スニーカー履いて

‘猫’も歩けば・・・今日はどんな出会いが?

今年の〆は・・

2011-12-31 | 東京・川崎


(きのうの続き)

日が少し傾いてきました・・
蔵前から、足早に歩いて浅草へ。





浅草演芸ホール

大衆演芸の聖地 浅草六区の雰囲気を漂わせる
落語・漫才・曲芸・マジックなどが楽しめる笑いの殿堂。


六芸神

見過ごしそうな可愛らしいお堂。

江戸中期 浅草寺境内の奥山と呼ばれる辺りは、江戸娯楽の場として
大道芸人たちが芸を披露する場所でした。のちに映画・演劇などの
興行も始まり六区興行街として賑わい、その名が広まりました。

ここには、6人の芸神が祀られているそうです。

唄神 奏神 話神 戯神 演神 踊神
像のモデルは嘗ての有名芸能人だそう。 分かりますか?



伝法院通り
通りのあちこちに、天水桶や火の見櫓など江戸の町の
演出が凝らされていて、歩いて楽しくなる商店街です。


「地口」
地口というのは、江戸時代に流行した駄洒落の言葉遊び。
享保年間(1716~36)に「地口付」という遊びが流行したのが
きっかけとなって、広く浸透していったそうです。
      


あれは、鼠小僧?
千両箱を小脇に抱えて・・



出ました! 歌舞伎十八番の白浪五人男も
      





      









そして、

金龍山 浅草寺

聖観音宗の総本山です。

    創建: 628(推古36)年
   本尊: 聖観音菩薩像
       開山(中興):円仁(慈覚大師)
開基: 勝海上人
江戸浦の漁師 浜成・竹成兄弟が、網で水中から拾い上げた1寸8分の
観音像を、兄弟の主 土師中知が自宅を寺に改め奉安したのに始まると
伝わり
ます。勝海上人が645(大化元)年,寺を整備し本尊を秘仏としました。

この入母屋造り二重門の「宝蔵門」は、1964(昭和9)年に実業家
大谷米太郎夫妻の寄進によって再建された鉄筋コンクリート製。
上層には当寺の文化財が収蔵されているそうです。


境内の「久米平内堂」

江戸前期 剣術に秀で多くの人を殺めた久米平内は、その供養の
ため寺内金剛院で禅に打ち込み、死に臨んで自らの姿を石に
刻ませて多くの人に踏まれることで犯した罪を償いたいと、
人通りの多い仁王門(現・宝蔵門)付近に埋めさせたと伝え
られています。のちに石像はお堂に納められたそうです。
現在のお堂は、1978(昭和53)年に再建されたもの。



浅草神社


祭神:土師真中知命(はじのまなかちのみこと)
     桧前浜成命(ひのくまのはまなりのみこと)
     桧前竹成命(ひのくまのたけなりのみこと)
東照大権現(徳川家康)

隅田川で観音像を拾い上げた兄弟と、像を奉安した土師氏の
3人を神として祀っているので、「三社さま」と呼ばれています。


現・社殿は、1649(慶安2)年に徳川家光公が再建したもの。
江戸初期の代表的な権現造りの建造物として、
国の重要文化財に指定されています。


社殿前の狛犬さんには、「山川町 大工 虎五郎」の銘。
      



さぁ、そろそろ暮れてきました

神社を抜けた所にあるパン屋さんで、美味しい餡入りパンを求め・・





今年の〆は・・・やっぱり此処ですね~

仲見世の賑わいを抜けて、家路へ





年の暮れを感じながらの楽しい散歩でした☆

20,575歩



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薬研堀~蔵前

2011-12-30 | 東京・川崎


(昨日の続き)

都内を歩くのは久しぶりです♪ 
年の暮れですから、ちょっと下町を歩きたい気分


都営地下鉄浅草線「東日本橋」駅から地上に出ると
何やら大勢の人が歩いて行きます。
提灯もずらーり☆




薬研堀不動院
      
真言宗のお寺です。
古くから目黒・目白と並んで江戸三大不動として信仰を集めてきました。

本尊の不動明王像はもと紀州・根来寺にありましたが、兵火を逃れて
江戸に下り、隅田川のほとりに建立された堂宇に安置されたのが
起源とか。1892(明治25)年に川崎大師平間寺の別院となりました。


毎年12月27~29日に歳の市が開かれているそうで
今日29日はその最終日。 多くの人出で賑わっていました。

江戸以来 連綿と受け継がれている下町伝統の風物詩。



すぐ近くの隅田川に出てみると



あ、久しぶりに見るスカイツリー☆




隅田川に注ぎ込む神田川には、屋形船が舫っています。



神田川に架かるのは「柳橋

初めて橋が架けられたのは1698(元禄11)年。
当初は「川口出口之橋」と呼ばれていましたが、いつしか「柳橋」と
呼ばれるようになったそうです。その名の由来は「矢の倉橋→
矢之城(やのき)橋→柳橋」という説、「柳原堤の末にあったから」と
いう説、また「橋の袂に柳の木があったから」という説もあるようです。

現在の橋は1929(昭和4)年に架けられたもので、独・ライン川の
橋を基にした永代橋のデザインを取り入れたそうです。貴重な
近代の土木遺産として、区民有形文化財になっています。

欄干には、周辺の花柳界に因んだ装飾

「春の夜や 女見返る 柳橋」  正岡子規




浅草橋まで歩いて来ました。

さまざまな物を扱う問屋や小売のお店が立ち並び、
新年を迎える用品を商うお店には華やかな飾りが・・




大六天榊神社




祭神: 榊皇大神
健康長寿・諸業繁栄の功徳があるという神社です。


境内の一隅に、高さ4mの立派な石碑
「浅草文庫跡」碑
      
「浅草文庫」は、1874(明治7)年に創設された官立の図書館で
和漢洋の蔵書数が11万余冊とも13万余冊ともいわれましたが、
1881(明治14)年に閉鎖され、蔵書は上野に移されました。
碑は、
1940(昭和15)年に建立されたものだそうです。

跡地は、現・東京工業大学の前身 東京職工学校(旧・東京高等
工業学校)敷地の一部となりましたが、関東大震災で被災したため
目黒・大岡山に移転。 その後に当神社が移転してきたとのこと。





R6(江戸通り)の「蔵前一丁目」交差点のそばに
何やら書かれた説明板が・・・何なに?


天文台跡
説明板によると;
江戸時代後期、浅草橋3丁目辺りに司天台(正式名は「領暦所御用屋敷」)が
ありました。本来は暦を作る幕府の役所で、観測のため 周囲 約93.6m
高さ 約9.3mの築山の上に約5.5m四方の天文台が置かれていました。
「浅草天文台」とも呼ばれるこの天文台は、1842(天保13)年に九段坂上に
移り1869(明治2)年に新政府によって廃止されました。

葛飾北斎の「富嶽百景」の内の「鳥越の不二」に
天文台が描かれています。




「蔵前一丁目」交差点で左折して「蔵前橋通り」を行くと、

鳥越神社




創建: 651(白雉2)年
祭神:日本武尊・天兒屋根命・徳川家康

社伝によれば;
日本武尊が東国平定の道すがら、当時「白鳥村」と呼ばれた
この地に滞在しました。その威徳を偲び、村民が「白鳥神社」を
祀ったことに始まるという、1300年以上の歴史がある古社です。

毎年6月に催される「鳥越の夜祭」は盛大で、東京一重いという
「千貫神輿」の渡御が行われます。


(続)




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今年やっておくこと

2011-12-29 | 雑記


忘れてはならない大切な行事☆
年末恒例のお墓参りをしてきました。

きれいに掃除し、1年の無事息災を感謝して
お花とお線香を供え、とても清々しい気分!

あ~、2011年もいよいよ終わるなぁ・・






その後、これも恒例で

馬場下の「穴八幡宮」へ☆




参拝して、新しい「一陽来復」守りを戴きました。


来年は更に厳しい世相になりそうですが・・
‘融通さま’、くれぐれもよろしくお願い致します!


境内には毎年、縁起物を売る露店が並びます。



鳥居横にある「流鏑馬神事射手像」

1729(享保13)年に 徳川吉宗が世嗣の疱瘡平癒を祈願して
当八幡宮に奉納したのを起源とする流鏑馬は、以来 将軍家の
厄除けや若君誕生の祝いに高田馬場で行われていました。

明治維新後は中断されましたが、1934(昭和9)年 現・天皇の
御誕生祝いに再興。その後数回催されたものの、今度は
戦争のために再び中断。 現在は毎年10月 近くの戸山公園で
「高田馬場流鏑馬保存会」によって
公開されています。
(区指定無形民俗文化財)




また来年の今頃に、此処にこうして来られるように
新しい年も元気に過ごしたいものです!



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うまくいくかな?

2011-12-28 | 花散歩


ご近所さんから、「来年、やってみる?」と
皇帝ダリアの茎を頂きました。


竹のような太い茎を、鋸で10cmくらいに切ったもの




さっそく、教えてもらったように植木鉢へ




土を被せて


このまま春になると、挿し穂が出てくるとか

うまくいくかな・・? 
春を待つ楽しみができました~♪


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YOKOSUKA黄昏

2011-12-27 | 横須賀・三浦


港の黄昏どき









観光船で港を一周する「軍港めぐり」が

結構人気があるようです





この船に乗る
らしい・・
(今日はもう終了)




だいぶ暮れてきました・・



港から数分歩くと、あの「ドブ板通り」



店に灯が入り始めたようです
      


まだ人影はまばらですが
これから‘大人の街’に変身するのかな・・



暗くなったら
良い子は急いでおウチヘ帰りまーす


13,376歩


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年賀状を出しに

2011-12-26 | 散策


クリスマス寒波がやって来て、各地で雪のニュース
今日も、キ~ンと冷え込んだ朝になりました。



日数が残り少なくなってきて、大慌てで年賀状に取り掛かりました。
毎年「来年はもっと手際よく!」と思うのに、やはり押し詰まらないと・・
来し方ン十年、進歩の「し」の字も全く無い‘猫’です
皆さまは、もうお済みですか?


午後 やっと仕上げた年賀状を出しに行きがてら
少し足を伸ばして、つかの間のウォーキング☆



紅葉が陽を浴びて 輝いてみえます
      



いろいろな椿も咲き始めましたよ












こうして、年末にやるべきことを1つ1つ片付けていく中で
少しずつ‘年の瀬’を実感してゆくもののようですね。

見慣れた景色も、不思議と何か違って見えてくるような・・




8 ,908歩





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鎌倉・小町大路

2011-12-25 | 鎌倉・逗子・葉山


鶴岡八幡宮に向かって真直ぐ伸びる「若宮大路」に
ほぼ並行する「小町大路」を歩いています。


車の往来の激しい道の右側に、

日蓮上人辻説法跡」

往時 この辺りは武士の屋敷と商家が混在し、人の往来が
盛んでした。鎌倉に入り松葉ヶ谷に庵を結んだ日蓮上人が
日毎 路傍に立って説法を行った場所といわれています。



ほどなく、今度は左手奥にお寺の山門



叡昌山 妙隆寺

日蓮宗のお寺

   創建:1385(至徳2)
開山: 日英上人
開基: 千葉胤貞

 この辺りには、鎌倉幕府御家人 千葉氏の屋敷があったようです。
当寺第2代 日親上人は、宗祖日蓮に倣い『立正治国論』を献じて
室町幕府第6代将軍 足利義教の政道を諌めたことで弾圧され、
灼熱の焼け鍋を被せられましたが自説を曲げなかったとか。

「鍋かむり日親」と呼ばれる上人が、寒中 百日水行を
行ったとされる「血の池」が、本堂前にあります。



境内のお堂には、「鎌倉江ノ島七福神」の
寿老人像(欅一木造り)が祀られています。





道々 民家の美しい竹垣が散歩の目を楽しませてくれます




路地を入った所にも






「祇園山ハイキングコース」への上り口に、 1924(大正13)
建造の鉄筋コンクリート製のアーチ橋が架かっています。
「かまくら景観100選」に選定されています。

東勝寺橋



小町大路に戻って、左手の碑は

青砥藤綱邸跡

東勝寺橋の下を流れる「滑(なめり)川」に落とした十文銭を
探すための松明を五十文払って買い集め
たという、歌舞伎で
お馴染みのエピソードが残る青砥藤綱は、北条時頼の家臣。



さらにその先、左側の碑は

土佐坊昌俊邸跡

昌俊はもと奈良・興福寺金剛堂の堂衆で、のちに源頼朝に臣従。
頼朝が京の義経を誅殺せんと御家人から人を募り、名乗り出る
者がなかったとき、進んでその任を引き受けて京・堀河館の
義経に夜襲をかけましたが、逆に捕らえられて殺されたとか。



やがて、右側に

北条執権邸跡

嘗て この辺りに北条氏の屋敷があったとされます。

新田義貞の鎌倉攻めにより滅亡した北条高時をはじめと
する北条一族の霊を弔うため、後醍醐天皇の命によって
足利尊氏が建立したお寺があります。

金龍山 円頓 宝戒寺




天台宗のお寺

  創建: 1335(建武2)
     開山:五代国師(円観慧鎮)
開基: 後醍醐天皇
    本尊: 木造地蔵菩薩像
                   (国指定重要文化財)

「鎌倉江ノ島七福神」の毘沙門天が祀られています。
秋の白萩が美しく、「萩の寺」としても有名ですね。

境内には、聖徳太子を祀る「太子堂」や「得宗権現社」など
      


今日の小町大路歩きは、このお寺をゴールとしましょう~

17,487





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名残の紅葉

2011-12-23 | 鎌倉・逗子・葉山


陽射しのない寒い1日になりました。

白いものが今にも落ちてきそうな雲行きですが・・贅沢は言えません。
寸暇を惜しんで(笑) 出かけま~す


紅葉の最盛期はそろそろ終わりに近くなりましたが、
鎌倉なら、まだ名残の紅葉が見られるかも!
 
で、
比企ヶ谷の妙本寺さんに行ってみました。















大イチョウもまだ、黄葉が残っていました
      


鐘楼






まだ十分楽しめました☆ よかった~




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海まで

2011-12-20 | 散策


今日も冬晴れ
時間が空いたので、ちょっと海までひと歩きしてこようっと☆

ぽかぽか陽射しで・・








海辺の公園に着きました


あちらこちらに、スイセンが咲いています
      

ウメモドキかな?




もう 冬色ですね・・



消波ブロックの黒い影は ウミウ?



海を見つめるお地蔵さまも
しっかり寒風対策・・






年の瀬にこんな好天が続くと、主婦は助かりますね

12,510歩


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横須賀・鷹取山

2011-12-14 | 横須賀・三浦


逗子・横須賀の2市を分ける尾根伝いに、「鷹取山」を目指します。



ごろごろした岩の間を抜けたり・・



少し下界が見下ろせたり・・

「十州望」

標高 134.2
十州(相模・武蔵・安房・上総・下総・下野・伊豆・駿河・甲斐・常陸)を
一望できたといいますが、現在は樹木が生い茂って望めませんね・・


鎖場では、ちょっとトレッキング気分?




山頂展望台が見えてきました☆
あとひといき!



標高 139にある展望台からの眺望







鉄塔の向こうに、富士山も小さく見えました☆


その昔 行基が神武寺開創の際、鷹に乗って現れた薬師如来の
お告げによって浅間神社を祀ったといわれ、前浅間・後浅間・
親不知という三つの峰があったそうです。 

「鷹取山」の名は、嘗て太田道灌が鷹狩をした場所だからとか
空高く飛ぶ猛禽類の住む高い場所だからともいわれています。
いにしえ人が畏怖の念で見上げる山だったのかもしれませんね。



この山を形成する凝灰岩は「鷹取石」と呼ばれ、明治~昭和初期に
建築用資材として盛んに切り出されていました。そのため、その
独特の山容から、「湘南妙義」と呼ばれることもあるそうです。

新田次郎の小説「銀嶺の人」の中に此処の岩場が登場し、
「岩壁が三面鏡のように・・・」と表現されています。

無数に打ち込まれたハーケンの跡


今日も・・

岩質が軟らかく危険なため、岩登りは原則禁止されていますが、
山の清掃をするなどして特別に許可を得た人達かもしれません。


「弥勒菩薩坐像」

前浅間の磨崖仏は、逗子在住の実業家 川口満氏の熱意に
横須賀在住の彫刻家 藤島茂氏が協力して制作したもの。
高さ 8m    4m  1962(昭和37)年完成

釈迦如来像も制作されましたが、鷹取小学校建設のため
制作の2年後に撤去されてしまったとか。 もったいない!




あとは、「京急田浦」駅に向かってひたすら下って行きます。
この道も、ふかふか落ち葉絨緞の楽しい道でした☆




地元の人に「がらめき」と呼ばれている切通し

古道浦賀みちの難所で、当時の面影が残っています。
おもしろい名は、崖の崩れる音が語源かもしれません。




天候に恵まれて楽しく歩き、よい気分転換になりました。
さぁ、明日からまたがんばるゾ~!

18817



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神武寺の秘仏

2011-12-13 | 鎌倉・逗子・葉山


医王山 来迎院 神武寺」は、緑豊かな山稜に位置し
寺域の自然林は特にシダ植物の宝庫で、さながら
深山に分け入る気分にさせてくれる天台宗の古刹です。

縁起によれば;
724(神亀元)年 聖武天皇の勅願により行基の創建と伝わります。
平安時代には文徳天皇の勅願所となり、857(天安元)年には
延暦寺座主円仁(慈覚大師)により法相宗から天台宗に改宗。
鎌倉時代には、源頼朝・実朝ほか武士階級の帰依を受けました。
江戸時代に入っても幕府の寄進を受け、寺勢を保持し続けました。

山岳信仰の寺院として、長い間女人禁制でした。




切通しの先に、客殿と庫裏があります。




客殿には、鎌倉後期作の「阿弥陀三尊像」が祀られています。
(思いがけなく、撮影の許可が頂けたので・・)




切通し横の石段を上ると、
「三浦半島八景※」の「神武寺の晩鐘」で知られる「鐘楼」。
      
1859(安政6)年築  梵鐘は1950(昭和25)年鋳造

※三浦半島八景
神奈川県が半島地区の4市1町と協議のうえ選定委員会を
設置し、2001(平成13)年に次のように選定されたそうです。
・大塔(鎌倉宮)の夜雨     ・神武寺の晩鐘  
・燈台(燈明堂)の帰帆  ・猿島の晴嵐  ・大仏の秋月  
・城ヶ島の落雁  ・長者ヶ崎の夕照  ・建長寺の暮雪 


六地蔵の先の、朱塗りの「楼門」は
1761(宝暦11)年建立と伝わります。



「薬師堂」
行基が建立したといわれるお堂は火災で焼失、現在のお堂は
1594(文禄3)年に徳川家康が復興したものだということです。

いつもは大変静かなお堂が、今日こんなに賑わっているのは
毎年この日(12月13日)
午前中に「お煤祓法会」が行われるから。
祀られている本尊の薬師三尊像は、33年に1度ご開帳の秘仏ですが
お煤祓法会のこのときだけは、拝観をすることができます。
もちろん撮影はできませんが、間近に拝観できる貴重な機会です☆


先ほどの客殿にあったご本尊の複製画像を、代わりにご紹介しましょう。
柔和なお顔立ちの優しい仏さまでしたよ。 市指定重要文化財




境内の一隅にある「みろくやぐら」は、鶴岡八幡宮雅楽所の首長だった
中原光氏(みつうじ)の墳墓窟で、正応3(1290)年銘の弥勒菩薩坐像が
祀られています。 その周囲には、卵塔がずら~り。



このように埋葬者が明らかな「やぐら」は珍しいそうです。



裏参道に続いている「総門」をくぐると

1733(享保18)年築



また 山道を登って行きます。



(続)


 

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東逗子を歩いて

2011-12-13 | 鎌倉・逗子・葉山


今日は、逗子の古刹「医王山 神武寺」を訪ねます。
市発行のウォーキングガイドマップにある 神武寺に行く
3つのコースのうち、今回初めてのコースを辿ります。


JR「東逗子」駅から踏切を渡り、北に少し歩いたところに

長谷山 海宝院

曹洞宗のお寺です。

創建: 1590(天正18)年
  開基:長谷川七左衛門長綱
   開山:之源臨乎(じげんりんこ)
   本尊:十一面観世音菩薩坐像

もとは横須賀にあった「良長院」を慶長年間に此処へ移したといわれます。
長谷川長綱は徳川家康に信任され、天領であった三浦半島全域を治める
初代総代官に任ぜられて浦賀に陣屋・役所を置き、検地を行いました。
寺域内に長谷川一族・之源臨乎の墓所があります。


朱塗り茅葺の山門は創建当時のままといわれ、室町末期の
様式を色濃く残している典型的な禅宗様の四脚門です。
市指定重要文化財


      


本堂内の銅鐘

徳川家康から拝領した鐘と伝わり、「応永10年」の銘があります。
北条早雲が三浦の新井城を攻めた際、陣鐘に使われたとか。
神奈川県重要文化財に指定されています。


墓地には、徳川水軍の将 御船手奉行で長谷川氏の縁筋にあたる
向井将監忠勝夫妻や、日本画家 中村岳陵画伯(1890-1969)、

東京都知事 石原慎太郎氏のお宅のお墓があります。




海宝院を出て「田越川」沿いに歩いていくと、

開宮山 光照寺

真言宗のお寺。

創建などは不明ですが、平治の乱(1159年)に敗れた源義朝の
長子 悪源太義平の供養のために建立されたお寺と伝わっています。
本尊 木造阿弥陀如来立像(鎌倉後期)は県指定重要文化財。




田越川に沿ってさらに進み、右手に富士山を遠望
しながらJR横須賀線の踏切を渡ると、すぐの所に

五霊神社


源義朝の勧請と伝わる沼間の総鎮守で、祭神は天の岩戸を
開けた剛力の持ち主 天手力男命(あめのたぢからおのみこと)。




ご神木の大イチョウは、推定樹齢600年 樹高25m 幹周り6.7m。
県指定天然記念物で、「かながわ名木100選」に選定されています。
      




踏切を再び渡って戻り、そのまま北の方へ歩いていくと

沼間山 法勝寺

日蓮宗のお寺。

言い伝えによれば;
聖武天皇の730年頃、この地の守護 長尾善応が7つの頭を持つ
大蛇の害に困って行基に助けを求めました。行基は3日3晩で
阿弥陀如来像を刻み小船に安置して読経を続けたところ、
大蛇は鎮まり、その後は地域の守り神になりましたトサ。

その後 一時期荒廃しましたが、天台宗のお寺として復興。
鎌倉時代に日範上人が法論に勝って日蓮宗に改宗、改名しました。

墓域には、
蕉風を受け継いだ近代の俳人で全国に7~8千人の弟子がいたという
松竹庵梅月師(1874-1942)のお墓があり、立派な句碑も建っています。
(書は、2世 松竹庵酔月の達筆)

      
辞世の句 「須里鉢に 那匁尽く作礼し 蕗の 」
 (擂鉢に)  (舐め尽くされし)


境内の一隅にある可愛らしい像は
北村西望 作「喜ぶ少女」



この周辺は古くは沼浜郷といい、源義朝の居住していた
「沼浜亭」という館があったと、『吾妻鏡』に記されています。
今は、境内にある幼稚園の子供達の元気に駆け回る歓声☆



法勝寺横の細道から、さぁ いよいよ
神武寺に通じる山道へと入って行きます♪
がんばって歩きましょう~!



(続)


 

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衣笠城址

2011-12-12 | 横須賀・三浦


菖蒲園から、だんだんと山道に入って行きます。






今はハイキング・コースになっているこの道は、その昔
三浦氏攻略の命を受けた畠山重忠の軍勢が、葉山の
畠山城から衣笠城へ馬を進めた古道だとか。

馬一頭が通れるほどの細い山道は左側は崖、右側は谷。
崖の上から矢を射掛けられたら、谷へ落ちるしかありません。


この道は、乗馬の訓練にも使われていたようで、途中には
馬に水を飲ませるための井戸の跡や、武者溜まりだった
のではないかいわれる広場の跡があったりします。

馬の井戸跡


何だか、馬の蹄音が聞こえてきそうな気がしてきます・・







やがて、衣笠城の搦め手口から




衣笠城址


城跡といっても、当時は山城で石垣や天守閣があるわけではありません。
山麓を流れる大谷戸川・深山川に挟まれ、半島状に突き出した丘陵です。

源頼義に従って前九年の役に出陣した村岡平太夫為通(三浦氏の祖)が
戦功により三浦の地を与えられ、その所領の中心で要害堅固なこの地に
二つの川を自然の堀とし、康平年間(1058~1064)に城を構えました。

この場所は、城内で最後の拠点となる詰の城と伝わる平場です。
(横須賀市指定史跡)


ここには「金峯山蔵王権現」を祀った社がありました。
それを記した碑が1基



平場の西の最も高い場所に、「物見岩」と呼ばれる大岩。
現在は樹木が茂り視界は良くありませんが、
岩の西側は急峻な谷となっています。
 

まさに、三浦一族の‘夢の跡’・・


本日の歩数は 30959



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初冬の菖蒲園

2011-12-11 | 花散歩


横須賀しょうぶ園」は、花菖蒲や藤の季節には大勢の人で
賑わいますが、花もほとんど無いこの時期はとても静か。
入園も無料になり、のんびり散策する人の姿がちらほら・・




展望台に上ってみると
刈入れ後の田んぼのような殺風景な菖蒲田の先に



燃えるようなメタセコイア



あずまやの辺りでは、カエデが少し色づいていました



ひと息入れたら、衣笠城址まで足を伸ばします☆








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木古庭

2011-12-10 | 鎌倉・逗子・葉山

 

やっと晴れました~☆
空気はすっかり「冬」の週末ですが、元気にいきましょう!



木古庭(きこば)は、葉山東端の山合いにある静かな地域で
江戸時代の海防の要衝 浦賀へ通じる街道筋にあたります。

R27から「木古庭大沢橋」を渡り、坂道を上って行くと

瀧谷山 瀧不動堂

平安末 平氏の命を受けた畠山重忠が衣笠城の三浦氏を
攻める際、戦勝を祈願して不動明王を祀ったと伝わります。

本尊の不動明王像は、重忠の念持仏で
「身代わり不動」とも称されます。



不動堂の石段を下ると、すぐ右に

不動滝
      
落差約5mの三浦半島で最大といわれる滝です。
古くから修験者も修行したと伝わり、傍らに小さな不動像。
滝の向かい側には、嘗て茶店も出ていたとか。



急坂を上りきった所に おもしろい物を発見!
      
(画像が分かりにくいですねぇ・・・スイマセン)
普通は横向きのカーブミラーが、ここでは真下に向いています。
ミラー前後の道が大変急な坂で、対向車が見えにくい為のようです。



「不動坂」交差点で
再びR27に出て、暫く歩き
横横道路の高架をくぐってから右の道に入って行きます。

古道「浦賀道」の、だらだらと続く坂は「高祖坂」。 
その昔 房総から布教のため鎌倉をめざす高祖(日蓮上人)が
通られた道だというのが、坂の名の由来だそうです。
坂を上りきった場所に

高祖坂の庚申塔
      
1694(元禄7)年造立の銘があり、葉山町指定重要文化財。



市民農園の横を通り、古道の趣が
色濃く残る道を暫く歩いて行くと



道の角に、赤い頭巾のお地蔵さま。
境地蔵

1735(享保20)年造立の銘。
葉山では、字名から「藪地蔵」と呼ばれています。
この辺りが、葉山町と横須賀市の境になるようです。
きっと、道標の役目も果たしていたのでしょうね。


のどかな山里の風景が広がっています☆







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