出先で、待ち合わせの都合から思いがけなくポッカリと
時間が空いてしまうことって、ありますよね。
街なかならカフェを探してしたり、本屋さんで
立ち読みしたりして時間を過ごすのですが、
お店が無い場所ならば・・・‘花探索’ですね☆
今日も、約束時間よりだいぶ早く着いてしまったので
カンピューターを頼りに、梅が咲いていそうな場所を探してみました。
鳥居が見えました。
境内に、梅の木はあるかな・・・?
少し変わった神社です。
普通は、鳥居の先の石段を上ってご本殿に参拝しますが
ここは鳥居をくぐってから、石段を下っていくんですね~
「細山神明社」
細山地区(川崎市麻生区)の鎮守で、鎌倉初期の創建と伝わります。
祭神: 天照大神
倉穂魂神
児屋根命
五十猛命
猿田彦命
説明板によると;
当初 東に向かって社を建てたところ、一夜のうちに西向きになって
おり、驚いた村人達が東向きに直すと、次の日また西に向いており・・
そんなことが度重なったある夜、名主の夢枕に立たれた神様が
「この神明社は村の東端にあるため、東向きで村に背を向けて
いたのでは、大事な村を守ることができないではないか」と・・
以来、
お告げ通り、西向きの社殿に坂を下って参拝する形になったとか。
ここの境内には、残念ながら梅は見当たりませんでした。
では、もう少し足を伸ばして・・
500mほど歩き、右手の坂を上っていくと
「南嶺山 香林寺」
臨済宗のお寺です。
創建: 1525(大永5)年
開山: 南樹宝泉禅師
本尊: 十一面観音菩薩
ご本堂の左から、三十三観音石像が並ぶ坂を上ると
立派な五重塔。
とくに説明書きはありませんが・・
お寺の周辺を歩いてみました。
土の道の両側に林や畑が広がる高台からは、市街が一望でき
晴れた日の散策は、きっと気持ちの良いことでしょうね。
本来はこうした里山だった場所に、新興住宅地が近くまで
迫ってきていて、だいぶ様変わりしつつある地域のようです。
あ、
見つけましたよ、梅林~♪
かなり広い平地に、梅の木が数十本☆
満開の木も、まだこれからという木もあります。
なかなか良い梅見ができました~
~満足~
鎌倉市北部から横浜市南部にかけてのかなり広い地域は
平安時代、山内首藤(やまのうちすどう)氏の荘園でした。
今日は武家興隆の源となった山内の荘園地帯と、そこを開発した
首藤一族に思いを馳せながら、ガイドさんの案内で散策しました。
藤原秀郷(通称 俵藤太)の流れを汲む藤原資清(すけはる)は、主馬の
署(つかさ)の長である主馬首(しゅめのおびと)に任ぜられ、以後首藤氏と
称されるようになり、源氏との結びつきを強めて源頼義の郎党となりました。
首藤氏が山内に土着して山内首藤氏と称されるようになったのは、
12世紀前半(平安時代)首藤義通(よしみち)・俊通(としみち)父子が
源氏との関係から、山内を所領とするようになった頃だといわれます。
円覚寺と建長寺の間を北東に広がる谷戸を「明月ヶ谷(やつ)」といい、
現在の横須賀線踏切の右手辺りに、首藤氏の屋敷はあったようです。
JR「北鎌倉」駅からスタート、JR横須賀線の下り線路沿いに歩き
‘あじさい寺’の明月院前を通って、明月ヶ谷へと入って行きます。
今泉台の住宅地の中に、緑深い森の公園があります。
「散在ヶ池森林公園」
散在ヶ池(別称:鎌倉湖)
江戸時代末 耕地用水を確保するために造られた人造湖で
周囲772m 最大水深7.6m 面積約13ha。 周囲の鬱蒼と
茂る森には、1,000種もの動植物が生息しているそうです。
1982(昭和57)年に、森林公園として開園しました。
やの季節に、天園ハイキングの続きで何度か来たけれど
季節外れのこの時期は初めてです。 んー、独りではちょっとねェ・・・
公園を抜けてバス通りを渡り、少し先の細い階段を上ります。
この階段、以前から気になって上って行ってみたかったので
畑の先の杉林の中を、道が続いていました。
視界が開けると、右下に「鎌倉パブリックゴルフ場」
やがて左手には、里山風景の向こうに市街が・・
鎌倉市から横浜市へと入ってきたようです。
「皆城(みなしろ)山」
標高 101m
見晴らしのよい山頂には、荘園を見渡す砦(見張り台)があったかも?
展望台からのすばらしい眺めも、今日は生憎の空模様で・・・
それでも、首藤氏の荘園の広大さを偲びつつ・・
眼下に広がる住宅地は、栄区桂台。
横浜市側へ下ってきました。
変化に富んだ景観が広がっています。
鎌倉・今泉の森から続く自然がまだ残るこの辺りにも、開発の波は
押し寄せ、養護老人施設などの新しい施設が建てられている一方で
「荒井沢市民の森」などの自然が、市民の手で維持されています。
「矢沢堀小川アメニティ」
散歩木道・水車・トンボ池など、心安らぐ風景。
「五峯山 一心院 証菩提(しょうぼだい)寺」
真言宗のお寺。
創建: 1189(文治5)年
開山: 伝・大進僧都宗弁
開基: 源頼朝
本尊: 阿弥陀如来
石橋山の戦で頼朝を逃がすために戦死した佐那田(真田)与一義忠を悼んで
頼朝が鎌倉の鬼門にあたるこの地に建立。古くは「無量寿寺」と称しましたが
後に義忠の父・岡崎四郎義実の法名に因んで、「証菩提寺」となりました。
本堂裏の丘に、岡崎義実の墓と伝わる五輪塔があります。
寺宝のご本尊 阿弥陀如来像(国指定重要文化財・鎌倉期)と、
収蔵庫の阿弥陀三尊像(平安期)等を、間近に拝観しました。
昨春 石橋山古戦場跡を訪ねた際、海を見下ろす丘の上に
「佐奈田霊社」という小さなお社があったのが思い出されました。
この辺りは刀剣の製造地として、また食料補給地として
鎌倉武士の興隆に大きく寄与した地域だったようです。
証菩提寺をあとにして橋を渡り、「いたち川」に沿って歩きます。
源流に近いこの辺りでは、まだささやかな流れですが・・
下流で柏尾川、藤沢で境川に合流して相模湾に注ぎます。
「いたち川」周辺は、奈良・平安の昔から穀倉地帯の中心地でしたが
現在は栄区のシンボル・リバー。 川沿いに住宅が並んでいます。
「いたち橋」
いたち川を離れてR23を渡り、本日最後の見学場所に向かいます。
「春日神社」
たくさんの石段を上って、ご本殿に到着。
平安時代 山内首藤氏が荘園の中に奈良・春日大社を
勧請して創建した神社であると考えられています。
祭神:春日大明神
首藤氏は石橋山の戦で平家方についた為、この地は土肥実平に預けられ
のちに和田義盛、和田の乱以後は北条義時の所領となりましたが、幕府の
崩壊とともに、当神社も衰退。 戦国時代 後北条氏により再建されました。
現在の本殿は「中宮」といわれ、
四面を飾る木彫(江戸末期)が見事です。
山内首藤氏に関する資料は大変少なく、ガイドさんも説明に
ご苦労なさっていました。 何しろ古い時代のことですから・・
でも歴史に疎い‘猫’にとっては、鎌倉から横浜へ初めての
道を歩くことができただけで、充分に楽しい1日でした☆
27,487歩
見晴らしの良い峠道を歩いています。
茶畑の向こうに、初島がうっすら霞んで見えて・・いる筈(笑)
あとは、網代に向かって緩やかに下っていくようです。
刻みの入った大きな石がありました。
「石丁場跡」
大石を割るにはまず矢穴を穿ち、堅い木や鉄のV字楔を
打ち込んで割るそうで、その穴が残っています。
1606(慶長11)~1636(寛永13)年 江戸城の大規模な増修築の際
諸大名に工事の分担が課せられ、真鶴(相模)から稲取(伊豆)にかけて
多くの石材が採掘されて、船で江戸へと運ばれました。
この辺り一帯は、加藤忠広(熊本)・細川忠興(小倉)・大村純信(大村)
各氏が担当して石を伐り出しました。 当時運び残された伐り石が
多数残されていて、担当大名の刻印が印されています。
その先の、「長谷寺」へ下る石段にも、楔のあとが・・
石段を下った所に2基の石碑。
「東海呑吐居士碑」 「隠山亭阿たる碑」
熱海俳壇の祖 東海呑吐(どんと)師の供養碑と弟子の句碑。
いずれにも「天明」の刻銘。 呑吐の没年だそうです。
呑吐は庵号を無壁庵と称し信州の武士でしたが、浪々の後
小田原藩主に仕え、熱海伊豆地方の俳諧指導に当たりました。
呑吐の絶句 「散るときは はてしれなくて 秋の月」
阿たるの句 「神として 高天原に おくらるる」
前方の広い境内に、朱塗りの観音堂。
「長谷(ちょうこく)寺」
行基上人の作と伝わる一木三体観音をご本尊とする古刹です。
1本の木から3体の観音像が彫られたものの1体だそうで、
あとの2体は、奈良・長谷寺と鎌倉・長谷寺の観音像です。
こちらの御像は、33年毎のご開帳(前回は1996年)とか。
右手の竹林に囲まれた中段に、ずらり並んだ33体の石仏。
「三十三所供養観音像」
江戸時代 網代が港として栄えた頃、観音を信仰する里人によって
造立されたものだそうです。 「寛政」「嘉永」などの銘があります。
聖観音・千手観音・馬頭観音・如意輪観音など、様々なお姿。
石段を上って元の道まで戻り、少し先の「朝日山公園」でタイム。
食後30分ばかり休憩の後、網代の街に向かって下って行きます。
ゴールは目前☆
「網代(あじろ)港」
江戸時代には廻船港、近年は近海漁業基地として栄え
漁師町の雰囲気が色濃く漂う静かな港町です。
沖に浮かぶ四角い筏で、ハマチなどを養殖しています。
潮風に揺れるワカメのカーテン
潮の香漂う海岸で、約9kmのウォーキング終了です!
今回は、歴史に思いを馳せながら楽しく歩けました。 周辺には
他にも、石切場を巡るいくつかのハイキングコースがあるようです。
機会があれば、また歩いてみたいですね~
21,269歩
ツアーに参加し、伊豆古道(東浦路)を宇佐美から網代まで歩きました。
東浦(ひがしうら)路は、伊豆半島の東側を通っている道で1,000年も
昔からあるという古道。 昭和になり海岸線に車道が出来るまで
伊豆半島東海岸で唯一の街道でした。
伊豆に流された源頼朝も、下田の黒船を追った吉田松陰もこの道を
歩いたと考えられます。 時代の推移と共に多くが消失し変貌した中で
奇跡的に往時の姿が残されている古道も通るので・・もうワクワク
JR「宇佐美」駅近くの「宇佐美コミュニティセンター」から出発。
山に向かって、暫くは人家の間の舗装された坂道を歩き
やがて分岐から左手の道に入って行くと、正面に鳥居が・・
「比波預(ひはよ)天神社」
創建の詳しい年代は不明ですが、1,000年以上前から
続いていると言われる、宇佐美最古の神社です。
祭神: 加理波夜須多祁比波預命
(かりはやすたけひはよのみこと)
境内にある根上がりの古木は、ホルトの木。
樹高18m 目通り6m90cm 根周り10m
神社の脇の坂道を上って、山道に入って行きます。
落葉の絨毯の道を歩いて行くと、路傍にさまざまな歴史の面影が・・
「朝善寺への道標」
「南無妙法蓮華経」 「左 いとうみち 右 ○※△・・?」
山田の朝善寺は日朝上人が開いた日蓮宗のお寺で、上人自ら眼病平癒の
守り本尊となり、遠方からの参拝者が多かったため建てられた道標とか。
「刻印石」
この一帯は、江戸城の石垣に使う石を伐り出す「江戸城石丁場」が
あった所で、刻印が彫られた石が残っています。
樹木の間の落葉の道が続きます。
「吉田松陰先生腰掛け石」
たしかに座り心地のよさそうな平石です。
下田を目指した松蔭さんも、腰を下ろして汗を拭いながら
海の向こうに熱い思いを馳せたかもしれない・・ロマンですね~
石の表面に、小さな文字のようなものがみられます。
この石も、伐り出された石のひとつかもしれません。
いにしえ人たちは、どんな思いを抱いて此処を通っていったのでしょうね・・
「峠の馬頭観音」
台座に「村内安全」と彫られています。 寛政9年に建てられた
ものだそうですが、今でもきちんと守られているようです。
「法界萬霊塔」
昔は悪霊や災難が村に入って来ないように、こうした石塔が
村境や峠などに祀られたようです。 1816(文化13)年建立。
山道が切れて急に視界が開けました。
伊豆大島を望むこの辺りに、嘗て「大島茶屋」という茶屋があったそうです。
宇佐美~網代の東浦路の中で、最も高い峠(標高288m)です。
一帯は「南熱海が丘」という別荘地が広がっています。
山道から離れ、おしゃれな住宅が並ぶ広い舗装道路になりました。
分譲中ですって・・・いかが?
そろそろ時分どきですが、もう少し先まで行ってからにしましょう。
(続)
今日は「立春」☆
天神さまの梅は、もう咲いているかな?
「荏柄(えがら)天神社」
創建: 1104(長治元)年
祭神: 菅原道真公
古くは「荏柄天満宮」とも称し、大宰府天満宮(福岡)・北野天満宮
(京都)と並んで、日本三天神のひとつに数えられてきました。
説明板によると;
平安時代中頃、雷雨と共に天神の姿絵が降りてきたのを
里人が敬い、神社を建てて祀ったのが始まりとされています。
源頼朝が大蔵(現・雪ノ下3丁目付近)に幕府を開くと、その
鬼門の守護神として武士達の崇敬を集め、大いに栄えました。
社殿の奥に建つ本殿は、1622(元和8)年に始まる鶴岡八幡宮造営に際し
八幡宮若宮を此処に移築したと考えられています。 国指定重要文化財。
社殿前の左右に、紅白の梅
この時期は特に、学問成就を願う参拝者が次々と・・
社殿の周りには、びっしりの絵馬!
天神さま、さぞかし大忙しでしょうね~
梅鉢紋の付いた門の右手 天神さまが降りたといわれる
場所には、市指定天然記念物になっている大公孫樹。
高さ 25m 胴回り 10m 推定樹齢 900年とか。
鶴岡八幡宮の大公孫樹が倒れてしまった今は、この木が
鎌倉一の公孫樹の古木ということになっているようです。
境内右奥には、「熊野権現社」
洞窟の奥に祠があります。
境内左手には、「かっぱ筆塚」
(写真を撮るの、忘れました・・・)
注連縄をめぐらした巨石の下に、漫画家 清水崑氏愛用の絵筆が
納められているとか。石には、川端康成氏による「かっぱ筆塚」の
文字と、清水氏によるかっぱの絵が刻まれてありました。
2/25 天神さまの前を通りかかったので、前回忘れた
「かっぱ筆塚」を撮ってきました~
それがコレです ↓
かっぱの絵と「かっぱ筆塚」の文字(わかりにくいけど・・)
その奥に、筆の形をした「絵筆塚」
1989(平成元)年建立。
当時 日本漫画家協会所属の漫画家有志が、それぞれの
キャラクターを河童のモチーフで描いた154枚の絵が
筆の柄に当たる部分にレリーフになっています。
一目で誰の絵か‘猫’にもわかる、そうそうたる顔ぶれで
見ていて飽きない、スゴく楽しい絵筆塚でした♪
蝋梅が今、あちこちで綺麗に咲いていますね☆
散歩の途中、十数本並んでいる蝋梅が満開でした。
青い空に映えて素敵です。
黄色い花は春を連れて来る、と言われますよね。
そういえば、春に先がけて咲く花には黄色が多いかも・・
暖かさを感じる色 元気をくれる色ですね
ふっくらと丸みがあって中も黄色いのは、
ソシンロウバイ(素心蝋梅)?
「 蝋梅の 花に唸れる 蜂の声 めづらしくして 相見つるかな 」
尾山篤二郎
「 蝋梅や 雪うち透かす 枝のたけ 」 芥川龍之介
蝋梅の花言葉は、「慈愛の心」
北アメリカ原産のクロバナロウバイ(黒花蝋梅)という種類は
暗赤褐色の花が5・6月頃に咲くそうです。 見てみたいナ!
補陀洛寺から右手に伸びる路地に入ると、突き当たりは墓地。
行き止まりかと引き返そうとすると、右の方から人が現れました。
どうやら、どこかへ通じる路地のよう・・ 行ってみましょう☆
墓地の角を曲がると・・
きゃぁ、ホントに人一人がやっとの幅!
本日最狭の路地~
左が墓地 大津垣☆
この辺りは、最近ではあまり見られなくなった趣のある生垣や
板塀、趣向を凝らした竹垣など思いがけない出会いがいろいろ
あって、古都の‘小路歩き’をひときわ楽しいものにしてくれます。
気儘にぐるぐる歩き回るうち、ふと目に留まった四つ目垣の家。
表札を見て、あ、と思い出しました~
この辺りにあると聞いていましたが、此処がドイツ文学者で
『ビルマの竪琴』の著者 竹山道雄氏(1903-1984)のお宅ですね。
表札はその儘になっていますが、空き家・・?
竹山邸の前の道を、山と反対の方向へ行くとバス道に出ました。
これを左へ行くとすぐに、見覚えのあるお寺の総門。
「天照山 蓮華院 光明寺」
浄土宗の大本山です。
創建: 1243(寛元元)年
開山:然阿良忠上人(記主禅師)
開基:北条経時(第4代執権)
本尊: 阿弥陀如来像
江戸時代 徳川家康が、浄土宗の学問所として関東18檀林を
定めたとき、その首座となっておおいに繁栄しました。
総門・山門・千手院・蓮乗院・大殿・開山堂・鐘楼・客殿など。
後花園天皇ご真筆の扁額
一部改修中で、古代蓮で有名な庭園は拝観できませんでしたが
海に向かって建つ堂々たる大寺の風格と、誰でもご本堂に
上がって拝観できるおおらかな雰囲気が好きです。
「三尊五祖の石庭」
総門の脇に書かれた文言がいいですね。
「南無阿弥陀仏 子供叱るな来た道じゃもの 年寄笑うな行く道じゃもの」
今回の探検‘小路歩き’は、この言葉をゴールと致しましょう☆
20,237歩