さてさて 大山街道歩きの続きです。
今回は、前回のゴールJR相模線「寒川」駅からスタート☆
今日は久々の晴天なので、 張り切って行きましょう!
前回の最後に訪ねた「景観寺」前を通る大山道を右へ。
ほどなく 街道沿いの右側に
「一之宮八幡大神」
祭神:誉田別(ほもだわけ)尊 他8柱
創建:1697(元禄10)年と伝わります。
この地に舘があった梶原景時が、舘の鬼門除けに建立したとの説も。
『和名類聚抄(平安中期)』に「左牟河波伊知乃三夜牟良(さむかわいちのみや
むら)」の記載もあり、古くから奉祀されていたと推定される、と説明板にあります。
社殿正面に、立派な木彫の装飾。
少し先の右側に
「如日山 妙光寺」
日蓮宗のお寺で、鎌倉妙本寺の末寺。
開山: 唯常院
創建:年代不明
創建は、開山の没年(1532年)以前に遡ると考えられます。
本尊: 三宝諸尊
手前の道を右へ入って行くと
「山王山 明王院 南泉寺」
真言宗
開山: 善清
創建:天正年間(1573~1592)
本尊: 木造不動明王坐像
門前に、木喰(徳本)上人の六字名号塔。
この比較的狭い地域に 寺社が建ち並んでいることからも、
往時の人々の生活や、交通の賑わいが想像されます。
住宅街の中に入って行くと
「車地蔵」
小田原城主 大森実朝の孫 菊地泰次が1597(慶長2)年に
建立し、子安地蔵尊を祀ったと伝えられています。
江戸時代には、講を組織して参詣する人も多かったそうです。
その先の道を左に行くと、再び大山道に出ます。
「梶原景時館跡」
この一帯は、梶原景時が館を構えた場所といわれます。
2001年の発掘調査で、舘の堀跡らしき遺構が発見されたとか。
梶原景時(?-1200)
「石橋山の合戦」を逃れた源頼朝の一命を救ったことで頼朝の信頼を得て
幕府の基礎を築きましたが、頼朝の死後 讒言などを理由に弾劾を受けて
この地に下向しました。 1200(正治元)年 再起を図り上洛の途中で討死。
(上2枚の画像は説明板より)
館跡から、街道を少し戻った左手の奥に
「梶原一族(七士)の墓」
一族郎党が再起をかけて京へ向かう途中、駿河国狐ヶ崎(静岡・清水)で
討死した者達を弔ったとも、また景時父子の死後 家臣7名が所領安堵を
鎌倉幕府に訴えましたが叶わず、自害したのを弔ったともいわれます。
手前のまだ新しい碑には、景時の嫡男 景季に関する説明とレリーフ。
街道に戻ってR47を平塚方面へ進んで行き、大きく右カーブする所に
「一之宮(河原)不動堂」
本尊:木造不動坐像
制叱(多)迦(せいたか)不動明王
矜羯羅(こんがら)不動明王
制叱(多)迦童子・矜羯羅童子
(いずれも江戸時代の作)
堂前に、力石・不動尊像・道標などが並んでいます。
これらも皆、江戸中期に参詣者が奉納したものだそうです。
やがて、一級河川「相模川」にかかる長さ493mの「神川橋」を渡ります。
橋を渡ると、「寒川町」から「平塚市」へと入って行きます。
(続)