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スニーカー履いて

‘猫’も歩けば・・・今日はどんな出会いが?

印旛の村を歩く

2010-04-14 | 他県

 

頂いたウォーキング・マップを手に、周辺を歩いてみました。

道端や土手には、花がいっぱい!


    



畑の中の道を歩いて行くと、四つ辻にポツンと一軒家。


さくら広場
戦後間もなく建てられ、2005(平成17)年まで駄菓子屋として
親しまれていた建物です。むき出しの梁や黒光りする柱など
昭和の匂いが漂い、映画「三文役者」(新藤兼人監督・竹中
直人主演)の舞台に使われました。現在は、ウォーキングする
人のための休憩所、地域の憩いの場として使われています。
ウォーキング・マップ記載の説明より)



映画の撮影スナップやサイン色紙などが展示されてありました。




建物前の道を進んでいくと、道の傍らに「村社宗像神社」の石碑。
そして、その少し先に石の鳥居が見えてきました。
    

宗像神社

948(天暦2)年 筑前の宗像神社を勧請し、創建されたと伝わります。
ご祭神は、田心(たごり)姫命・市杵島(いちきしま)姫命・
湍津(たぎつ)姫命。
国家鎮護・道中安全・海上交通・漁業守護の神。

平安前期の歌人 大江千里が、この辺りから印旛沼を望み作歌したとか。

小顔でロン毛の狛犬さん(明治44年作)
    



そろそろ帰る時間が迫ってきました。 Uターンして駅へ
向かう途中、深い山林に包まれている集落を通ります。
観光化されていない、歴史を感じる風景がありました。



黒壁の豪壮な長屋門のお宅があったり・・

時がゆったり流れているような風景の中に、伝説のお寺。

摩尼珠山 医王院 松虫寺

寺伝によれば、
745
(天平17) 聖武天皇の第三皇女不破内親王(松虫姫)の病気平癒を
喜んだ天皇が、行基に命じて建立したと伝わる松虫姫伝説に因むお寺です。

33年毎にご開帳のご本尊七仏薬師は、木造薬師瑠璃光如来坐像
左右に
3体ずつの如来立像の七仏薬師で、いずれも榧(カヤ)の一木造り。
平安時代後期の作として、国の重要文化財に指定されているそうです。





薬師堂裏に「松虫皇女之御廟
遺言により、此処に分骨埋葬されたと伝えられています。






寺から約200mほど離れた緑陰に、姫の乳母にまつわる
杉自塚


数十基の庚申塔群に守られるようにして残されています。

姫の乳母 杉自は村人の貧しい暮らしぶりを見て、文字・養蚕・裁縫
など奈良の文化を伝えて少しでも暮らしを助けようと努め、村人に
敬愛されたので、村人は此処に塚を建て長く記憶にとどめました。
(説明板より)


にわかには信じがたいような伝説の真偽云々はさておき、
そのまま時代劇の舞台にでもなりそうな風景を其処彼処に
残しながら、決して寂れた感じのしないこの地が、今後も
安易な観光目的で俗化されることなくあり続けて欲しい・・
と、勝手な願いを抱きながら、駅へと向かう‘猫’でした。

17,796歩


千葉・吉高の大桜

2010-04-13 | 他県


見に行こうかどうしようか、昨夜まで少し迷っていました。

2年ぶりに、見てみたいんだけど・・途中の道がねぇ・・
ビビリの虫がチロチロと顔を出し・・・


でも今朝は雨も上がり、スッキリ晴れました。やっぱ、行くゾー!



北総線「印旛日本医大」駅は、とてもきれいでモダンな外観です。
今夏開業予定の、日暮里~成田を結ぶ「成田スカイアクセス」が
試運転のため停車していました。 おぉ~~!






案の定、駅前はガラ~ン・・
だーれも居やしないよ、トホ



‘猫’の気分を重くしているのは、行く手にあるこの道。


雰囲気のあるいい道でしょう? そうなんスよ。
でも、覆い被さるような竹藪で人もあまり歩いてない・・

人が住んでいるやらいないやら・・古めかしい長屋門があったりして

独り歩きは、ちょっと腰が引ける‘猫’なのでアリマス


ところが
「待てば海路の日和」か 天の助け!
後方から、数人の女性グループがにぎやかに歩いて来ました。
付かず離れず、さりげなく歩く速度を調節しながら
無事にこの難関を突破できました~


長閑な景色を楽しみながら、気持ちよく




歩くこと約20分。
行きあう人の数が次第に多くなり、やがて畑の向こうに

ドドーーーーン!!


樹齢300年とも400年ともいわれる「吉高の大桜」です。
ヤマザクラの古木で、印旛村の天然記念物。今でこそ
観光名所となりましたが、嘗ては村の子ども達が木登りを
楽しむ遊び場であり、農作業の合間に涼をとる木蔭でした。

第二次世界大戦中には、極度の物資不足から伐採して
燃料にすることが決まっていました。しかし、余りに大きな
木であったため切る道具が無く、伐採を免れました。
(「吉高の大桜を守る会」パンフレットより)





満開
あぁ、やっぱり見に来てよかったな!

この時期限定の近くの茶店で、筍ごはんと筍味噌汁のお昼を頂いたら
もう少し周辺を歩いてみようかな、という気がモリモリ湧いてきました。

(続)


滋賀・ 近江八幡へ

2009-08-17 | 他県

近江商人発祥の地 近江八幡にやって来ました。

空はピーカンで汗が止まりませんが、
‘野次馬の目’は本日も健在ですよ!(笑)

八幡堀の水と昔ながらの町並み、そしてモダンな洋館・・
というのが私の近江八幡のイメージですが果たして・・?
さあ、散策に出かけましょう☆


まずはこの町の象徴ともいえる場所から・・

「日牟禮(ひむれ)八幡宮」

千有余年の歴史をもつ近江八幡の総社で、永く
近江商人の守護神として篤い崇敬を集めてきました。
ご祭神は誉田別尊(ほんたわけのみこと)・息長足姫尊(おき
ながたらしひめのみこと)・比賣神(ひめかみ)の三柱です。


後ろの山は標高286mの八幡山。
豊臣秀吉の甥で養子となった豊臣秀次を祀るお寺があります。


神社の近くにある白雲橋の下が「八幡堀」

1585(天正13)年 秀次が八幡城を築くと同時に構築された
掘割で幅約15m 全長5km。秀次が北陸や関西からの物資を
満載した船すべてが八幡港に寄港するようにしたため、八幡の
町と琵琶湖とを結ぶ運河として大いに賑わったものです。
この掘割こそが八幡商人を生んだ源流と言えるでしょう。
(説明板より)

    
青い空や周辺の緑、白壁の土蔵などを映してとても涼しげ。
水に沿って歩いてみずにはいられません!





今度は水辺を離れて、町なかを少し歩いてみることにしましょう。


「森五郎兵衛邸」

森五郎兵衛氏は初め煙草・麻布、のちに呉服・太物など手広く扱い、
江戸日本橋や大阪本町に出店するなど活躍されたそうです。

「旧西川氏住宅」

(玄関への路地)
蚊帳・綿・砂糖などを商い江戸日本橋にも出店し、
九州島津藩指定御用商人をつとめるなどの豪商でした。
昭和初め、子孫が途絶えたため土地・建物が市に寄贈され
大規模な町屋として国重要文化財に指定されています。





「旧伴家邸宅」


「市立資料館」



和の文化が色濃く残る町ですが、趣ある洋風建築も多く見られます。
これらの設計を手がけたのが、近江八幡名誉市民第1号となった
アメリカ人のウィリアム・メレル・ヴォーリズ氏(1880-1964)です。

1905(明治38)年商業学校の英語講師として来日し、その後建築家として
日本各地で多くの西洋建築を設計しました。また合名会社を創立して
メンソレータムを初めて輸入し、日本に普及させた実業家でもあります。 
帰化後、夫人の姓から日本名は一柳(いちやなぎ)米来留氏。



「旧ウォーターハウス氏邸」

1913(大正2)年築。

「ダブルハウス」

1921(大正10)年築の二世帯住宅。



「旧八幡郵便局」

1921(大正19)年竣工。1960(昭和35)年まで局舎として
使用されました。 現在はギャラリーになっています。


「ヴォーリズ記念館」

1907(明治40)年築のヴォーリズ氏の旧居です。
氏が残した遺品や資料などが展示されている
そうですが、見学は要予約とのことで残念!




「白雲館」

1877(明治10)年に当時の金額で6,000円を投じて設立された
八幡東学校。近江商人が子弟教育の充実を図り費用の殆どを
寄付で賄ったということです。1994(平成6)年に解体修理され、
創建当時の姿が復元されました。 国登録有形文化財。
現在は観光案内所&市民ギャラリーとして利用されています。


ただ漠然と足の向くままに歩いてしまいましたが
もっと下調べをしてから歩きたかったです・・・

時間をかけて、もう少しゆっくり散策してみたい町でした。


滋賀・彦根城へ

2009-08-16 | 他県

長浜市から琵琶湖沿いにR2を南下し、「彦根城」に来ました。


1603(慶長8)年 井伊直継公が先代直政公の遺志を継ぎ
幕命による7ヶ国12大名の協力を得て
、約20年と
いう歳月をかけて1622(元和8)年に完成しました。

大阪・西国諸藩への備えの役目から急いで築城したため、
大津・佐和山・安土など旧城から石材や瓦・木材などを
多く活用し、天守部分は2年足らずで完成させました。


佐和口から入城して


お濠端の広い道を通り


表門橋を渡って石段を上がると


廊下橋(非常時には落とし橋に)と
「天秤櫓(てんびんやぐら)」


「天秤櫓」の正面です。

上から見ると、荷物を下げた天秤のようにコの字型をしています。
両端の二重櫓の正面が右(東)は江戸、左(西)は京に向いて
いるとか。天秤櫓は、彦根城だけに見られる珍しい形だそうです。
国指定重要文化財です。

門の左右の石垣の積み方が違っているのが分かります。
右側の石垣は築城当時の「牛蒡積み」、左側は幕末に
積み替えたといわれる切石の「落とし積み」です。  


さらに石段を上がって、
「太鼓門櫓」

本丸への最後の関門です。東側の壁を取り払って
柱の間に高欄をつけ、廊下にしている珍しい形です。
登城合図の太鼓の音を響かせるためかと考えられています。
これも国指定重要文化財。


国宝の天守閣が見えてきました!

牛蒡積みのどっしりとした石垣の上に建つ
3層3階(3階建て3重屋根)の美しい天守閣です。

嘗ては此処に、藩主の居館である「御広間」や
「宝蔵」「着見櫓」なども建っていたそうです。


比較的小規模ですが、屋根は切妻破風・入母屋破風・唐破風を
多様に配し、2・3階に花頭窓、3階に高欄付きの廻り縁を巡らせる
など、外観を重視した変化に富んだ姿になっています。
(以上、パンフレットより)

折角なので、天守閣に上がってみました。




壁には、下向きに鉄砲穴が開けられています。


城下が見渡せます。

左手には琵琶湖も・・

反対側には黒々と佐和山、その後方に伊吹山も見えます。



城内北東にあるきれいな庭園に入ってみました。

「玄宮園」
名勝近江八景を模して造られた縮景園で、第4代藩主
直興公により1677(延宝5)年に造営されました。


鳳翔台(茶室)                楽々園
    



井伊家14代に至る260年間1度の国替えも城攻めも
なかったので、こうして貴重な史跡として残っているのでしょう。
徳川幕府の重臣 井伊家三十五万石の居城にふさわしい重厚で
風格あるお城は、今も彦根の、いえ日本の財産ですよね。


滋賀・黒壁の街 長浜

2009-08-15 | 他県

琵琶湖の北東に位置する「長浜市」にやって来ました。


姉川の合戦勝利の功により湖北三郡を与えられた
羽柴秀吉が1574(天正2)年 城及び城下町を整備して
今浜を「長浜」と呼び改め、大いに繁栄しました。

1615(元和元)年 長浜城は廃城となりましたが、それ以降も
北国街道の宿場町として多くの人や物資の往来で賑わいました。
    

現在の長浜は、城下町の名残をとどめる碁盤目に整備された
道筋に沿って江戸~明治の黒漆喰の和風建造物群が立ち並ぶ
「黒壁スクエア」と呼ばれる区域を中心に、独特の情緒のある
町並みをめざして町おこしが進められています。


「黒壁ガラス館」
1900(明治33)年築の元第百三十銀行長浜支店の建物で
洋風土蔵造りに黒漆喰壁という和洋折衷の様式です。
    

「黒壁銀行」と親しまれていたこの建物を中心に、1988(昭和63)年から
江戸の面影を残す古い町並みを活かした町づくりが進められていて、
江戸・明治の古建築を活用した美術館・ギャラリー・ガラス工房・
レストランやカフェなどが並び、観光客を集めているようです。


 



    






道沿いに、さりげなく立派な門がありました。
「豊臣秀吉公茶亭門」

門の奥は嘗ては長浜城の外濠で、琵琶湖に通じていたとか。


通りの奥にお寺の山門が見えてきました。


無礙智山大通寺
浄土真宗のお寺です。ご本尊は阿弥陀如来。
正式名称は「真宗大谷派長浜別院」  別名「長浜御坊」


山門は総欅造り。 スゴい彫刻で飾られた大変立派な門です。




ご本堂(阿弥陀堂)

寺伝によれば、承応年間(1652~1654)に東本願寺から
移した建物といわれていますが、その後幾度か大改修が
施されています。 (説明板より)

円山応挙・狩野山楽などの襖絵があるそうです。
拝観は午後4時半までで、残念ながら拝観できませんでした




往時の長浜は北国街道の陸運と琵琶湖を利用した
水運により、京都と結ぶ物資の集散地として商業が
大いに栄えた町であったことが偲ばれます。


紀伊白浜の海岸美

2008-11-22 | 他県

「橋杭岩」


海の侵食による大小40ほどの岩柱が約850m
にわたって並んでいます。

その昔、弘法大師が向かいの大島に渡る橋を架けようと天邪鬼に
手伝わせたところ、疲れた天邪鬼が鶏声を真似たため大師が夜明けと
間違えて橋を架けるのを断念し杭だけが残ったという伝説があるとか。


「三段壁」




黒潮寄せる紺碧の大海原に、
km
わたって屹立
する高さ50
60m大岩壁。

崖下の洞窟は、平安期の熊野水軍の船の隠し洞窟
あったと
伝えられます。
吹き曝しの岩場に立って
下を覗き込むと、吸い込まれそうな迫力!

岩場の上に弁財天社務所によるこんな立て札


これが水軍船(模型)



「千畳敷」


太平洋に向かって岩畳が広々と広がっています。
打ち寄せる
波で階段状に幾層にも削られた自然の匠のなせる岩の造形。


夕映えの「円月島」


紀伊白浜の代表的な景色が、夕日に
美しいシルエットを見せてくれました。




私たちの今回の旅もここで終わりです・・
大門坂から12,150歩でした


熊野古道を往くⅤ

2008-11-21 | 他県

「大門坂」は那智大社に通じる古道です。

南方熊楠さんが3年間滞在し粘菌の研究を行ったという
「大阪屋旅館跡」の前を過ぎて、鄙びた感じの鳥居をくぐると
小さな赤い橋「振ヶ瀬橋」が俗界と霊界を隔てています。



杉並木手前の「大門茶屋」では有料で時代衣装を借りられます。
ツアーの女性が変身! ちょっとした撮影会になりました

後方左右の巨木は、幹周り8m 樹齢800年という「夫婦杉」
此処の杉たちも、南方熊楠さんのご尽力で残ったものだとか。


ここから約640mは、100本以上の杉木立と
緩やかな
467段の石段の坂道が続きます。




右手に「多富気(たふけ)王子」の碑 
最後の王子社跡です




大門坂を上った先にあるかなりな階段は、那智大社への
表参道。両側には那智黒など土産物を売るお店が並びます。


朱塗りの鳥居をくぐり「熊野那智大社」に参拝。
これでようやく熊野三山参拝が完了ました!


隣接する国指定重要文化財「那智山 青岸渡寺」
このお堂は、豊臣秀吉が再建したものだそうです。


境内から朱塗りの三重塔越しに「一の滝」が見えます。
雨上がりの霧が晴れて絵のような眺め


いにしえの参拝者も、あたかも天上に居る
ような心地がしたのではないでしょうか。




石段を下って滝への道を進んで行きます。今朝方の雨で濡れて
滑りやすい自然石の階段を一段一段注意深く下りて行きました。
おっかなびっくり振り向いてパチリ



とうとう到着しました!
「那智の滝」と親しまれているこの滝は
「那智四十八滝」のうちの
一の滝で幅13m 落差133m


日本一の直瀑は、今回の熊野参詣のフィナーレに
ふさわしい荘厳さをたたえた素晴らしい滝でした。


このあと、ツアーバスは紀伊白浜の景勝地を訪ねます。
あと少しだけお付き合いくださいね!


熊野古道を往くⅣ

2008-11-20 | 他県

元来 熊野本宮の社殿は熊野川・音無川・岩田川に囲まれた
中州の大齋原(おおゆのはら)という所にあったのですが
1889(明治22)年の大洪水で被害を受け、流失を免れた
上四社の社殿が先刻訪れた現在の場所に移されました。

大齋原(旧大社跡)の大鳥居
高さ34mの大鳥居は平成12年に再建されたものです。
中辺路の途中 見晴台から見えたのはこの鳥居です。



鳥居を入って行くと緑の中の広い草地になっていて、洪水で
流失した中四社、下四社の神々が石祠に合祀されています。


嘗て此処にあった大社は11千坪の境内に512社が建ち
並び、回廊を巡らした桧皮葺の壮麗な社殿だったようです。

次に訪れたのは熊野三山の2つめのお社
「熊野速玉
(はやたま)大社」

参道の先の神門を入ると


鮮やかな朱塗りの瑞垣の向こうに、昭和に
なって再建
された社殿が建ち並び、熊野速玉大神・熊野結大神の
2柱の夫婦神を主神とする神々が祀られています。


熊野権現といえばカラス文字の護符「熊野牛王宝印
速玉大社の護符はカラス48羽で文字が描かれています。


熊野権現の使者 三本足の八咫烏は、神武天皇御東征の砌
熊野山中の道案内をしたという伝説で有名ですよね。よく
方向を知り未知の地への道案内をする鳥とされています。


日本サッカーとの由縁ははっきりしないそうですが、
草創期に関わった方が熊野に縁のある人だったらしい
という
話を語り部さんから聞きました。

発心門王子からここまで13,230
楽しい道だったので、疲れは殆ど感じませんでした


熊野古道を往くⅢ

2008-11-19 | 他県

「発心門(ほっしんもん)王子」です。

以前は大きな鳥居があり、人々は門前で御祓いをして
身の引き
締まる思いで大鳥居をくぐり、いざ
熊野本宮の聖域へと入って行ったのです。


のどかな里山風景を眺めながら、舗装道を歩きます。
道端には
手作り工芸品を展示していたり
水流で動くユーモラスな鳥や人形があったり
   


「水呑(みずのみ)王子社跡」は廃校の傍にありました。


気持ちの良い杉林の道が途切れると
茶畑が広がり、柿の木には鈴なりの実。
   


やがて小高い丘の上に「伏拝(ふしおがみ)王子社跡」


ここから遠く本宮が見えるので、ここまで
辿り
着いた参詣者が感動して伏し拝んだのでしょう。


再び林に入り、趣のある石畳の古道を歩きます。



「右 高野道 左 紀三井寺」の道標がある「三軒茶屋跡

此処は高野山からの参詣道(小辺路)との合流点で、昔は関所が
設けられ、関銭のない者は路傍で待っていると、通りかかった
お大尽が施してくれたとか。神の前では皆優しくなったのですね。


少し先の見晴台から旧社殿跡「大齋原(おおゆのはら)」の
大鳥居が
望めます。旅人の喜びが伝わってくるようです。
さあ、あとひといき!



古道の林を抜けると「祓戸(はらいど)王子社跡」
此処で長旅の穢れを祓い、いよいよ本宮に向かいます。



「熊野本宮大社」は家津御子大神(けつみこのおおかみ)
主神とする12の神(十二所権現)をお祀りしています。




日ごろ信仰心の薄い私も、小さな達成感で
不思議なほど清々しい気持ちになりました。


熊野古道を往くⅡ

2008-11-18 | 他県

箸折峠を下り、日置(ひき)川に沿って近露の集落に入ります。

此処も熊野街道の要所で、伝馬所が置かれ宿屋が立ち並ぶ
宿場町でした。後鳥羽上皇はここで歌会を開いたとか。
長い旅のつかの間の娯楽だったのでしょうか。

日置川近くにあるのは「近露(ちかつゆ)王子」
お社は現存しませんが、見事な筆跡の石碑があります。

南北朝時代、吉野に落ちて来た大塔宮護良親王を助けた
野長瀬一族の墓所など、歴史の香りが漂う山里です。


近露王子~継桜(つぎざくら)
王子の辺りは、往時の街道の
雰囲気が今なお色濃く残っているといわれています。
路傍には、行き倒れた参詣者を弔う小さな仏が・・
   
        

   
すべての枝がの熊野権現の方角に伸びているので
「野中の一方杉」と呼ばれる樹齢800年を超す巨木群に
守られるようにして「継桜王子」のお社があります。
   
明治時代の神社合祀の際、多くの社の樹木が伐採された中
南方熊楠(みなかたくまぐす)の運動のお蔭で伐採を免れた
貴重な
天然記念物の杉は、径8m余の幹が裂けたり洞ができたり
しながらも
堂々と立っています。「俺を見ろ、少し傷ついた
くらいでへこむな」と
いう声が聞こえたような気がしました。


その先にある藁葺の家はTVでお馴染みの「とがの木茶屋」
予約すれば食事や宿泊もできるそうです。



続いて、藤原秀衡ゆかりの「秀衡桜

参詣の途中 産気づいた奥方の出産した赤子を岩洞に残し、
赤子の無事を祈念して桜の枝を別の木に接いで行った秀衡が
参詣を終え戻ってみると、赤子は無事で桜も花が咲いていた
という言い伝えがあるそうで、これはその桜の子孫だとか。


この辺りに水道が引かれたのは近年になってからだそうで、
水の不便さが歌われた地歌が碑に残されています。
「一人娘は野中にやるな 野中吹きあげ 水遠い」

その頃 地元の人々が汲んだ湧水が
「野中の清水」

50200t/
を湧出し、日本名水百選に選定されています。
地元の人ばかりでなくどれほど多くの旅人の喉をも潤してきた
ことか。今も地元の人々の手で大切に管理されているそうです。


ひっそりと自然と共生する山里の人々の
暮らしに思いを致しながら歩きました。
滝尻王子からここまで10,559歩


熊野古道を往くⅠ

2008-11-17 | 他県

まずは、事前の‘にわか勉強’で仕入れた情報と
現地で語り部さんに聞いたお話をご紹介しますね。

古来 自然崇拝の地だった熊野への参詣は、907年宇多法皇の
行幸に始まり、1090年白河上皇の行幸以来 京都の貴族社会で
熊野三山(熊野本宮大社・熊野速玉大社・熊野那智大社)への
参詣が盛んとなり、江戸時代には庶民の間でも広く行われる
ようになって相次ぐ参詣者や巡礼で大変賑わったそうです。

さて、講釈はこのくらいにして・・

今回は参詣道の5つのルートのうち往時の雰囲気がよく残って
いる「中辺路(なかへち)」と呼ばれる参詣道の一部を歩きました。

見どころがいっぱいで、バシャバシャとシャッターを
押していたら、何と150枚以上にもなってしまいました。
そのうちの幾枚かを数回に分けてご紹介しようと思います。
雰囲気を少しはお伝えすることができるかな?


最初に訪れたのは「滝尻王子」

「王子」は熊野の神々の童子を祀った末社で参詣道に
点在していました。社であると同時に参詣者の休憩地
でもあり、最盛期には賑わった場所だったようです。

この滝尻王子からご神域に入ります。
   


杉林の中の道を辿って行きます。
   
ご覧の通り、これらの杉は当時のものではありません。
太極拳では「身法は杉の如く」というそうですね。納得~!


花山帝の法衣と経文を収めた宝篋印塔と「牛馬童子像」
   
神道では「王子」、仏教では「童子」というそうです。
「牛馬童子」の名は神仏混交の名残でしょうか。 
50cmほどの小さな像です。

帝をモデルにしたという像の頭部が心無い者に盗まれ
ようやく復元され取り付けられました。情けない・・


やがて人家が見えてきました。



箸折(はしおり)峠から見た近露(ちかつゆ)の集落です

静かな山間の集落は、どこか懐かしさのある
日本の原風景とでもいえる眺めですね。


杉木立の中の細道やアップダウンのある峠道は、ガイドさん
無しでは私はとても心細くて歩けそうもありません。

いにしえの貴人たちも輿や駕籠を下りて、
白装束で杖を手にこうして歩いたのでしょう。


伊豆の瞳・一碧湖~松川湖  

2008-08-23 | 他県

「暑さ寒さも彼岸まで」といいますが、お盆を過ぎたばかりなのに
急に涼しく
なりましたね~ このまま秋?・・とはいかないでしょう
けど、皆さま、夏風邪など召されませんようお気をつけくださいね!
                   

涼しくなったので、「ハイク&ウォーキング」のイベントに参加して
伊東にある2つの湖を結ぶ約10kmを森林浴をしながら歩いてきました。

このイベントは、受付で貰ったコース地図を見ながらめいめいが
自由に
自分のペースで歩いたり休んだりして決められた時間までに
ゴールに
着きさえすればいい、という気楽なところがいいです。

まずはスタート地点の一碧湖までバスで行き、そこから歩き始めました。
「伊豆の瞳」なんていうステキなキャッチフレーズでお馴染みの火口湖です。
今にも泣き出しそうな天候のせいか、湖畔は珍しく殆どレジャー客も
見当たらず静か過ぎるくらい静かで、神秘的な雰囲気さえ感じられます。

  

与謝野鉄幹・晶子夫妻の歌碑などがある湖畔をのんびり散策してから
人家や田畑が点在する静かな里山道に入っていくと、時間もゆっくり
流れていくようでとてもいい気持ちになります。この辺り一帯は十足
(とおたり)といい、昔の旅人にとっては草鞋が十足も必要な厳しい
道のり
だったところからそう呼ばれるようになったのだそうです。



車道を跨いで赤土の林道に入り、細くなったり広くなったりしながら
道の左に右にと変わる松川の流れに沿って林の中を歩いていきます。



やがて松川湖が見えてきました。飲料水確保のためのダム建設によって
出来た人造湖で、周辺には遊歩道・公園・噴水などの施設が整備
され、
釣り場もある市民のためのレジャースポットです。数組のハイカーが
湖畔でお昼を食べていたので、私達も倣ってここでお弁当にしました。


どんよりした空で雨が心配でしたが「晴れ女」の面目はなんとか保たれて、
静かな林の滴る緑の中、3
時間ほどの森林浴&ウォーキングを楽しみました。