スニーカー履いて

‘猫’も歩けば・・・今日はどんな出会いが?

秋ですね

2010-09-29 | 雑記


あの猛暑はいったい何処へ?

秋が駆け足で・・
というか、全速力でやって来ました。
油断していると風邪をひきそうです。




やらなければならないことが いろいろ重なって
このところ大分バタバタしています。

「元気~?」 「ブログやめたの~?」と、ご心配かけてますが
元気ですよ~!!

ご心配なく。

富士見・・おっと違った、不死身‘猫’は間もなく復活します☆
あ~、歩きたいなぁ!!




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お彼岸です

2010-09-24 | 雑記


大切な友人Tさんが亡くなって、3度目のお彼岸です。
22日 Tさんのご主人の車で、お仲間のYさんと一緒に
お墓参りに行きました。


早いものです。 もう、3年・・
1年ぶりにお会いしたご主人は、お元気そう
でした。
お独りで家のこともきちんとなさりながら、意欲的に
語学の勉強を続けていらっしゃるご様子でした。
Tさんも、お空の上できっとひと安心でしょう。




宝林山 泉澤寺

浄土宗のお寺です。

創建は、1491(延徳3)年。
もともとは、武蔵国世田谷城主 吉良頼高公の菩提所として世田谷烏山に
建立されましたが焼失し、1549(天文8)年 この地に再建された名刹です。


ご本堂                       鐘楼
     

この辺りは、中原街道で小杉御殿や小杉陣屋が設けられるなどの
要所だったこともあり、再建された当初は周囲に堀が巡らされ
城郭構えの寺院として、世田谷城の砦的存在だったそうです。
ご本堂は、当時のもののようです。



ご本堂前に、チャボヒバ(ヒノキ科)の巨木
枝葉がチャボの足のように短いところから、この名。
     
緑の濃い 落ち着いた雰囲気のお寺です。


薬師堂



説明板によると;
「阿弥陀如来像(14c)」と、「木造四天王立像」が祀られています。
四天王立像は、江戸城内にある第5代将軍綱吉公の霊廟に
祀られていたものと伝わっています。

また多くの古文書を有し、北条氏政公の「虎の印判状」も残されています。

「虎の印判状」は、後北条氏が発行した公文書。
虎の印判は、「禄寿応穏」の4字を刻んだ方形の上に蹲る
虎が配されており、後北条氏の専用印として用いられました。

印判は主に戦国時代以降、東日本の大名に花押に代わるものとして好んで
用いられるようになり、朱肉の色により朱印状、黒印状などと呼ばれます。

押印によって内容を証明するほか、権威や効力を示すもので
仏僧が宋・元の風を取り入れて使用を復活させたともいわれ、
虎・馬・象などの動物や独特な印文を刻し個性を出しています。



 
墓参のあと、ご主人におもしろい店に連れて行って頂きました。
Jリーグ「川崎フロンターレ」の練習場前にある、藁屋根の蕎麦屋さん。
「櫻屋」

店前の道路に
は、路駐の車がズラ~ッと・・ 
これ全部、来店客の車? どうやら、今どき評判のお店のようです。

案の定 店内はお客さんでいっぱいでしたが、幸いにも
待たされることはなく スムーズに席に座れました♪

テーブル上には、お惣菜を盛り込んだ鉢がいーっぱい!
好きなものをつまみながら待つうちに


やがて運ばれてきた天ザルにも、天麩羅が山盛り!



食べきれない天麩羅はドギーバッグで・・
食後に離れでコーヒーを頂き、大満腹~

田舎屋を移築したと思われる広い店内は、あちこちに
自在鉤や大提灯が下がり、池には大きな鯉が何尾も
悠々と泳いでいて、個性的でおもしろいお店でした。



「3人でこうして楽しくお話できて、Tさんも喜んでいるわね」
と、Yさん。 ‘猫’も、同感でした




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旧東海道・日本橋から

2010-09-22 | 旧東海道


それでは、あらためてお江戸日本橋から☆



日本橋が初めて架けられたのは1603(慶長8)年のこと。
当時は長さ43間(約78m)の木橋だったそうです。

現在の橋は、1911(明治44)年に東京市が完成したルネサンス
様式の石造二連アーチ橋で、橋銘は徳川慶喜の筆だとか。


照明灯を飾る青銅の麒麟は東京市の繁栄を、獅子は守護を表しています。
          


橋の袂の広場には さまざまなゆかりの展示がされています。

「日本橋由来の碑」



「日本国道路元標」
1604(慶長9)年 幕府が五街道の起点を此処としました。
1873(明治6)年 明治政府が七国道の起点と定めました。

橋の中央にある基準となるものは、1972(昭和47)年に柱から
プレートになりました。プレートの文字は佐藤栄作氏だそうです。
     


「里程標」






では、日本橋から西へ向かって・・

まもなく左側に、老舗デパート


その先の右側には、重厚な構えの銀行




八重洲通りを越すと、ほどなく京橋です。
高速道路の高架下に、

「江戸歌舞伎発祥之地」碑


江戸歌舞伎は1624(寛永元)年 中村座の猿若勘三郎が
中橋(日本橋と京橋の中間)で櫓をあげたのに始まります。
その後 市村座・森田座・山村座が加わった4座が集まって
大いに賑わい、江戸大衆文化として発展していきました。


そのすぐ近くに
「京橋大根河岸青物市場蹟」碑


1664(寛文4)年 京橋川の水運を利用して京橋の傍に青物の市がたち
売り物は大根が多かったので大根河岸と呼ばれるようになったとか。
1935(昭和10)年 築地の東京卸売市場に合併されるまであったようです。


「京橋親柱」
     
①                        ②

京橋は日本橋とほぼ同時期に架けられた橋で、明治・大正と
2つの時代に設置された橋の擬宝珠型親柱が保存されています。

①は、1875(明治8)年に石造アーチ橋に架け替えられた時のもの。
②は、1922(大正11)年 アールデコ風の橋に架け替えられた時のもの。
昭和38~40年 京橋川の埋め立てに伴い、撤去されました。



銀座に入りました。

「銀座煉瓦之碑」・「ガス燈」


1872(明治5)年の大火で銀座は全焼し築地まで延焼。その後 府知事に
より
銀座通りの建物は耐火構造の煉瓦造り洋風二階建てに統一されて
「煉瓦通り」と呼ばれ、街路灯はガス燈が用いられました。

碑の床の煉瓦は、発掘された当時使われていたものを使用し、
当時のまま「フランス積み」で再現してあります。
ガス燈の柱は明治7年の実物。燈具は忠実に再現したもの。



柳通りに植えられている柳は、「銀座の柳」3代目。
もともと埋立地の銀座では、当時の代表的な樹木だった桜・
松・楓などが根付かず、湿気に強い柳が植えられたのだとか。




「銀座発祥の地」碑


1612(慶長17)年 幕府はこの地に銀貨幣鋳造の銀座役所を
設置し、町名を「新両替町」としましたが通称「銀座」と呼ばれ
1869(明治2)年 正式に「銀座」を町名としたそうです。



銀座4丁目交差点です。
(この人波の中、写真を撮るのはチト恥ずかしく・・ )



だいぶ歩いたので、今回はここを終点としましょう。 
続きは、またいつか☆


 


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日本橋界隈

2010-09-21 | 東京・川崎


お彼岸の墓参のあと、ショッピングがてら
日本橋辺りを少し散歩しました。




高速道路の下を流れる日本橋川


橋のすぐ傍の老舗デパート



橋の袂に
「日本橋魚市場発祥の地」碑


江戸時代はここ日本橋川沿いに、幕府や江戸市中で消費
される鮮魚や塩干物を荷揚げする魚河岸がありました。

此処で開かれた魚市は、江戸初期に佃島の漁師達が将軍や
諸大名に調達した御膳御肴の残りを売り出したことに始まり、
川沿いを中心に、1日に千両の取引があったともいわれる
ほどの賑わいで江戸で一番活気に溢れた場所の1つでした。

魚河岸は、関東大震災後に現在の築地に移されました。


日本橋交差点から、日本橋川に沿って東の方へ歩いてみましょう。


「江戸橋」にやって来ました。

江戸橋交差点角のビルは「日本橋郵便局」
「郵便発祥の地」
     
1871(明治4)年 新式郵便制度が発足したとき、郵便役所が置かれました。
日本郵便の父 前島密氏の胸像がありました。



「日本橋」→「江戸橋」の次にあるのが
「鎧(よろい)橋」


言い伝えによると;
嘗てこの付近に大河があって、平安時代 源義家が奥州平定の旅途
此処で暴風・逆波に遭い船が沈みそうになったため、鎧1領を投じて
竜神に祈ったところ無事に渡ることができたので、「鎧が淵」と呼ばれる
ようになったとか。また、平将門が兜鎧を納めた所とも伝わっています。

「鎧の渡し」


1872(明治5)
年に橋が架けられるまで、渡し舟が交通手段だったようです。
「縁日に 買うてぞ帰る おもだかも 逆さに映る 鎧の渡し」  和朝寺国盛



平成通りから中央通りに戻る途中、大きな石柱が2基少し離れてあります。
「海運橋親柱」
     

説明板によると;
この橋は、楓(もみじ)川が日本橋川に合流する入口に架けられて
いました。江戸初期には「高橋」と呼ばれ、橋詰に御船手頭 向井
将監忠勝の屋敷があったので「将監橋」、また御船手衆は幕府の
海軍で海賊衆ともいわれたため「海賊橋」とも呼ばれていました。

明治になり「海運橋」と改称。アーチ型の石橋に架け替えられました。

文明開化の頃 橋周辺は東京の金融の中心として繁栄し、橋詰に
あった洋風建築の第一国立銀行とともに、東京の新名所となりましたが
関東大震災で破損。1927(昭和2)年鉄橋になり親柱が保存されました。
その後 川の埋め立てにより、1962年に鉄橋も撤去されたそうです。


そういえば先程 銀行前を通ったとき、壁面に嵌め込まれていたレリーフ
「銀行発祥の地」

1873(明治6)年 我が国最初の第一国立銀行が創立された場所だそうです。




この辺りは現在も、金融・証券関係のビルがたくさんありますね。
右側は、東京証券取引所のビルのようです。



いろいろな「発祥の地」を廻って、再び日本橋に戻ってきました。

少し歩いただけでも、江戸以来 この辺りが経済社会発展の
原点として重要な場所であったことがよくわかります。

そうそう、「日本橋」も旧東海道の出発点でしたね。
今度は街道筋をもう少し歩いてみましょうか☆



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千葉市・旧川崎銀行

2010-09-19 | 他県


「田中一村展」開催中の千葉市美術館が入っているビルは
1927(昭和2)年に建造された「旧川崎銀行千葉支店」の建物です。

旧川崎銀行千葉支店
(縮尺模型)



建物の正面入口


説明文によると;
この建物は、1927(昭和2)年 建築家 矢部又吉氏(1888-1917)の設計で
川崎銀行千葉支店として建設。1943(昭和18)年の吸収合併によって
三菱銀行千葉支店となったものです。

入口ドアの装飾






新設の市美術館と中央区役所で鞘のように包み込んでこの歴史的建物を
保存・再生するという、鞘堂方式が採用されており、現在はその名も
「さや堂ホール」として市民の文化表現の場として活用されています。




渦巻状の装飾が施された円柱が立ち並ぶ内部は、豪華なシャンデリアや
ドイツ製モザイクタイルの床も美しいネオ・ルネサンス様式が保存されていて
その独特の雰囲気から、映画やテレビドラマの撮影地になることもあるとか。

あぁ、そうした部分もじっくり見学したかったなぁ~~!!



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田中一村絵画展

2010-09-18 | 他県


千葉市美術館で開催されている田中一村の絵画展に行ってきました。

田中一村  新たなる全貌


田中一村(いっそん)」
1908-1977
栃木出身の日本画家。 本名は田中 孝。
父は彫刻家。 幼い頃から画才を発揮し、「神童」と呼ばれました。

1926年 東京美術学校(現・東京藝術大学)日本画科に入学しましたが
経済的な理由から約2ヶ月で退学。以後、南画を描いて一家を養います。

1938年 千葉に移り、以後 20年間を千葉で暮らします。
千葉ののどかな農村やそこに暮らす人々を題材に描きました。

1947年 川端龍子主催の画展で《白い花》が入選。
それまでの「米邨」という号から、初めて「一村」を名乗ります。
しかし 龍子との意見の相違からその元を離れ、日展・院展などに
何度か出品しますが落選。日本画壇への絶望を深めます。

1958年 50歳のとき奄美大島に渡り、大島紬の染色工などを
して生活を切り詰めながら、島の植物や鳥などを描きます。
1977年 没。 享年 69歳。

2001年 奄美に「田中一村記念美術館」がオープン。
約450点の作品が収蔵されています。

(パンフレット 及び 会場での説明より)


何年前だったか、TVの美術番組で初めて氏の作品を見たとき
繊細さと命の躍動が同居している《不喰芋と蘇鉄》が強く印象に残りました。
その後ずっと一度実際に見たいと思っていたので、叶って嬉しかったです♪



会場には、初期の南画から鉛筆描きのスケッチ、千葉時代の作品、
そして晩年の奄美時代の作品まで約250点。 絵画のほかにも
氏の手になるという木魚や根付などの木彫、愛用の筆や絵の具、
また、手紙の下書きといった珍しいものなども展示されてあります。

今回は《枇榔樹の森》というモノトーンの絵が、とても印象的でした。
どんな絵なのかを、ここでご紹介できなくて残念!
web検索してみてくださいね~


週末とあって、結構多くの人達が来場していました。
会期は9月26日まで。




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小さな秋2

2010-09-14 | 花散歩


今日は少し 凌ぎやすい1日でした☆
そろそろ 秋到来・・・かな?!


今日も、小さな秋を探して歩きました

萩の花を、あちらこちらで見かけるようになりました
秋を感じますねぇ!

「秋萩の 柔らかき葉に 陽は宿り 葉ごとに日影 透き通りをれり」 尾山篤二郎
「白露も こぼさぬ萩の うねりかな」  芭蕉




街路樹のトウカエデが、色づき始めました
     


ニシキギも、ほんのりと・・



田んぼでは

「稔りたる 稲田は未だ 収穫の 前にて秋田 馨しき道」 佐藤佐太郎


あ、柿の実☆



ここにも、見ーっけ!
     
「乙女子の 乳首に似たる 無花果の 実の生りそめは いつくしきかも」 岡 麓


ヒサカキの実も、ぼつぼつ・・

     


この花も、秋の七草でしたね

「何ごとの かぶりかぶりぞ 女郎花」  一茶
「秋風を 待つとて立つや 女郎花」  成美


登場する季節の役者が、だんだん増えてきましたね



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世田谷・等々力渓谷

2010-09-12 | 東京・川崎


こう暑い日が続くと、
静かな緑の中をのんびり歩きたくなりませんか?

というワケで、久しぶりに等々力渓谷を訪ねてみることにしました。

東急大井町線「等々力」駅から行けば、すぐ近い所にあるのですが、
それではあまりに呆気なさ過ぎ・・へそ曲がり‘猫’は
いつも、わざと少し遠回りをして行きます(笑)


東急東横線「田園調布」駅で電車を降りると
目の前の緩やかな坂に沿って、閑静な住宅街が広がっています。
暑いなか、人通りは殆どありませんね。


住宅街の中に、公園がありました。
ここも、人影は見当たりませんねぇ・・
宝来公園

自然林を活かした斜面に広がる樹木の多い公園です。
濃い緑の中を歩いていると、ちょっとした森林浴気分♪
さすが田園調布、素晴らしい住環境だなぁ!

と 感心していたら、「チカンに注意!」の立看板・・あらら・・


公園を突っ切って左へ進むと、すぐに
多摩川公園

さっきの公園よりずっと広い、丘陵地に設けられている公園です。
たくさんの樹木の中を縫うように、吊橋みたいな階段で上ったり下ったり・・

公園の中に「亀甲山古墳」があります。
この辺り一帯で最大とされる前方後円墳で、国指定の史跡となっています。
詳細は不明ながら、形状などから5世紀前半頃の築造と推定されています。



多摩川の河原に出ました。 広々して、快い風も吹いて来ます。
暑さに負けずグランドで野球試合中の元気な子供達を見ながら暫く歩き
バス停「玉堤小学校前」の所で多摩川と分かれて、再び住宅地へ。

川沿いに歩いていると、吸い込まれるように緑の中へ入っていきます。




等々力渓谷
谷沢川沿いに約1km、深さ10~20mの渓谷が続く ‘都会のオアシス’☆

今回は、図の左から右へ向かって川沿いに歩いて行きます。


左側に冠木門
中には、1973(昭和48)年に作庭された日本庭園と
奥に、書院と芝生の広場があります。
      




樹木の中を抜けて行くと、「稚児太子御影堂」
1975(昭和50)年、
弘法大師誕生1200年記念に祀られたもののようです。
      


橋を渡った対岸に、「稲荷大明神」の赤い旗のお社と「不動の滝」


湿った石段を上って行くと、途中の左側に
役の行者神変窟」



階段を上りきった所に「等々力不動尊」
正式の名は「瀧轟山 明王院

真言宗 満願寺(目黒)の別院
ご本尊は、役の行者作と伝わる秘仏だそうです。


再び渓谷に下りて、川沿いを歩きます。

「第3号横穴古墳」
ここで発見された3基の横穴古墳跡は、古墳時代~奈良時代頃に
造られた野毛地域の有力者の墓と推定され、3号墓が保存されています。

墓は玄室・羨道から成り、泥岩の切石で塞がれた玄室の床には
川原石が敷かれ、3体の人骨・1対の耳飾・土器が発見されました。

以前は照明があり、ガラス越しに 一面に石が敷き詰められた
内部が
見られたのですが、今回は真っ暗で何も見えませんでした。

説明文によると;
墓の前には墓道が伸び、土器を供えたり火を焚いたりした跡が
見つかったことから、墓前祭が行われていたことがわかります。



流れる川の水音とセミの声をBGMに、渓谷をゆっくり歩き
赤い「ゴルフ橋」まで来ると、渓谷散歩は終了です。

(お詫び)
緑陰が濃いにも関わらず、何も考えずに普段通りにシャッターを
押していたので、ボケた写真ばかりになってしまいました・・・
今回は特にひどいですねぇ・・相スミマセヌ!


 

17,560歩



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旧東海道・神奈川台~保土ヶ谷③

2010-09-09 | 旧東海道


初期の旧東海道の道筋を歩いています。





旧街道沿いは、やはり寺社が多いですね。

神明社

主祭神: 天照大神  豊受大神
「古町橋跡」説明板の浮世絵にあった神明社ですね。

説明板によると;
平安時代、この地が伊勢神宮の御領として寄進された頃
建立されたと伝えられています。 1873(明治6)年に
保土ヶ谷の総鎮守に列せられたとあります。


神戸山 天徳院

曹洞宗のお寺
ご本尊は、地蔵菩薩坐像
地元の豪族 小野筑後守が、1573(天正元)年に建立したと伝わります。


妙栄山 大蓮寺
     
日蓮宗のお寺
日蓮上人が21歳で鎌倉遊学の折、この辺りの民家に宿泊して教化を行い
その教えを受けた人が1253(建長5)年、住まいを寺としたのが始まりとか。


医王山 遍照寺

創建は876年と伝わります。
ご本尊は薬師如来坐像(鎌倉時代)で、市の指定文化財。



やがて道は環状1号線に合流します。 左へ行けば
JR「保土ヶ谷」駅ですが、あと少しそのまま進んでみましょう。

問屋場(といやば)」「高札場」「助郷(すけごう)会所」などが
この辺りにあったそうです。 宿内の中心部だったのでしょうね。

     

説明板によると;
「問屋場」は、幕府公用の旅行者や大名などの荷物運搬(人馬継立)、
公用文書などの通信(継飛脚)、大名行列の宿泊手配などを担う重要
施設の1つで、問屋・年寄・帳付・馬指などの宿場役人が詰めていました。
    
宿場で賄いきれない人馬を、指定された村々から動員することを「助郷」、
指定された村々を「助郷村」といいます。1725(享保10)年に定められた
保土ヶ谷宿の助郷村の総数は、約40箇所に及んだといいます。
村々から人馬を手配するために設けられた施設が「助郷会所」です。
幕末には交通も頻繁になり、人馬の不足を補う負担は甚大だったとか。


これで、やっと
今年3月の友人との「保土ヶ谷歩き」と どうやら繋がりました~

1,6762歩


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旧東海道・神奈川台~保土ヶ谷②

2010-09-08 | 旧東海道


商店街の喧騒が収まった辺りの左側に、ひっそりと説明板がありました。

江戸方見附跡

説明文によると;
芝生(しぼう)の追分からR16を越え天王町に至る途中に、保土ヶ谷宿の
「江戸方見附」がありました。「江戸方見附」というのは、各宿場の江戸側の
出入口に設置されたもので、土盛の土塁の上に竹矢来を組んだ構造でした。
簡易な防御施設として、また宿場の範囲を視覚的に示す効果もあります。

「江戸方見附」から京都(上方)側に設置された「上方見附」までは
「宿内(しゅくうち)」と呼ばれ、街道沿いに家々が建ち並んでいました。
保土ヶ谷宿の「宿内」は、19町(約2km)あったそうです。



歩いて行くと、また右手に鳥居がありました。

橘樹
(たちばな)神社


   創建: 1186(文治2)年
主祭神: 素盞嗚尊



源頼朝が、京都・祇園社(現・八坂神社)の分霊を勧請し祀ったと伝えられます。
江戸時代は「牛頭天王社」といい、「天王町」の地名の由来になっているとか。
現在の社殿は、1951(昭和26)年に建立されたものだそうです。

「嘉永五年」「願主 江戸神田鎌倉町伊丹屋・・」と銘のある狛犬さん。

     
江戸城築城の頃、神田鎌倉河岸は資材の材木や石材の荷揚場で
相模国から運ばれる材木を取り仕切る鎌倉の商人が大勢いたとか。
保土ヶ谷は江戸⇔鎌倉の通り道ですから、この伊丹屋何某さんも
そうした材木商だったのでしょうか。何を祈願したのでしょうね?
想像がふくらみますねぇ・・



やがて、道は「帷子(かたびら)川」を渡って


相鉄線「天王町」駅の高架下を通ります。


天王町駅前の公園に
旧帷子橋跡

1964(昭和39)年 帷子川の改修に伴い、橋の位置も変わりました。
この旧橋の歴史を残すために設置されたものです。

旧帷子橋の歴史について「新編武蔵国風土記稿」帷子町の項の記載;
「帷子橋 帷子川に架す板橋にて高欄つきなり。長十五間 幅三間・・」
(説明板より)

  



駅前公園から、右手の方へ行ってみると
旧古町橋跡

説明文によると;
現在知られている旧東海道は、1648(慶安元)年に出来たもので
それ以前(江戸初期)、芝生追分から上方方面へ向かう東海道は
この辺りを通っていました。新道沿いの「新町」に対しこの辺りは
「古町通」と呼ばれ、帷子川を渡る「古町橋」が架かっていました。




そこで、初期の東海道を少し歩いてみることにしました。

(続)

 

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旧東海道・神奈川台~保土ヶ谷①

2010-09-07 | 旧東海道


前回は神奈川宿のこの上台橋まで歩いたので、


今回はこの場所から、その先の「西区歴史街道」と書かれて
いる、西の方へ向かって歩いて行ってみようと思います。


どんな出会いがあるのかな?


歩き始めてほどなく、右手に
沢渡中央公園

横浜の夏を彩るイベント「
 ヨコハマカーニバル・ハマこい踊り」は
広い芝生のこの公園からスタートします。

また少し先に、涼しげな名前の公園
軽井沢公園

この辺りは、江戸時代から軽井沢という地名だそうです。
「軽井沢」は「涸沢」からきているらしいですね。
遅い夏休みでしょうか、お父さんが幼い子に鉄棒を教えていました。


公園の横から少し入った所に、モダンな建物
学陽山 勧行寺

法華宗のお寺。

   創建: 1595(文禄4)年
開山: 日養上人
       本尊: 大曼荼羅 一塔両尊

境内の左手に
「近藤先生之墓」              ご神木の大公孫樹
     
「近藤先生之墓」は、剣道の天然理心流の流祖 近藤内蔵助長裕の供養墓。
あの新撰組 近藤勇は4代目に当たるとか。新撰組の旗が供えられています。
ご神木の大公孫樹は、市の名木・古木に選ばれています。



西へ向かって歩いていくと、T字路に行き当たってしまいました。


一瞬どう行けばいいか迷ったのですが、辺りをよーく見廻してみると目の前の
車道(R13でした)を渡った先の「八百清」という看板が出ている建物の角を
入って行く道がありました。 これが、街道の続きのような気がします。
行ってみましょう☆



やがて、右側に鳥居が見えてきました。
この道でどうやら間違いなさそう
旧道が新しい道で一旦分断されて続いている例を、これまでも
いくつか経験したので、‘猫’の勘も少しは磨かれたかも(エヘン!)

浅間神社

創祀: 1080(承暦4)年
主祭神: 木花咲耶姫命


説明板によると;
元々神奈川区浅間町にあって、一円の氏神様でした。のちに源頼朝が
1185(文治元)年 現在の地に浅間神社を勧請して社殿を造営したと
伝わります。その後 明治の大火、関東大震災、戦災により焼失・
復興を繰り返し、1959(昭和34)年に漸く新社殿が造られました。



更に西へ向かって歩いて行くと、二叉路になった所に
芝生(しぼう)追分

左は旧東海道、右は八王子道を示しています。
右へ行く八王子道は、横浜開港後 八王子方面から横浜へと
盛んに絹が運ばれたいわゆる「絹の道」です。


左側の道のすぐ先では、大勢の人が道に溢れ
威勢のいい売り声が飛び交っています。
洪福寺 松原商店街


噂に聞く‘横浜のアメ横’。 「キャベツ2個で100円だよ~」などと
毎日が安売デーの活気に溢れた何でもある商店街です。 スゴイ!


道路にまでせり出して置かれている商品と、人の波をよけながら
且つ安値の誘惑と戦いながら、やっとのことで通り抜けました~(笑)

(続)



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小さな秋

2010-09-06 | 花散歩


今日も暑くなりそうですね。
最高気温30何度、と聞いても驚かなくなった自分がコワイ・・

そんななかで、散歩の途中にちょっとした季節の変化を
感じたりするのは 何か嬉しいものです。


コスモスが咲き始めました
「秋桜」という名の如く、秋を感じさせる花の代表格

「 コスモスの かろげに夕の 日ざしかな 」  初女


スズカケ
まだ青々としている今年の実



ヨウシュヤマゴボウ
だんだんと色づいてきました

「 山牛蒡の 葉陰ほのかや 茎の紅 」  寺田寅彦


クズ
秋の七草のひとつですね
     
「 山みちに 石段ありて 葛の花 」  子規


パンパスグラス
青い空によく似合います



涼しくなったら、さぁ 何をしようかなぁ・・

「 くろがねや 秋の風鈴 鳴りにけり 」  飯田蛇笏


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花散歩35

2010-09-04 | 花散歩


気象庁「異常気象分析検討会」の分析によると、
太平洋高気圧とシベリア高気圧が二重になって
日本を覆ったことが、この猛暑の原因とか。

本当に暑くて参った8月でした・・
そんななか、
がんばって咲いていた花や実たちです。


ラセイタソウ(羅背板草)
イラクサ科カラムシ属
変わった名前ですが、葉がラセイタという毛織物に似ていると
いうので、この名。 7~9月ごろ淡黄緑色の花を付けます。
     


カラスウリ(烏瓜)
ウリ科カラスウリ属
以前 真っ赤な実と萎んだ状態の花を見かけましたが、
今回やっと咲いている花を見ることができました。うれし~!
     


オンタデ(御蓼)
タデ科オンタデ属
富士山でたくさん見かけました。 8合目以上はこの花ばかり目立ちます。
本州中部以北の砂礫地に生育し、6~10月に黄白色の花が咲きます。
     


ムラサキモメンヅル(紫木綿蔓)
マメ科ゲンゲ属
富士山で見かけました。我が国固有種で本州の山岳に生える蔓性の高山植物。
レンゲソウの仲間で花も似ていますね。名前の由来を調べてみましたら、
「根が繊維状で木綿質だから」と。 木綿質って?
     


フジアザミ(富士薊
キク科アザミ属
富士山の5~6合目辺りの砂礫地に群生していました。
草丈50~60cmで鋭い棘があります。大きな頭花は下垂します。
     


トモエシオガマ(巴塩竈)
ゴマノハグサ科シオガマギク属
富士山で見つけた可愛い花。我が国固有種だそうです。
本州中部以北に生育する高山植物で、草丈は30~50cm。
紅紫色の花弁がねじれて咲き、巴状にみえるので、この名。
     


イワツメクサ(岩爪草)
ナデシコ科ハコベ属
富士山で見つけました。我が国固有種で、高山帯の砂礫地に生育。
花びらは5枚ですが、二裂しているので10枚に見えるのもありますね。
     


カンナ(実)
カンナ科カンナ属
お馴染みの夏の花ですが、ポンポン状の実が付くんですね。
初めて気が付きました。
     


ハマナス(実)
バラ科バラ属
以前 濃いピンク色の美しい花をご紹介しましたが、その後
こんな可愛い実がたくさん生っていました。食べられると
聞いたのでトライしてみましたが味は、あんまり・・・




コンロンカ(崑崙花)
アカネ科コンロンカ属
散歩の途中、他所様のお庭で見かけてフェンスの
外から撮ったので、うまく撮れていませんが・・
黄色い星形の花と、白い葉のコントラストが印象的。 

白い葉と見えるのはじつは葉ではなく、萼片の
1枚が白く大きくなったものだそうです。

kikyoさんに花の名を教えて頂きました。
ありがとうございます!



フロックス
ハナシノブ科フロックス属
和名:キキョウナデシコ(桔梗撫子)
春~夏にかけて花壇を彩ります。紅色・白色・ピンクと花色多彩。
     
これも散歩の途中で見かけました。 ピンク色と白色の涼しげな花。
何度か前を通りましたが、ずっと咲いていました。花期の長い花です。



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虹色のバラ

2010-09-01 | 花散歩

「レインボーローズ」って、ご存知ですか?
1輪の花の1枚1枚の花びらが、違った色をしたバラだ
そうです。

えっ?



そんなバラがあることを、今日初めて知りました。
興味を持ったのでweb検索してみると・・

こんな花

(webから拝借しました)

造花みたいですが、生花ですって
ビックリです!


何でも、3年ほど前にオランダで開発されたもので
「ベンデラ」という品種の白いバラに、特殊な液体を
吸い上げさせて染めるのだそうです。

でも、1本をどうやってこんな風に染め分けるのでしょう??
その作り方は、トップシークレットなのだとか。
ということは、
今もすべてオランダから輸入されているってことね。


ネット販売されていて、プレゼント用に人気のようです。
こんなバラの花束を贈られるのは どんな方でしょうね~(羨)



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