家もあった。」と。

このような昔の町名を刻んだ標柱が 街のあちこちに立っています。
説明を読んで、小田原宿の往時の様子を想像しながら歩く と
宿場歩きがさらに楽しくなるという おもしろい工夫ですね☆


この辺りには、ご当地伝統の商品を扱う老舗が点在しています。


明治初期創業の蒲鉾店
「かまぼこ伝統舘」の看板があります。



明治26年創業の鰹節店
「かつおぶし博物館」の幟が見えます。

このような「街かど博物館」が市内のあちこちにあり、見学しながら
スタンプを集めると、何やらいいものが貰えるとか。



ここも有名な蒲鉾の老舗
建物は大正13年に再築されたもので、看板は欅の一枚板とか。



230年続くという元祖小田原蒲鉾の店

通称「かまぼこ通り」を行ったり来たりしながら、
本日の〆は、やっぱりショッピングに~~♪ ♪


次回は、JR「小田原」駅周辺から市街をもう少し歩いてみようかな


国府津~小田原で、500mlの飲み物が4本 
そして歩数は 26,227歩



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国府津~小田原 ②

2012-09-12 | 旧東海道


国道1号線に戻って、西へと歩いて行きます。


「日本橋から79km」の標柱
沿道の所々に 松の木が植えられています。




暫く歩いていくと、
「小八幡三丁目」の信号を過ぎた左側に 目立たない説明板を発見。


東海道小八幡の一里塚」跡

江戸・日本橋から19番目の一里塚が この辺りにあったようです。
「相模国風土記稿」には;
「東海道中の東にあり 左右相対せり 高二間 舗六七間 塚上に松樹あり 上は
小田原宿入口一里塚 下は淘綾(こゆるぎ)郡山西村小名梅沢の一里塚に続けり」と。



松並木が続いています☆



街道の右側に、目を引く木造建築☆

現役の建物のようです。「酒匂市民集会施設」とか? 
いつ頃の建築でしょうか。中を見学したい誘惑にかられつつも・・




「酒匂三丁目」信号の右側、長い黒板塀に重厚な門構えの建物。


「社会福祉法人 ゆりかご園」とあります。

説明板のようなものは何もありませんでした。 帰宅後にweb検索して
みたところ、鎌倉時代 酒匂宿の旧川辺本陣跡と紹介されていました。


路傍の道祖神

今回もあちらこちらで、道端の道祖神を見かけました。

街道筋の左右にたくさんのお寺がありますが、何しろこの暑さ!
それに、一か所一か所訪ねていると日が暮れてしまうので・・・割愛




やがて、大きな酒匂川に架かる「酒匂橋」


その手前の右側に

済度山 法船寺

日蓮宗のお寺。

説明板によると;
日蓮上人が身延山へ向かう途中 酒匂川の増水で足止めされたとき、
老爺に化身した地蔵尊に導かれて 此処のお堂に一泊したといいます。

境内の地蔵堂には、御手引地蔵尊が祀られています。


五重塔は、1993(平成5)年に建立されたそうです

ミニチュアではありますが、総檜造り本瓦葺の立派なもの。


酒匂橋手前の道を 川沿いに右へ少し行ったところに

酒匂川の渡し碑

酒匂川の渡しは東海道五十三次道中の難所の一つといわれ、古くは船渡しが
行われていましたが1674(延宝2)年に
禁止。 徒渉(かちわたり)が施行されて
冬川(冬季)は仮橋が架けられて往来できましたが、夏川(夏季)は必ず有料で
川越人足の助けを借りて手引・肩車・輦台などで渡らなければなりませんでした。
この制度は、1871(明治4)年に廃止されたそうです。


2級河川 「酒匂川

ここからの富士山の眺めを期待していたのですが・・・
今回も大ハズレ~  どうも富士山に嫌われちまったらしいや  

川を渡って、小田原市街へと入って行きます。

(続)





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旧東海道・国府津~小田原 ①

2012-09-11 | 旧東海道


ご無沙汰しておりマス(笑)
「白露」も過ぎたというのに、依然厳しい連日の暑さ・・
blog更新をついついサボっておりますが、
‘猫’はまずまず一応元気です

さて、朝晩は涼風が心地よく 
 虫の音も夜毎賑やかになってきた今日この頃
そろそろ遠出もよきかなと思って、旧東海道の続きに挑戦してみました。


前回に続き、 JR「国府津」駅からスタートします。



まずは、海にごあいさつして・・・今日も暑くなりそうだナ


いざ、出発~~



駅からほどなく、R1沿いの左側に 「御勧堂(おすすめどう)」碑
        
親鸞上人が教化の旅から京へ戻る途中、ここに草庵を結んで
7年間 地元の人々への教化活動を行ったということです。


そこから200~300m先の右側に

勧山 信楽院 真楽寺

浄土真宗のお寺。
その昔は、聖徳太子が建立したと伝わる天台宗のお寺でしたが
のちに住持の性順が、関東教化の帰途に立ち寄った親鸞上人に
帰依し、上人から寺号を与えられ改宗したといわれます。

帰命堂

上人が名号を書いたとされる「帰命石」が収められているそうです。
「帰命尽十方無碍光如来」(十字名号)  「南無不可思議光佛」(八字名号)




車の往来が激しいR1ですが
所々に街道らしい歴史を感じさせる家並も見られ・・





「岡入口」の信号で右折し、曽我街道に入ってみました。
JR東海道線と御殿場線のガードをくぐると、すぐに

菅原神社




     創建: 伝994(正暦元)年
祭神: 菅原道真
     天照大神ほか7柱を合祀

境内には、「とおりゃんせ」発祥の碑や曽我兄弟隠れ石などいろいろなものがあります。

「撫で牛」                      「茅の輪」
        


ご神木のムクノキ

推定樹齢 800年 市の天然記念物になっています。
「新編相模国風土記稿」にも記録が見られるとか。


(続)




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旧東海道・二宮~国府津③

2012-05-01 | 旧東海道


川勾神社を出て、今来た道を川勾歩道橋まで戻り
歩道橋の上からR1を見下ろすと、これが結構急な勾配の下り坂。

「押切坂」というそうです。


先述の一里塚跡で分岐して、R1に並行している旧道を進んで行きます。




道の左側 民家の敷地内に

松屋本陣跡

説明板によると;
大磯~小田原の「間(あい)の宿」二宮で、「梅沢の立場(たてば)」と
して賑っていたこの辺りの、中心的な存在が「松屋本陣」でした。
「松屋」を営んでいた和田家には、「御休帳(本陣の利用者の記録)」が
遺されていて、町指定重要文化財になっているということです。

こちらのお宅の表札も「和田〇〇」と・・・ ご子孫かもしれません。


やがて旧道も下り坂となり、再びR1に合流する少し手前の
右側に、駒型の双体道祖神。 「宝暦二年」の刻銘。
       


坂を下りきって、やがて渡る橋は「押切橋」。 下を流れるのは中村川。
西湘バイパスの高架の向こうに、海が広がっています☆



橋を過ぎると、ほどなく「小田原市」        と思ったら、再び「二宮町」・・??
       


結局、どうやら「小田原市」へ・・(笑)





「橘インター入口」交差点を過ぎ、「浅間神社入口」信号の右手奥に

浅間神社
       
説明板のようなものは何も見当たりませんが
浅間神社ということは、木花咲耶媛がご祭神・・カナ?

境内には、地神社・金毘羅大権現などの石塔や 双体の道祖神。

春・秋のお彼岸に最も近い戌の日に、農家の人達は「地神講中」をつくり、
春は豊作を、秋は収穫の感謝を大地や天候の神に祈る風習があり
「天社神」「地社神」などと刻んだ自然石の塔が祀られたそうです。



「東前川」の信号を過ぎて行くと
街道の右側に、「史蹟 車坂」の標柱と説明板。

説明板に、この辺りが詠まれた和歌3首とその説明。
(文字が薄れて読み難かったため、誤りがあったらゴメンナサイ!)

「鳴神の 声もしきりに 車坂 とどろかしふる ゆふ立の空」 太田道灌
道灌が書いたといわれる『平安紀行』の中に、「車坂という里にてゆう立しきりに
降りそえば」とあり、この時に詠んだものだといわれています。

「浜辺なる 前川の瀬を 逝く水の 早くも今日の 暮れにけるかも」 源 実朝
『吾妻鏡』に、箱根・伊豆の二社詣りで前川まで来た時、洪水で川を渡れず
日暮れまで待つ間に詠まれたものだそうです。

「浦路行く こころぼそさを 浪間より 出でて知らする 有明の月」 北林禅尼(阿仏尼)
『十六夜日記』の前文に「酒匂に泊り あす鎌倉へ入る」とあり、この時詠んだものとか。


「史蹟 車坂」から少し歩いた右側の民家の蔭に

大山道道標

隠れん坊でもしているみたいに壁際に張り付いて・・
石燈籠や石祠とともに並んでいます。




「前羽小学校前」交差点を過ぎて行くと、路傍に

「坂下道祖神」

今回はこのほかにも、あちこちでたくさんの双体道祖神を見かけました。


地図を見ると、
そろそろ本日のゴール、JR「国府津」駅が近くなりました。
ホッとしたところで、ちょっと寄り道~(笑)  

西湘バイパスの下を抜けて・・海岸でひと息いれましょう




R1に戻ったところに

「日本橋から78km」


この先の信号を右へ渡れば、ゴールの「国府津」駅です。
今回も、山あり海ありで楽しかったで~す


28,906歩




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旧東海道・二宮~国府津②

2012-04-30 | 旧東海道


連休を楽しんでいらっしゃいますか~
後半は天候が・・・ま、それなりに楽しみましょうね!


さて、旧東海道ぶらり旅の続きと参りましょう☆
 相も変わらず、あっちやらこっちやら気の向くままに
道草しながら

吾妻山を下り、あらためて旧街道の分岐点にある
「約250m先 等覚院(藤棚)」の道標に従って歩いて行くと・・


梅澤山 等覚院 藤巻寺

真言宗のお寺で、相模新西国三十三所観音霊場第一番札所。


件の白藤が、満開とまではいきませんがだいぶ咲いていました。

樹齢 約400年 樹高 約240cmで、町の天然記念物となっています。
1263(元和9)年 将軍家光公ご上洛の折には、駕籠を停めてご覧になったとか。
また
寛文の頃、仁和寺宮が関東下向の折にもご覧になったとか。

有名な藤のようです。




町指定文化財の梵鐘には、「寛文八年」の刻銘が
あり、町内に現存する最古の鐘だそうです。

何しろ 藤棚の辺りには、体長2cmほどもあろうかという大きな黒い蜂が
何匹もブンブン飛び回っていて、過去に2度も蜂に刺された経験の
ある‘猫’は・・・長居は無用! 退散~~




旧街道がR1に合流する「山西」五叉路に、石塔や道祖神。



供花もあり、お守りなさる方がおいでのようです。




「日本橋から75km」



「山西」の信号から400~500mぐらい歩いた所で
今度は左に旧道が分岐しています。 その分岐点に、

東海道一里塚の碑
       
江戸から18番目の一里塚がありました。 
この辺りは大磯宿とこの先の小田原宿との中間にあたり、周辺には旅人目当ての
茶屋や商店が軒を連ね、「梅沢の立場」と呼ばれて大層賑っていたそうです。

この先の
「川勾神社入口」信号で、右折の広い道があります。
歩道橋を渡って、その道へ入ってみることにしました。

すぐ右手に、赤い屋根のお堂。

薬師堂


お堂正面上部の壁に、鏝絵の「龍」を発見!


左右には・・何の「鳥」かな?
       
うっすらと赤みが見られます。 彩色が施されていたようですね。

堂前には、石塔がずらり・・




JRの線路を越えた先に、

川匂山 密厳院

真言宗のお寺のようです。




人家と畑が混在するのどかな道を、新緑を目の保養に てくてくと
15分も行くと、突き当たりに大きな石の鳥居が見えてきました。



石段を上り、左側に「櫛盤間戸命(くしいわまどのみこと)」、 右側に
「豊盤間戸命(とよいわまどのみこと)」の木像を祀った門を通って・・



川勾(かわわ)神社

延喜式内社 相模国二之宮
「二宮」の地名の由来である由緒ある神社です。

祭神:大名貴命(おおなむじのみこと)・大物忌命(おおものいみのみこと)
  級津彦命(しなつひこのみこと)・級津姫命(しなつひめのみこと)・
衣通姫命(そとほりひめのみこと)

神社の縁起書によると;
垂仁天皇の頃、磯長国(しながのくに)国宰の阿屋葉造(あやはのみやつこ)が
勅命によって創建したと伝わっているとか。 とにかく古い歴史の神社なのデス!
現社殿は、1951(昭和26)年に完成されたものだということです。


まったく人影のない境内ですが、ひと休みできるようにとのご配慮でしょう。
長椅子と、紙コップを添えた冷たい麦茶のポットが備えられてありました☆
感謝して喉を潤しながら、木々を渡る風と鶯の声音に暫し耳を澄ませ・・


(続) 





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